クリスチャンは天国に行けるという信仰を持っています。しかし、それだけではなく、この地上でも信仰を用いて生きるように召されています。信仰とは神さまの恵みをつかむ、見えない手と言えます。ある人たちは「神さまは何もくれない」と自己憐憫の中で座り込んでいます。そうではなく、父なる神さまはあなたに良きものをたくさんあげたいと願っておられるのです。ただし、それを受け取るためには信仰が必要です。それも、行動の伴う信仰です。きょうは、長血を患った女性が癒しを受けた物語からそのことを学びたいと思います。
1.希望を持つ
マルコ5:25,26「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」この女性は、婦人病を患っていました。レビ記15章には、彼女がさわったものは夕方まで汚れると書かれています。つまり、宗教的に呪われた病気でありました。29節には「ひどい痛み」と書いてありますので、それが12年間も続いていたということのです。生きた心地がしなかったでしょう。彼女は多くの医者にかかりましたが、ひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまいました。「ひどい目」といういのは、藪医者から、お金ばかりとられたということでしょう。当時は、現代と違い、魔術的なものもありました。親からは「ごくつぶし」と言われたかもしれません。とにかく、医者のために生活費を全部使ってしまいました。肉体的にも、経済的にも、そして霊的にもどん底状態です。普通だったら、自己憐憫と自暴自棄に陥ってしまうでしょう。ところが、この女性は、希望を失いませんでした。イエス様が来られるというニュースを耳にしたからです。ローマ5:5「この希望は失望に終わることがありません」とあります。彼女の希望は、患難と忍耐を通過した希望です。
私たちは信仰を持つ前に、希望を持つ必要があります。主題説教を100回くらい続けていますが、最初の説教は「希望を持て」でした。ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」このみことばからも分かりますように、信仰の前に望む必要があります。望むのは自由であります。何を望んでも構いません。ただし、それが現実という壁に当たると破れてしまうのです。希望はまるでしゃぼん玉のように、生まれても消えてしまいます。私たちはこれまでいろんなことを望んできたと思います。「これだ!これしかない!」とやってみたけど、うまくいかなかった。しかし、そのことが何度も続くと、希望を持つことすらできなくなります。日本の希望は「まれな望み」と書きます。理科の実験で希硫酸というのがあり、硫酸を水で薄めたものでした。だから、「うすくて、あまり実現しない望みなのかな?」と思ってしまいます。ところが、希望の希は「こいねがう」という意味があります。おそらく、「こいねがう望み」が正しいのかもしれません。とにかく、あきらめないで、願い続ける、望み続けるということが重要です。
私はこのメッセージを作ろうとした夜、ぐっと失望感が襲いました。なぜなら、弟子訓練もうまくいかなかった。セルチャーチもうまくいかなかった。エリヤハウスなどの内面の癒し、教会成長の学び…たくさんのセミナーを受けてきましたが失望落胆の泥沼にはまっていました。もう、「新しいことをしよう」という熱意と意欲がまったくありません。最後に残ったのは、リバイバルの願いだけです。いつしか霊的な復興が起こり、奇跡としるしが伴う聖霊のみわざが起るということです。でも、こういう希望と信仰のメッセージを語るのは、心が痛みます。本当に心が痛むのです。「自分が希望と信仰を持っていないのに無理だなー」と思いました。その夜、枕元にあった本を読みました。ウィットネスリー著『命の認識』です。「私たちが霊の中で生きているのでなく、肉の中に生きている感覚はどういうものでしょう?それは死の感覚です。いったん死の感覚があると、私たちは自分の霊の中に生きているのではなく、肉の中に生きていることを知らなければなりません。死の感覚は弱さ、むなしさ、憂うつ、暗やみ、ならびに苦痛を包括しています。このような感覚があれば、それは命の感覚が私たちの内で、私たちがすでに間違った肉の中で生きていることを知らせているのです。霊の中に生きてきているとどういうことを知るのでしょうか。それは命と平安、また強さ、満足、活発さ、明るさ、気持ちよさです。」アーメン。
