2020.9.27「第二番目とは? マタイ25:35-40」

 神さまが第一であることはクリスチャンであるならば、暗黙の了解を得ていると思います。聖書に「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)と書いてあります。また、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)とも命じられていますので、神を第一にすることは誰も文句を言わないでしょう。しかし、教会で長い間、議論になっているのが、第二番目を何にするかということです。ある人は「それは仕事である」と言い、ある人は「家庭である」言い、ある人は「奉仕である」と言います。では、趣味はどうなるのでしょうか?こっそり、隠れてやるしかないのでしょうか?

1.神さまと家庭

 ビル・ジョンソンの“The way of life”『人生の生き方』という本を読みました。その本の13章に「礼拝の表現の独自性」ということが書かれていました。先生はこのようにおっしゃっています。最も頻繁に起こる質問は、「ミニストリー(奉仕)と家庭のバランスをどのように保つか」ではないでしょうか?それは、ほとんどの家族が抱えている信仰上の最も面倒な質問です。私たちはできるだけ、ミニストリーに忠実であろうとします。それに家庭、仕事、コミュニティに関わることも同じです。私たちはジャグリング(曲芸師)のように、毎日の生活の出来事を、健康な家庭環境を課題としながら、なんとかやっています。しかし、正直に言いますと、私は「バランスを取る」という言葉は好きではありません。近頃は、そのことばは良くも悪くもない平凡なことばとして用いられています。それは、喜びと失望の間に位置することばです。今まで、私は私の人生の行程において、その答えを出そうと学び続けてきました。私が信仰的にまだ若かった頃、教会のリーダーたちが集まって、家庭の重要性について学びました。奇妙に聞こえるかもしれませんが、それは本当です。多くの前の世代の人たちは、家庭を犠牲にしてきました。なぜなら、それは神さまが召しているミニストリーに対する代価だと感じていたからです。それは確かであり、しばしば、その当時の聖書学校で教えられてきました。その結果、悲劇がないわけではありません。家族と親しくすることの強調は、聞く必要がたくさんあると思います。家庭の優先順位を許可することに関してはすでに心の中にあるでしょう。この強調は、結婚したときのように、私に励ましを与えてくれました。それは、多くの教会のリーダーたちが宣言していること、また、私たちの両親が教えてくれた家庭の方法よりも、教会に希望を与えるものです。

 神さまが第一であるならば、優先順位的に家庭は何番目になるのでしょうか?ビル・ジョンソンの文章をもう少し引用します。私は牧師のカンファレンスに出席していた頃、神さまに関することの優先順位を学んだことは大変助けになりました。神さまは常に第一です。家族は第二です。私たちの召命とミニストリーは、教会に献身することによって、その次になります。それ以下に続くのが、職業と趣味とそのような活動です。それらのリストで、順番を異にすることはありますが、私は神さまが理論的に第一であり、その後に、家族などが続くことを望んでいました。私がカルフォルニアの、ウイバヴィルにあるマウィンティン・チャペルで牧師をし始めた頃です。主は私に優先順位について驚くべきチャレンジを与え初められました。私の発見は、きわめて驚くものであり、私の家庭と神さまの優先順位を、それからの人生においてスタートさせました。私の発見したものは、「それは無礼じゃないか」という気づきです。それがこれです。「神さまが第一であるとき、第二番目は存在しないということです」。私の祈りの時と、私の勉強は、私の家族のまわりで建てられています。私が意味するのは、私の祈りと私の勉強は、私が良い父であり良い夫であることに焦点が置かれているからです。それは私が教会のために祈らないとか、町のために祈らないということではありません。私はたくさん祈っています。しかし、私の家庭が私の心を捕えており、それを言い表すことは困難です。私は子どもたちのために祈っており、彼らの伴侶や幼子たちのためにも祈っています。私の子どもたちが彼らの人生を全うすることを聖書からその約束を捜しています。私はそれらの聖句を暗誦して、祈る時、声に出して祈ります。私はそれらを教会でも、散歩で歩くときも、宣言しています。私の祈りは私たちの家族に縛られており、それは、子どもたちが神さまを愛し、喜んで神さまに仕えるということです。私はだれも聞いたことのない、説明したこともない、並外れた命令を、今与えます。神さまを第一にするとき、第二は存在しないということです。これまでの優先順位が成し遂げないことを、神さまが私たちの人生に現してくれてから、人生のほとんどが変らえました。、

