きょうは、ことわざ的なメッセージの3回目です。「初め良ければ終わりよし」というのは、「何事も始めがうまくいけば順調に進んで、最後はよい結果になるということ」です。しかし、私はそうは思いません。たとえ初めが悪くても、主が終わりを良くしてくださるということもあります。実際は、その方が信仰的ではないかと思います。クリスチャンの証を聞くと、初めから良くて、終わりも良かったという人はあまりいません。私は、たとえ初めが悪くても、終わりが良い方が良いなら、よりすばらしいと思います。
1.結末をよく見て
ヘブル13:7「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」「結末」と訳されているギリシャ語は、「出口」とか「終わり」という意味もあります。英語の聖書にはendと書かれています。13章7節の意味はどうでしょう。日本語の聖書は「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのこと」と書いてあります。しかし、英国の聖書は「最初に神のメッセージをあなたに語った、あなたの指導者」となっています。また、JB.フィリップスは「最初に神のことばを語った、あなたの指導者」となっています。そして、「その指導者の結末(あるいは終わり)を思い出して、彼らの信仰にならいなさい」というのが大方の訳です。意地悪な解釈は、「その指導者の結末(終わり)をよく見てから、その信仰にならいなさい」となります。言いかえると、最初は良くても、終わりが良くなかった指導者にはならわなくても良いということになります。たとえば、ソロモンはイスラエルに繁栄をもたらした知恵ある王様ですが、彼にならうべきでしょうか?主に何よりも知恵を求めたことは良いかもしれません。シバの女王はソロモンの栄華に息も飲むほど驚きました。しかし、ソロモンの後半は、多くの外国の女性をめとり、彼女らの神々を礼拝しました。主が二度もソロモンに現れたにも関わらず、悔い改めようとしませんでした。残念ながら、ヘブル11章の信仰者の列伝の中には、ソロモンの名前があげられていません。つまり、結末が悪かったので、ならう必要はないということになるのでしょうか?そんなことを言ったら、ダビデはどうでしょう?ダビデは主からとても愛された、模範的なイスラエルの王様でした。しかし、彼は姦淫と殺人の罪を犯しました。子どもたちをちゃんと育てられず、アブシャロムからは王座を奪われたこともあります。ヘブル11:32に「ダビデ」と名前だけ出ていますが、彼の功績は書かれていません。
ヤコブはヨブの忍耐を模範にしなさいと教えています。ヤコブ5:10-11「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」ヤコブは「あなたがたは、主がヨブになさった結末を見たのです」と書いています。それは、どんな結末でしょうか?ヨブはすべての財産と10人の子どもたちを一瞬にして失いました。それでも、ヨブは「主は与え、主は取られる」と礼拝して、神に愚痴をこぼしませんでした。その後、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物ができてしまいました。かゆくて、土器のかけらを取って身をかきました。それでも、ヨブは神を呪いませんでした。それから、友人たちが「お前が罪を犯したからそうなったのだ」とよってたかってヨブを責めました。彼らとの議論が4章から37章まで続きます。最後に主が嵐の中からヨブに答えられました。でも、ヨブが受けた災難の理由については何も語られていません。ただ、ヨブは自分が何も知らなかったことを悔い改めました。42章の最後に書いてありますが、主はヨブに2倍の財産を与え、子どもたち10人を与え、長寿を与えました。ヨブは全てを失いましたが、その結末はとっても良かったのです。「終わり良ければ、すべて良し」であります。私たちはヨブの忍耐を学ぶべきであります。