私はこれまでの30年の牧会はひとことで言うと「尻馬に乗る」でした。「ああ、弟子訓練こそが教会成長の鍵だ」と韓国のサラン教会に行って学んでいる牧師を見ると、「私もやろう」と二番手で続きました。「いや、セルチャーチだ。セルチャーチこそ本当の教会だ」と聞くと、二番手で続きました。アバラブ教会、エリヤハウス、カウンセリング…最初に取り入れた牧師からの情報をいち早く聞きつけ、二番手で続きました。開発者に続く、早期取り入れ型でした。つまり、人の成功にあやかりたい、あやかりたいという信仰でした。失敗したと思っていましたが、人のものを真似て失敗したのです。だから、本当の失敗ではなく、人の尻馬に乗ったけど、それがうまくいかなかったということです。そう思ったら、深い失望落胆の沼から這い上がることができました。だったら、今度は、人ではなく聖書が言っていることをやれば良いと思いました。日本の教会はあまりにも、外国の方法論を無批判に受け入れ、それをマニュアル化してきました。聖書は方法論ではなく、本質的なことを教えてくれます。方法論は文化や時代、教会や牧師の賜物によって違います。聖書は教会が大きくなることを教えていません。むしろ、御国が来るように働くのが教会であると言っています。イエス様は「私が私の教会を建てる」とおっしゃったのですから、人為的な組織ではないということです。牧師自身に、希望と信仰がなくて、どうやってメッセージを語れるでしょうか?
皆さんの中にも希望を持てない方がいらっしゃるでしょうか?どうか、聖霊によって失望落胆が癒されて、神の命によって希望が生み出されますように。そして、患難と忍耐を通過した、本当の希望が与えられますように。
2.信仰を持つ
マルコ5:27,28彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。このところには、「きっと直ると考えていた」と書かれています。しかし、直訳は「言っていた」であります。もっと正確に言うなら、「ぶつぶつ、言い続けていた」です。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と言い続けて、イエス様の後ろを目指したということです。昔、私が現場監督で働いていた頃、日大で登山をやっていた人がいました。彼は9合目の最も苦しいところに来ると、「メンタンピン・ドライチ」、「メンタンピン・ドライチ」と唱えながら登ると言っていました。分かる人は分かると思いますが、あまり意味のないことばです。でも、彼女のことばは、信仰からくるものでした。詩篇1:2「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」とあります。「口ずさむ」とは、みことばを瞑想するという意味です。彼女がどういう生活をしていたか分かりませんが、毎日、聖書を読んでいたのではないかと思います。そして、「メシヤがやって来たら、しるしと奇跡が起こる。私の病気も癒される」と信仰を持つことができたのではないでしょうか?実は「お着物」というのは、「着物のふさ」(ルカ8:44)です。これは単なる着物の端っこではありません。民数記15章によると、「イスラエル人が世々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように」命じられています。「ふさ」は、神の聖なるものという意味です。イエス様こそが、まことのイスラエル、聖なる者でありました。この女性は、イエス様に信仰をもって近づいたということです。
ローマ10:9,10「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ある人たちは、このみことばから「心の中で信じるだけではダメで、口で告白しなければ救われない」と言います。そして、洗礼式で人々の前で公に「信じます」と告白させます。もし、人々の前で告白しなければ救われないとしたら、独房とか無人島ではだれもいないので、救われないことになります。しかし、この意味はそうではありません。心で信じることと、口で告白することは同じ意味で語られているのです。これは、同義語のようにたたみかけるパウロの弁論術です。イエス様は「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ12:34)と言われました。つまり、心の中で本当に信じている人は、自然と口から出てくるということです。長血をわずらっていた女性は、心の中に私は癒されるという信仰があふれていました。だから、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」とつぶやいていたのです。私たちはある場合、心の中で信じていないのに、「アーメン」と口で言う場合があります。ペンテコステ系の教会に行きますと、やたら「アーメン」「アーメン」と言います。本当に信じている場合は良いのですけど…。しかし、そういう教会では、メッセージをする方も、「アーメン」と言ってくれないと、「あれ?違ったかな?」と淋しくなるようです。でも、私たちが告白したことばは、神さま、自分自身、そしてサタンも聞いています。そういう意味でも、告白は力です。イエス様はマルコ11章で「この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」とおっしゃいました。この所からもはっきりと「言う」ことがとても重要であることが分かります。この女性は、心の中で既に信じていたので、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と言っていたのです。私たちも心で信じていることを、口で宣言して、神さまから自分が望むものをいただきましょう。
