私は「自己れんぴん」と、長い間、そう読んでいました。しかし、「自己れんびん」が正しかったのですね。自己憐憫は、その字のごとく、自分を哀れむということです。でも、だれも自分を哀れでくれないなら、自分が自分を哀れむしかないでしょう。「自分の傷をなめる」と馬鹿にした言い方があります。でも、私たちは指などを切ったとき、傷口をなめるのではないでしょうか?
1.自己憐憫とは
自己憐憫は英語でself-pityと言いますが、直訳すると「自分を気の毒に思う、自分を哀れむ」ということです。しかし、多くの人たちは自分が自己憐憫に陥っていることを自覚していません。自己憐憫に陥った人は、どのように考え、どのような見方をするのでしょうか?たとえば、「自分は偉いなー」と思うことがあるでしょうか?そして、「よくやっているよ」と慰めてあげたいでしょうか?生き残るためには「そんなことぐらい気にするな」という思いがあるでしょうか?あるいは、自分ばかりが悪く見られるという、被害者意識が強いでしょうか?何かのことで批判されると、ダメージが大きくて、すぐ立ち直れないでしょうか?日本人にはこういうタイプが多いのではないかと思います。でも、自分を慰め、自分を励まして、なんとか生きている…。昔の自分がまさしくそうでした。今もそういうところがあるかもしれません。歌手の中島みゆきを好きな人には申し訳ないですが、どうしてあのように重たいのでしょうか?自己憐憫をたたえているように思えてなりません。私は、昔、「サントワマミー」が私の持ち歌でした。その歌詞の内容が悲しいですね。「二人の恋は終わったのね。許してさえくれない貴方。さようならと顔も見ないで去っていた男の心…悲しくて目の前が暗くなるサントワマミー。」「何という歌を歌っていなのかなー」と自分でも不思議です。よく、「自分へのご褒美」という人がいますが、裏返しには、自己憐憫があるかもしれません。
では、自己憐憫がなぜ悪いのでしょう?「悪い」という言い方も一方的で語弊がありますが、お許しください。自己憐憫の人は神さまではなく、自分の不幸に目をとめています。この世において、人間だれにも不幸にみまわれます。これは世の常です。イエス様も「この世では患難がある」とおっしゃいました。しかし、神さまはその不幸を乗り越えて、さらに強くなって、ご自分の運命を果たすように願っておられます。しかし、自己憐憫の人は人や神さまを恨んで、被害者としてそこに座り込んでしまいます。すばらしいアイデアや脱出の道が用意されているにも関わらず、前に進もうとしません。逆に、今与えられている場所や人たちを離れて孤立してしまいます。そして、せっかくのチャンスを逸してしまうのです。私は牧師としてそういう人たちを何人も見てきました。「賜物や能力があるのに、本当に惜しいなー」と思いました。確かに、不当な扱いを受けたり、ひどいことをされて、憤慨する理由はあるかもしれません。でも、そこでふんばって耐えることができません。「ぷい」と怒って、その場を去り、戻って来ません。こういう私も、「関係遮断というのをいくつもやってきたなー」と反省しています。一生懸命やった奉仕が報いられなかった。プライドを傷つけられた時は、「もう、やめた」ということが何度かありました。もちろん、クリスチャンですから、耐え忍ぶ精神はあります。でも、主の御名で、それが行われている場合は、「許せない」ということがありました。でも、私がしょげて伏して祈ると、イエス様がいつもお声をかけて励ましてくれました。このことは次のポイントでお話しいたします。
でも、自己憐憫の人、被害者意識の強い人は、どうしても暗い人生を歩みがちです。たとえば、磁石をひもでつるして歩くと、釘とか砂鉄がくっついてきます。それと同じように、自己憐憫の人には、不幸な出来事、不当な扱い、いやなことが訪れ易いということはあると思います。なぜなら、「どうせ私はひどい扱いを受ける」と期待しているからです。1つイヤなことが起ると、「やっぱりなー」となり、2つ目になると「いつもそうなんだ」とつぶやくでしょう。客観的には、良いこともあるのに、どうしても悪いことを数えたがるのです。そうやって、「自分は可哀そうだ。不幸な人だと」といじけてしまうのです。テレビに「ヒロシです!」と、つぶやく人がいますが、自虐的で自己憐憫の典型みたいです。旧約聖書ではエレミヤがそのような性格をしていました。彼は最も悪い時代に召された預言者です。ユダ王国がまもなくバビロンによって滅ぼされようとしている時でした。エレミヤは「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを」(エレミヤ9:1)と叫びました。エレミヤは「主のさばきを受けて、バビロンに捕えられて行くなら平安を得る」と主のメッセージをストレートに伝えました。しかし、ユダの王は優柔不断な人で、エレミヤよりも、祭司や高官たちの意見を聞きました。だれもエレミヤの言うことに耳を貸そうとしません。エレミヤは監禁されたり、空井戸に落とされました。彼は「もう、主の御名によっては語るもんか!」と誓いました。しかし、主の召命と賜物は変わることがありません。エレミヤはこのように告白しました。エレミヤ20:9「私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」
