箴言は「勤勉さがいかに大切か」について教えています。日本人は元来、勤勉と言われていますが、神さま抜きの勤勉さは問題です。働き中毒になって体を壊したり、あるいは金儲けに走り、犯罪に手を染めてしまうこともあるでしょう。勤勉さには、バランスが重要です。私たちクリスチャンは天国を目指して生きていますが、この地上での生活はとても地味です。ほとんどが繰り返しであり、昨日のことと変わり映えしません。では、どうしたら毎日を価値あるものとして生活し、また将来に希望をもって生活できるのでしょう?
1.日常生活における勤勉さ
私たちは毎日が同じことの繰り返しのようです。滅多に変わったことがありません。どこかに、数日間旅行に行くこともあるでしょう。そのときは楽しいのですが、その後、日常に戻るまで数日かかります。私は、冬はスキーに行きますが、準備するのに半日かかります。また、帰ってきたら車も洗わなければならいし、スキーのセットをしまわなければなりません。やっぱり、朝、散歩してコーヒ―飲んで、聖書や読書の時間がとても充実しています。散歩も雨が降って、2日くらい歩かないと、足が痛くなります。また、私は牧師として一週間ごとに生きています。日曜日をピークにして生きていますので、他の人と違うかもしれません。たまに、土曜日が日曜日のように思って、準備をしたりします。「あれ?8時なのに、だれも来ない。ああ、そうか、きょうは土曜日だったんだ」。一日、得することがあります。私にとって一週間がリズムになっています。「こうなって天国に行くんだろうなー」と思います。どうでしょう?みなさんにも生活のリズムがあると思います。主婦ですと、朝起きて、洗濯機を回す。テレビをつける。朝食を作る。家族を起こす。掃除をする。その後、仕事やパートに出る人もいます。帰ってくると、洗濯物を入れる。買い物をする。夕食を作る。テレビをつける。家族で過ごす。一人のひともいるかもしれませんが。寝る。こういう、日常的なことを何と言うのでしょうか?また、男性ですと、会社に行くのが常です。電車や車で職場に行きます。だいたい、決まったような仕事です。上から命じられ、下から突き上げられるかもしれません。数字を出さなければならないし、ストレスもたまります。家に帰るとぐったりです。妻や子どもたちの話も聞かなければなりません。また、明日になると同じことの繰り返しです。こういうのを、routineというのでしょうか?
しかし、私たちは毎日を当たり前だと思って暮らしてはいけません。箴言10:4「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。」私たちは怠けていると、生活が貧しくなり、家も汚れます。ゴミ屋敷に住んでいる人は、掃除、洗濯をしない人です。最低限、私たちは地上で生きる努力をしなければなりません。お年を取って、老人ホームに入る場合があります。しかし、親切心で入居者のために全部をやってしまうと、かえってボケるそうです。何もやることがないからです。あるところでは、掃除や洗濯、食事も作らせるそうです。グループ・ホームのように、一人ではなく、助け合いながら生活するところもあります。付き添いと買い物も一緒に行って、食べたいものを買わせるところもあります。私は生協に行きますが、付き添いの人が「何を買いたいの?」とか聞いています。そんなことをしないで、さっさと買ってあげたら時間が節約できそうです。でも、自分で考え、欲することが重要らしいですね。なんでも、やってあげてしまうと、老化が進むのでしょう。田舎のご老人の方が、畑仕事をしていて、ボケないと聞いています。「お年寄りのために」と、全部、やってあげるのはかえって良くないのです。ちょっと厳しくした方が良いのです?少しブラックな老人ホームが良いのでしょうか?最近は、若年層が生活保護を受ける方が多いと聞いています。一概には言えませんが、働くことの希望が湧かないのでしょうか?でも、人間には生産すること、何かやるべきことがあるはずです。恐らく、そういう人は「お前は役に立たない」「そんなんじゃ生活できない」と言われたので、意欲がなくなったのではないでしょうか?カンボジアとかアフリカに行くと、ゴミの山で生活している人たちたくさんがいます。生き延びるために何かを拾って、それを売って生活しています。それが良いとは言いませんが、生き延びることの大切さを教えてくれます。