ジョエル・オスティーンのお母さんドディは1981年11月、48歳のとき、転移性の肝臓がんと診断されました。お医者さんが、夫のジョン牧師の目を見て「1か月ではなく、あと数週間のいのちです」と言われました。ジョンはそれを聞き流し、ドディと自宅に帰って、心を合わせて祈りました。ドディの体はやせ細り、黄疸が進んでいました。彼女は聖書から知っている癒しのみことばを書き出し、それを口に出して言いました。また、若い頃の写真―結婚式の写真、休暇でモンタナに行って馬に乗っていた写真―を枕元や冷蔵庫に飾りました。ジョンは油を塗って、体から癌が去るように祈ってくれました。二人で「イエスの打たれた傷によって癒された」という聖書のことばを宣言しました。ある夜、神さまが「ドディ、良くなるのは夫の信仰ではなく、あなたの信仰です。一日も欠かさずに、あなたの信仰を立ち上げるのです」と言われました。ドディは自分が既に癒され、良くなったかのように毎日生活しました。いつもの時間に起きて、家事をこなしました。下の娘が高校生だったので、朝食も作りました。夜ベッドにつくと、サタンが何度もやってきて「お前は2,3週間しか生きられないよ。クロゼットにあるピンクのドレスは葬式に着るのだ」と言いました。思いの中での戦いが絶え間なく続きました。その間、たとえ気分が良くなくても、ドディは神のみことばによって戦いました。彼女はさらに、2つのことをすべきことがあると考えました。1つは教会の礼拝に出席することです。そして、他の人のために祈ることです。もう1つは、自分が悪いことをした人に赦しを求めることでした。夫や子どもたち、自分が傷づけたと思う人のために手紙を書きました。それから少しずつ、少しずつ良くなりました。あれから39年もご健在でおられます(2020年)。
ヘブル11章1節に信仰とは何か書かれています。キングジェームス訳の直訳が良いと思います。「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することである」。実体化とは、「望んでいることが現実したように」と言う意味です。ドディは自分が健康で治ったように生活していました。「肉体の感覚は弱って、死にそうなのに」です。悪魔も思いの中に爆弾を落としていきます。私たちは神の約束のことばに頼り、それを告白していくことが必要です。絶えず、不信仰を信仰に置き換えていくということです。聖書の女性は、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と言い続けていました。私たちも心の中で信じるだけでなく、それを口に出して宣言すべきです。
3.アクションを起こす
マルコ5:27-29「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」聖書の記述は、イエス様の着物にさわったことが最初に書かれ、「直ると考えていたからである」と理由が後から述べられています。第三のポイントは、彼女の信仰は行いが伴っていたということです。つまり、信じたらそのとおりにアクションを起こすべきだということです。何もしないで、「私は信じます」ではダメなんだということです。長血を患っていた女性は、信仰を行動に移すまでいくつかの困難がありました。まず、彼女は長年の病気のため、体がひどく衰弱していました。その体をもって、群衆をかきわけてイエス様に近づくというのは大変なことです。しかも、イエス様は一刻も争う、少女の癒しのため会堂管理者の家に向かっていました。彼女の行為は、割り込みであります。大阪のおばさんだったら、ともかく、多大な迷惑をかけることになるでしょう。また、彼女は長血を患っていて、彼女が触ったら汚れてしまうでしょう。「お着物のふさだけでも…」という遠慮もありました。それでも、なんとかイエス様の着物にさわることができました。するとどうでしょう?電気でも走るように、イエス様から力が流れてきたではありませんか。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。ハレルヤ!
