人が罪を犯すと神さまとの交わりが途絶えてしまいます。同時に、2つのことが結果として生ずるでしょう。第一は社会的な刑罰と償いが生じます。第二は自分の中に罪責感と恥が生じます。きょうは、自分の中に存在する罪責感について共に考えたいと思います。罪責感は絶対者なる神が「あなたを赦す」とおっしゃったら、消えてなくなるものです。しかし、それでも、自分を責めるものがあるとしたなら、聖書的ではありません。なぜなら、神さまよりも、自分の見解を上位に置いているからです。
1.主が忘れて下さる
詩篇103:12 「東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」「遠く離される」は、ヘブル語の聖書では「取り去る」「遠くに移す」という意味があります。私たちの罪をどれくらい遠くに離してくださるのでしょうか?「東から西へ」あるいは「西から東へ」であります。当時の世界観では、地球はティンパニーのように半球でありました。地上は平らで、東と西は両端であり、決して交わることがありません。つまり、私たちの罪を完全に赦してくださるということです。ここで言われている罪は「ペシャ」という「そむきの罪」です。これは「反抗する」「意図的に犯す罪」です。簡単に言うと、悪いと分かっているのに犯す罪です。詩篇103篇の冒頭に「ダビデによる」という副題があります。ということは、ダビデが犯した、バテシバとの姦淫が背景にあるのではないかと想像できます。ダビデはそれが悪いことは百も承知でしたが、自分の欲望に負けてしまいました。さらには自分の罪を隠すために、殺人まで犯してしまいました。当時の律法にあてはめると、完全に死罪に当たる重い罪です。でも、ダビデは自分の罪を告白して赦されました。もし、自分が犯した罪がそばにあるならどうでしょうか?罪の呵責のため、夜はぐっすり眠れません。後悔のため、骨髄が干え上がってしまうでしょう。でも、主がそむきの罪を取り去り、遠くに離してくださいました。東が西から遠く離れているように、遠く離して下さったのです。主が忘れてくださったので、自分もその罪を忘れて良いということです。
Yesterdayというビートルズの有名な歌があります。でも、あの歌は聖書的ではありません。Yesterday, all my troubles seemed so far away. Now it looks as though they’re here to stay.
Oh, I believe in yesterday.「昨日は、はるか遠くに思えたこの苦しみが、今は、こんなに近くに居座っている。ああ、昨日、ぼくはあれほど信じていたのに」この歌は、昨日に生きている、とても後ろ向きな歌であることをご存じだったでしょうか?トラブルと罪は必ずしも同じではありません。でも、何かの失敗でそうなったとなれば、後悔と罪責がつきまとうでしょう。私も高校生のときの、失敗と罪が忘れられません。若い時というのは時間がゆっくり過ぎているようで、その時のことが、後半の人生に大きな影響を及ぼします。プラスの出来事は忘れ、マイナスの痛みが心にダメージを与えてしまいます。「ああ、しなればよかった。ああ、すれば良かったのになー」と思います。でも、タイム・マシンがないので、そのことをやり直すことはできません。Yesterdayのように、昨日の日のように、そこに居座っています。私たちの記憶というものは、幸いなことは忘れ、嫌だったことは覚えているものです。私は車を運転していて、警察官に捕まったことが何度もあります。日時は忘れても、どういう状況で捕まったか、克明に覚えています。どういう訳か、そこには笑い話のようなストーリがあり、思い出すだけでもイヤーになります。高校生時代のボクシングのデビュー戦で、TKOで敗れました。その後、学校に行ったり、行かなかったりしました。ある日、学校の帰りスーパーの万引きで捕まり、ボクシング部の面汚しになりました。学校の先生からも、犯罪者のように扱われました。罪の意識よりも、恥と嫌な思いが強かったように思います。罪責感と言うのは、向こうが「良いよ」と赦してくれたのに、「ああ、悪いことしたなー」と感じるものです。逆に、向こうがものすごく怒っていて、罰する態度に出たら、罪責感よりも、「くそー」という怒りが湧いてきます。とにかく、悪いことの方が記憶に残りやすいということは確かです。頭のどこかにこびりついていて、ふっと前触れもなく思い出すのです。一種のトラウマかもしれません。なぜなら、自分の意思ではどうしようもないからです。
