愛の讃歌、第四回目です。きょうは一挙に8節までやっておしまいにします。しかし、8節には「愛は決して絶えることがありません」と書いてあります。愛は語るのは易いですが、「行うは難し」であります。徳川家康は「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し」と言ったようであります。今日の箇所にあてるなら「愛は、重荷を負うて遠き道を行くが如し」です。ある牧師がアメリカの女性と結婚したそうです。一見、うらやましいと思いますが、一日、10回はI love youと言わないと満足してくれないそうです。おそらく、行動でも示さなければならないのでしょう。そこへ行くと日本人は結婚したら「愛」なんて口にも出さない人が多いのでは?
1.愛は真理を喜ぶ
もう一度、お読みいたします。Ⅰコリント13:6「不正を喜ばずに真理を喜びます。」しかし、一見、当たり前のように見えますが、どうでしょうか?不正を喜んでいる人なんかいないと思いますが…。口語訳は「不義を喜ばないで真理を喜ぶ」です。こちらの方がぐっときます。英国の聖書はもっとぐっときます。「人の罪をいい気味だと思うな」と書いてあります。J.B.フィリップス訳は「人々の悪事をいい気味だと思うな」であります。ことわざに、「人の振り見て我が振り直せ」というのがあります。これは、人の行いを見て、ただ「いやだなあ」と思うだけでなく、「自分は大丈夫か?」と確かめることでしょう。この人は、喜んではいないと思いますが、他人事です。せめて、「気の毒に思う」くらいが良いのではないかと思います。世の中には、毎日がつまらないので、「地震とか天災でも起こらないかな」と願っている人もいないわけではありません。その証拠に、何かがあると野次馬根性丸出しになります。テレビや新聞のニュースを見ると、7割くらいは良くないニュースかもしれません。本当に心が痛みます。「ざまあ見ろ!」などとは全く思いません。でも、「日ごろから恨んでいる人がそうなったらどうするか?」であります。かなり前ですが、ある姉妹が階段でこけました。私が笑ったら「先生、笑い過ぎ!」と叱られました。私は喜怒哀楽が激しいので、人の不幸を見て喜んでいるように思われるかもしれません。でも、アメリカ人は、失敗をよく笑い飛ばします。しかし、今日の箇所はそうでないかもしれません。
もし、愛のメガネをかけて、世の中の出来事を見るならどうでしょう?また、愛のメガネをかけて、自分のまわりに起きていることを見たならどうでしょう。一方には、不正や不義があります。また、他方には真実や正しいことがあります。ある人たちは、不正や不義を大きく捉えて、それらのことをあばいて、1つ1つ裁きたくなります。しかし、真実や正しいことに対しては同じように、重く捉えているでしょうか?もしかしたら、真実や正しいことは見逃したり、当たり前に見るかもしれません。私は何かを申請するために、区役所や出張所にでかけることがあります。所定の用紙に書いて、番号札をもらいます。係りの人から呼ばれ、いくつか訂正されたり、加えられたりします。大変ありがたいです。しばらく、待ってから料金を支払って、書類を受け取ります。その一連の作業を窓口から見ることもできます。今はコンピューターなので、「ぱぱぱー」と、行っているみたいです。彼らはお金をいだだいて働いているかもしれませんが、「大変だなー」と思います。なぜなら、区民の要求に応えるために時間が拘束されているからです。言いかえると、受身一方です。私は無理です。私は好きな時に本を読み、好きな時に書き物をし、好きな時にでかけます。時間外手当はつきませんが、早朝や夜間も、何か作業をしています。何を言いたいか?愛のメガネをかけて見ると、「公務員も楽じゃないなー」ということです。私は、決まった時間、きまった仕事に耐えられません。その割には、毎週、同じようなことをしています。愛のメガネをかけて見るとどうでしょう?郵便局屋さんもよくやって下さっています。宅配便の方も御苦労さまです。道路工事のガードマンさんもよくやっています。こっちは、通行止めされてイライラしていますが、夜中の交通整理は大変だと思います。
では、真理を喜ぶとはどうなるのでしょう?リビングバイブルは「決して不正を喜ばず、真理が勝つ時は、いつも喜びます」と訳しています。だれが訳したかはわかりませんが、原文のリビングバイブルにも、rejoices whenever the truth wins out.「勝つ」と確かに書いてありました。J.B.フィリップスは6節を「人々の悪事をいい気味だと思うな。反対に、真実に生きている人々と、その喜びを分かち合いなさい」と訳しています。これも良いなーと思います。日本人はあまり議論を交わすことが好きじゃありません。対決するよりも、妥協点をさがしてうまくやろうとします。そうすると、不正と真実が混じってしまって、訳が分からなくなります。真理を見出す働きは、あえて敵を作ることにもなります。