私はよく「リバイバルを求める」と言います。リバイバルとは昔あったことが再び起るということです。キリスト教会では2000年前のペンテコステに起ったことが、繰り返し起こっています。しるしと奇跡、癒しが起こり、大勢の魂が救われる一大センセーショナルです。しかし、そういうことはめったには起りません。自分が生きている時代は、もしかしたら来ないかもしれません。どっか外国で、たまーに起ることであり、それを追いかけて無駄な人生を送ってしますかもしれません。日本では昭和初期にそのようなことが起ったかもしれませんが、今の時点ではありません。統計によるとリバイバルの寿命は、約5年で長くて10年間くらいです。海外で起っていることが、日本でも起こるようにと祈っています。リバイバルは神さまからのものですが、私たち人間にも、もしかしたらなすべきことがあるのでしょうか?
1.リバイバルとは
リバイバルとは天に留められているものを、私たちの死にもの狂いの叫びと、頑固なまでの祈りによって、天から引き下ろすものでありません。リバイバルはとても霊的な響きですが、神学的には正しくはありません。Larry Sparksという人が “Ask for the Rain”『雨を求めよ』という本で、このように定義しています。「リバイバルは単なるイベントではなく、教会の礼拝、あるいは大会や特別な集会ではない。リバイバルは季節のように、高められたような活動ではない。リバイバルは単に神さまの訪れではなく、いつものような本業に戻れるものではない。リバイバルは本業がいつもよりも再定義されることを意味する。リバイバルはとても、中心的で、新約聖書のキリスト教がダイナミックに実演される。それは麻薬のような興奮ではなく、汚染でもなく、自己満足でもない。イエス・キリストは、彼の民に聖霊の力を通して、ベールを脱いで、再び現れてくださる。リバイバルは神の臨在の現れであり、神の民の上に、神聖な訪れを含むものである。リバイバルはいつものようになされる本業にチャレンジする。リバイバルは古い革袋と、すたれた伝統と、時代遅れのやり方に立ち向かう。リバイバルは来世の神の共同体を呼び求める。リバイバルはあなたの過去のことよりも、さらに飢え渇きへとあなたを向かわせる。リバイバルはペンテコステの日から絶えず流れている聖霊の流れにあなたを浸らせる。リバイバルが普通であり、奇跡的なキリスト教が行われることである。リバイバルはすべてのキリストに従う者が、聖霊の力に満たされた歩みをすることである。リバイバルはすべての神の家が含まれ、町も、宗教も、神の臨在に圧倒的に気づかされることである。」…この本には、さらに9項目続くので割愛させていただきます。
リバイバルが異常なことであるにも関わらず、本来、私たちが求めなければならないものだと理解できたでしょうか?先ほど引用した本は『雨を求めよ』でした。宣教師の奥山実師は「雨は二度降る」ということをおっしゃっています。最初の雨とはもちろん2000年前に起った、ペンテコステであります。ペテロの説教で3000人が救われ、その後、小アジア、ローマに福音が伝えられました。驚くべきことに、ペテロやパウロだけではなく、ピリポも奇跡を行ない、悪霊を追い出しました。人々はまさしく、ここに天の御国が来ていることを認めることができました。しかし、その後、キリスト教がローマの国教になり、中世に入りました。まさしく、キリスト教は宗教となり1000年くらい過ぎてしまいました。マルチン・ルターやジョン・カルヴァンが宗教改革を起こしました。これは聖書の革命であって、本当のリバイバルではありません。ところが、1730年代から、「大覚醒」と呼ばれるリバイバルがアメリカで起きました。第一次大覚醒の主役は、ジョナサン・エドワードやジョージ・ホイットフィールドです。彼らは神学論に基づく高度な説教を排して、神学の要素がないものでも分かり易く平易な説教を行いました。それが、聴衆を熱狂させ「自覚的な回心」と与えました。第二次大覚醒の主役は、チャールズ・フニーです。彼のニューイングランドのリバイバルは社会運動の波を奮い立たせました。キリスト教教育、奴隷撤廃、刑務所の改善をもたらしました。第三次大覚醒は19世紀後半の、D.L.ムーディが有名です。このときは、アルコール禁止、児童労働禁止、ホーリネス運動です。この後、教会はリベラリズム(自由主義神学)とエキュメニカル運動によって勢いをなくします。1940年代後半から再びリバイバル運動が始まりました。「青年をキリストへ運動」が起こり、ビリー・グラハムが用いられました。日本はビリー・グラハムらの福音派とバルトやブルンナーなどの新正統主義とに真二つに分かれ、現代に至っています。しかし、小さなリバイバルは1900年代ウェールズに起り、それがアズサ・リバイバルにつながりました。インドネシアのチモール、韓国、アルゼンチン、トロントに起きています。これまでは、ペンテコステの日以来、雨はパラパラでしたが、奥山実師は、世の終わりにもう一度、大雨が降るとおっしゃっています。
