2014.7.20「~正しい人たちの仕え方~」

<マタイの福音書25章31節~40節>

25:31
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
*******************************************
本日の聖書箇所は、24章終わりから25章始めのたとえ話に続く「羊と山羊のたとえ」として知られていますが、厳密に言えば、16:27 「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」というみことばを受けた、最後の審判の描写です。
この描写は、25章46節、25章の最後まで続きます。
37節の「正しい人たち」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語では di,kaioi(デュカイオイ)、辞書形では、di,kaioj(デュカイオス)と書かれており、意味は「正しい、義である」です。ですから、「正しい人たち」とは、神様によって「義である」と認められた人たちだということです。
そしてここでは、羊にたとえられ王の右に置かれた正しい人たちに対しては、25:34 『さあ、わたしの父に祝福された人たち』と呼び掛け、『世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。』と言われました。
反対に山羊にたとえられ王の左に置かれた人たちには、25:41『のろわれた者ども。』と呼び掛け、『わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』と言われました。
そして、祝福された人たちと、のろわれた者どもの、それぞれの行いについて具体的に述べられました。
そして、最後に25:46
*******************************************
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。
*******************************************
と言われました。
最後の審判では、それぞれの行いに応じてこのような振り分けをされるというのです。
このマタイ25:31-46に書かれているみことばの解釈については、いくつかの考え方や疑問がありますので、ここでご紹介し、私たちなりに整理しておきたいと思います。
まず、イエス様が語られた25:40のみことば、
*******************************************
25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
*******************************************
という、この「わたしの兄弟たち」について、このような考え方があります。
「兄弟たち」とは、「ユダヤ人」のことを言っているのではないかというのです。
だから、現代の私たちも来るべき終末に備えて、エルサレムに目を向けて、ユダヤ人に親切にしようではありませんか!と呼び掛けている人も実際にいます。
確かに、イエス様の時代では「兄弟」と言えば、ユダヤ人の同胞を指す言葉ではあったと思います。
しかし、現代はクリスチャン同士で「兄弟姉妹」と呼び合いますし、このみことばは終末の最後の審判でのことばなので、「兄弟」とは私たちの周りにいる人すべてと考えて良いのではないでしょうか。私はそう解釈します。
次に疑問ですが、ここを単純に読んでしまうと、「空腹な人に食べる物を与え、渇いている人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人をたずねる」・・・という愛の行いを実行したなら「永遠のいのち」が与えられ、実行しなければ、「永遠の刑罰」が与えられると言われているように受けとれます。
ですから、「救いは行いによって振り分けられるのですか?自らの罪を悔い改め、イエス様を救い主であると告白した者は、永遠のいのちをいただけるのではなかったのですか?」という疑問が湧きあがってきます。
さらにここでは、羊と山羊のように振り分けられる人々は、「すでに信仰を持っている人々」なのではないかということが文脈から読み取れます。
つまり、クリスチャンも、最後の審判で、まことのイエス様の弟子であるかどうかということが問われ、「永遠のいのち」と「永遠の刑罰」に振り分けられるのではないかという話になってきます。
どうなのでしょうか。本当にそういうことなのでしょうか。
これについては、実は私ははっきりした答えを持っていません。
聖書には人間の小さな頭では理解できないみことばがたくさんあります。
しかし、神様のみことばは完全で滅びることはありません。問題は受け取る側の人間にあるのです。
ですから迷った時、私はこのように考えます。
「私の足りない知識で決めつけてしまうのではなく、霊とまことの信仰をもってみことばを受け止めよう。そして、神様が示されておられる良い方を選択して良い実を結んでいこう!」ということです。
ですから、本日の聖書箇所の良い方、つまり前半部分25:31-40に焦点をあて、神様から「義である」と認められた、正しい人になるためにはどう生きて行くべきか、ということについて考えていきたいと思います。