聖書で困難にもめげずにイエス様に近づいて癒しを受けた人が何人かいます。マルコ2章には四人が中風の一人をイエス様がおられる家まで運んだ物語が記されています。ペテロの家だったと思われますが、人々が入口まで溢れていました。とても近づける状況ではありません。それでも彼らはあきらめず、屋上に上り、かわらをはいで穴を開けました。そして、中風の人を床に寝かしたまま、イエス様の真ん前につり下ろしました。イエス様は「彼らの信仰を見て」、彼の罪を赦し、体も癒されました。他人の家に穴を開けて、床に寝かされたまま、イエス様に近づいたとは何という信仰でしょうか?現代だったら、不法侵入と器物破損で逮捕されるでしょう。もう一つの例は、バルテマイという生まれつきの盲人です。彼は路上でものごいをしていましたが、イエス様がエリコの町を通られるところでした。彼は目が見えませんので、自分でイエスさまのところに近づくことができません。そのため、「ダビデの子、イエスさま。私をあわれんでください」と大声をあげて叫びました。人々は彼をだまらせようとしましたが、ますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」叫び立てました。すると、イエス様は立ち止まり、彼を呼んで来なさいと言われました。彼は上着を脱ぎ捨てて立ち上がり、イエスさまのところに連れてこられました。イエス様は「私に何をしてほしいのか」と言われました。盲人は「先生。目が見えるようになることです」言いました。イエス様が「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われると、彼はすぐさま見えるようになりました。目が見えないバルテマイは、大声を上げて、イエス様を呼び止め、癒しをいただきました。これも信仰であります。
ヤコブはこのように言っています。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」(ヤコブ2:14)と言いました。つまり、「本当の信仰は行いが伴うはずだ」ということです。また、ヤコブは「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:17)とも言っています。信じたら、そのように行動するということです。かなり前に、メル・ボンドという預言と癒しを行う先生が来られました。先生は、癒しの順番について教えてくれました。第一は祈る、第二は受け取る、第三はアクション(行動に移す)でした。非常に単純ですが、三番目のアクションが問題です。集会の直前、他のゴスペルに属している姉妹が亀有駅からタクシーで教会に来ました。足腰が痛くて、二階まで上がれないというので、先生から下で、特別に祈ってもらいました。集会がはじまり、ミニストリーを受けるために人々が並びました。さきほどの姉妹が会堂に来ており、みんなの前で癒しの祈りを受けました。先生は祈ったあと、「それでは、この通路を走ってごらんなさい」と言いました。彼女は「いいえ、医者から走るのは禁じられています」と答えました。先生は「では、医者と神さまと、どっちを信じますか」と言われました。彼女はその場に立ったままで走ろうとはしませんでした。私だったら、「逆に恥ずかしいので、無理してでも走るのになー」と思いました。「癒されたら走るのか?走っているうちに癒されるのか?」分かりません。とにかく先生は、「祈る前にできなかったことをやってみなさい」と言われました。定式化してはいけませんが、それも信仰なんだと思いました。
クリスチャンはみことばを聞き、信仰を持ちます。でも、なかなか行動に移しません。牧師はみことばから信仰について話します。でも、なかなか行動に移しません。どちらの罪が重いでしょうか?信仰について話しているけど、行動に移さない牧師の方がもっと罪が重いでしょう。もし、自分がしゃべって信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」というみことばを肝に銘じて、信じたら行動に移しましょう。いることを行動に移したなら、イエスさまのようになっています。でも、そうなっていないのは、しゃべった後、もうやった気持ちになっているからです。きょうのテーマは「希望で終わらない」ですが、かくれたテーマは「信仰で終わらない」であります。希望で始まり、信仰がそれに続き、最後は行動がそれを完成させるのです。ある人が「牧師は人を教えるが自分を教えない」と言うのを聞いたことがあります。それを聞いて非常に憤慨しました。おそらくその人は、イエスさまも牧師も信じていない人だと思います。でも、半分当たっていているのでショックでした。では、信仰について語ってはいけないのでしょうか?大伝道者ジョン・ウェスレーがまだ駆け出しの頃です。「私には本物の信仰がないので、信仰について語れない」と言いました。それを聞いた先輩の伝道者が「本物の信仰を持てるまで、信仰について語り続けなさい」と言ったそうです。この地上で果たして本物の信仰が持てるのか分かりません。でも、本物の信仰が持てるまで、希望を持ち続け、信じ続け、信仰のことばを語り続けるべきだと思います。そして、ヤコブ書が言う「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」というみことばを肝に銘じて、信じたら行動に移しましょう。