 ビル・ジョンソン師の考えを数年前にもお分かちしたことがあります。私も座間キリスト教会では、神さまが第一で、奉仕は第二、家庭は第三…そんな順番でやってきました。信徒の方ですと、神さまが第一で、仕事が第二、あるいは家庭が第三になるのでしょうか?すると、奉仕はその後でしょうか?趣味とか社会活動は余りの時間でしょうか?しかし、ビル・ジョンソン師が唱える、「神さまが第一ならば、第二はない」という考えにおどろきました。図式にするとどうなるでしょうか?ドーナツを描いてください。神さまは文句なしに第一です。すると、第二は神さまを囲んだドーナツです。ドーナツがわかりにくければ、土星でも良いです。土星には輪がありますね。ドーナツの方が良いでしょうか?とにかく、神さまのまわりに、家庭、仕事、奉仕、趣味、社会活動が散在しているということです。私たちはそこに優先順位をつけるので、かえって分かりにくくなるのです。ビル・ジョンソン師が「神さまを第一にするとき、そこに第二は存在しない」と分かったら、どうなったでしょう。第二に何を置くべきか、それらの順番を長い間、考えてきました。しかし、新しい見方があたえられてから、私はただ神さまのみに仕えることができるようになりました。理屈ぽいかもしれません。しかし、人生の変化をこのように暗示させます。私がすべてのことを神さまに仕えるための部分であることを学びました。すべてのことは神さまへの捧げものなのです。私のすべての人生の活動範囲は、神さまご自身を礼拝するためのものです。もし、私の活動が神さまへの愛を表現していなければ、私の人生ではありません。神さまの愛を喜んでいることは変わりありません。私は常に家族を第一にしています。しかし、私がどれくらい神さまを愛しているかは、私の妻と子どもたちを愛するまでは、悟ることができませんでした。神からの長期休暇はありませんでした。私は人々に仕えながら、神さまに仕えることをやめませんでした。それは、全く反対です。神さまは個人的です。私が神さまの心を喜ばせようとし始めてから、何かが起ることを悟りました。私たちの個人的な尊重と、確信は、劇的に変わりました。

 私はこれらのことを考え初めてから、聖書の見方が前よりも深くなりました。たとえば、イエス様が、牢におられる人を訪問したり、だれかに冷たい水を与えたときにこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。そこには、イエス様に一杯の水をあげるそのこと以上に、うっとりとさせるような理由はありません。私たちが人々を愛して仕えるとき、それをイエス様は個人的に捉えてくださいます。まるでそれは、彼が部屋にいて、私たちが彼に仕えるようなものです。私たちが他の人に仕えるとき、イエス様がそれを喜んでいるように見え、私たちはイエス様の心が増大することに気が付きました。それは、可能な限り、人々に仕えることであって、神さまの愛のためではありませんでした。Ⅰコリント13章全体が言わんとしているポントでしょう。しかし、他の人を愛さないで、神さまを本当に愛することは不可能なのです。私たちは神さまと人々を敬うことを分離して、神さまのみを敬うことは不可能なのです。イエス様は「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われました。私は、これは将来の事柄だと思っていました。しかし、イエス様は私たちの心に、「それは、神さまのためにしたことである」と、いう確信を与えています。それらの行いは、神さまを喜ばせることです。それらの行いとは、説教すること、病人のために祈ること、自分の家族とピクニックに行って、個人的に父なる神さまの喜びを表すことです。それが、私たちが何を行い、何をするかということの流儀なのです。病人に手を置くことも、庭で働くことも、リトルリーグに応援に行くことさえも、霊的な活動なのです。

 ビル・ジョンソン師の引用をさらに続けます。私はそれが霊的であるかどうか考えないことにしています。私はお金が家族の必要のために使われるのか、あるいは宣教師の家族をささえるためなのか、両者とも父なる神さまから見たなら、霊的なことがらです。このように考え方をシフトすることにより、すべての決断において助けになるし、神さまのみ旨を効果的に行うことができます。イエス様はヨハネ福音書で、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ4:34)と言われました。神さまのみこころは、魂と同じように、肉体を強めるための健康を維持することと同じなのです。私たちはこのように、神さまが与えてくださったものを、あらゆる領域で喜びたいと思います。神さまを第一にしたなら、家族のことも大事にすることができるのです。

