2020.4.5「十字架のなやみ ルカ23:13-25」

安息日はヘブル語で「シャバース」と言いますが、そこには2つの意味があります。第一は休むということです。第二は祝うという意味です。この2つが絡み合っているわけです。私たちはこの世でべったりと生活しています。特に今は新型コロナウィルスの情報でいっぱいです。でも、一旦、私たちは天からそのことを見下ろす必要があります。そのためには、休み、祝う必要があります。イエス様は「ふたりでも三人でも、私の名において集まる所には、私もその中にいるからです」(マタイ18:20)とおっしゃいました。今週は受難週で、来週の日曜日はイースター(復活祭)です。復活の前には十字架を語る必要があります。

1.ピラト

 ピラトはローマの総督であり、ユダヤの地方を治めていました。ユダヤ人は非常に扱いにくくて頑固なので、総督と民衆との間にヘロデ王を置いていました。ですから、イエス様への裁判は非常に複雑でした。最初はサンヒドリン議会、つまりユダヤ人によってイエス様は裁かれました。なんと、真夜中、非公式に裁判が開かれました。彼らは最初から、死刑にすることを決めていたのです。罪状は、自分を神としたという「冒瀆罪」でした。しかし、イスラエルはローマの属国だったので、冒瀆罪では死刑にできません。そのため、今度は罪状をカイザルに背く罪、反逆罪にすりかえたのです。第二はピラトにおける裁判です。でも、ピラトはイエスに罪が見つからないので、ヘロデのところに送りました。イエス様はヘロデの前ではひとことも答えませんでした。しょうがないので、ピラトは人々の前にイエス様を差し出してこう言いました。ルカ23:14「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」ここではっきりしていることは、イエス様には彼らが訴えているような罪は何も見つからないということです。人々はそれでも「十字架だ。十字架につけろ」と叫びました。ルカ23:22しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」

 私たちはこのところから2つのことを知ることができます。第一に、ピラトにはイエス様には罪がないということが分かっていたということです。そして、ピラトは何とか、イエス様を許そうとして、「バラバとどっちが良い」と選択肢まで与えました。バラバは暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者です。民衆は、とても危険な人物を釈放させ、罪のないイエス様を十字架につけるように要求しました。これにはピラトも何もできませんでした。第二は、ピラトは妥協策を提示しました。「あの人には死罪に当たる罪は何もみつかりません。だから私は、懲らしめた上で釈放します。」と15節と22節で、少なくとも2度言いました。でも、どうして、罪がないのに、懲らしめる必要があるのでしょうか?罪がなかったなら、そのまま釈放すれば良いはずでしょう。おそらく、ピラトはユダヤの気に入るようにしたいという下心があったのでしょう。しかし、それがかえって裏目に出て、民衆は「十字架につけろ」とあくまでも要求したのです。こう考えるとピラトはやっぱり優柔不断な人だと言わざるを得ません。彼にはローマ総督として、そのような権限があったからです。でも、なぜ、彼ははっきりとイエス様を無罪として解放しなかったのでしょう?マタイ27章にはこのようなことが記されています。マタイ27:19また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しい目に会いましたから。」何と言うことでしょう?ピラトの妻が夢の中で「イエス様のことで苦しい目に会った」という理由からでした。どんな夢だったのか分かりませんが、イエス様に関わると厄介なことになると思ったのでしょう。「さわらぬ神にたたりなし」と言いますが、そのことと似ています。ピラトは最終的にどうしたでしょう?マタイ27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」無関心も1つの罪と言えるのではないでしょうか?この世には宗教には関わらない。神を信じるとえらいことになるから、「キリスト教のことは私に話さないで!」と拒絶する人がたくさんいます。ピラトとピラトの妻と同じ無関心の罪です。

