2007.12.09 処女降誕の理由 ルカ1:30-38

教会の建物が、クリスマス一色という感じです。私はノータッチで、すべて兄弟姉妹たちがやっています。だから、これほどまでできるんだなーと思います。当教会は、セルチャーチであり、ほとんどの活動は、兄弟姉妹が自主的になさっています。でも、ある牧師が「信頼して任せるとの、丸投げとは違う」と言いました。私の場合は、「丸投げみたいな所があるかなー」と少し反省させられました。ベン・ウォン先生が、私たちはプログラム活動ではなく、関係作りにもっと時間をかけるべきであると言いました。私もこれからは冗談を飛ばすだけでなく、リーダーたちと個人的にコーチングの時を持つべきだと思います。コーチングの一番の基礎は、友達関係になることだと教えられました。プログラム活動を否定するわけではありませんが、共に時間を共有する時を持ちたいと思います。きょうから、クリスマスに関するメッセージを聖書からお届けしたいと思います。

1.処女降誕の理由

 神の御子は人間を救うために、自ら人間イエスとなられました。これを神学的には、「受肉」と言います。それよりも、「クリスマス」と言う方が、私たちには分かりやすいでしょうか。でも、なぜ、神様が人間にならなければならないのでしょう?それは、私たち人類の身代わりになるためです。このことは、ギリシャ人にとっては、大きな躓きでした。なぜなら、彼らは「魂は善であるけれども、肉体は悪である。神様が肉体を取るなんて、そんなのありえない」と考えました。ある宣教師が、山で自給自足しながら修行しているヒンズー教の青年に伝道しました。彼もやはり「神が人になるなんて信じられない」と拒絶しました。ある時、彼が農作業をしている時、桑で蟻塚を掘り返してしまいました。蟻たちはパニックを起して、小川の方に行進しました。彼は「そっちは危ない」と、桑で止めようとしましたが、それを乗り越えて川に入って行きました。彼はそのとき「私が蟻になって、蟻のことばを話さなければダメだなー」と思いました。と、そのとき、神が人になった理由が分かったそうです。ジム・アーウィンと言えば、アポロ15号で月面に降りて、貴重な石を持ち帰った人です。その石は、月の年代を知る手がかりとなったので、創世記の岩「ジェネシス・ロック」と名付けられました。宇宙飛行士の多くは、地球に帰ってくると、人生が全く変ります。ジム・アーウィンの場合は、伝道者になりました。彼は「これまで何人もの人たちが月の上を歩いたが、歴史は変らなかった。ところが、2000年前、神が人となって、この地球を歩いた時から歴史が変った」と言ったそうです。

 でも、多くの人たちは「処女降誕」とか「聖霊によって身ごもった」と聞くと、非科学的だと言って躓きます。ある神学者たちは「それはその当時の神話の影響を受けて書かれたものだ。処女降誕は信じなくても良いから、イエスの十字架の贖いだけを信じれば救われる」とさえ、言います。しかし、私はそうは思いません。救い主の資格はアダムの子孫でありながら罪のないことでもありました。もし、一般的な受胎であるならば、アダムの原罪が転嫁されることになります。そこで、救い主は、聖霊によって処女マリヤから生まれる必要がありました。35節以降で御使いはこのように言っています。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」つまり、これは、神の奇跡と言うことができます。聖書で言う奇跡とは、自然の法則を破壊したり、停止させるものではありません。それは、自然の法則を超えた、超自然であります。カトリック教会は「マリヤに罪はなかった」といいますが、私はそうは思いません。処女マリヤとて、罪がある存在でした。でも、聖霊の力が臨み、イエス様は罪のないお方としてこの世にお生まれになったのです。私たちは、「聖霊があなたの上に臨み」ということばから、創世記1章の世界の創造、あるいは使徒の働き1章の人間の新創造を連想することができます。クリスチャンは、自分が聖霊によって新しく生まれたという奇跡を体験していますので、処女降誕も別に不可能だとは思わないのであります。

また、旧約聖書には救い主が、女の末から生まれると何度も預言しています。一番、古いのは創世記3章です。3章15節には、「女の子孫がサタンの頭を踏み砕く」と書かれています。また、イザヤは、イエス様が地上に来られる、600年も前にこのように預言していました。イザヤ7:14

「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」。また、イザヤ9:6「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」とあります。さらに、イザヤ11:1,2「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」。これでもか、これでもかと言うほど、預言者たちは御子の誕生を預言しています。つまり、イエス様がこの地上に来られることは、神のご計画であり、偶然ではなかったということです。うれしいですね。神様は人類が罪を犯した直後から、救い主をちゃんと計画していたということです。しかも、「女の末」であります。一番最初に罪を犯したのは、アダムではなく、エバでありました。アダムはエバの頭だったので、責任を負わされたのです。でも、神様はエバ、女性の汚名をすすぐかのように、あえて、「女の末」を用いたのであります。ハレルヤ!ですから、ゴマをするわけではありませんが、クリスマスは女性の回復のシーズンでもあります。