昔、「noと言えない日本人」という表現が流行りましたが今もそうかもしれません。日本人は「真理」よりも、「和」を重要視するからでしょう。聖書の教えは「和」よりも、「真理」です。イエスさまはヨハネ14章で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われました。つまり、「イエス様以外に、父なる神のもとに行くことはできない」ということです。イエス様以外はnoであり、虚偽だということです。この教えは日本人には合いません。だから、カトリックの神父たちは、日本の宗教との和合の道を求めています。もう召されましたが、井上洋治神父は「南無アッバ」の祈りを勧めていました。神の愛が強調され過ぎて、真理であられるキリストが隠されています。真理というものは排他的です。1+1は2なのです。3でも、1でも正しくありません。
愛と真理は別物のように思われていますが、真理のない愛は本当の愛とは言えません。ピリピ1:9 ,10「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」と書いてあります。また、愛のない真理は律法主義になります。エペソ4:15「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」とも書いてあります。私たちは主にあって、不正を喜ばずに真理を喜びます。決して不正を喜ばず、真理が勝つ時は、いつも喜びます。アーメン。
2.すべて
Ⅰコリント13:7「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」この聖句は、愛のその他の性質ではないかと思います。もう、主要なことは4節から6節まで語られました。最後は、補足のようになっています。でも、補足だからと言って、馬鹿にできません。パウロがこれらのことをどうしても言いたかったのでしょう。このところに、4つの「すべて」があります。愛はすべてをがまんし、愛はすべてを信じ、愛はすべてを期待し、愛はすべてを耐え忍びます。もう、何も言うことはありません。夫婦、親子の間、あるいは兄弟姉妹の間にこのことを適用できたら「いさかい」は起こりません。ついでに、牧師と教会員の間に適用できたら、分裂も起りません。でも、私たちの理性や常識が邪魔をします。「愛とは何ておめでたいんだろう」と、どこかで笑っています。私たちの生まれつきの性質、肉はそれほど堕落していると言うことです。神のことばを冷笑するところがあります。頭から「そんなのできっこないよ」と諦めてしまいます。そして、「これくらいなら我慢し、これくらいなら信じ、これくらいなら期待し、これくらいなら耐え忍びます」と限度や例外を設けたくなります。「これが人間です」と言えばそれまでですが、イエス様、聖書の人たち、聖人たちは「この愛」があります。人は「この愛」に触れると、びっくり仰天し、神を見ることができるのです。いわゆる神がかった人たちは、「この愛」を持っておられます。
ここで、終わると、メッセージも終わってしまいます。もし、聖書が特定の人しか当てはまらないように書かれているなら、読む価値はなくなります。このみことばは、全ての人に書かれています。すべての人に命じられているといっても過言ではありません。では、いつものように原文や他の聖書をあたりながら、どのように適用したら良いか共に学びたいと思います。決して、水増しするのではなく、実行可能なところから始めるということです。4つありますが、第一は「愛はすべてをがまんする」であります。ギリシャ語のステゴウは「がまんする」は第二の意味です。「蔽う(さえぎってかくす)、黙って隠しておく、秘密にする」というのが第一の意味です。ですから、このところは「他人の欠点・過失を蔽い隠してやる」がふさわしい訳ではないかと思います。英語の聖書もcoverと訳しているものがあります。Ⅰペテロ4:8「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」旧約聖書でノアがぶどう酒を飲んで裸で寝ていた時がありました。セムとヤペテは父の裸を見ないように後ろ向きに歩き、父の裸を着物で覆ってあげました。そうしなかったカナンは呪われ、セムとヤペテは祝福されました。「がまんする」は既に、4節で語られたので、「蔽う」の方が良いと思います。