◆正しい人たちの仕え方は・・・

①いつでも無意識で差別や区別がありません

私たちは無意識に計算し、損得勘定で善行を行ってしまうことがあります。
人間はもともと神様と共通の属性(本質的性質、特質)をいただいている存在です。その属性は神様と全く同じものではありませんが、神の霊性、知識、知恵、真実、善、 聖、正義、統治意志、統治力、などを持っています。
ですからクリスチャンでなくとも、善行はできますし、愛の心を持つことはできます。
先日NHKの土曜ドラマを観て、大変感動しました。
このドラマは、村上龍さんの短編小説集「55歳からのハローライフ」(幻冬舎)をドラマ化したものです。
全5話なのですが、どのお話も50代半ばから60代前半という、人生の折り返し点を過ぎた中高年を主人公にして描かれています。
どの主人公たちも、将来への不安を抱えながらも新たな道を探っていくというお話ですが、特に感動したのは、ドラマでは最終話となった第5話「空を飛ぶ夢をもう一度」でした。
ドラマがとても良かったので、思わず本を買ってしまいました。
あらすじはこうです。
********************************************
イッセー尾形さんが演じる主人公、「因藤茂雄」は、もうすぐ還暦を迎える年齢です。
彼は6年前に勤務先の弱小出版社からリストラされてしまいました。働こうにも、文章を書く仕事しかしたことがないので再就職は難しく、水道工事の誘導員などのアルバイトなどで生計を立てるしかありません。
足腰を痛めてしまい、月の半分しか仕事ができません。妻もパートを解雇されてしまいました。
婚が遅かったのでまだ息子は大学生で学費もかかります。預貯金がどんどん減って行く中、因藤は「もしかしたら自分はホームレスになってしまうのではないか」という漠然とした不安を抱えるようになっていました。
そんな時はいつも、心を落ち着けるためにイタリア産のパラディーゾという発泡性ミネラルウォーターを入れた水筒から水を飲むのです。
因藤は子どものころからいつも美味しい水を入れた水筒を肩からぶら下げていました。
ある時、川崎で誘導員のアルバイトをしていたら、ひとりのホームレスが「お前、因藤茂雄だろ?」と声をかけてきました。
火野正平さん演じる「福田貞夫」と50年ぶりの再会でした。
福田は借金に追われ、現実にホームレスに転落してしまって、山谷で暮らしていました。
因藤の実家は九州ですが、中学時代、東京から転校してきた福田に因藤は親切だったらしく、そのことを福田はとても良い想い出として覚えていました。
誘導員をしている男性が因藤だと気付いたのは、子どものときと同じく水筒を肩からぶら下げていたからでした。
福田は見るからに体調が悪そうで、ひどく咳込み、なにか重い病気にかかっているようでした。
と月後、福田が宿泊しているという山谷の安宿から因藤に連絡がありました。
福田は病気で動けない、生活保護の申請は嫌がる、宿泊費を2カ月滞納しているので、福田が因藤に連絡をとってくれと言ったという内容でした。
因藤は悩んだ末、死にかかっている福田に会いに山谷に行きました。そこで福田からは、ふたつの頼みごとをされました。
「実家の母親からもらった指輪を返してきてほしい」ということと、「歩けないから、自分をホームレスのたまり場まで連れて行ってくれ」ということでした。
福田はこれまでも母親に指輪を返すために、母親の住む川崎に何度も足を運んでは、「ホームレスになっている息子になんて会いたくないだろうな」と考えてしまい、会う勇気が出せずにいたようです。
因藤は福田を連れてホームレスのたまり場に行きました。ひどい悪臭と、全く生気のない人々を見て、ここに福田をひとりで置いていくわけにはいかないと思いました。
福田は、「早く行ってくれ。オフクロに指輪と手紙を渡してくれ」と言いましたが、因藤は「いやだよ!お前をオフクロさんの所に連れていく!」と言って自力で歩けない福田に肩を貸しながら、腰の痛みに喘ぎながら、山谷から川崎までの旅を決意しました。
因藤の妻が持たせてくれたなけなしの現金で、タクシーに乗せると福田は嘔吐しました。
高速バスでは失禁しました。バスの乗客も道行く人々も、福田の発する強烈な匂いに嫌悪感をあらわにしました。
傍目には最悪とも思える山谷から川崎までの旅は、彼らにとって中学時代一緒に遊んだ想い出と共に、最高に楽しい旅となりました。
福田は母親の家のすぐ近くで意識を失い、結局救急車で病院に運ばれましたが、母親には会うことができました。
母親は、「もっと早くに訪ねてくれていたら。」と涙を浮かべましたが、因藤には、母親の家の前まで何度も行ったけれど、会うことが出来なかった福田の気持ちがよくわかりました。
福田は最後の時を、病院で母親と過ごすことができました。
その後因藤は、福田が亡くなったという知らせを書いた母親の手紙を受け取りました。そこには、福田が「俺は素晴らしい友人に恵まれた。それだけで生きた甲斐があった。」と喜んでいましたと書いてありました。
母親からの手紙を読んで因藤が言った言葉は、「福田、あの旅は、まるで夢のようだったな。救われたのは俺の方だよ。」でした。
因藤は福田の最期を助けることによって「こうしなければならない」という人生の縛りから解放されて、癒されたのです。
**********************************************
私たちは、何か自分の力をもって、人を助けたり、育てたりしているように錯覚してしまいますが、実は、私たちの方が助けられたり、慰められたり、教えられたりすることの方がはるかに多いのです。
職場や学校での人間関係や子育てなどもそうです。
聖書の教えを知らない人でも、人間は神様の属性をいただいているので、このように、人を助けることで励ましを受けることも、人に感動を与えることもできるのです。
しかし聖書に記されている正しい人たちは、少し違っています。彼らは全く無意識に愛の行いを実行していたのです。
彼らは愛の行いをしているときに、自分が「努力したんだ」とか、「大変だったんだ」とか、「人に何かをやってあげたんだ」とかという意識がなく、感謝されていることすら気付いていませんでした。
そして、相手が誰であろうとも、全く同じように差別も区別もなく、『最も小さい者たちのひとりに』行っていたのです。
私たちはどうでしょうか。
「神様の栄光のために、このしもべをお用いください!」などと言いつつ、仕事や奉仕などを通して、自分の存在や能力を世の人々に認めてもらいたい、自分のスキルアップに繋げたい、感謝されたい、などという無意識な虚栄心があったりしませんか。
私にはあります。
ですから、そのような心が湧きあがるたびに、見事に打ち砕かれては、私の思うところではない結果が与えられるのです。
そして、何もかもご存知な神様を恐れてひれ伏し、情けない自分を悔い改めています。
上下関係、ヒエラルキーの構造であるこの世において、無意識に、差別も区別もなく、愛の行いをするなどということは、そう簡単に出来ることではありません。
大半の人は、先ほどの因藤のように、自分の生活だけで精いっぱいです。
何か秘けつでもあるのでしょうか。正しい人たちは、何を考えているのでしょうか。