現代の教会で「すべての教会がリバイバルのために祈っているか?」というとそうではありません。キリストの再臨まで、ひたすら待ち続けるという教会もあります。確かに、世の中はますます悪くなっています。パウロが「終り時の時代は困難な時代がやってくることを承知しておきなさい」(Ⅱテモテ3:1-5)と言っているからです。確かにテレビ・ニュースを見ますと、殺人や凶悪犯が増えています。同性婚の結婚も問題にされなくなりました。教会でもキリスト以外に救いがあるみたいなことを言います。黙示録22:11「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい」とあります。私たちは世の終わりをただ待つだけではなく、聖霊の偉大なリバイバルが起ることを待ち望みたいと思います。ビル・ジョンソンはキリストの再臨までに、もう一度、この世が建て直される時がくる「御国が来ますように」と言っています。私も67才を過ぎましたのであとは、リバイバルしかありません。大川牧師も目が黒いうちとおっしゃっていますが、私も同じです。ビル・ジョンソンの神学校には2000名の人たちが集まっています。他の神学校は縮小気味ですが、そこだけは別です。私はそこに行けませんが、いろんな本を読み、セミナーにもでかけ、なんとかリバイバルに取り残されることのないようにしたいと思います。
2.飢え渇き
ルカ6:21「いま飢え渇いている者は、幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから」。再び『雨を求めよ』から引用します。「すべての章において、あなたが読むべき目的とは何か?それは神に対する飢え渇きです。それは過去にあったものを、父なる神の目覚めをいただく旅に、あなたが喜んで出発するためです。王国の経験したことのないような領域に旅するためです。新しい祈りの場所に、寄留するためです。みことばの確かな高みにむかって走りましょう。聖霊の新鮮な泉の中に飛び込みましょう。」この本は私たちの信仰生活とは次元が違うような書き方をしています。とにかく、この人は単純な飢え渇きが私たちの根底にあることが大事だと言います。私たちはキリストのからだなる教会のリーダーとして、惰性で進むような誘惑に駆られます。「惰性的なミニストリーの授与式」「惰性的な教会成長の方法」「惰性的な参加」「惰性的な身分」「惰性的なベストセラー」「惰性的な豊かな会衆たち」「惰性的で、神の国よりも自己満足を惰性的な好む人たち」「惰性的で、ミニストリーや個人の生活が安定していること」…私たちがこれまで見てきたことに満足し、それよりも遠くに行こうとしない人たち。教会のリーダーがこのようであるなら本当に困ります。私も亀有に来て、30年以上たちますが最近は牧師たちと会っていません。セルチャーチや常磐牧師セルで話題になるのは自分の健康状態です。前は、自分たちの両親のお世話でした。日本の教会は難しいというのが良く聞かれます。若い牧師たちがすぐに辞めるとか、牧師の高齢化で跡継ぎがいないということもありました。現在はそのような人たちと、3年くらい会っていませんので、とても健全です。21世紀教会主催のセミナーだけは出ています。あそこの教会には、ビル・ジョンソンのようなリバイバルを信じている先生方が手弁当で来られます。
日本の牧師に何が足りないのでしょう?今から50年前、アメリカから「教会成長」ということばが入りました。日本では早速、「教会成長研修所」がアメリカの主導で、40年くらい開かれました。私は、本当は参加したかったのですが、手違いがあってやめました。内容は、市場調査、リーダーシップ、そしてアメリカの大教会の見学です。2年コースですが、必ず、右肩上がりの成長をビジョンとして掲げます。しかし、現実は10から20%が成長し、他はそのようにはなりません。私が考えるには、成長した教会はそこで学ばなくても、素養があったのではないかと思います。現在はJCGIと英語で言っているようです。何がいけなかったのでしょうか?牧師が好むのは教会が大きくなることです。日本の牧師は自分の教会が大きくなるためだったら、どこへでも行きます。しかし、自分の教会が大きくなるというのは、自己目的の達成であり、自分の名前が知られたら良いという我が儘です。そこには、社会的な変革とか、日本が変わることなどうたっていません。「大きい教会になりたい」というチャーチ・エゴと言われても文句はいえません。