私たちは自然界から学ぶべきです。イエス様はマタイ6章で「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と言われました。確かに、彼らは人間のように蒔いたり、刈ったり、紡いだりしていません。でも、神さまが与えてくださったものを有効に用いています。空の鳥は、朝早く起きて、穀物や虫をついばんでいます。冬は何も食べ物がないように思えますが、鳩などは刈り株の中から何かを食べています。鵜は川にもぐって魚を捕まえています。カラスとすずめは人間様のおこぼれがないか狙っています。野の花はどうでしょう?彼らはじっとしているように見えますが、そうではありません。根っこは水のある所に根を伸ばしています。また、太陽が昇ると一生懸命、葉っぱをそちらの方に向けて、炭酸同化作用をしています。昆虫を引き寄せ、受粉させようとしています。これは神さまが与えた、自然の力です。彼らは自分たちができることを精一杯しているのです。イエス様は「あなたがたは彼らよりももっとすぐれたものではありませんか」とおっしゃいました。なぜ、それができないのでしょう?「無精者の手は人を貧乏にし」とあります。箴言6章「なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。…なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。」と書いてあります。最低限、自分のできることはすべきであります。ある人たちは、「だれも助けてくれない」「神さまも助けてくれない」と言います。また、ある人たちは、「私は何をしても失敗する」「私は悪い星のもとで生まれたんだ」と言います。「生きる」ということは、「神さまが与えたいのちを生きる」ということであり、最低限度の基本的な要素です。自分の不幸を嘆いたり、人のせいにしていると「生きる」という喜びすら得られません。本来、「生きる」は「生かされているのであり」普通のことではないのです。神さまが与えた、1個のいのちなのです。たとえ、それが毎日、繰り返しのような日々であっても、生かされていることを喜んで生きるのです。日常的なことを粗末にしないで、そこからも生かされている喜びを忘れないようにしましょう。
2.仕事における勤勉さ
ある人たちは、「人の役立つことができるように、人のために良いことをしましょう」と言います。昔、ラジオ番組で「暗いと不平を言うよりも、進んであかりをつけましょう」というのがありました。私は元来、人間は自己中心だと思っているので、道徳的な薦めはしません。働いているほとんどの人が、「自分の給与は少ない。私はもっともらっても良いはずだ」と思っているのではないでしょうか?それなのに、「人の役立つことができるように、良いことをしましょう」などという考えが生まれるでしょうか?ヒューマニズムを提唱する人は、できるかもしれませんが、私は無理です。牧師がそう言っているのですから、どうなんでしょうか?ここで終わってしまうと、キリスト教も他の宗教と同じだと思われてしまいます。良く考えると、イエス様は山上の説教で実行不可能なことをおっしゃいました。マタイ5:41「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」英語の聖書は、「1マイル行けと強いる者には、2マイル一緒に行け」となっています。「1マイル行くだけでも、参るのに、2マイル行ったら、二倍参るだろう?」。英語のしゃれが出ました。当時、ローマの軍隊は、何か不足が生じると強制的に、食物、宿舎、馬、助力を提供させることができました。たとえば、クレネのシモンは、強制的にイエス様の十字架を運ばされました。1マイル行ったらそれは強制的に従ったものです、しかし、あと1マイルは自発的にしたものであり、強制的なものではありません。イエス様は権威に対しても、このように勝利しなさいと教えられました。
また、パウロはコロサイ3章でこのように命じています。コロサイ3:22-24「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」同じようなことが、エペソ6章にも記されています。もちろん、奴隷制度からは解放される必要があります。イスラエルもかつてはエジプトの奴隷でした。しかし、パウロはその当時の奴隷制度を受け入れながら勧めています。重要なのは、労働する人の心構えです。パウロは「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」と命じています。この教えは、サラリーマンであろうと、公務員であろうと、パートであろうと共通した教えです。そうすると、どうなるのでしょう?「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」世の人たちとは、ここが違うのです。私たちが良いことをするのは人のためとか、ヒューマニズムのためではありません。主から報いとして、御国を相続させていただくためです。しかも、私たち主キリストに仕えているのです。ここが違うのです。主キリストに仕えるように、上司や人々に仕えているのです。