 でも、サタンは子供を生むことのできる女性を妬み様々な攻撃してきました。女性差別や蔑視、女性に対する性的暴力はその最たるものであります。少し前に、ある大臣が「女性は子供を産む機械である」と発言して大変な問題になりました。また、最近は川口で、最悪の事件が起こりました。なんとか未然に防げなかったものかと、憤りを感じます。本当に、あそこまでやるかなーと思います。本当に、女性はある意味で、サタンの攻撃の対象になっています。イエス様が処女マリヤからわざわざ生まれた。女性の力を借りたというのは深い意味があるのは確かなことです。先月の終り、エディ・レオ師ご夫妻が日本に来られました。今回は、JIGI、元日本教会成長研修所主催で招かれました。全国から120人以上もの牧師たちが、エディ先生のメッセージを聞けたわけですから、私は大変嬉しく思いました。その中で、男性と女性とが別々になって、3回程ですが集会を持ちました。私は女性の方はわかりませんが、男性も女性もそれぞれ、神様から与えられた特徴と使命があるということを教えていただきました。また、男性特有の罪や弱さ、女性特有の罪や弱さが話されました。私たちの敵であるサタンは、男女の関係を壊し、神の栄光を現わせないようにしています。しかし、神様は御子イエスがこの地上に来るとき、一人の男性と一人の女性を用いました。マタイによる福音書では、クリスマスにおいて、ヨセフのことが中心に書かれています。また、ルカによる福音書では、マリヤのことが中心に書かれています。どちらも、神の御使いが間をとりもっています。処女降誕は神の奇跡ではありますが、神様は、おとめマリヤとその婚約者のヨセフも必要だったのであります。というわけで、クリスマスは女性だけではなく、男性の回復でもあります。

2.マリヤの信仰

 マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう」と質問しました。少し躊躇したかもしれませんが、御使いのことばを聞いて信じました。そして、また、信じることの中には従順が含まれていることが分かります。マリヤは言いました。ルカ1:38「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。原文では、「見よ(ご覧下さい)、私は主のはしためです」とあります。マリヤの信仰を伺い知ることができます。マリヤは両親にはもちろん、婚約者にも相談せずに従いました。当時、婚約は結婚と同じ重さがあり、その期間に他の人の子供をみごもることは姦淫罪として石打ちにされました。当時も今も、処女降誕などを信じる人は、そうはいないでしょう。それなのに、マリヤはだれとも相談せずに、短時間で決断をしています。だいたい、男性は左脳で考え、女性は右脳で考えると言われています。男性は知っていることを並べたて、それらを検討して結論を出します。一方、女性での場合は直感で、判断するところがあります。もし、マリヤがヨセフと相談したらどうなったでしょう。もし、マリヤが両親やラビたちと相談したらどうなったでしょう。また、議会や委員会にかけたらどうなったでしょう。おそらく、反対されたに違いありません。助言を聞くことや相談が悪いと言っているわけではありません。決断したり、結論を出すときには、神様との間でやるべきです。マリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言いました。これは、現代的に言いますと、みことばに信頼するということです。だれかが、「ああ言ったから」とかではありません。私たちの信仰は彼女のように、神のことばの上に、信仰を置くべきであります。

 マリヤはこの後、ただちに、親類のエリザベツのもとに行きました。御使いから、不妊のエリザベツが、しかも高齢で子供を宿したことを知ったからであります。マリヤが信じた1つの理由は、神様がエリザベツにも奇跡を行ったからであります。56節をみますと、3ヵ月ほど、エリザベツと暮したと書いてあります。体がある程度安定するまで、もしくはヨセフと距離をおくためだったかもしれません。マリヤはだれとも相談せず、一人で決断しましたが、エリザベツとだけは、3ヶ月間、共にいました。エリザベツだけが、マリヤのことを理解していたからでしょう。42節以降をお読みいたします。そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」エリザベツのことばは、むしろ預言の歌と言えます。エリザベツの胎内にいた子供は、バプテスマのヨハネですから、生まれる前から、イエス様と交流があったことになります。とにかく、マリヤとエリザベツは、神様の奇跡的な懐妊を共に喜び、ともに賛美しています。46節からマリヤが歌いますので、まるでミュージカルのようであります。二人は、まるで、詩篇133篇の記事のようであります。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」アーメンであります。私たちは信仰を分かち合う友が必要であります。互いに愛し合うところに、神様が住んでくださり、すばらしい祝福を与えてくださいます。