 でも、ピラト以上に権限のある方がいることをイエス様が証言しています。ピラトが「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを知らないのですか」と言いました。これに対してイエス様は「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです」(ヨハネ19:11)と答えられました。ピラトはこの世の権威を象徴しています。当時はローマ世界を治めていました。でも、ローマの上には神さまがおられるということです。つまり、ピラトがイエス様を十字架刑に処したのではなく、父なる神さまがそれを許したということです。ピラトは無関心の罪でありましたが、イエス様を引渡した者は、もっと大きな罪があるということです。ユダヤ人はイエス様を直接的に十字架刑に渡したからです。第一のポイントで学ぶことは、イエス様は歴史上、ローマのもとで十字架につけられたということです。私たちは世界史を学校で学びますが、この程度だと思います。クリスチャンでない人たちでも、一般常識として知っていると思います。でも、私たちはこのことを信仰によって受け止めるべきです。イエス様が最も醜悪で残酷な十字架につけられたのは、父なる神さまがそれを許されたからです。このところから理解すべきことは、罪というものがそれほど醜悪で残酷であり、御子イエスを十字架に死なせる力があるということです。罪の恐ろしさを知らないと、罪の赦しがどんなにすばらしいことか知ることができません。

2.人々

 人々というのは、祭司長たちと指導者たちと民衆です。ヨハネ福音書は「ユダヤ人」とひとくくりに表現しています。祭司長たちや指導者たちは、民衆を扇動していたに違いありません。民衆のほとんどはエルサレムに住む人たちであり、1週間前は「ホザナ、ホザナ」とイエス様を歓迎していました。ところが、この変容ぶりであります。その中にガリラヤから着いてきた弟子たちと婦人たちがいたと思われますが全く無力でありました。ピラトが人々にイエス様を釈放しようと数回呼びかけました。ところが、気が狂ったように「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けました。何かに憑かれたかのように、「十字架だ。十字架につけろ」と連呼するのであります。イエス様が十字架につけられると、今度は「今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」(マタイ27:42)とイエス様をあざけりました。イエス様と一緒に十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエス様をののしりました。ふんだり蹴ったりとはこのことです。十字架だけでもものすごい苦しみなのに、人々からののしられ、あざけられ、精神的にも苦しみを受けました。

本日の題名は「十字架の悩み」ですが、これは聖歌402「丘にたてるあらけずりの」くりかえしの部分からです。「十字架のなやみは、わが罪のためなり」です。でも、なんで悩みなのでしょうか?悩みと言うのは一般に、思い苦しむこと、思いわずらうことです。英語の賛美歌を見てみましたが、全くそのようなことばはありませんでした。ただし、3節にon that old cross Jesus suffered and died, to pardon and sanctify me.「イエスは十字架で苦しみ、死にました。私を赦してきよめるために」とあります。一番重要なのは、「私のため苦しみ、死なれた」ということです。でも、これはイエス様を信じて、回心して、初めて分かることです。そんな簡単に、イエス様の十字架が私のためであったなどとは信じられません。もっと重要なことは、もし、「私があの人たちの中にいたらどうしただろうか?」ということです。ツィンツェンドルフと言えば、ドイツの敬虔主義の指導者です。彼が青年の頃、十字架の夢を見たそうです。イエスさまが十字架にかけられていました。一人の青年がハンマーを片手に十字架に上りました。「何と勇敢なんだろう。彼はイエス様の釘を抜こうとしているんだな」と思いました。ところが、青年は持っているハンマーでイエス様がかかっている釘をさらに打ち付けたそうです。「何をしているんだ、やめろ!」と夢の中で叫びました。青年がこちらを見て、にやりと笑いました。なんと青年の顔は自分自身であったということです。彼は後で、イエス様の十字架の絵を見て、すべてを捧げて従いました。もし、私たちが2000年前、あの群衆の中にいたなら、おそらく、同じように「十字架だ。十字架につけろ」と叫んでいたのではないでしょうか?

