この箇所はかっこの中に入れられています。私が日本基督教団の新任教師研修会に出席した時のことです。ある女性の牧師は、「この物語は聖典に加えてはならない。なぜ、女性だけがさばかれなければならないんだ。これは明らかに女性蔑視だ」と主張しました。おそらく、女性解放の神学的立場から言われたのだと思います。日本基督教団は差別ということに対して、ものすごく、敏感なところがあります。私はかっこの理由は分かりませんが、このところにはすばらしい福音が宣べられていると信じます。
1.律法とあわれみ
律法には「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない」(レビ20:10、申命記22:22)とあります。現代は、「不倫」ということで済まされるかもしれませんが、当時は死罪でした。なぜなら、それは当人同士の罪というよりも、イスラエルという国全体を汚すことになるからです。しかし、この物語を見ますと、それは偶然に起きたことではなく、敵たちから仕組まれたことでした。ヨハネ8:6「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。」と書かれているからです。つまり、律法学者とパリサイ人たちは、姦淫を犯しているカップルがいることを予め知っていたのです。そして、イエス様が宮で教える時間に合わせて、あえて、彼女を引っ張ってきたのです。しかも、男性は解き放して、女性だけを連れて来ました。それは、石打ちという残酷さをクローズアップするためです。「姦淫の場でとらえられた一人の女を連れてきて、真ん中に置いた」とありますが、なんと残酷なのでしょう。この物語を描いたいくつかの絵を見たことがあります。ある絵は、彼女の着物が半分はだけており、両手が縛られていました。一人の女性を大勢の男たちが石を持って取り囲んでいます。これは、敵たちがあえてしくんだシチュエーションです。もし、イエス様が「律法のとおり、石打ちにしなさい」と言うなら、人々は「なんと冷たいヤツなんだ」と言うでしょう。「愛のないメシヤだ」とみんながつまずくでしょう。しかし、イエス様が「赦してやりなさい」と言うなら、「律法を破るなんて、神からの教師ではない」とサンヒドリン議会に訴えるでしょう。これは、どっちらも選べない巧妙に仕組まれた敵たちの罠であることをまず知る必要があります。
ここで、イエス様は信じられないようなことをおっしゃいました。ヨハネ8:7「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」イエス様は山上の説教で、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)と言われたことがあります。彼女のまわりにいる男性は、もれなく心の中で姦淫したことがあるでしょう。イエス様は彼らに考える時間を与えるために、その場に座って地面に何かを書いておられました。韓国のチョーヨンギ牧師は、「その場にいるひとり一人の隠された罪を書いたのでは」と言っておりました。ある人は「十戒を書いていた」と言います。大川牧師は「男性のいやらしい目に対する、視線の肩代わりである」と細やかな配慮あるイエス様を語っておられました。私は彼らに考える時間を与えたのではないかと思います。英語ではpause「小休止する、思案する」ということばがあります。詩篇のところどころに書いてある「セラ」に当たることばだと思います。そうするとどうでしょう?「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」(ヨハネ8:9)。年長者は若者よりも、自分が罪深いということを経験上よく知っています。彼らは律法を人に教えるくらい知っていましたが、自分がそのとおり守れないということを知っていたのでしょう。だから、ひとりひとり石を置いて、その場から立ち去って行きました。さらに驚くべきことが記されています。ヨハネ8:10,11「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」
このところにはいくつかの疑問が残されています。なぜ、イエス様が彼女の罪を簡単に赦すことができたのか、その理由が書かれていません。また、彼女が罪を告白して、懺悔している様子もありません。まだイエス様が十字架で贖いのわざを成し遂げていないのに、どうして赦すことが可能なのか?もし、こんなに簡単に彼女の罪を赦すなら、また同じ罪を繰り返すのではないだろうか?現代の教会は、「カウンセラーをつけて、訓練の時を持たせて、しばらく様子を見るべきだ」と言うかもしれません。とにかく、神の律法に反していることを簡単に赦して良いのだろうか?という疑問、そして反論が残るでしょう。実はこの問題は2000年前のことではなく、教会が抱えている問題でもあります。いつしか、教会が律法学者やパリサイ人のように、聖書を片手して、裁判の席にすわって人々をさばいているのです。イギリスの聖書New English Bibleはこの箇所を完全に聖書からはぶいています。ある教会では、ヨハネ8章の部分は説教しないと聞いています。また、このところから語ったとしても、この物語が、かっこに入られた理由が強調されています。つまり、聖書が一貫して教えている教えとは違うということなのでしょう?私は聖書の原典がどうであれ、これは神さまの摂理において聖書に加えられたのではないかと信じています。なぜなら、この物語は「イエス様がどういうお方なのか?」ということを示すために、ヨハネ8章に加えられたと信じるからです。ヨハネ8章はイエス様が「世の光」であることが記されている箇所です。もっとも、聖書自体に章とか節はありませんが、1つの塊として、この箇所はイエス様が世の光であるというテーマで記されているということです。そうすると、姦淫の場で捉えられた女性と、彼女の罪をさばく律法学者やパリサイ人は、まさしく罪に満ちた暗闇の世界です。たとい彼女一人を石打ちにしたところで、何が変わるのでしょう?