2017年2月、アメリカのパサディナでリバイバルを経験したハーベスト・ロックチャーチのチェ・アン師が来られました。彼は「今は日本の時である」という聖霊の促しを感じて、18人のチームと21世紀教会に来られました。チェ師はご自分の体験をもとに「本当のリバイバルはどのような形でやって来るのか」について語りました。過去の歴史的なリバイバルを振り返るとき、それらには必ず3つの段階があるとチェ・アン牧師は語りました。まず第1段階は、教会に新しい命が吹き込まれる。リバイバルは、神に対する初めの愛に教会が立ち返ることからスタートする。1907年1月に平壌で起きた「悔い改めのリバイバル」がその良い例です。リバイバルを求めて2週間にわたり開かれていた集会の最後、ある長老が立ち上がって全会衆の前で涙ながらに盗みの罪を告白した。他の信徒もそれに続き、平壌から朝鮮半島全体へとリバイバルの火は広がっていった。第2段階は、「未信者が目覚めて魂の大収穫が起こる」。これは、未信者の目の覆いが次々と取り除かれることによって実現する。チェ牧師によると、今まさにこの段階にあるのは中国やインドの両国では毎日約3万5千人が教会に導かれているという。そして第3段階は、「社会にまで変革が及ぶ」。1904年の「ウェールズ・リバイバル」にその例を見ることができる。わずか数カ月で10万人以上のウェールズ人が信仰に立ち返った。このリバイバルでは、その後、町の犯罪者が激減し、刑務所を閉鎖せざるをえなくなった。社会の隠れた腐敗が明らかにされ、政府のあり方、法律さえも変えてしまう。教会内だけに変化をもたらすのではなく、地域、そして社会全体の変革にまで至るのが真のリバイバルだ。チェ牧師は、「日本の教会は今、第1段階を見ている」として、「第2段階がもうすぐ近づいているという信仰を強く持ってほしい」と参加者を励ました。さらに、どうすれば日本でもリバイバルを見ることができるか、その重要な鍵である「地域全体に聖霊を歓迎する」具体的な実践について語りました。・・・教会が成長するということではなく、その一歩、先のことを考えるということです。「日本が変えられるように」「日本に神の国がやってくるように」。そうすると、教団教派の妬みや党派心から解放されます。
『雨を求める』という本の著者は、今、用いられている3名のリバイバルのリーダーをあげてこのように要約しています。それは飢え渇きが、彼らを神との出会いをもたらしています。最初の人物、ジョン・キルパトリックは、ペンサコーラのアッセンブリーゴッドの牧師です。1995年の父の日に、リバイバルの打ち破りが起こりました。彼はこれまで神さまにリバイバルを送って下さいと嘆願していました。彼の教会と会衆は実際、神の臨在に浸りました。見えない神の臨在が見えるほどになりました。第二の人物、ランディ・クラークは小さい教会の牧師でしたが、トロント・ブレッシングをもたらしました。世界の果てにまで超自然的な癒しを今日も運んでいます。「世界的な目覚め」という飢え渇きもって、中西部の教会を揺り動かしています。第三の人物、ビル・ジョンソンは、カルフォルニアのベテル教会の牧師ですが、ある早朝、電気のように打たれ、それが三日間続きました。彼はその時、私はこのためだったら何でもしますという飢え渇きを求める祈りをしました。それ以来、ベテル教会は驚くべき神の臨在を体験しています。これらの体験は、男性でも女性でも、若くて年老いても、神の運命に入るために、神への飢え渇きを許す人たちに与えられます。第一の鍵は飢え渇きです。本当に、飢え渇いているところにリバイバルがもたらされるからです。
3.祈り
祈りなくしてリバイバルはありません。ペンテコステの日、120人の弟子たちが心を合わせて祈っていました。私たちはイエス様が昇天してから10日目と分かっています。しかし、彼らはその日だとは知らないで祈り続けていました。今日も同じで、リバイバルは祈りからやってきます。という私は祈りが苦手です。祈りよりも説教を作る方が好きです。マイケル・ブラウンとジョン・キルパトリックがこのように言っています。「リバイバルは全く奇跡であることを覚えておいてください。神さまが送って下さるものであり、神さまの領域からくるDNAです。パウロはこのように述べています。エペソ3:20「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に」。リバイバルに何が起こるのでしょうか?疑いもなく、モダンと見なされている、キリスト教の標準的指数が上がります。もう、いつもの教会ではなく、神のマグニチュードの臨在が無限に、普通に起こります。臨在がリバイバルを定義する要素であり、細かな部分まで広がって行きます。リバイバルは品質であることを認識すべきです。なぜなら、神さまの重さと、主の臨在が場所と人々に満ちています。これが、願うところを、思うところを越えて豊かに施すという意味です。神さまがご自身の栄光を現されるとき、私たちの期待をはるかに超えているのです。とりもなおさず、リバイバルは私たちの祈り以上のものです。それは祈りによる答えです。」