ある聖書学者が調べたそうですが、聖書に出てくる人たちを調べたら、終わりが良かった人物は全体の3割だそうです。7割は終わりが悪かったということです。黙示録2章に「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはいのちの冠を与えよう」と書いてあります。「いのちの冠」は最後まで忠実であった人に与えられるものです。しかし、終わりの良かった3割の人が、完璧で何も失敗しなかったというわけではありません。途中、失敗したことがあっても、主のあわれみによって終わりが良かったと言うべきではないかと思います。ノア、モーセ、アブラハム、サムソン、ダビデ、ヨシャパテ、エリヤ、そして新約聖書のイエス様の弟子たちも失敗したことがあります。完全だったと言える人は、ヨシュア、カレブ、ルツ、エリシャ、エレミヤ、ダニエルぐらいかもしれません。もっといるかもしれませんが、思いつきません。何を基準にして、「失敗した」とか「完全だった」と言えるのでしょう?きょうのメッセージで申しあげたいのは「終わりが良ければ良い」ということです。サムソンも何度も誘惑に負けましたが、終わりは自分のいのちと引き換えに、3000人のペリシテ人を倒したことです。それでも、彼の人生の終わりは良かったのです。聖書は人の罪を赤裸々に書いています。世の中の偉人伝はそういうものを隠して、美化するのが普通です。しかし、聖書はその人物の良い所も、悪い所も隠さないで書いています。いや、神の目で完全な人などいないのです。「終わりが良い」というのは、その人の努力ではなく、主のあわれみと言うことができるでしょう。
私たちにもそれぞれお世話になった指導者がいると思います。最初は良かったけど、最後が悪くなったので、もう見倣わなくたったという人もいるかもしれません。ある人たちは100かゼロか、極端に捉えています。現実は100%良い人などいません。大人の信仰というのがあるならば、その人の悪いところは目をつぶり、良いところだけを見倣うなら、ものすごく益になるのではないかと思います。水は高い所から低いところに流れると言われています。私たちが「人から学ぶ」という謙遜さがあれば、どんな人からも学ぶことができるでしょう。どんな指導者であっても、背後にはその人物を支えておられる主がおられることを認めたいと思います。
2.終りを祝福される主
日本では「有終の美を飾る」ということばがあります。これは、「物事をやり通し、最後を立派に仕上げること。 結果が立派であること」という意味です。しかし、式典のスピーチや、テレビのナレーション、スポーツニュースなどでよく聞く言葉であり、どこか誇張があるような気がします。実際は、「尻つぼみ」「晩節を汚す」という場合もあるかもしれません。私たちはこの世の基準に従って、見栄を張る必要はないと思います。なぜなら、人々の評価は表面的であり、神さまだけしか分からないことがたくさんあるからです。イエス様はマタイ6章で「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」とおっしゃっておられます。私たちは父なる神さまが、私たちを完成に導いて下さることを忘れてはいけません。ピリピ1:6 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」私たちに良い働きを始められた方とはだれでしょう?救いを計画され、救いを与えてくださったのは父なる神です。でも、まだ、救いは完成していません。なぜなら、私たちはまだ、この地上で、滅びる肉体をまとっているからです。でも、キリスト・イエスの日、終わりの日まで、私たちの救いを完成してくださいます。途中、いろんなことがあっても、私たちはよみがえり、栄光のからだで、御国で生きるようになっているのです。私たちにとって、究極的な終わりとは、栄光のからだで、神さまの前に立つときです。たとえ、この地上でむざんな死に方をしても、向こうでは、よみがえり完全になるのです。
私たちは向こうでの完成を先取りして生きる必要があります。ジョエル・オスティーンは『完成する恵み』という、この地上における完成についてこうメッセージしています。物事を始めるのはそんなに努力はいりません。ダイエット、学校の勉強、家族を持つこと…。しかし、それらを完成するのは難しいことです。若い女性は子どもを持つことは易しいでしょうが、子どもを育てる母親になるのは簡単ではありません。誰でも夢を持つことはできますが、完成を見るまで、堅く決心し、耐え忍ばなければなりません。問題は、「始めますか?」ではなく、「完成するだろうか?」です。しかし、神さまは「信仰の創始者であり、完成者」です。神さまは始めるための恵みだけではなく、完成する恵みも与えてくださいます。あなたが失望落胆して、夢を諦めたくなったら、自分にこのように言いなさい。「私は諦めるために造られたのではない。私は夢を完成するために造られたのだ」と。失望落胆を払いのけなさい。自己憐憫を払いのけなさい。人が言ったことばを払いのけなさい。友よ、あなたは完成するための恵みを持っています。敗北について語るのをやめて、勝利を語るのです。「私はキリストによって何事でもできる。私には十分な知恵、賜物、創造力がある。私はこの道を通過できる」。あなたがこのように語るなら、あなた自身にできないことを、完成の恵みがあなたを助けてくれるでしょう。ピリピ1章16節の他の訳はこうです。「神があなたにflourishing finish栄えある完成を与えてくださいます。なんとか、かろうじてではなく、栄えある完成、だれもが想像したことがない完成が必ずやってきます。」
私は何をやっても三日坊主でした。中学1年のとき、トランペットが吹きたくでブラスバンド部にはいりました。しかし、トロンボーンに回されて、1週間でやめました。中学2年のとき、陸上部に入りましたが、走るのがきつくて、1週間でやめました。高校1年生のとき、ボクシング部に入りましたが、12月のデビュー戦で、TKOで敗けました。それで、やめてしまいました。そのため、劣等感に打ちひしがれた高校生活でした。高校卒業して、5年半で建設会社を辞めました。英語の仕事がしたかったからです。何とか小さな貿易会社に入れてもらいました。そこで、信仰を持ちました。それまでは、人生おもしろおかしく生きて行けば良いと思っていました。しかし、心の奥底に「人間は何のために生きているのだろう?」という問題がずっとありました。洗礼を受けた半年後、イエス様が「私が道であり、真理であり、いのちです」とおっしゃって下さり、小さくてもキリストの弟子になりたいと思いました。あれから、41年、信仰だけは長続きしています。他のものはすべて三日坊主で終わりましたが、信仰だけは継続しています。「何故なのかなー?」と不思議に思います。神学校に入って1年目のとき、ある教授がこのみことばを語ってくださいました。Ⅱテモテ2:13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」真実は英語で、faithful「信仰がいっぱい」と書きます。先生は「私たちが、信仰がなくても、キリストの真実、キリストの信仰が私たちを捕えて離さない」と教えてくださいました。ああ、そうなのか?私の信仰じゃなくて、キリストの信仰が私を支えておられるのか!」と感動しました。さらに、牧師になってからこのみことばが与えられました。Ⅰテモテ1:12「なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」「ああ、それだったら、お応えしたい」と思いました。
このように、信仰というのは自分で信じるという面だけではなく、「イエス様が私を信じて、捕えて離さない」という受身的な面もあるということです。実は、自分がやるという面よりも、あちらさんがやってくださる受身的な面が大事なのです。お母さん猿は、赤ちゃん猿をどのように移動させるでしょうか?赤ちゃん猿は、必死にお母さん猿に下からしがみついています。その状態で、木々を移動しています。ひょっとしたら、落ちるかもしれません。しかし、猫はどうでしょうか?クロネコ・ヤマトではありませんが、お母さん猫は、赤ちゃん猫をくわえて移動します。赤ちゃん猫は、ただじっとしているだけです。これだったら安心です。イザヤ書にそのことを表すみことばがあります。偶像の神は私たち人間、もしくは家畜が運ばなければなりません。一方、私たちの創造者である神さまは私たちを運んでくださいます。イザヤ46:3,4「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」「しらが」とは、私たちの人生の終わりです。主なる神さまは、私たちを背負い、運び、救い出してくださる生ける神さまだということです。私たちの神さまは、私たちを見捨てないで、救いを全うさせてくださる恵み深いお方です。
3.神さまにゆだねる
これまでは、神さまが私たちを完成してくださるという受身的なメッセージでした。しかし、私たちが成すべき分があることをイエス様がルカ14章で教えておられます。ルカ14:28-33「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」このところには、2つのたとえが話されています。第一は「塔を築こうとするときのことであり、もし塔が完成でなかったらどうなるか?」ということ。第二は「もし、勝てる見込みのない戦争はどうすべきか?」ということです。2つのたとえの教えの部分は「自分の財産全部を捨てなければならない」ということです。イエス様はこのたとえは、ご自分の弟子になることの条件として教えています。しかし、「信仰生活を完成する」あるいは「良い結末を迎える」ための私たちがなすべきことを教えている箇所でもあります。
最初のたとえは、塔の建築です。この人は、予算もたてずに、とにかく工事をし始めました。始めることは簡単です。しかし、途中、予算が足りないことに気付いたのでしょうか?基礎を築いただけで、上の部分ができなかったということです。人々は「この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった」とあざ笑うであろうということです。バブルの頃、日本は建築ブームでした。ところがバブルがはじけると、途中で建築がストップしたところがたくさんありました。しばらくの間、鉄骨が赤錆たままさらされていました。私も土木建築に携わったことがありますが、建築資材が高騰したとか、予定していた資金がストップしたということで中断した話を聞いたことがあります。初めが良かったけれど、終わりが悪かったということです。もう1つの例えは、戦争です。旧約聖書の列王記には南ユダと北イスラエルがさまざまな国と戦っている記事がたくさん記されています。イスラエルはとても小さな国なので、エジプト、アッシリア、アラムの侵略を度々受けました。生き残った南ユダはバビロンに滅ぼされてしまいました。ですから、戦争のたとえは、当時の人たちは良く理解できたと思います。ここでは、「向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか…もし、勝てる見込みがないなら、使者を送って講和を求めるでしょう」と言っています。しかし、これが「信仰生活を完成する」あるいは「良い結末を迎える」ことと何の関係があるのでしょうか?
結論を言いますと、自分の財産全部を捨てなければならないということです。塔の建築の予算がなければ神さまに頼むしかないということです。また、戦いに勝つためには神さまに頼むしかないということです。言いかえると、自分のいのちを神さまにささげて、その代り、それらのことを神さまにしていただくということです。なぜなら、父なる神さまこそ、私たちのスポンサーであり、最強の助け手だからです。ところが、私たちは自分に頼っているし、同時に神さまにも頼っています。心のどこかで、神さまは頼りにならない、最後は自分しかいないと思っているかもしれません。ヤコブはそういう人たちにこう述べています。ヤコブ1:6-8「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」イエス様は他の箇所で、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者は、それを見出すのです」(マタイ16:25)とおっしゃいました。何を言いたいのでしょう?建築の予算が足りなくても、完成するにはどうしたら良いでしょう?勝利の見込みのない戦いで、主の助けを得るためにはどうしたら良いでしょう?それは、自分のいのちを神さまに差し出すことです。自分のいのちを担保にするということです。それは、すべてを神さまにゆだねるということです。生殺与奪の権、「生かす」か「殺す」か、神さまにお任せするということです。そうすれば、神さまは「わかった」とおっしゃり、完成させて下さるということです。
タンカーや豪華客船などの大型の船が港に接岸する時があります。あのような大きな船は小回りがきかないので、自分ではダメなんです。港にはタグボートという小船があり、大きな船を導いてくれます。タグボートは大型船から、ロープを投げてもらい、それを引っ張ります。その時、言うことばがあります。Will you take over me?「私に引き継がせてくれますか?」という意味です。しかし、大型船が「お前だれだよ?俺のが大きいんだぜ。俺にもやらせろ」と言って、スクリューを動かして、半分しか任せないならどうでしょう?うまく接岸できません。私たちの自我は大型船のように強くて大きいのです。それが、神さまは私たちに自由意志を与えている証拠です。ですから、私たちの意思で神さまに「この先、お任せします」と願う必要があります。英語ではそのことをsurrender「降伏」と言ったり、yield「ゆだねる」と言ったりします。これが、「自分のいのちを捨てる」ということです。そうすると、神さまは「わかった」とおっしゃり、あなたの人生を完成へと必ず導いてくださいます。私たち自身の力では、完成することは無理なんです。ピリピ1:6 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」神さまがあなたにflourishing finish栄えある完成を与えてくださいます。イザヤ46:3,4「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」私たちの最後は、尻つぼみでは決してありません。神さまが忠実な私たちにいのちの冠を与え、豊かに報いてくださるからです。