給与をもらうためではないという人は一人もいないでしょう。やはり、労働に見合った報酬を期待すべきであります。月給であろうと、時間給であろうと同じです。私たちはいくらかでも、労働にあった、いやそれ以上の報酬を得たいとだれしもが願っています。しかし、それが行き過ぎると、報酬に見合った労働しかしないということになります。タダ働きなんか、まっぴらごめんです。ここではそういうことを言っているのではありません。給与をもらうのは結構ですが、その心構えです。給与を得るために奴隷のように仕方なく働くのではありません。あたかも、主キリストに仕えるように喜んで働くのです。これが、「二マイル行く」という労働の仕方です。サービス残業もあるかもしれませんが、イヤイヤやっているのではありません。こっちが、主体的に働いているのです。多くの人たちは、頼まれたことしかやりません。余計なことをすると叱られるからです。でも、明らかにこちらの方が良い場合は、上司に「こうしたらいかがでしょうか?」と進言したらどうでしょうか?無能な上司ならともかく、有能な上司は「それはすばらしい」と創造的なアイディアを買ってくれるでしょう。お客さんだって、私のことを思ってくれて、そうしているんだったら、信用してくれます。今度からは、あなたのことを指名してれるでしょう。この世は、ロボットを期待していません。自分の意思をもって、創造的に仕事をしてくれる人を願っているのです。
アラム王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていました。でも、この勇士は、らい病に犯されていました。将軍ナアマンは、イスラエルの預言者エリシャによって、全身が癒されました。しかし、そのために二人の人物がナアマンを助けたことを忘れてはいけません。一人目は、イスラエルの地から捕らわれてきた若い娘です。彼女はナアマンの妻に仕えていました。彼女は女主人に「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人のらい病を直してくださるでしょうに」と言いました。彼女は敵国の将軍のためにボッソッと言っただけです。ナアマン将軍はイスラエル王に手紙を書いて、エリシャのところに行くことができました。ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立ちました。ところが、エリシャは彼に使いをやって、「ヨルダン川に行って七度あなたの身を洗いなさい」と言っただけです。ナアマンは怒りました。彼が主の名を呼んで、患部の上に手を置いて直してくれると思ったのに、「ヨルダン川で洗え」とは失礼だと怒って帰途につきました。二人目の人物は、彼の家来です。「あなたが難しいことを命じたとしたら、あなたはきっとなさったではありませんか。彼はあなたに身を洗って清くなりなさい」と言っただけではありませんか?そこで、ナアマンは気を取り直して、ヨルダン川に下って行き七度身を浸しました。すると彼のからだは幼子のようにきよくなりました。イスラエルの女奴隷と彼の家来が、ナアマンの癒しに貢献しました。彼らは、一歩踏みだして主人のために仕えました。そうするとすばらしいみわざが起ったのです。一マイル行けばよかったのですが、二マイル行ったのです。私たちもうわべだけではなく、主に対してするように心からすべきです。そうしたら、豊かな報いが与えられるでしょう。
3.内なる生活における勤勉さ
私たちはこの地上でいろんなことに携わって生きています。でも、あらゆる環境の中にあっても、神との交わりを持つことは可能です。なぜなら、新生したクリスチャンには聖霊なる神が宿っておられるからです。内におられる御霊は、私たちと父なる神さまとの通信を可能にします。そのことによって、神のみこころを知りながら、聖霊に導かれて生きることができます。ブラザー・ローレンスはいかなる仕事も神の御前で行いました。だから、主の臨在にあふれていました。また、聖霊なる神が鳩のように私たちの上に留まっているとき、私たちはイエス様や弟子たちと同じようなミニストリーを行うことができます。ミニストリーとは、御国をこの地にもたらすための、聖霊がくださる御霊の賜物です。癒し、知恵、預言、信仰…などです。私たちには他の人にはできない、御国の働きがどのような場所でも、ミニストリーを行なうことができるのです。一番、重要なことは、どんな環境の中にあっても、たえず聖霊と交わり、聖霊に満たされ、聖霊に導かれて歩むことです。しかし、私たちにはアダムから来る古い人の残渣(ざんさ)があります。残渣というのは、濾過した後に残る、かすです。ぶどう酒でも、瓶の底に、かすがたまっています。パウロはこれを「肉」と呼んでおり、ローマ7章と8章で、彼自身も苦しみ悶えているのが分かります。なぜなら、肉は死であり、肉でいくら頑張っても神さまを喜ばせることができません。残念ながら、天国に行くまで私たちは肉を排除しながら、御霊によって生きる必要があります。