2.神さまとその他のこと

 奉仕というのはミニストリーであります。クリスチャンは奉仕をすべきだと思います。ある人たちは、教会イコール神さまにしています。神さまを第一にするということは、教会の奉仕を第一にすることなんだと考えています。昔の牧師たちは、日曜日、礼拝を守れないような仕事に就くなと言ったそうです。なぜなら、日曜日が休みであれば、朝から晩まで奉仕ができるからです。だれとは言いませんが、朝7時前に教会に出かけ、夜の夕拝を守り、それを片付けてから帰ってくるという人がいました。子どもが生まれてからも続いたそうです。私の場合は、献身者なので、早天礼拝のため朝6時前に教会に行き、夕方まで奉仕をしています。長男が生まれたときは、家内は病院で働いていました。それで、一旦帰ってから、8時半に息子を副牧師宅に預けて行って、それから教会の仕事をしました。5時には息子を迎えに行きました。若い時というのは、無我夢中なので何とかなるものです。当時の、私の仕事は礼拝のカセットテープを録音して、それを全国に送る仕事でした。月一度、郵送の時がやってきます。私は教会の半地下で働いていました。あるとき、音楽主事の関根さんが様子を見に来たことがあります。その時、私は「早く、人間になりたい」と叫んでいました。はっきり言って、座間キリスト教会のスタッフの頃と、亀有教会の牧師では、こっちがずっと楽です。なぜなら、向こうでは自分が使われているという感じがしましたが、こっちは自分が社長なので主体性があります。夜中に仕事をしても何とも思いません。私は献身者の経験がありますので、「なまじっか献身した人は本当に大変だなー」と同情します。たまに大和カルバリーに行く時がありますが、献身者の顔が緊張のためなのか、ひきつっています。もし、これが献身者であり、教会の奉仕なのであれば、だれもやりたくないでしょう。

 私が奉仕に対して目が開かれたのは、中国からゲストを招いたときです。その当時、中国は聖書がなくて、日本からも旅行者のふりをして、聖書を届けに行った人がたくさんいらっしゃいます。その中国からの長老さんが面白いことを言いました。「奉仕は私たちが神さまのためにするということではありません。神さまが私たちを通して働きたいと願っているのです。だから、私たちが主役なのではなく、神さまが主役です。」最初、聞いたときは、「そんな馬鹿な、そんな上手い話あるだろうか」と信じませんでした。でも、ちょっと考えてみました。神さまは私たちの奉仕がなければ、自分は何もすることができないのだろうか?神さまには手も足もない、「だるまさん」のような方なのだろうか?聖書の神さまは全能の神さまであり、ご自分が望むならなんでもできるはずです。私たちが神さまに献金をしますが、神さまは私たちの献金がなければやっていけないのでしょうか?神さまは全宇宙を創造され、すべての所有者です。そのお方が私たちのわずかなお金を必要としているのでしょうか?そのとき、はっきりと分かりました。神さまは何でもできる偉大な神さまである。しかし、神さまは、私たちを通して働きたいと願っておられる。やはり、奉仕の主役は神さまで、私たちはその器なんだと分かりました。会堂献金をしたときも、神さまが私たちを富ませて、献金をさせてくださるんだと分かりました。「私は神さまのために何かをしなければならない」と、何と本末転倒なことを考えたのだろう。私たちが助けなければどうしようもない神さまだったら、偶像の神さまと同じだと思いました。神さまは主役であり、私たちを通して働きたいと願っておられるのです。アーメン。 

 また、奉仕の範囲とはどのようなものなのでしょうか?私たちはどうしても、教会内の奉仕を考えてしまいます。確かに、教会の奉仕はあります。椅子を並べたり、会堂を掃除すること、週報を印刷することがあります。私はこれを30年以上やってきました。しかし、本当の奉仕は教会内の奉仕だけではありません。良きサマリヤ人のたとえ話があります。ある人が強盗で襲われ、半殺しの状態で倒れていました。たまたま通りかかった祭司は、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。その後、レビ人もその場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。聖書を見ると「そこはエルサレムからエリコへ下る道だ」と書いてあります。その道は険しくて、狭く、反対側を通り過ぎるためには、旅人をまたがなければならないと言うことでした。祭司もレビ人も神さまにお仕えする仕事なので、もし、その人が死んでいたなら、汚れてしまって夕方まで奉仕ができなくなるでしょう。でも、サマリヤ人は彼を見て可哀そうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をしました。自分は乗らないで、ロバに彼を乗せて宿屋まで連れて行き、介抱してあげました。彼は仕事の途中だったので、宿屋の主人にデナリ2つをあげて、「帰りに寄ります」と言いました。サマリヤ人は自分の仕事をちゃんとしながら、弱っている人を助けてあげました。立派な奉仕ではないでしょうか?もし、その日が日曜日であったなら、サマリヤ人は礼拝に遅刻をしたでしょう?あるいは聖日礼拝を休んだかもしれません。でも、プロテスタント教会では「聖日厳守」なので牧師から叱られるでしょうか?私たちは奉仕をあまりにも四角い壁の中にしています。仕事場で他の人を助けること、弱った人を励ますことも奉仕ではないでしょうか?たとえ、それが一般の職業であったとしても、お金を稼ぐためだけではないでしょう。どこかに、神さまと隣人のための奉仕も含まれているのではないでしょうか?礼拝は英語でserviceとも言います。ローマ12:1「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」霊的な「礼拝」ということばは、ギリシャ語で「ラトリュウオウ」であり、肉体をもって仕えるserviceすることです。つまり、キリストによって贖い取られた体を捧げるということです。主の御名で行われているなら、聖なるものも、俗なるものもないということです。

