<マタイの福音書10章24節~33節>
10:24
弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
10:25
弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
10:26
だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
10:27
わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
10:28
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
10:30
また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
10:31
だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
10:32
ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10:33
しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
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「希望」という言葉は、旧約聖書の原語ヘブル語では<へ>hwqt(ティクバー)と言います。この言葉の語源は<ヘ>hwq(カバー)で、意味は「待つ」です。動詞の強意形では、「期待する」という意味もあります。
つまり聖書の語る「希望」とは「期待して待つ」ことです。
私たちにとって「希望」とは何でしょうか。
そして私たちはいったい何を期待して待つのでしょうか。
「果報は寝て待て 」ということわざがよく使われますが、広辞苑には「幸福の訪れは人間の力ではどうすることもできないから、焦らずに時機が来るのを待っていればよい。」と書いてあります。しかし、「果報」というのはもともと仏教用語で、「果」は良い結果、「報」は悪い結果という意味で幸福だけを現すのではありません。
つまりこの「果報は寝て待て」とうことばは、「できることをやったなら、あれこれ悩んだり、くよくよ考えたりせず結果がでるのを待ちなさい」という意味になります。
しかし、聖書のいう「希望」「期待して待つ」は、そういう意味ではありません。
「希望」とは、聖書に記されている私たちに対する神様からの約束がひとつひとつ成就していくことを言います。ですから、私たちは神様の約束が叶えられることを期待して待っているのです。それが「希望」です。
ではそれを待っている間、何をしていればよいのでしょうか。何もしないで待っていればよいのでしょうか。
イエス様が、弟子たちに語られたみことばから答えをいただきましょう。
先ほど読んでいただいた聖書の箇所は、イエス様が12弟子を任命したあとに、彼らに任務をお与えになった箇所です。イエス様は12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。(マタイ10:1)そして、イスラエルの家に福音を宣べ伝えるために弟子たちを派遣しました。
その時イエス様は「恐れてはいけません」と3度言われました。(26,28,31節)
その「恐れてはいけません」はここでは鍵言葉となっています。イエス様は私たちが「期待して待つ」あいだ、何をして、どういう心構えで待てば良いのかを教えてくださっています。
◆恐れてはいけません。あなたは何をして待ちますか?
①福音を明るみで言い広めましょう。
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10:24
弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
10:25
弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
10:26
だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
10:27
わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
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10:24 「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」ということばは、当時のことわざだったようですが、字義通りだと、「弟子やしもべはその師や主人より勝ることはない。」ということになりますが、イエス様はこのことばを使って逆に弟子たちに励ましを与えています。
つまり、「あなたがたは、私ほどは憎まれないし、私ほどは苦しまないでしょう。」と言ってくださっているのです。そのうえで、10:26「だから、彼らを恐れてはいけません。」と言われました。
「彼ら」というのは、イエス様に敵対する祭司、律法学者たちのことです。イエス様は、彼らの迫害を恐れて弟子たちが福音を語らなかったとしても、「おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」と言われました。
つまり隠そうとしても真理は明らかにされます。福音を隠しておくことはできません。ですから、恐れず言い広めなさいと言われたのです。
イエス様は今の私たちにも語っておられます。私たちが主のしもべとして主に従って生きて行こうとする時、
本当にいろんな形で迫害があります。聖書の時代のように石打ちに遭ったりするわけではありませんが、石打ちに近いような失望、落胆に襲われる時があります。
私も伝道活動をしている時に、心ない言葉を浴びせられることがあります。
また、長い間大切にしてきて、心を尽くしてイエス様の福音を伝えてきた神聖な場所を、未信者の人たちの不倫や出会い系の場所にされてしまったこともあります。
そんな時、「何のために、今まで歯を食いしばってやってきたんだろう。」「もう福音は語るまい、どうせ語っても解ってもらえないんだから。」と後ろ向きになってしまいます。
でも、イエス様が受けられた苦難に比べれば、たいしたことはないのです。
真理は必ず明らかにされますし、福音を伝えることは、神様からの良い知らせを伝えることです。
良い知らせを伝えているのですから、良いことをしているのですから、恐れなくていいのです。
「希望」・・・私たちが神様の約束が叶えられることを期待して待っている間、「恐れずに、福音を言い広めていくように」と、イエス様はここで命じておられます。
◆恐れてはいけません。あなたは何をして待ちますか?