私はこの物語は「イエス様はただお一人罪のないお方であり、また、イエス様だけが罪を赦す権威をお持ちの方である」ということを言うために書かれたのだと考えます(偉そうに?)。イエス様は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。次々と男性たちは去り、イエス様と女性だけが残ったのです。ということは、この女性を除いて、イエス様だけが罪のない者であるということが分かります。その後、イエス様は彼女に「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と聞かれました。すると彼女は、「だれもいません」と答えました。つまり、彼女を罪に定めることのできるお方は、イエス様だけだということです。そのお方が、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と言われました。つまり、イエス様だけが罪のないお方であり、そのイエス様だけが罪を赦すことができるということです。何か文句があるでしょうか?Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」とあります。イエス様は父なる神から最高の裁判官として任命されました。そのイエス様が「赦す」と言われたら、赦されるのです。でも、聖書をみるとわかりますが、イエス様は十字架で「完了した」と叫ばれました。「完了した」とは、「罪の負債を完済した」という意味です。イエス様は律法を無視して、勝手に赦したというのではなく、後で負債を払う保証があるので、この場で赦しを与えられたのではないでしょうか?
でも、この女性が罪を悔い改めたでしょうか?「今からは決して罪を犯してはなりません」とイエス様がおっしゃったとしても、彼女が再び罪を犯さないという保証がどこにあるでしょう?これは、神さまの罪の赦しを知らない人の発言です。ルカ7章にもこれと似た物語があります。ひとりの罪深い(不道徳な)女性が、イエス様に香油を注いだ物語です。彼女は涙でイエス様の御足を塗らし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗りました。まわりの人たちは「この女がだれであるか知らないのだ」と心の中でさばきました。イエス様はその家の主人に、借金を許してあげた人のたとえ話をされました。その後、何とおっしゃったでしょう?ルカ47-49「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」この箇所に彼女が罪を告白して、赦しをいただいたという記録はありません。しかし、彼女は自分で神さまの前に罪を告白して赦しを得ていたのです。だから、大事な香油をイエス様に全部注いて、その感謝を現したのです。イエス様は彼女に「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われました。つまり、このことはヨハネ8章の女性にも言えることなのです。彼女は心の中で自分が犯した罪を深く悔い改めていました。自分が石打ちのさばきを受けても構わないと思っていました。でも、イエス様にすべてをゆだねたのです。すると、罪のないお方が、神のとしての権威をもって、彼女の罪を赦してあげたのです。もちろん、赦しをいただいた彼女が罪を犯し続けるわけがありません。「さばきも、罰も受けずに、ただで赦されたのだから、また罪を犯すだろう」という人は、本当の罪の赦しを知らない人です。神さまから多く赦された人は、多く愛する人になるのです。
2.あわれみは勝つ
イエス様は律法による裁きを、赦しに変えました。まだ、十字架の贖いの前に、そのようなことをされたというのは腑に落ちないかもしれません。後半は「あわれみは勝つ」というポイントでメッセージさせていただきます。ヤコブ2:9-13「しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」ヤコブ2章は、「ひこひいきをするな」ということを教えています。当時の教会は「金持ちには良い席にすわるように勧め、貧しい人には床にでもすわっていなさい」と差別をしていたようです。ヤコブは「もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます」と言っています。その後、「姦淫してはならない」「殺してはならない」という十戒の二つをあげています。その当時の教会はこの2つの戒めは破っていなかったでしょう。ところが、金持ちをえこひいきし、貧しい人を差別していたのです。それでは、律法の違反者になるということです。何を言いたいか?私たちは姦淫と人殺しは重罪であり、えこひいきと差別の罪は軽いと言ってしまいます。つまり、自分は律法の一部を破っているのに、そういう人たちを裁くのです。でも、ヤコブは、律法の一部を破っている人は、義とされず、律法の違反者になると言っています。私たちは自分が律法を全部守っていないのに、姦淫と人殺しを重い罪として、さばいてしまうのです。ことわざ的に言うと、自分の罪を棚の上に置いて、人の罪をさばくのです。
さらにヤコブは「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです」と言いました。「自由の律法」とは何なのか難しいです。ヤコブ書が書かれたのは、キリストの贖いが完成してからのことです。旧約聖書では十戒をはじめとする律法が数えきれないほどありました。それをイエス様は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という二つの戒めにまとめました。しかし、贖いが成立してから、たった1つになりました。ヤコブ2:8「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。』これと同じ、みことばが他にもあります。ガラテヤ5:14「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」ローマ13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。」これら3つの箇所から言えることは、律法はたった1つになったということです。つまり、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という律法です。私はこの戒めこそが、自由の律法ではないかと思います。私たちは旧約聖書の律法の中に生きているのではありません。福音書のイエス様が教えられた時代に生きているのでもありません。私たちはイエス様が十字架の贖いが完成し、御霊が心の板に律法を書きつけている時代に生きているのです。かつて、律法が人に「〇〇しなさい」とか「〇〇してはいけない」と命じても、人間には守る力がありませんでした。ペテロはエルサレム会議で「私たちの父祖も私たちも負いきれなかったくびき」(使徒15:10)と言いました。また、パウロは「内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、行なう力がない」(ローマ7:22-23)と嘆いています。しかし、聖霊が与えられてから、いのちの御霊が、律法を全うさせてくださるようになったのです。ですから、新約に生きている私たちは、肉ではなく、御霊によって歩むことが重要なのです。