 マルチン・ルターはそれが神さまから召された仕事であるなら、天職(ベルーフ)であると言いました。なぜなら、中世の頃は、神さまにお仕えする聖職者が聖いとされてきたからです。日本人の場合は職業イコール、自分の身分やスティタスなるでしょうか?しかし、職業を神さまよりも第一にしているなら、いつその身分をいつ失うかハラハラどきどきするでしょう。結婚も相手が「正社員ならする」みたいに、思わないでください。神さまが第一なら、家庭や奉仕や仕事、趣味、社会活動は同じドーナツの領域に入ります。凡人は「食うため」と言って、使命や夢を捨ててひたすら我慢します。そして、使命や夢に向かって生きている人を妬んでさばくんです。人生一度きりなんですから、生き延びるためにではなく、神さまのご計画を果たすために生きるべきです。「ある人がどんな人と結婚しますか?」という質問で、「ビジョンがある人」と答えました。もちろん、ビジョンだけでは生活できません。でも、神さまのご栄光のためにささげて生きると言うのがすばらしいのではないでしょうか?ウォッチマン・ニ-の本にこのように書いてありました。多くのクリスチャンは、神が自分たちを悩ませているのを恐れています。あるクリスチャンは、自分自身を神にささげるのを非常に恐れます。彼は言いました。「もし神にささげてしまえば、神が私に苦難を臨ませるなら、私はどうなるのでしょうか?」。私は彼に非常に真剣に言いました、「あなたは、私たちの父なる神はどのような神だと思っておられるのですか?もし言うことを聞かない子どもが心を変えさせるのなら、それは両親ではなく、裁判官です。神さまがあなたの父であることを忘れています!」兄弟姉妹よ、神にささげた人だけが力を持っています。彼らは自分の商売を神の御手に置くことができます。彼らは自分の父、母、妻、子どもたちを御手に置くことができます。彼らは金銭を神の御手に置くことができます。彼らは、神に与えられたものをこの世で浪費したりしません。彼らは自分の命をささげました。自分自身の持ち物、自分の物質の財産において、神にささげることを恐れる者は、勝利を得ていません。人が神にささげれば、ささげればささげるほど、ますます力を得ます。ささげることは喜ばしい生活です。それは力ある生活です。

 西洋の話ですが「私は何もできないので、牧師でもなろうか?」と言ったそうです。牧師をなめてはいけません。牧師が本当にできる人はどんな仕事をやってもうまくいきます。大川牧師が青山学院時代、アルバイトで日航に務めていたことがあるそうです。そこの上司が、「君、牧師じゃなくて、こちらで働かないか」と誘ったそうです。かなり前ですが、長野県の県庁職員がいました。彼はどうしても牧師になりたくて、公務員を辞めて、JTJに入学しました。そこを卒業してから、今度は東神大に入りました。彼は日本基督教団の教師になりたかったようです。しかし、私から言わせると彼には牧師の賜物がなく、「あのまま県庁職員で働いていた方が良かったのになー」と思いました。どうぞ、自分が召された仕事に自信を持って下さい。当教会に石塚兄姉がおられました。石塚兄は日立の太陽エネルギーで働いておられました。10年間こちらに所属して、役員さんをやってくださいました。ブラック・ゴスペルやすずめの学校を応援してくださいました。退職後は、日立に帰りましたが、市民サークルで「太陽エネルギー」を教えています。それだけではありません。ご夫妻で月一回、家庭でセルを開いていますが、茨城大学や茨城キリスト教大学の学生さんたちが多く集まっています。食事を共にした後、聖書に何が書いてあるか意見を交換します。それが楽しいので、夜11時なっても帰ろうとしないそうです。神さまを第一にしていけば、いくらでも働く道があります。家庭も守られるし、奉仕も絶えることがありません。なぜなら、神さまを第一にしていくなら、神さまがあなたをサポートしてくださるからです。