もし私が、「エレミヤは自己憐憫に陥っていた」と言うなら、「そうじゃない」と反発する人もおられるかもしれません。私が言いたいのは、どんなに強い人であっても、自己憐憫に陥ってしまうような時があるということです。問題なのは、そこに座り込んで、立ち上がって、前に行こうとしない人です。最愛の子どもが事故か事件に巻き込まれて亡くなったというニュースを聞くときがあります。ご両親は悲しみにふけり、「いつかひょっこり帰ってくるんじゃないだろうか」と部屋も片付けないで待っています。毎日、子どもの写真を見て泣いています。もちろん、私に同じようなことが起きたなら、そう簡単には立ち直れないでしょう。自分が経験したことのないことをどうこう言うのは失礼かもしれません。ヨブは全財産と10人の子どもを一瞬にして失いました。そのとき、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と、神さまに愚痴をこぼしませんでした。その時は信仰によって立派に告白しました。でも、数日たってから、ヨブは自分の生まれた日を呪いました。私は生まれてこなければ良かったと言ったのです。これが人間です。ヨブは半年以上、悶々と苦しみました。友人たちは、「何か罪を犯したからだろう」とよってたかって、ヨブを責め続けました。ヨブはせっかく神さまに明け渡そうとしていたのに、底に沈んでいた怒りがこみあげてきました。でも、最終的には主がヨブに現れて下さいました。財産が二倍に返され、子どもも10人与えられ、長い生きしました。詩篇を見ると、自己憐憫に陥っているとしか思えない記事があります。詩篇102:3-7「私の日は煙の中に尽き果て私の骨は炉のように燃えているのです。私の心は青菜のように打たれてしおれパンを食べることさえ忘れました。私の嘆きの声で私の骨は肉に溶けてしまいました。私はまるで荒野のみみずく廃墟のふくろうのようです。私は眠ることもできず屋根の上のはぐれた鳥のようになりました。」(2017新改訳)「はぐれた鳥」は、口語訳は「すずめ」となっています。英語の詳訳聖書は「屋根の上に取り残された、ひとりぼっちのすずめ」となっています。孤独と自己憐憫は隣り合わせのような感じがします。
前半のメッセージで言いたいことは、だれでも自己憐憫に陥ることはあるということです。問題は、そこに留まり続け、立ち上がって、前に進もうとしないことです。一度、自己憐憫に陥ると、のりがべったりくっついたように立ち上がれなくなります。まるで催眠術にかかったように、動けなくなるのです。自己憐憫とは関係ないかもしれませんが、昔は朝、床から出られないときがありました。朝、どうしても「もう少し寝ていたい」と思います。でも、どういう訳か意思が働きません。体も動こうとしません。そのときに、すばらしい解決策を発見しました。そのまま、祈りました。「主よ、起きたくありません。もっと眠っていたいです。でも、新しい朝を感謝します。…」と祈っていると、自動的に体がふとんから出て、立ち上がっています。メカニズムは分かりませんが、意識を自分のことから、神さまに向けると、呪縛から解放されるようです。このことは、後半のメッセージで語りたいと思います。自己憐憫に陥りやすい人というのは、子どものときに両親からありのままを受け入れてもらえなかったのではないでしょうか?親はしつけのつもりで、「甘やかしてはいけない」ときびしく当たったかもしれせん。子どもの方は、愛されていない、自分の存在が悪いんだと思います。いつの間にか、本音をかくして、良い子を演じるようになります。拒食症やリストカットがありますが、あれも自己憐憫のあらわれかもしれません。「可哀そうだと思ってもらいたい」「心配してもらいたい」という満たされない要求があるのではないでしょうか。私たち人間は、造り主から離れたために、孤独と自己憐憫、せつない気持ちが生まれつき宿っているのではないかと思います。ある人は、自然に乗り越えて、日常生活を送っています。しかし、ある人は、低空飛行をしているプロペラ機のように、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりながらよくやく飛んでいます。「私はひとりぼっちだ。こんなにひどく傷ついているのに、だれも助けてくれない」と叫んでいます。神から離れた、生身の人間には、自己憐憫に陥ることがあります。でも、そこに座っていてはいけません。立ち上がって、前に進むべきです。
2.自己憐憫からの解放