 では、なぜ、そんなことが言えるのでしょうか?ヨハネ1章にこのようなみことばがあります。ヨハネ1:9-11「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」文脈的には、「ご自分の民」というのは、イスラエルであり、ユダヤ人であります。でも、私たち日本人と共通しているところがあります。第一は「世はこの方を知らなかった」とあります。世というのは、世の中の人であり、神に背いている人たちのことを指しています。つまり、その中には私たちも含まれているということです。日本人の場合は意識的に信じないという人よりも、キリストを知らない人が多いのではないかと思います。しかし、無知も罪なのです。第二は、やみに住んでいる人はひかりを憎むということです。ヨハネ3:19-20「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」なぜ、神さまのもとに来ないか?それは罪が露わにされて、さばかれないためです。小中学校の頃ですが、模範生を見ると腹が立ちました。なぜなら、まぶしい存在だからです。「そんなことをやめなさい」と注意する生徒は、いじめの対象にされると言われています。一緒に悪いことをする友達の方が良いのです。これはユダヤ人の祭司長や指導者だけではなく、私たち自身の中にある罪の性質です。この2つの理由で、消極的にも積極的にも、あなたも私も罪人に入ってしまうということではないでしょうか?

 しかし、最もわからないのは?「せっかく神さまが遣わしたメシヤをなぜ、殺さなければならないのか?」ということです。もし、メシヤを殺したなら、救いの道が断たれてしまうでしょう?「毒を喰らわば、皿までも」ということわざがあります。「どうせ死ぬんだったら、メシヤも殺してしまえば」いう自暴自棄のように思えます。良く考えると、神さまは殺せませんが、メシヤだったら殺せます。なぜなら、メシヤは私たちと同じ人間だからです。しかし、メシヤは神の代理人であり、代表者であります。メシヤを殺したなら、神を殺すことになります。でも、神は死なないので、必ず殺した人たちが報復されるでしょう。イエス様は十字架にかかる前の一週間は、エルサレムで宗教家たちに話されました。その中には「ぶどう園のあと取りを殺す」というたとえ話もありました。ぶどう園の主人が帰ってきたら、農夫たちを殺して、きちんと収獲を納める別の農夫たちに貸すであろうと言われました。これだけはっきりと言われているのに、自分たちのところに遣わされてきたメシヤを殺すのです。これを異邦人である、私たちに適用することができるでしょうか?私たちはユダヤ人でないので、直接はメシヤを殺す理由がありません。でも、もし、メシヤを憎むならどうでしょうか?「私はキリストなんか信じない。どこか他に行ってくれ!」と言ったとします。Ⅰヨハネ3:15「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」とあります。イエス様は私たちを兄弟と呼ぶことを恥としない(ヘブル2:11)お方です。私たちと同じようになられて、この世に来られたからです。でも、「あんたなんか信じないよ。不要だ」と憎むなら、人殺しと同じ罪です。このように考えると、「キリストを信じないでいたころは、キリストを殺していたんだなー」と空恐ろしくなります。だれでも、キリストの十字架の前にたたされたなら、知らないでは済まされません。信じるか、殺してしまうかどちらかを選ばなければなりません。

3.キリスト

 きょうの説教題は、聖歌402とは関係なく十字架のなやみと致しました。なやみというのは、言い換えると苦しむということです。ですから「十字架の苦しみ」と言い換えることもできます。今日のテキストでもっとも不思議なのは、イエス様が裁判を受けられてから、鞭打たれ、十字架を運び、十字架にかけられてからも一言もしゃべらなかったことです。もちろん、ルカ福音書にはあとから「父よ。彼らをお赦しください」という有名なことばが記されています。なぜ、イエス様は「裁判で何も弁明せず、もくもくと十字架を運び、やがて十字架につけられたのか?」ということです。イザヤ書53章にそのこたえがあります。イザヤ53:7、8「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」イザヤ53章は、イエス・キリストは贖いの供え物としてのメシヤを預言しています。羊はどういう訳か、自分が今、殺されるというのにあばれないでじっとしているそうです。ここで示されている「ほふり場に引かれて行く羊」とは、まさしく、十字架刑に引かれて行く、神の子羊、イエスであります。しかし、少し前のゲツセマネでは「父よ。みこころならば、この杯を私からとりのけて下さい」と苦しみもだえて祈りました。でも、イエス様は杯を飲む決意をされ、十字架に臨んで入たのです。だから、一言もしゃべらなかったのです。