第二は「すべてを信じ」です。愛はすべてを信じるということです。英語詳訳聖書は「すべての人に最善がなされるように、いつも信じる用意がある」と訳しています。J.B.フィリップも「信頼することを止めない」と訳しています。世界で一人でもそういう人がいたら、立ち直れるような気がします。私たちは我が子に対して、最後まで信じたいと願います。でも、何度も裏切られると「もう、愛想をつかした」と言ってしまいます。子どもの方にも親に対する甘えがあったかもしれません。こういう場合は、一度は、冷却期間を置く方が良いのかもしれません。しかし、「愛はすべてを信じる」なら、救いの道が残されているということです。高校生のとき、加藤諦三という人の本に、「全世界の人があなたを見捨てても、自分自身を見捨ててはならない」と書いてありました。その時、私はどんなに救われたでしょうか。だけど、世界中に、自分しか自分を信じられない人がいないというのも孤独であります。せめて、「世界にもう一人いたら良いなー」と思います。ジョエル・オスティーンは「あなたと神さまで大多数」とよく言っています。何度も言いますが、「神さま以外に、目に見える人もいたら良いなー」と思います。よく、野良ネコに朝早くエサをあげている人を見ますが、野良ネコに同意を求めているのかもしれません。犬も結構、忠実ですから、補ってくれるでしょうか?精神的な障害を持っておられる人は、動物を飼うことによって、癒されると聞きました。でも、人間の孤独を癒してくれるのは、人間かもしれません。でも、「愛はすべてを信じる」は受身ではなく、こちらの態度であることを忘れてはいけません。人から信じられるためには、こちらからすべてを信じる必要があるということです。
第三は「すべてを期待し」です。愛は全てを期待するということです。ギリシャ語は「希望する、期待する」です。原文に忠実に訳すなら「すべての事について期待する」です。英語詳訳聖書は「あらゆる状況の中でも色あせない希望」と訳しています。私はこれに対して、少し文句があります。なぜなら、期待すればするほど、失望する確率も高くなるからです。すべてを期待していたなら身が持ちません。若い時はそれができたかもしれませんが、年を重ねるとそれができなくなります。なぜなら、失望させられた経験が蓄積されるからです。「まゆつばもの」という表現がありますが、疑ってかかります。何度も裏切られ、何度も失望させられたので、期待するというのがおっくうになります。その点、子どもは目を丸くして、「本当?」と飛び跳ねて喜びます。できれば、コンピューターのハードディスクのように、苦い過去の記憶を全部消してもらいたいと思います。「すべてを期待できる」真っさらな気持ちになることができたら何と良いと思います。でも、「ここは愛とはこういうものですよ」と教えられている箇所です。つまり、愛とは全てを期待する性質があるということです。期待するためには、それなりの理由とエネルギーが必要です。ルカ5章に大漁の奇蹟が記されています。ある朝、ペテロたちは網を洗っていました。イエスさまから「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。ペテロは「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばとおり、網を降ろして見ましょう」と言いました。ペテロは長年の経験で、朝は魚が網が見えるので、漁は不可能なことを知っていました。しかも、一晩中、漁をしたのに収獲がゼロだったのです。ペテロは「でも、おことばとおり」と希望を持ちました。そして、沖に漕ぎ出して、もう一度、網を降ろしました。すると、網が破れるほどのたくさんの魚が捕れました。そうです。イエス様のご介入があるとき、私たちはもう一度、希望を持つことができるのです。
第四は、「すべてを耐え忍ぶ」です。ギリシャ語のヒュポメノウは「逃げ出さずに留まる。持ちこたえる。耐える。耐え忍ぶ」と言う意味があります。英語詳訳聖書は「屈することなく、耐え忍ぶ」です。もし、愛がそうであるなら、なんと地味なのでしょうか?この世の人たちが考えている愛とは全く違います。はっきり言って、この愛は感情ではなく、強い意思と決断であります。葛西の「けんたろう牧師」が自分の子どもに期待し、耐え忍ぶ必要性をお母さんたちに語っておられます。「僕は子供のころ、まったく勉強ができない子供だった。成績はずっと低く、要領が悪い子供だった。 結局、学校にいる間は成績に反映することはなかったけれど、その間にしてきた努力は、今、忍耐強さとして残っていると思う。 成果や結果を残さなければ意味がないのが、僕たちが生きる世界。 でも、神様が僕たちに求めているのは、たとえ成果や結果としては現れなくても、僕たちの心の奥底で起こっている確実な変化と成長だ。 僕たちもまた、人の成長を粘り強く待つ心を育てていきたい。 お母さんが、寝返りを打ち、ハイハイし、掴まり立ちするのをあたたかく見守るように、人の成長を励まし、助け、忍耐を持って見守っていこう。 時が満ちれば、必ずその人は変わると信じて。」けんたろう牧師のは、ちゃんと適用があって良いと思いました。もう一度、13章7節をお読みします。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」昔、「これっきり、これっきり、これっきりですかー」という歌がありました。私たちの愛は条件付きで、限界があります。しかし、聖書が言う愛は、「これっきりじゃない愛、永遠の愛」です。この愛はやはり、神さまから来るものです。なぜなら、神さまは永遠の愛をお持ちだからです。自分の愛に限界を覚えたなら、神さまからこの愛をいただきたいと思います。