はっきり言って自己憐憫は罪です。何故、罪かと言うと、神さまではなく、自分の不幸ばかり見ているからです。私たちは自分を可哀そうだと思うときがどうしてもあります。人からひどい扱いを受けたり、報いられなかったり、馬鹿にされたときは特にそうでしょう。もし、子どものときに十分に両親から愛されて、自分のアイディンティテイが確立していたなら、すぐに立ちなおることはできます。でも、なかなか、そのような環境で育った子どもはいません。「私を愛して!」「私を認めて!」「私を無視しないで!」と心の中で叫んでいます。自己憐憫は罪だけではありません。心の傷に悪霊がやってきます。あなたの意思が麻痺して動かなくなるのは、悪霊が麻酔を打ったからでしょう。自己憐憫の背後に、悪霊が働いていることは間違いありません。また、悪魔は霊的な音波を送り、破壊的なことをするようにあなたを誘惑します。親しい人たちの関係を断ち切るように。今までの行いを全部チャラにするように。だれ一人信用せず、心を閉ざして自分の殻に閉じこもるように誘惑します。そのため、自己憐憫と孤独とは双子の兄弟と言えるでしょう。悪魔にやられている証拠は、破壊的なことが喜びになるのです。これまでやってきたこと、信用、人間関係も全部壊してしまうことが喜びになります。でも、その喜びは一時的なものであり、後から空しさが襲います。破壊して、全部失ったあとの空しさです。まさしく、それは悪魔のわざです。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」私は座間では教会主事、亀有では牧師を長い間務めてまいりました。あることでぷっつんして、全部を捨てて、教会から去っていった兄弟姉妹が何人も見てきました。「せっかく、すばらしい賜物と才能が与えられているのにもったいないなー」と思いました。それよりも、彼らがやがて神さまの前に立ったとき、どのように弁明するのかが心配です。1タラントを地に隠したしもべのように叱られるのではないかと思っています。
では、どのように自己憐憫から解放されるのでしょうか?第一は、自分に自己憐憫の罪があることを認めることです。神さまからではなく、自分が自分を慰めているのは罪です。偶像礼拝です。自分が受けた傷、不当な扱い、可哀そうな思い、犠牲者精神…それは偶像と言えるでしょう。偶像には貢物が必要です。あなたの時間、エネルギー、信用、業績、情熱、人生…全部、捧げなければなりません。度を越して自分を慰め、自分を可愛がるのは、わりがあわないことです。十戒の第二番目は「偶像礼拝の罪」です。出エジプト20:3「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」ヘブル語の直訳は、「あなたは、私の顔の前に、他の神々を置いてはならない」です。これはどういう意味でしょう?神さまはあなたに、ご自分だけを見てほしいのです。なぜなら、ねたむほどあなたを愛しているからです。ところが、神さまとあなたの間に、偶像があります。あなたは本当の神さまではなく、偶像を見て、それを拝んでいます。偶像が邪魔して、本当の神さまが見えません。偶像はいろいろな神さまの像ですが、その中にあなた自身の像もあります。あなたは神さまよりも自分を礼拝していることになります。これが自己憐憫の姿です。本当は、自分を捨てて、唯一まことの神さまを見なければなりません。だからイエス様も「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)と言われたのです。イエス様さまよりも、自分自身に執着するのは罪だということです。「自分が可哀そうだ」「自分はみじめだ」という思いを十字架につけて葬り去りましょう。いいんです。自分はどうなっても。「どうしても満たされたい」「どうしても慰められたい」という自分に死ぬなら、神さまご自身があなたを慰め、あなたを満たしてくださるでしょう。しかし、その前にあなたはそういう自分に死ぬ必要があります。大丈夫です。ただ十字架を負いましょう。そうすれば、十字架があなたを死なせてくれます。
第二は、人からでもなく、自分自身からでもなく、神さまからだけ慰めを得るということです。それでは一体だれが、自分を慰め、自分のことを分かってくれるのでしょうか?マタイ5:4 「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」とあります。誰が、慰めてくれるのでしょうか?それは人となられた神であるイエス・キリストです。イエス様があなたの涙のもとを知り、あなたを慰めてくださいます。黙示録21:4「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」と書いてあります。ヨハネ黙示録は聖書の一番最後の書物です。それは、死後、私たちが神さまの前に立ったとき完成されることです。言いかえると、この地上では全部、目の涙が拭い去られることはないということです。「どうしてなんだろう!」「どうしてあんなことが起ったんだろう」という疑問が残ります。でも、やがて神さまの前に立ったとき、神さまご自身が、私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。その時まで、文句を言おうかと思ったけど、「ああ、そうだったのか」と分かるのです。私は信仰生活40年で神さまの声を聞いたことが3回あります。一度目は洗礼を受けた日に献金袋で躓きました。アパート帰って633mlのビールを飲み干して寝ていたときです。雷鳴のような轟が津波のように足元から押し寄せ、がばっと起きて、畳にひれ伏しました。体の震えが止まりませんでした。二回目は座間キリスト教会で、礼拝の直前、「鈴木兄弟ではなく、田中兄弟に証をしてもらうから」と言われたときです。悲しさと怒りがこみあげて、後ろに座っていました。「ふざけんな!」と立ち上がって叫ぼうと思いました。そのとき、イエス様がはっきり分かる声で「お前は、だれのために証をするのか」と言われました。私はその場に、泣き崩れました。三回目は、亀有に来てからです。ある年、リバイバルなんとかが武道館で大宣教大会を開きました。そのとき、「小会場で弟子訓練について話してくれないか」というオファーがありました。「すごい!」と喜んで準備をしていました。ところが私の留守中に、「他の先生にやってもらうことになった」という電話があったことを家内から聞きました。その日は、土曜日であり、「なんて、ひどいことを!」と悔しくて、悔しくて、説教の準備ができなくなりました。午前2時、椅子にひれ伏して泣き言を言っていました。その時、イエス様が「私も残念に思うよ。むしろ、お前にやってもらいたかった」と言われました。「え?そうなの?」と私はその場に立ち上がりました。それまでの、悲しみや憤りが一瞬にして消え去りました。主は今も生きておられ、私たちにお声をかけてくださり、慰め、励ましてくださいます。主の御声を聞くなら、一瞬にして、自己憐憫も消え去ります。
第三は、傷にくっついている悪霊を追い出すということです。これは自分がだれであるか告白すると、簡単に悪霊は離れ去ります。なぜなら悪霊との戦いは真理による戦いだからです。あなたは欺かれてきました。自分を分かってくれる人はこの世界に誰もいない、自分しかいないと。たとえ、あなたの父と母がそうであっても、まことの神さまは違います。イザヤ49:15,16 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」このことばは何を意味しているでしょうか?母親が子どもを最も愛する存在であり、その時に、基本的信頼感が生まれるということです。でも、その母親から捨てられたり、無視されるとどうでしょう?基本的信頼感を持たない子どもとして成長していきます。がんばって他のもので埋めようとしても無理です。拒食症、リストカット、そして自己憐憫に陥りやすい人は、母親との関係が希薄な人ではなかったかと推測します。最初に受け止めてくれるはずのお母さんから、疎外されてしまった子どもは、一体、何を頼れば良いのでしょうか?自分は裏切られたという考えがあります。そこに悪霊がやってくるのです。悪霊は偽物の慰めを与えようとします。それが、拒食症、リストカット、自己憐憫です。あまり期待はしていませんが、心の奥底ではだれかから同情されたいのです。人からの慰めや同情は「これで良い」というものがありません。なぜなら、その人は心から人々を信用していないからです。いつかは自分を裏切って、捨ててしまうと思っているからです。ですから、人ではなく神さまご自身の慰めとあわれみが必要なのです。悪魔が与える偽物ではなく、本物の慰め、本物のあわれみがあります。
第四は神さまの愛とあわれみに満たされるということです。エレミヤ31:3「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」永遠の愛とは、「いつまでも変わらない愛」という意味です。人間の愛は、これっきりの愛です。昔、「これっきり、これっきり、これっきりーですか」という歌がありました。人間の愛には限界があります。それはあなたの父親、母親も含めてです。でも、父なる神さまの愛は永遠の愛です。エレミヤは暗黒の時代に神さまから預言者として召されました。誰一人、彼の預言を受け入れてくれませんでした。エレミヤは主の預言のごとく、エルサレム神殿が火で焼かれ、人々が殺されるところを目撃しました。でも、エレミヤは神さまの永遠の愛によってささえられていました。「あの時、神さまはエレミヤを通して警告していたよ」という事実が重要だったのです。どんな人に最も神さまの愛とあわれみが注がれるでしょう?それは、愛されて満たされて育った人ではありません。ひどい扱いを受けて、ちっとも報いられず、貧乏くじを引かされたような人です。そういうに人こそ、最も神さまの愛とあわれみが注がれるのです。