本を直訳しているので、どのくらい正確なのか分かりません。しかし、「見たことのないリバイバルがこういうものですよ」と言えるわけがありません。説教というのは大体、自分が経験していることです。全部は、分からないけど、チャレンジしましょうというようなものです。しかし、リバイバルは私にとって未知なる世界です。この本は1992年8月からはじまり、9月まで続いた、ブラウンズヒルのリバイバルを書いています。もう少し、引用します。「私は、日曜日の夜に説教することを代わりに、私は聖霊のバプテスマを求める人のために祈ろうとしました。最初の夜は100名以上前に進み出て、バプテスマを受けました。これは私の普通でない最初の決断でした。私は典型的な日曜日の夜の教えを祈りに取り換えました。次の日曜日のも同じように力強いものでした。勢いが増し、後戻りできませんでした。聖霊は祈りが第一であるとおっしゃっており、私たちはそれを否定できませんでした。私たちの礼拝は他に何を強調すべきでしょうか?礼拝と献金と説教、そして祈りですが、招きのために少々削らなければなりません。リバイバルを収容するために、私たちは喜んで、これまでの気持ち良さや家族性を後回しにする必要がありました。聖霊は世界に存在するすべての教会の会衆を動きたいのです。これが本当です。私たちのエゴで、会衆の多くの人たちが、聖霊を喜ばせないようにしてしまうのです。私の決断は日曜日の夜の祈祷会をブラウンズヒルの勢いをリバイバルに備えるために統合するものでした。これは、キルパトリックの決断ではなく、聖霊の決断です。」…おそらく、私たちはこのようなことが起ったなら、これまでの伝統的なスタイルを捨てなければなりません。
真実はこのことです。手っ取り早くて、簡単なリバイバルの道はありません。私たちは本当のリバイバルを持つために、祈りなくしては継続することはできません。ブラザー・ウエツゼルが何年も前に、教えていました。「簡単な祈り、漠然とした祈りはない。リバイバルはいつもの場所には誕生しない。私たちは神さまを並み外れた方法で求めなければならない。あなたは祈りという場所に自分を喜んで捧げなければならない。宗教的な方法ではなく、儀式的な方法でもなくて。その理由は、私たちがいっしょにビジョンを祈りによって達成する旅行をするためである。だれかが私たちに言った。祈れ、なぜなら神さまがそう言われるから。祈れ、なぜならクリスチャンとして、それはすべきことだから。私たちは人生を生産するために、この町のために、国民のために、ハッキリとした祈りが必要である。私たちが祈りの他の面を見るならば、それは重荷でも、面倒な祈りではない。それは偉大で、特別な信じる者の祈りである。考えてもごらん、神さまは、私とあなたに、祈りを通してパートナーにしようと偉大な招きをしておられる。」アーメン。
リバイバルは神さまがなさることですが、私たちの祈りを通してという条件付きです。リバイバルは神さまがなさることですが、私たちが本当に求めているのかそこが問題です。英語でよく言われることばが、devastateという表現です。Devastateは「荒らす」「荒廃させる」という意味ですが。もう1つの意味が「圧倒する」「打ちのめす」「無力にする」です。つまり、どうしてもリバイバルが来なければ、やっていけないという必死的なものです。韓国にリバイバルが起ったのは、この必死的な祈りからでした。私たち日本人は、第二次世界大戦で敗れたので、命をかけるというのがなくなりました。あのとき、ものすごい痛手を負ったので、ほどほどにすべきじゃないかというのがキリスト教会にもあります。神さまは日本の教会にリバイバルをもたらしたいと願っておられます。でも、それほど必死に求めていないのに、リバイバルがやってきても、リバイバルが無駄になってしまいます。それで、神さまはその日を控えていらっしゃるのかもしれません。最近の教会は「リバイバル」「リバイバル」と祈っている教会も少なくなりました。現状維持、もしくは、教団が存続するかどうかが祈りのテーマになっています。今から30年くらい前に南米のアルゼンチンにリバイバルが起こりました。きっかけになった人は、ネジを販売するビジネスマンでした。彼は神さまを求める気持ちは全くありませんでした。しかし、神が彼に触れてくださり、アルゼンチンがリバイバルの渦の中に入りました。伝道者の名前はカルロス・アナコンディアです。では、アルゼンチンの教会が全部、リバイバル化されたかというとそうではありません。道路一本、隔てて、こちらにはものすごいリバイバル、こちらはまったく昔と同じという教会がいくらでもあったそうです。片方は雨が降るようにひたすら慕い求めました。もう片方はそんなのはなくてもやっていけると期待もしなかったのです。ホセヤ6:3「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」世の終わり、もう一度、大雨が降ります。ペンテコステ以来、チョボチョボと降りました。でも、世の終わり、もう一度、大雨が降ります。