3.愛は決して絶えることがありません
このみことばは、聖霊の賜物としての比較で語られています。ギリシャ語のピプトウは、「落ちる、堕落する、倒れる」です。聖霊の賜物はいつか落ちて、なくなります。しかし、愛は「落ちない、すたれない」という意味です。だから、最後に「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」と書いてあるのです。もちろん、聖霊の賜物が必要でなくなるのは、世の終わり、イエス様が来られて御国が完成するときです。それまでは、愛はもちろん、聖霊の賜物も必要です。2018年11月「パウロ」という映画を渋谷に家内と一緒に観に行きました。教会の姉妹方、何人も観に行かれたと思います。家内が次の日(木曜の祈り場)で感想を述べていました。その場には、家内と私しかいませんでした。司会者である京子さんが、パウロの映画を観て本当にすばらしいと言いました。「だまっていようかな」と思っていましたが、会衆に私一人しかいなかったので、思わず反論してしまいました。「パウロが何故、あの少女の癒しのために祈らなかったのか?医者のルカが治すストーリーで、やっぱり、アメリカ人が作ったんだな」と言いました。確かにその映画では、Ⅰコリント13章のことばが多く語られていました。弱さの中に主の恵みが完全に現れると言っていました。しかし、「パウロの弱さが強調され、神の権威、聖霊の賜物については全くなかったなー」と思いました。「しかし、パウロがあの少女に手を置いて祈り、奇跡的に癒されたら、やっぱり文句が出るだろうなー」と思いました。だから、あのシーンでは、医者のルカとお薬、そしてとりなしの祈りが、彼女が治る要因になっていました。「西洋の医学をちゃんと意識していたんだなー」と不本意ながら思いました。でも、私としては不満足でした。でも、きょうは愛の讃歌の最後ですので、愛を強調したいと思います。
英語の詳訳聖書には、Love never fails.「愛は決して失敗しない」と書いてありました。これが良いと思います。私はこれまで、何度も癒しのために祈ってきました。私は心から今でも病の癒し、大いなる奇跡が起こると信じて疑いません。簡単なものは癒されますが、耳が聞こえたり、麻痺したからだが直ったりしたことは見たことがありません。そのため、ある時は二の足を踏むというか、「やめよう」と思ったことは何度も思ったことがあります。いつだったか、忘れましたが、「たとえ癒しが現れなくても、手を置いて祈ってあげることは何らかの効果がある」と言われたことがあります。そうです。こちらが祈ってあげると、神さまの愛、神さまの祝福が必ず流れて行くのです。私は祈った効果がすぐ現れないとガッカリします。しかし、その時、主の愛は祈り手を通して、注がれているのです。そういう意味で、Love never fails.「愛は決して失敗しない」のです。10年くらい前、大久保の教会で『二つの翼』という大きな集会がありました。その時、私は坐骨神経痛で、座ることも立つことも容易でありませんでした。その集会は朝から晩まで、ぶっ通しです。もう、痛くて痛くて、どうしようもありません。その時、松戸の津村牧師の息子さんもいらしていました。休憩時間に、彼に祈ってもらいました。彼は何かの順番で、とっても丁寧に祈ってくれました。残念ながら治りませんでしたが、体に熱いものを感じ、主の愛をいただくことができました。「愛は決して失敗しない」のです。たとい、カウンセラーでも、専門家でなくても、お話しを聞いて祈ることができます。つまり、自分に解決ができなくても、神さまのところにその問題を持っていくことができます。だから、「愛は決して失敗しない」のです。
4回に渡って、愛の讃歌Ⅰコリント13章から学びました。23歳の時、貿易会社に転職しました。部長さんがクリスチャンだったので、私を可哀そうだと思って入れてくれたのです。ある時、部長さんのデスクを見ました。透明なシートの下に、タイプで打った紙がありました。「先輩、love is なんとかと書いてありますが、これは何ですか?」と聞きました。彼は「鈴木君、これは聖書だよ。愛について書いてあるんだよ」と言いました。もう一度、まじまじと見ました。Love is patient and kind…そのとき、聖書のことばを、聖書として初めて見ました。それが、聖書を読む、きっかけになりました。先輩は本当にLove is patient and kind.忍耐強く、親切でした。だから、私はイエス様を信じることができました。本当に今あるのは、先輩のお蔭です。私たちには癒しを行う信仰も必要です。もちろん、奇跡は起こるという希望も必要です。しかし、もっとも重要なのは愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛がすべての土台だからです。