2019.6.2「~ゼパニヤ書の喜び~」

◆聖書箇所: ゼパニヤ書3章14-17節 (聖書引用:新改訳2017)

 

3:14

娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

3:15

主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。

3:16

その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。

3:17

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

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5/29水曜日に鈴木先生が入院、頭部の血腫を取り除く手術をされました。

昨日無事退院なさったということで、ほっとしました。鈴木先生の完全なる癒しをお祈りください。

術後ということですので、先週に引き続き私が礼拝メッセージを担当させていただきます。

 

今月は6/30に私がメッセージ担当する予定でしたが、本日と入れ替わる形になりましたので、12の小預言書の続きとなります。

 

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」「ナホム書」「ハバクク書」と続きました。

今日は9番目の預言書、「ゼパニヤ書」の一書説教です。

 

ゼパニヤ書は3章から成り立つ小預言書です。

1章-3章8節までは、ユダ、エルサレム、近隣諸国へのさばきの宣告について語られています。

3章後半は、異邦人を含めた回復と祝福、主の日がやって来た後の喜びについて語られています。

それまでの厳しいさばきの宣告をすべてひっくり返して、民だけではなく、主がともに喜びをもって楽しんでくださる様子が預言されています。

 

前回のハバクク書もそうでしたが、主は、どん底とも言える気の遠くなるような長い苦難の末に、驚くほどの、大いなる祝福を与えてくださるというU字型の希望を見せてくださいます。

ゼパニヤ書は、どん底から引き上げられた時の喜びが、半端なくはじけた感じで語られている書なので、今回は「ゼパニヤ書の喜び」と題しました。それではゼパニヤ書を見て行きましょう。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

①神のさばきは民を愛するがゆえ。(1-2章、3章1-8節)

 

ゼパニヤの名前の意味は、「主は隠される」です。彼はその名の通り、主からの隠されたメッセージをユダの民たちに伝えましたが、彼の預言に耳を傾ける者は少なかったようです。

 

ゼパニヤが活動した時代は、前回語ったハバククやエレミヤとほぼ同時期のヨシヤ王の時代です。

冒頭でゼパニヤは、自分の家系をわざわざ四代も遡って、自分はあの偉大なる王ヒゼキヤの子孫であると語っています。これは、ユダの民たちに、この預言が王家の血統である者が語る権威あるものだということを示したかったからだと考えられます。

 

おそらくヨシア王は、ゼパニヤ預言の影響を受けて、宗教改革を行なったのではないかと考えられます。

しかしヨシヤ王の宗教改革も虚しく、最後の善王だったヨシア王が戦死したときから、南ユダ王国は70年間のバビロン捕囚へと突き進んでいきました。

 

1章では、ユダとエルサレムのすべての住民に下された神のさばきが語られています。

ユダの罪は、1:4-6に書かれています。

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1:4

わたしは手をユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。

その場所からバアルの残りを、偶像の祭司たちの名を、その祭司らとともに断つ。

1:5

そして、屋上で天の万象を拝む者どもを、また、主に誓いを立てて礼拝しながら、

ミルコムに誓いを立てる者どもを、

1:6

主に従うことをやめた者ども、主を尋ねず求めない者どもを断ち切る。」

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ここに【ユダの罪】をピックアップしてみます。

      • バアル神崇拝(カナン人の神)
      • 天体礼拝
      • ミルコム神崇拝(アモン人の神)

※マナセ王の時代には、人身犠牲を伴う偶像崇拝を行なったという記述もあります。

 

このようにユダの民は、聖書の神以外のものを神のように崇拝しました。

それゆえ、「主に従うことをやめた者、主を尋ねず求めない者を断ち切る」と主は怒りをあらわにしました。

 

「主はねたむ神」と聖書の随所に書かれていますが、これは対人関係の「ねたみ」とは質が違います。

神はイスラエルの民を、まるで自分の妻であるかのように愛してくださっています。

ですから民は、真の神の愛に応えて、神のみを夫として愛し仕えなければなりません。

 

しかし民の偶像崇拝によって神との契約関係が破られてしまいました。

神は民を愛するがゆえにねたまれ、さばかれます。神が最も嫌われる罪は偶像崇拝です。

モーセが神から与えられた十戒には、神が何についてねたまれるかについてはっきり語られています。

 

<出エジプト20:4-6>

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20:4

あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

20:5

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神

わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

20:6

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

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ユダの民はこのモーセの律法を何代にも渡って語り継ぎ、熟知していたはずです。

それなのにユダとエルサレムの住民たちは偶像崇拝の罪を犯し続けましたので罪深いです。

 

特に、ヒゼキヤ王の息子マナセ王が55年もの長きに渡って及ぼした悪影響は、民たちを罪に対して鈍感にさせました。その罪は息子アモン王に引き継がれ、その息子ヨシヤ王が宗教改革を行なっても、残念ながら回復しなかったということです。罪に鈍感になるということの恐ろしさを、私たちもここから学びましょう。

 

またゼパニヤ2章では、近隣諸国の罪とさばきについて言及しています。

「彼らはわたしの民をそしり、自分の領土のことで高ぶった。」(2:8,10)と語られている通り、近親諸国に対するさばきは、反ユダヤ主義に対するさばきでもあります。

 

神は民をねたまれ、ことごとく滅ぼすと言われます。

しかしそれは、主が民たちを愛するがゆえであり、主は完全に滅ぼし尽すことはなさいません。

このような状況にあっても、信仰をもち続け、主を慕い求める者たちには希望を与えてくださいます。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

②神は残りの者、散らされた者を集めてくださる。(3章9-13節)

 

ここに神のご計画があります。

神は人間の罪が増長して、パンパンに膨らんで、もうどうしようもなくなったときに、すべてを散らされることがあります。そして、神様が定められた御計画のときに、残りの者、散らされた者を再び集めてくださいます。

 

<ゼパニヤ3:9>

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3:9

そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。

彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。

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「唇を変えて清くする。」は、英語の聖書(NKJV)では a pure language (純粋な言語)と書かれています。

この「唇、言語」と訳されたヘブライ語は、「שָׂפָה(サーファー)」と言いますが、この「שָׂפָה(サーファー)」が聖書で初めて使われているのは、創世記11章1~9節の「バベルの塔」の出来事の箇所です。(11:1, 6, 7, 7, 9)

 

バベルの塔の話を要約します。人は知恵をもち、おごり高ぶり、天にも届くようなバベルの塔を築こうとしました。しかし神はそれを阻止されました。神は、それまでひとつであった言語をバラバラにして混乱させ、コミュニケーションを取れなくしました。彼らには一致がなくなり、バベルの塔や町を築くことはできませんでした。

 

ゼパニヤ3:9では、バベルの時代からバラバラになったまま現在にいたる世界中の言語を、a pure language (純粋な言語)に変えてくださり、与えてくださると語っています。「彼らはみな主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。」創世記11章のバベルの塔の出来事が、終末の主の日に見事に回収されていきます。

 

「言語」というと、現在使われているヘブライ語にも、神様の不思議な導きがあります。

ご存知の方もおられると思いますが、実は、旧約聖書の古典ヘブライ語は、ユダヤ人が紀元70年にローマから世界各地に散らされてから二千年近く、日常語としては使われていませんでした。

 

聖書や書籍でしか使われなくなった古典ヘブライ語は、なんと、20世紀に日常語として復活しました。

その立役者は、ロシアで暮らしていたユダヤ人の学者、エリエゼル・ベン・イェフダー(1858年 – 1922年)という人です。

彼はロシアからパレスチナに移り住み、古典ヘブライ語を現代ヘブライ語に直して日常語として使いました。

彼は、使われなくなっていた単語を文献から探し出し、現代的な概念を表す新語を編み出しました。

そして、全16巻からなる、『ヘブライ語大辞典』を編集し、彼の死後それは出版されたそうです。

 

そのようなユダヤ人たちの努力によって、現在ヘブライ語はイスラエルでは公用語として使われています。

このように、一度日常語として使われなくなってしまった古代の言語が再び復活して使われるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけだそうです。

ここには確かに神のご計画があり、イスラエルのために散らされた言語を集めてくださったと考えられます。

 

このように、聖書には隠された啓示があります。ユダヤ人の文学者に、エリック・アウエルバッハという人がいます。彼は、ホメロスのオデッセイと旧約聖書の物語の対照についてこう語りました。

 

「聖書の物語はホメロスのように数時間、読者の現実を忘れさせようとするのではなく、現実を乗り越えさせようとする。自分たちの人生はこの世界の一部であり、世界の歴史を形造る一員だと感じさせてくれる。」

 

聖書の預言通り、現実にイスラエルの民はバビロンに捕囚され、70年後にはエルサレムに帰還しました。

そして紀元70年にはローマ帝国からの迫害によって散らされました。

しかし神はすべてを滅ぼすことはなさらず、残りの者、散らされた者を集めてくださいました。

1948年にイスラエル国はついに再建され、散らされた残りの者たちが戻ってきました。

まさにこの出来事は、聖書の隠された啓示であり、世界の歴史を形造る出来事となっています。

 

主の素晴らしいところは、このような歴史上の大きな出来事だけではなく、私たちの日常の小さな出来事にも聖書のみことばを通して介入してくださることです。

主のみことばは、私たちを励まし、強くしてくださり、現実を乗り越えさせ、私たちの人生もこの世界の一部であり、私たちは世界の歴史を形造る一員だと感じさせてくださいます。

 

◆ゼパニヤ書の喜びとは

③シオンの娘よ。喜び歌え。(3章14-20)

 

<ゼパニヤ3:14-16>

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3:14

娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

3:15

主はあなたへのさばきを取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れることはない。

3:16

その日、エルサレムは次のように言われる。「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。

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※新改訳2017では、3:14 「喜び勝ち誇れ」が「喜び躍れ」になっています。

 

「主の日」「その日」というのは、ゼパニヤの時代においては、バビロン捕囚と帰還のことであり、歴史としてのイスラエルの回復を表しています。

しかし「主の日」が真に意味するのは、終末の時、イエス様の再臨の時、メシア王国の実現の時です。

 

「主の日」は、ギリシャ語で「καιρός(カイロス)」と言います。カイロスは、通常の時間の流れの中に突如介入される神の時を表します。終末の主の日には、さばきと祝福が同時に起こります。

そしてそれは、とんでもないほどの喜びに満ち溢れるときであると、ゼパニヤは語っています。

主の日には、イスラエルの民だけではなく、主を慕い求める異邦人もともに、喜び歌い、喜び叫び、喜び躍ります。まるで、ダビデの幕屋での礼拝の状態とも言えます。

 

ダビデは主の箱をエルサレムに運び入れるとき、妻のミカルがさげすむほど、力の限り踊って神を褒め称えました。そして、幕屋の中の至聖所に主の箱を置き、全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げました。

ダビデは、レビ人のアサフとその兄弟たちを主の箱の前で仕えさせました。

 

<Ⅰ歴代誌16:5-6>

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16:5

かしらはアサフ、彼に次ぐ者は、ゼカリヤ、エイエル、シェミラモテ、エヒエル、マティテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエル。彼らは琴や竪琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。

16:6

祭司ベナヤとヤハジエルは、ラッパを携え、常に神の契約の箱の前にいた。

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そのエキサイティングな礼拝は、ダビデがエルサレムで王になって死ぬまでの33年間、24時間絶え間なく続いたと言われています。(礼拝を司っていたレビ人たちは、大変だったろうな~と、ちょっと思います。)

 

この日本においても、ダビデの幕屋の回復を目指す「国家的ダビデの幕屋の回復」という運動があります。

その運動には私たちがよく知っているワーシップリーダーとか若い牧師が賛同して参加しています。

内容としては、活動に賛同する全国の牧師や信徒が、日本の国家規模のダビデの幕屋の回復のために、24時間祈りを繋ぎ、断食祈祷をして、賛美と祈りをもつというものです。

 

2014年~2015年にかけてとても盛りあがっていたようです。

その年は、多くの月食が起こり、日食も起こり、ユダヤの祭儀も重なったことから、「主の日」が来るのではないか、何か大きな世界的な変化が起こるのではないかと言われていました。

 

結果的には世界的な変化は起こりませんでしたが、おそらく本当に主の日が来たときは、花嫁が、待ちわびた花婿を迎えるように、ダビデの幕屋以上の素晴らしい喜びが満ち溢れることでしょう。

ずっと賛美しても、叫んでも、躍っても、祈っても全く疲れない。まさにそれは神の国の完成です。

 

その神の国の完成についてですが、「神の国は既に到来し、未だ到来せず。」とよく表現されます。

「既に到来」とは、イエス様が受肉し公生涯を歩まれ、十字架の贖いと復活を遂げられたことで既に到来したという意味です。

「未だ到来せず」は、イエス様の再臨(主の日)において神の国が完成するので、その意味では未だ到来していないということです。

 

私たちは、「既に」で、神の国の前味を味わえる祝福をいただいており、イエス様への信仰をもつことによって、永遠のいのちをいただくことができます。

そして教会を通して福音が拡大し、神の共同体として豊かな信仰生活を送ることができます。

 

しかし、世の悩み苦しみ、罪との戦い、戦争、飢餓、天変地異などからの解放はまだ得ることができません。

つまり、神の支配がすべてに及んでいないということであり、「未だ」神の国が完成していないということになります。

 

しかし主の日は必ずやって来ます。その日、私たちは喜び歌い、喜び叫び、喜び躍るのです。

それが「将来の希望」です。

イエス様は、私たちに喜びをくださるために地上に降りてきてくださいました。

なぜなら、イエス様は私たちを造られたときに、このように喜んでくださっていたからです。

 

<箴言8:27-31>

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8:27

主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、

8:28

上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、

8:29

海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、

8:30

わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。

8:31

主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。

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ここでの「わたし」は、イエス様を表しています。

主とイエス様が私たち人間を主の似姿として造られたとき、イエス様は毎日喜び、楽しんでおられました。

そしてイエス様は、主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んでくださっていました。

それなのに、アダムとエバが罪を犯し、人はこの麗しい世界から出なければなりませんでした。

 

しかし、主の日が来た時に私たちは再びこの麗しい世界に集められ、戻ることができます。

その時、主もともに喜んでくださいます。ゼパニヤ3:17で語られている通りです。

 

<ゼパニヤ3:17>

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3:17

あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。

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そしてゼパニヤ書の最後に、主は力強いみことばで私たちを力づけてくださいます。

<ゼパニヤ3:19-20>

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3:19

見よ。わたしはそのとき、あなたを苦しめたすべての者を罰する。わたしは足を引きずる者を救い、散らされた者を集め、彼らの恥を全地で栄誉ある名に変える。

3:20

そのとき、わたしはあなたがたを連れ帰る。そのとき、わたしはあなたがたを集める。まことに、あなたがたの目の前でわたしがあなたがたを元どおりにするとき、わたしは、地のあらゆる民の間であなたがたに栄誉ある名を与える。──主は言われる。」

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主は南ユダより先に滅びてしまった北イスラエルの民を忘れてはおられません。

シオンの娘である南ユダの民とともに、散らされた残りの者を集め、祝福を与えると語られています。

異邦人である私たちは、イエス様を信じる信仰によって、その祝福に接ぎ木された者たちです。

イエス様の恵みを心から感謝し、主の日を待ち望み、この地上においても喜びの前味を味わいましょう。