◆正しい人たちの仕え方は・・・

②ただ「イエス様への愛」という動機があるのみです

信仰を持った正しい人たちと、信仰を持たない人の善行の決定的な違いは、「イエス様への愛」という動機です。
正しい人たちは、イエス様が私たちのためにいのちを捧げてくださり、私たちを激しく愛してくださったということを知っているのです。
だからこそイエス様に対して熱烈な愛を示し、最も小さい者たちに対しても愛の行いができたのです。
続く26章にはイエス様の葬りのために、高価な香油を注いだ女性が出て来ます。
彼女はイエス様を心から愛して、イエス様の葬りの準備のために、自分の財産である香油をイエス様に注ぎました。
現代であれば、マザー・テレサにその心を見ることが出来ます。
マザー・テレサが行って来た愛のわざは、みなさん言うまでもなくご存知だと思います。
マザーは、カトリックのシスターとして、インドのスラム街に赴き、そこに「死を待つ人の家」を作り上げました。
病気にかかったり、飢えて路上で死んでいくような人々を、その家に受け入れてお世話をし、最期を看取ります。
その家に受け入れられた人々は、イエス様の愛の中で安らかに感謝をもって死んでいくのです。
マザーは、
*******************************************
25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
*******************************************
のイエス様のみことばをいつも心にとどめておられたようです。
ところが、「死を待つ人の家」を取材していたあるジャーナリストは、このような愛のわざを実行しているマザーたちに不満がありました。
それは、そこで働いているシスターたちは、夕方にはみな引き上げてしまうからだそうです。
人は夜中に死ぬ確率が高いというのに、シスターたちは最期を看取らず、協力者に任せて帰ってしまう。
「彼女たちは一体帰って何をしているのだろう。誰か数人でも交代で残れば良いのに。」とジャーナリストは思いました。
シスターたちは、まず聖体拝領をします。聖体拝領はプロテスタントで言えば聖餐ですね。
そして、夕食をとって、夕べの祈り、それから眠るそうです。
不満をいうジャーナリストにマザーは言いました。
「私たちはソーシャルワーカー(社会事業家)ではありません。私たちはキリストのものです。私たちは貧しい人たちの中におられるキリストに仕えているのです。」
マザーたちは、ただ「イエス様への愛」という動機のみで、人々に仕えています。
マザーたちの愛のわざは、イエス様の愛に対する応答です。貧しい人たちの中におられるイエス様を見上げて、すべてを注ぎ出して主に仕えているのです。
ですから、イエス様のことを差し置いて、まず貧しい人たちに仕えるなどということはできません。
聖体拝領をし、神様から預かった大切な身体のために夕食をとり、祈り、眠るのです。
私たちは、弱い人間です。神様の支えがなければ、生きて行くことができない存在です。クリスチャンとなっても尚、自らの足りなさと、罪を覚えながら生きています。
イエス様はそんな私たちに、尊いご自身のいのちを与えてくださいました。そして、私たちを支え、励まし、生きる意味を与えてくださいました。
今も生きておられ、ともに歩んでくださり、私たちに、日々の力を与え、生きる希望と喜びをくださっています。
イエス様はどうしてこんなにも私たちを愛してくださるのでしょうか。そのイエス様の愛にどうやって応えていけばよいのでしょうか。
イエス様を心から愛しましょう。
また、神様の御前では、どの人も尊い、愛されるべき存在です。
私たちが周りの人々に愛のわざを行う時、そこに自分自身の姿を見ながら、その人にもイエス様のご愛が必要なのだということを覚えましょう。
そして、主イエスが愛してくださったように、その方にも接するということができるようになりたいですね。
聖書に記されていることは、最後の審判の時にすべて明らかにされます。
イエス様が聖書を通して私たちに教えてくださっていることの、良い方を選びとるようにしましょう。
そして、豊かな良い実を結んでいきましょう。