 イザヤ書53章は「苦難のしもべ)の預言ですが、イエス様が十字架で苦しみを受けた、その理由が記されています。8節には「彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼が私の民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれた」と書かれています。彼の時代というのは、ルカ23章の十字架の歴史的なシーンです。ですから、ピラトも祭司長と指導者も、人々も、全くその意味が分からなかったということです。もちろん、イエス様の弟子たちもそうであったと思われます。なぜなら、弟子たちはイエス様の死後、ユダヤ人を恐れ、戸を閉めて隠れていたからです(ヨハネ20:19)。本当に肉眼で十字架のシーンを見るならば、「どうして正しいお方が十字架で死ななければならないのか?」という疑問しか残りません。ピラトは私には関係のないことだ、と思ったでしょう。祭司長と指導者たちは「やれやれ、やっと枕を高くして眠られる。自分をメシヤと言う厄介者がいなくなる」と思ったでしょう。十字架を取り巻く人々のほとんどは、宗教家に扇動されていたので、極悪人の一人が十字架につけられたんだと思ったでしょう。ガリラヤから着いてきたわずかばかりの弟子たちや婦人たちは、ただ、ただ、恐れおののき、悲しんでいたでしょう。つまり、その時代のほとんどの人たちが、イエス様が「そむきの罪のため打たれ、生ける者の地から断たれた」ということを理解していなかったということです。もし、イエス様の十字架の苦しみが当時の人たちとイスラエルのためだけであったというなら、本当の福音ではありません。異邦人である私たち日本人は一体どうなるのでしょうか?イザヤ書53章にはさらに、こう預言されています。イザヤ53:12「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」「多くの人の罪を負いとは」、イエス様に背いたユダヤ人だけではありません。イエス様を知らない人たち、理由が分からないで憎んでいる人たちも、その中に含まれています。つまり、異邦人である日本人もその中に含まれているということです。パウロはホセヤ書を引用しながらこのように述べています。ローマ9:25、26「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」パウロはさらにこう述べています。「イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達できませんでした。ところが、義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。」アーメン。救いの招きは極東に住む私たちにも招かれているということです。グローバルな時代に住んでいる私たちは「日本には日本の神さまがいる」などと、狭い考えを持ってはいけません。私たちには世界大の宇宙大の神さまが必要なのです。

最後に、イザヤ書53章から、キリストの十字架の苦しみとは私たちにとってどのような意味なのかまとめたいと思います。

 第一に、キリストは私たちの罪の代わりに罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのです。アダム以来の人間は、神から離れ罪を犯して生きてきました。このままですと、義なる神さまから裁かれて、永遠の滅びに行ってしまいます。しかし、神さまはキリストの上にすべての罪を負わせ、キリストを裁いたのです。そのことによって、義なる神は私たち対する怒りが宥められたのです。

 第二は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。背きの罪とは、私たちの中に潜む反抗心です。そして、咎とは私たちが先祖から負っている罪の傾向性です。ですから、もっと内面的な罪です。パウロは「キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました」(ガラテヤ3:13)と言いました。

 第三は、私たちの罪を負い、罪の代価を払ってくださったということです。贖いの意味は、償いという意味もあります。かつて、きよい動物が血を流し、死ぬことによって罪が贖われました。キリストはご自身の血を流して、いのちを捨てることによって、私たちの罪の代価を払ってくださったのです。

 第四は、私たちの肉体と心が癒されるために、キリストは苦しまれたのです。十字架の前に鞭打たれ、あれだけ馬鹿にされ、あざけられ、尊厳を傷つけられたのは訳があります。まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださったのです。だから、キリストにあって病の癒し、心の傷の癒しもいただくことができるのです。イエス・キリストが多くのことを十字架で成し遂げてくださったことを心より感謝します。