第三は「内なる生活における勤勉さ」であります。ローマ12:11「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」というみことばがあります。原文のギリシャ語は「勤勉」の他に「熱心に…しようと心がける」という意味があります。英語の詳訳聖書は、endeavor「…しようと努める、…得ようと努める」という言葉が用いられています。つまり、肉を排除しながら、御霊によって生きるように熱心に心がける、ひたすら努めるということです。新興宗教においては、「お勤め」というのがあります。彼らは朝早く起きて、彼らの神が降りて来るまで、お題目を唱えます。そうすると不思議なことに、商売繁盛や病の癒しが起こります。もちろん、悪霊の力ですが、この地上ではそのようなご利益があります。何らかのご利益があるから、彼らは毎日、熱心にお勤めを果たすのです。クリスチャンもディボーションというのがあります。毎日、聖書を読んで、その日のみことばを瞑想し、祈ります。日曜日は礼拝を守り、聖書の教えに従って歩もうと努力するでしょう。でも、それが「お勤め」であり、神の祝福を得るための手段であるなら、この世の宗教と何ら変わりありません。たとえ、そのことによって、すばらしい奉仕ができたとしても、です。ビル・ジョンソンが『神の臨在をもてなす』という本でこのようなことを述べています。「祝福や奉仕の力を得るために、聖霊様と交わるというなら聖霊様に失礼です。なぜなら、祝福や力は目的ではなくて、副産物だからです。私たちは聖霊様をご人格あるお方として認め、おもてなしをする必要があります。」アーメン。
ところで、Ⅰコリント2章には、3種類の人間がいると書かれています。第一は、生まれながらの人間です。この人はキリストを信じていない人です。霊的に死んでいるために、自分の魂で生きています。だから「神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)。第二は、霊的に生まれ変わっているクリスチャンです。でも、この人は御霊ではなく、肉に従って生きています。コリントの教会がこうでした。「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」(Ⅰコリント3:3)。第三は、御霊を受けて、御霊に従っている人です。「御霊を受けている人は、御霊のことばによって、すべてのことをわきまえることができます」(Ⅰコリント2:15)。同じクリスチャンではあっても、肉に属しているか、御霊に属しているか二種類に分かれます。私たちには魂があります。魂というのは、私たちの自我であり、個性ですから、私たち自身と言うことができます。また、魂は思い、感情、意志の3つに分かれています。でも、肉に従っているクリスチャンは、自分の思い、感情、意志を頼りに生きています。肉とは、罪深くて汚れたものだけではなく、聡明で道徳的なものもあります。問題は、神さまではなく、自分自身に頼っているということです。その人は知性に富み、感情が豊かで、強い意思を持っているかもしれません。でも、肉で生きているので、神さまのかおりがしません。
たえず肉を死に渡し、御霊によって生きるように努めることが、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」ということだと信じます。ウィットネス・リー『命の認識』という本でこのように述べています。「魂は神に属する事の上では無能であり、霊的な事の上では価値がないことを知らなければなりません。私たちの思いがどれほど清く、感情がどれほど適度で、意思がどれほど正確でも、これからはとにかく、私たちを霊的にさせません。私たちの魂とそれに属する一切のものはすでにキリストの十字架につけられたことを見なければなりません。ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました」といっている「私」は、すなわち魂です。魂は、神の値積りの中にあってはただ死に値するだけです。そして神はもうすでに、キリストの十字架によって私たちの魂を解決しました。それですから、私たちは一切のことの上で魂を第一とせず、どんな事の上でも魂に位置を与えず、しかも聖霊によって魂を死に置くのです。」アーメン。その次に私たちは聖霊に聞こうと、知性、感情、意志を向けます。つまり、自分のすぐれた知性ではなく、御霊の知性を求めます。自分の感情の豊かさではなく、御霊による感情を求めます。自分の強固な意思ではなく、御霊の意思を求めます。つまり、御霊を第一の者とし、管理、支配させるのです。御霊によって、私たちの思い、感情、意志を使っていただくのです。イエス様は「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)と言われました。私たちが、日々、すべきことは自分の魂を十字架につけて、御霊によって生きることです。