主題に戻りたいと思いますが、「あわれみは勝つ」とはどういう意味なのでしょうか?主は十字架で私たちの罪のすべての代価を支払ってくださいました。その時から、私たちは「主よ、私をあわれんでください」と言う必要はありません。なぜなら、あわれみとは「なだめの供え物」だからです。Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」高木慶太著『信じるだけで救われるか』という本にはこのように書かれています。ここで「なだめの供え物」というギリシャ語は、他の箇所で「あわれみ」と訳されている。すなわち、キリストの十字架の贖いによって神の義の要求が完全に満足させられたため、神は、信仰をもってご自分のもとに来るどんな罪人をもあわれみをもって赦されるのである。神がこのようにあわれみ深いのは、とりもなおさず、キリストがなだめの供え物になられたゆえなのである。神がすでに満足されており、あわれみ深いゆえ、今の「恵みの時代」において、人は救われるために、神から何とかしてあわれみを引き出そうとする必要はないのである。アーメン。そういえば、ルカ18章で取税人が「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りました。「あわれみ」は「なだめ」と同じギリシャ語ですから、取税人は「神よ、罪人の私になだめを与えてください」という祈りです。つまり、キリストが十字架にかかる以前の律法の時代には、人はあわれみを受ける必要がありました。しかし、キリストが十字架で「なだめの供え物」となられたあとの時代においては、「私をあわれんでください」と祈ることは、厳密には必要ないことです。神さまはすでにあわれみ深いお方であり、あわれんでいてくださるからです。
第一のポイントで姦淫の場で捕えられた女性のことをお話ししました。イエス様は彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と言われました。律法からすれば、彼女は石打ちで殺されなければなりません。でも、そこに全く罪のないお方であり、唯一、人の罪をさばくことのできるお方が介入されました。本来なら、まだ、罪の贖いが完成していないので、行ないのない罪の赦しを受けることはできません。しかし、イエス様はこのところで、恵みの時代を先取りして、彼女をあわれんでやったのではないかと思います。彼女はイエス様のあわれみを受けて、赦されたのです。これは、やがて「なだめの供え物」になられるお方しかできないことです。しかし、今は、行ないがなくても、信仰によって義とされる時代です。なぜなら、イエス様が十字架ですべての罪の代価が支払われた後の時代だからです。カトリック教会では「キリエ・エイレーソン(主よ、あわれみたまえ)」と賛美します。プロテスタントでも、同じことばを会衆が礼拝で唱えている教会もあります。しかし、私はそれが聖書的でないことを申し上げます。カトリック教会の礼拝は、私たちの礼拝とは違います。彼らのミサはキリストの贖罪が今もなされているという前提に基づいたものです。今も、キリストが血を流され、犠牲が支払われているという考えです。そうすると、人間の側に「あわれんでください。これからは罪を犯さないようにします」という人間の側の懺悔や償いが必要となります。これは、神さまが完成された贖いのみわざを否定する、不信仰の表れと言えるでしょう。イエス様は私たちが過去において犯した罪、現在犯している罪、さらには将来犯すであろう罪までも、すべての代価を支払ってくださったのです。私たちは罪の赦し、そして神のゆたかなあわれみの中にすでに生かされているのです。私たちは神さまの子どもです。子ども何が悪いことをしたとき「お父さん、私をあわれんでください。二度としませんから」と言うでしょうか?「気持ち悪いからやめろ!」と、はねつけるでしょう。
私たちはキリストにあって既に神さまからあわれみを受けています。そういう私たちが、人の罪をさばくということはどうなるでしょう?ヤコブ2:13「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」アーメン。マタイ18章に「1万タラントを赦されたしもべ」のたとえが記されています。それなのに、彼は100デナリの借りのある仲間を赦すことができませんでした。主人はそのしもべに何と言ったでしょう。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」(マタイ18:33)。このことばは、私たちのためにあります。私たちはとうてい返すことのできない、1万タラント(6,000億円)の罪を赦された者です。それなのに目の前の100万円の罪を赦すことができません。ヤコブは、「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです」と言いました。マタイ18章には、「主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」と書いてあります。聖書は矛盾していません。一貫して、主が私たちをあわれんで下さったように、隣人もあわれんでやるべきではないかと命じています。姦淫の場でとらえられた女性は、主のあわれみを受けました。その彼女が再び、古い道に戻るということはありえません。しかし、私たちは律法学者やパリサイ人のように人をさばくことがあります。でも、さばきは人を変えることができません。プライドが傷つけられ、恥を受け、憎しみが湧き上がるでしょう。しかし、あわれみは人を変えることができます。あわれみは父なる神のご性質です。まさしく「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」