当教会でも、姉妹たちが夜遅くまで、交わっています。日曜日、月曜日、金曜日、土曜日、戸締りが大変です。私なんかは「何をそんなに話すことがあるのだろうか?」と不思議に思います。でも、当人たちはそうじゃないようです。半年くらい前、香港からベン・ウォン師が来られました。そのときは、台湾からテモテさんも一緒に来られました。牧師館の1階で泊まってもらいましたが、夜中の2時頃まで話していました。話していたというよりも、笑い合っていました。何か1こと言うと、げらげらげら、また何か1こと言うと、げらげらげら。帰りに空港まで送りましたが、そのときも車の中で「話しては笑い、笑っては話す」という状態でした。ついこの間、ベン・ウォン師が練馬に来られました。私たちは8時くらいになると、もう遅いので帰ります。ベン・ウォン師は、さらに、青年たちと交わるためにマクドナルドに行きました。11時くらいまで話していたそうです。1日ご用したあとで、さらに、外に出かけるのですから、たいしたもんです。今回も話しておられましたが、関係作りのため時間をいとわない。これがコーチングのコツのようです。私たちは業績志向から解放される必要があります。日本人は、ただ話しているだけというのは、非生産的だと考えるでしょう。しかし、神の国の雰囲気というものがあります。それは、共に分かち合い、共に励まし、共に笑う。麗しい共同体の中に主が住んでくださり、みわざをなしてくださるのです。マリヤとエリザベツは3ケ月の間、楽しく共に暮していました。胎児のために、とってもよかったのではないかと思います。

 47節以降の、マリヤの歌を見ますと、誤解や犠牲をも省みず、自分が救い主を宿す者になったことを喜んでいます。普通なら、「ああ、どうしよう。石打ちにされかもしれない?私生児を産んだとも言われるかもしれない」と心配するはずです。でも、彼女はメシヤの母になることをこの上もない特権であると思いました。神様の前に、いろんな奉仕がありますが、自分の胎をメシヤのために捧げるというのは、マリヤしかできなかったことであります。46節以降をお読みいたします。マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」この歌詞で、たくさんの讃美歌が作られていることでしょう。マリヤは、「どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と歌いましたが、これも1つの預言であります。実際、マリヤほど高められた女性も世界ではいません。ローマカトリックでは、マリヤを神様と同じ高さまで、高めてしまいました。赤ん坊を抱いたマリヤ像が最も知られています。あれだど、救い主が赤ん坊のために、マリヤの方が偉大に見えてしまいます。ほめ殺しという言葉がありますが、行き過ぎはやはり問題です。今、「マリア」という映画が上演されています。ウェブサイトを見ましたが、「あなたはまだ、本当のクリスマスを知らない」とありました。また、マリヤがヨセフに対して、believe me!と言っていました。パッションと同じように、史実に基づいて、作られた映画だと思います。

私たちはマリヤの信仰を学ぶべきであります。ヨセフもそうでありますが、小さな自分たちの幸せを守るくらいの信仰ならば、決して、救い主誕生のために献身できなかったでしょう。マリヤは、婚約解消、石打の刑、世間の誤解を恐れませんでした。また、100キロ先のベツレヘムの洞窟で子供を産みました。宿屋がなかったためです。ある先生は、親戚の人が一緒にいたはずなのにどうしてなんだろう。「マリヤは私生児を宿した」と噂され、冷たくされていたのではないだろうかと言っておりました。また、赤ん坊が誕生してまもなく、ヘロデ大王が命を狙って、追っ手を差し向けました。二人は真夜中、エジプトに逃れます。逃亡者として、何年間か暮らすわけです。救い主の母になるということは、決してロマンチックなことではありません。ですから、信仰とは継続的なものであり、一時、信じれば良いというものではありません。途中に、山坂があるんですね。私たちの場合も同じです。「神様、あなたのためにやっているのに、何故ですか?」と文句を言いたくなるでしょう。でも、様々な困難を通過することによって、私たちの信仰がますます強くなり、神様との関係も深くなるのではないでしょうか。神様はこの世における問題やサタンの攻撃すらも、信仰の成長のために用いてくださるのです。主に用いられるということは、必ずしもかっこいいものでないことかもしれません。クリスマス・ページェントではいろんな役があります。ヨセフとマリヤは主人公ですから、とても良いかもしれません。しかし、2人だけです。東の博士もおれば、らくだや、羊の役も必要です。さらには、星の役も必要です。幕の後ろから、星を動かすのですから、セリフもありません。でも、星も大切であります。私たちもこの人生において、どんな役を賜わるかわかりません。私たちの信仰がどんなものであるか神様が一番ご存知です。ふだんの生活における信仰は、とても地味なものでしょう。でも、神様からチャレンジを受けたときは、大胆に従いましょう。そのときは、人から誤解されることも恐れず、マリヤのように喜んで従いましょう。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。」