②まことに恐れなければならないのは主なる神だということを再認識しましょう。
続けてイエス様はこう言われました。
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10:28
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
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ここでは、恐れ多い神様に私たちの心を向けるようにと、イエス様は語られています。
聖書を読んでいると、新約聖書からは、愛と平和の神様について教えられることが多いのですが、旧約聖書からは、神様の恐ろしさについて教えられることがたくさんあります。
例えば第Ⅱ列王記の2:23,24 には、預言者エリヤの後継者、預言者エリシャの話が書かれています。
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2:23
エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、「上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭。」と言ったので、
2:24
彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。
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ここを読むと、「え?上って来い、はげ頭と言っただけで殺されてしまうの?神様ひどくない?」とびっくりしてしまいますが、実はこれは、エリシャを任命した神様の権威に対する冒涜となるのです。
この「小さい子ども」というのは、字義通り幼い子どもと捉えるよりも、未熟者の少年、または青年と考えた方が良いようです。
ユダヤ教の理解によると、この箇所は、幼い子どもがただ思ったことを遠慮なく言ったのではなく、ある程度知識を備えた青年たちが、髪の毛が豊富だったと言われるエリヤと比較して、後継者エリシャをエリヤに比べて足りない者だと馬鹿にするための比喩として、「はげ頭」と言ったと考えられています。
ですから、神様から任命されたエリシャを冒涜する者に対して、神の怒りが発せられたのです。
箴言にこのようなみことばがあります。
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<箴言1:7>主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
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まさに、主を恐れない人は、愚か者なのです。
同じように、イエス様は地上に平和をもたらすために降りて来てくださった愛なる神様なのですが、やさしいばかりではなく、時にはとても厳しい言葉を発せられ、厳しい態度を取られました。
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10:28
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
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たましいもからだもゲヘナで滅ぼされるなんて、本当に恐ろしいことです。
また、伝道者の書 12:13,14にはこう書かれています。
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結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。
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黙示録には、このわざをさばかれる日、「さばきの日」には、いのちの書が開かれて、そのいのちの書に名がしるされていない者は火の池に投げ込まれると書かれています。(黙示録20:15)
余談ですが、私が通っている大学の旧約学者の先生は、この「いのちの書」についてこう語られていました。
「聖書の中には、『いのちの書に名まえが書き加えられた』という記述は実はひとつもないんですよ。反対に『いのちの書から名まえが消されないように』 と書かれている箇所は何箇所かあります。つまり、いのちの書には、世のはじめから名まえが記されていて、あとは消されていくばっかりなんですよ。だから、使徒の働きを読んで、ここでは3千人も救われた!ハレルヤ!とか言ってる人がいるけど、そんなの笑っちゃうね!!
はっはっは。」
・・・確かに、私も調べてみましたが、詩篇68:28, イザヤ4:3, ピリピ4:3, 黙示録3:5, 13:8, 17:8,などには、「いのちの書から名が消しさって」とか、「いのちの書に名がしるされている通り」とか書かれていて、「新たにいのちの書に名がしるされた」などと書いている箇所はありませんでした。
「いのちの書」のイメージとしては、イエス様を心に信じて告白したら、救われて、いのちの書に名が書き加えられるという感じがするのですが、どうもそうではないようですね。
「希望」・・・私たちが神様の約束が叶えられることを期待して待っている間、この世のものを恐れるのではなく、神様を恐れること、まことに恐れなければならないのは主なる神だということを再認識するようにと、イエス様は教えてくださっています。
◆恐れてはいけません。あなたは何をして待ちますか?
③神が私たちを覚えて守ってくださることを確信しましょう。
とはいえ、イエス様はやはり愛なる神様です。私たちを覚えて守ってくださいます。
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10:29
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
10:30
また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。
10:31
だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。
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ハイデルベルグ信仰問答は、1562年、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ3世が、領民の教育のために命じて書かせた信仰問答です。その冒頭の問い1と答えには、この信仰問答の核となることが書かれています。
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<ハイデルベルグ信仰問答>
問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答
わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。
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ここに、「天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。」と書かれています。父なる神様はこれほどの権威を持っておられるのです。
そして、イエス様は、私を守ってくださり、実に万事が私の益となるように働いてくださいます。そうしてまた、御自身の聖霊によって私に永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。
ドイツ語で書かれているこの信仰問答ですが、「慰め」と訳されているところを、「拠り所」と訳している神学者もいます。
「生きるにも死ぬにも、私のただ一つの慰め、あるいは拠り所は、真実な救い主イエス・キリストにある」
と信仰問答は答えています。
私たちはイエス様に全信頼を置いて生きて行くのです。
イエス様が32,33節で語られているように、イエス様を人の前で認める者はみな、イエス様も、天におられる父なる神様の前でその人を認めてくださり、イエス様を知らないと言う人は、イエス様も天におられる父なる神様の前で、そんな者は知らないと言います。
さばきの日にイエス様から、「そんな者は知らない」と言われたら大変です!
そんなことがないようにイエス様の教えを忠実に守っていきましょう。
恐れずに、
①福音を明るみで言い広めましょう。
②まことに恐れなければならないのは主なる神だということを再認識しましょう。
③神が私たちを覚えて守ってくださることを確信しましょう。
私たちにとって「希望」とは、聖書に記されている神様からの約束の成就です。
ここでは、イエス様は私たちを守ってくださると約束してくださっています。
聖書には7千もの神様からの約束が記されていると言われています。
それらは私たちの未来を預言している壮大な約束から、日常の生活に関わる身近な約束まで多岐にわたっています。神様は真実な方なので、そのひとつひとつを必ず成就してくださいます。
「希望」とは、はかない夢のようなものではなく、現実に私たちに用意されている祝福なのです。
聖書をよく読み、聖書に書かれている主の約束について確認し、期待して待ち望みましょう。