でも、どうでしょうか?私たちの体には無数の傷があります。ある人は骨折をしたという人もいるでしょう。また、鋭利な刃物で切って、何針も縫ったということもあるでしょう。手足を良く見ると、子どもの時の傷跡を見つけることができます。顔の場合はけっこう厳しいです。でも、傷は治ると痛みがなくなります。傷跡は残りますが、痛みはありません。罪や失敗、トラブルにおいても、同じことが言えるのではないでしょうか?心の傷は、自然に治るものもあれば、長年、後を引くものもあります。このとき、信仰者は主のみことばを聞いて、痛みを取り去ることができます。これは信仰であり、主の恵みです。他の人にはない、信仰者の特権と言えるでしょう。なぜなら、最も権威のあるお方が私におっしゃるからです。ダビデは主のことばを聞いて、罪からくる過去の痛みが癒されたのではないでしょうか?詩篇103:10-12「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。天が地上はるかに高いように御恵みは主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。」アーメン。このところに「御恵みは主を恐れる者の上に大きい」とあります。旧約聖書には「主を恐れる」ということばが良く出てきます。主を恐れるとは、主が怖いという意味ではありません。主は大いなる方で、自分は小さいものであるということです。言いかえると「私は小さいものであり、主の権威に服します」ということです。つまり、「主が私の罪を赦し、私のそむきの罪を東から西へと遠く離される」とおっしゃったら、アーメンと服従することです。これは信仰であり、主の約束を文字通り、受け取るということです。すると、自分にへばりついている罪責感や恥、嫌な思いが離れ去るということです。もちろん、記憶は残るでしょう?でも、治った傷のようにもう痛みがありません。英語に「scar傷跡がstar星になった」という表現があります。傷跡が星になったのです。
2.主があわれんで下さる
第二は私たちの罪が赦されるための根拠についてお話ししたいと思います。神さまは義なるお方なので、罪を見過ごしにはできません。一片の罪でも裁かずにはおれないお方です。犯した罪に対しては必ず刑罰が伴うというのは聖書が一貫して教えていることです。旧約聖書では罪を犯した者に対する「あわれみ」ということばが良く出てきます。詩篇103:8「【主】はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。」とあります。さらに、詩篇103:13「父がその子をあわれむように【主】はご自分を恐れる者をあわれまれる。」「あわれむ」はヘブル語で、「ラーハム」です。「愛する」「あわれむ」「可哀そうに思う」という意味があります。しかし、おかしいです。義なる神は罪に対して、寛容になったのでしょうか?寛容になったわけではありませんが、神さまのもう1つのご性質は、愛であり、あわれみです。一方では義なるお方であり、他方では愛なるお方、この両面を持っておられます。しかし、相反するご性質を1つの人格の中に持つことが可能なのでしょうか?不可能です。ちなみにイスラム教の神、「アッラー」には、愛とかあわれみは存在しません。あるのは、義であり、罪に対するさばきだけです。イスラムの過激派グループがジハードというテロを度々行います。彼らには彼らなりの道理があるのでしょうが、そこには愛とかあわれみは存在しません。彼らはコーランによって、聖書を解釈しているので、どうしても愛のない神さまになってしまうのです。私たちはイエス・キリストの贖いを通して、聖書を解釈するので、神さまは義であり、そして愛なる神さまであることが分かるのです。
私は主があわれむ、つまり主が罪を赦してくださるためには、罪の贖いが背後にあるからだと信じます。旧約聖書には動物を殺して、血を流すことによって罪を赦すという思想に満ちています。本来なら、自分が死ぬことによって、罪の代価を支払うのですが、自分の代わりに動物を差し出すのです。人は祭司の前で、自分の手を動物の額に置きます。祭司は、その動物を受け取り、殺して、祭壇に血を注ぐのです。つまり、自分の罪の身代わりとして動物が死ぬ、そのことによって自分の罪が赦されるということです。年に一度、イスラエル全体の罪を贖う、「贖罪の日」というのがありました。大祭司がいけにえの血をたずさえ、至聖所に入ります。至聖所には「あかしの箱」が安置されていました。あかしの箱の蓋は純金でできており、「贖罪蓋(しょくざいがい)」あるいは「贖罪所」と言われています。左右に純金でできたケルビムが羽を広げて、お互いが中央を見ています。大祭司は「贖いの蓋」の上の前に血を振りかけます。その後、一頭のやぎをほふってささげます。もう一頭のやぎの頭に手を置いて、イスラエルの罪と咎を告白します。そして、そのやぎを荒野に放ちます。咎を負ったやぎは戻って来ません。詩篇103篇の「そむきの罪を私たちから遠く離される」と同じです。新約聖書のヘブル人への手紙9章には「贖罪蓋」として、出てきます。「やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブル9:12)と書いてあります。つまり、イエス・キリストによって贖いが完了したということです。
高木慶太師が『信じるだけで救われるか』という本を書きました。その本に「なだめ」ということが書かれていました。少し、その本から引用いたします。Ⅰヨハネ2:2「この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。」ここで「なだめ」と訳されているギリシャ語は、他の箇所では「あわれみ」と訳されている。すなわち、キリストの十字架の贖いによって神の義の要求が完全に満足させられたため、神は、信仰をもってご自分のもとに来るどんな罪人をもあわれみをもって赦されるのである。神がこのようにあわれみ深いのは、とりもなおさず、キリストがなだめの供え物になられたゆえなのである。神がすでに満足されており、あわれみ深いゆえ、今の「恵みの時代」において、人は救われるために、神から何とかあわれみを引き出そうとする必要はないのである。あるときキリストは、「取税人とパリサイ人」の話をされた(ルカ18:9-14)。その中で、取税人は「罪人の私をあわれんでください」と祈ったが、この「あわれみ」は「なだめ」というギリシャ語であり、彼の祈りを正確に訳すと、「神よ、罪人の私になだめを与えて下さい」である。キリストが十字架にかかる以前の律法の時代には、人は神のあわれみを請う必要があった。しかしキリストが十字架で「なだめの供え物」となられたあとの時代においては、「私をあわれんでください」と祈ることは、厳密に言えば必要ないことである。神はすでにあわれみ深いお方であり、あわれんでいてくださるからである。アーメン。
Ⅰヨハネ2章から引用した「なだめの供え物」ですが、ローマ3章にも出てきます。ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。」「なだめの供え物」がギリシャ語でヒラステーリオンです。このことばは、ヘブル語の「贖罪所」から来たものです。少し前にお話ししましたが、契約の箱の上を被う、純金の蓋です。贖罪日に、この上に贖いの血が注がれました。つまり、「主のあわれみ」は「なだめの供え物」と深い関係があるということです。義なる神さまが私たちの罪を赦すのは、純金の蓋に注がれた血のゆえです。つまり、主のあわれみは、ただ罪人をあわれむというのではなく、なだめの供え物である、血を見ることよって、罪を見逃すということです。恥ずかしい話ですが、高校生のとき、万引きをして捕まりました。その時、「品物を返すから言いだろう」と言いました。しかし、赦してもらえず、警察官がやってきました。つまり、罪を見逃してくれませんでした。今になると、それは、それで良かったと思います。でも、恥と罪責感は残りました。聖書で、義なる神さまがキリストのなだめの供え物のゆえに赦すとおっしゃっています。言いかえると、主が私をあわれみ、罪を見逃してくれたということです。本当は罪を犯したという事実はあります。でも、キリストの血によって覆われて、もう見えなくなったということです。私たちの罪が赦される根拠があります。それは、義なる神さまが、キリストの身代わりの死によって怒りがなだめられ、私たちに対してあわれんでくださるということです。
3.主が良心きよめて下さる
主が赦してくださったのに、私たちの心に罪責感と恥が残る場合があります。本来なら、絶対者なる神さまが「あなたの罪は赦された」と宣言してくださるなら、「アーメン」と受け止めると良いのです。それなのに、まだ自分を責めたり、恥じたりするならば、神さまよりも自分を上に置いているということになります。でも、なぜ、そのようなことが起るのでしょうか?第二のポイントでも引用しましたが、ヘブル人への手紙には「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)と書いてあります。キリストの血は罪の赦しのためのものです。神学的には「キリストの血によって犯した罪がきよめられた」と言います。でも、キリストの血によって、もう1つきよめられなければならないものがあります。それは私たちの良心です。良心とは元来良いものであるはずです。良心は心の奥深いところに存在しており、私たちの罪を訴える働きをします。キリストを信じると私たちは霊的に生まれ変わり、この良心が霊の一部として復活します。ところが、私たちは生まれた時から、魂の一部に良心が存在しています。しかし、この生まれつきの良心は不完全です。なぜなら、親からの躾(しつけ)、世の中の道徳律、自分の悪い行いによって、ゆがんでいます。生まれつきの良心は悪いことをすると、だんだん鈍くなり、感じなくなります。そして、ある人にとっては問題がなくても、ある人にとっては罪となります。そのために、法律が必要となります。でも、世の中の法律は神の律法のように絶対的ではありません。時代によって、国によって違います。もし、生まれつきの良心に従って生きるなら、大変なことになるでしょう。問題になるのは、罪の赦しに対して、生まれつきの良心が反抗することです。そのことに対する解決がヘブル人への手紙に書かれています・
ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』という本でこのように述べています。「ヘブル人への手紙10章には、確かに心に関連して、血のきよめの働きに関することが書かれていますが、それは良心と関係しています。邪悪な良心は、神と私自身の間にある障害物を絶えず私に思い起こさせます。しかし今や、キリストの尊い血の働きによって、神の御前に新しいことがなされ、その結果障害物が取り除かれました。神はこの事実を御言葉をもって私に知らせてくださったのです。そのことが信じられた時に、私の良心は直ちに清められ、罪責感は取り除かれます。そして私は、神に対して、もはや良心のとがめをもたないのです。」アーメン。私たちは時々、自分は神さまの所に近づくことができないと思う時があります。「今朝、家の者とちょっとしたいざこざがあった。そのため憂鬱な気持ちで一日を始めた。心の中があまりすっきりしない。どこかがうまくいってないに違いない。だから神に近づくことができない」とか言うのです。あるいは、「今日は聖書を読んだし、祈ることもできた。一日、罪を犯さないように気をつけた。だから神さまに近づくことができる」とか言うのです。神さまに近づく根拠は、一体どこにあるのでしょう?私たちの行いや思いが正しくなければだめなのでしょうか?私たちの行いや感情によって、神さまに近づけたり、近づかなかったりするのでしょうか?そんなことはありません。神さまはキリストが、流された血をごらんになって、満足しておられるのです。キリストの血には変化がありません。私たちが神さまに近づくことのできる根拠は、キリストの血です。私たちの行いとか、感情ではありません。また、サタンがどんなに私たちを訴えることがあっても、私たちにはキリストが流された血があることを忘れないように。神さまが私たちの味方であるなら、どんな被造物も私たちを訴えることができないからです。ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」アーメン。
私たちはこのように礼拝において神さまに近づいています。私たちの良い行いが基盤であるなら、遠い存在になったりします。どうぞ、私たちの行いに基盤を置かないでください。私たちは、キリストの流された血を通して、神の御座に大胆に近づけるのです。近年の教会はキリストの血をあまり言わなくなりました。残酷だとか、気持ち悪いとか言います。その代わり、自分たちのきよさに重点が置かれるようになりました。キリスト教信仰がとても、スマートで美しくなりました。その代り、大胆さも力がありません。本当の謙遜さは自分には罪があることを知ることではありません。それは偽の謙遜さ、宗教的な謙遜さです。私たちはキリストの血を強調することを恐れてはいけません。キリストの血は義なる神さまを満足させました。キリストの血は私たちの邪悪な良心をきよめてくださいました。そして、キリストの血は私たちの罪を訴えるサタンを追い払うことができます。罪責感は宗教には必要と思われていますが、それは間違っています。主が忘れてくださった罪を掘り起こすことほど愚かなことはありません。主が忘れて下さったのですから、私たちも忘れて良いのです。私たちは既に赦しと平安の中にいます。もちろん、日常的に犯す個々の罪はあります。しかし、それらも含めて、キリストは十字架で代価を支払ってくださいました。前払いしてくださったのです。私たちの犯すであろう、一生分の罪が前払いされていると考えて間違いありません。新約聖書から「大胆」ということばをいくつか引用して終えたいと思います。エペソ3:12「キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」ヘブル4:16「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」ヘブル10:19「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」Ⅰヨハネ3:21,22「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。」Ⅰヨハネ4:17「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。」アーメン。