2019.5.19「ニューエイジとの違い Ⅰヨハネ4:1-6」

 キリスト教会では奇跡が起こるとか、神の御姿に変えられると言います。また、私たちは聖霊による啓示や導き、預言を信じています。さらには、キリストの御名による癒しや死人のよみがえりさえも信じています。しかし、1970年代から霊的な体験を強調するニューエイジが誕生しました。新約聖書の時代、グノーシスという神秘主義がありましたが、近年、東洋の宗教やオカルトと合体して、「新しい時代」ニューエイジなる偽物が登場しました。私たちはニューエイジのことをある程度知っておかないと、惑わされて、救いから漏れてしまう恐れがあります。

1.私は神ではない

ニューエイジは1970年代から今の形になったと言われています。その頃は、ウッドストックというロックのフェスティバルがありました。ヒッピーを含め40万人も集まったロックの祭典です。私も1970代のロックは大好きですが、だんだんとニューエイジぽくなっていきました。そういえば、アクエリアスという曲がありました。Age of Aquariousは「水がめ座の時代がやって来る」というニューエイジの歌です。それから、「宇宙のファンタジー」は「すべての人は、心の中に宇宙を持っている」と歌っています。ジョン・デンバーはニューエイジ・コミューン(New Age Commune、ニューエイジ村)を作り、合気道によって宇宙精神と合致することを目指し、ピラミッドのなかで瞑想を行い、将来自分が大統領になることなどを信じて生活をしたそうです。ジョージ・ハリスンが歌った、My sweet Lordは、インドのクリシュナへの信仰を歌ったものです。歌だけではなく、アニメの世界もニューエイジのものが多数あります。ある資料によると、『ぼくの地球を守って』『機動戦士ガンダム』『セーラ・ムーン』『ちびまるこちゃん』のテーマソング「おどるぽんぽこりん」がそうだと言われています。尾形守牧師は、『脳内革命』『神々の指紋』は、ニューエイジであるとはっきり言っています。

 こう考えると、ニューエイジはとても身近にある惑わしの宗教です。キリスト教の信仰も、「繁栄の神学」、「積極的思考」「ホリステックな癒し」を強調し過ぎると、そちらに行く危険があります。しかし、偽物があるからと言って、本物がないわけではありません。ただし、敵は巧妙に隠れて、真の神さまから私たちを離そうとしています。結果的に、十字架の贖いを否定し、キリストの神さまから離れるということです。ニューエイジは「私たちは神の子であり、神のようになる」と言います。彼らが引用するみことばがこれです。使徒17:28「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。」パウロが「私たちもまたその子孫である」とは、ギリシャの詩人からであり、聖書のみことばではありません。何故、パウロが異教的なものを借用したのか、多少疑問が残ります。私もある真理を証明するために、新聞の社説や評論家が言ったことを引用するときがあります。なぜなら、この世の中にも、一般恩寵という真理のかけらがあるからです。しかし、文脈を飛び越えて捉えられてしまうと、危険です。私たち人間は神さまの被造物であって、神さまと同等ではありません。しかし、キリストにあって「神の子(神の養子)」とされました。神に似た者として造られましたが、神ではありません。もし、ニューエイジが言うように自分が神になるなら、自分が絶対者になり、何者にも支配されない高慢な者になるでしょう。悪魔は「自分が神のようになるんだ」と堕落してしまいました。私たちは神さまの子どもですが、神さまではありません。私たちは神さまに似たものとして造られましたが、神になるわけではありません。正常な頭脳で聞いているとアーメンですが、ニューエイジに汚染されたら、このところが分からなくなります。神さまは私たちに知性や理性を与えてくださいました。これをなくすのではなく、神さまの真理と一致させるように用いるためにあります。信仰は、受動的なマインドコントロールではありません。自ら考えて、自らを真の神さまにささげるのです。

 ニューエイジはいろんな姿を変えて私たちの身近に迫っています。良く聞くのが「自己啓発セミナー」です。ウェブには「第一にアメリカ流のセラピー(心理療法)であり、第二はセールスマンをはじめとするビジネス・トレーニングでもあり、第三は、現象面では新新宗教やニューエイジとも重なり合う」と書いてありました。セミナーは「ニューエイジへの入り口」であり、セミナーなどをきっかけにチャネリングなどに参加したり、『聖なる予言』などの精神世界本を読み始めたりすることもしばしばあるようです。セミナーのトレーナーや主宰者の多くは精神世界の熱心な信奉者です。私も「私はできる」「信じれば何でもできる」というようなことも言います。しかし、それは「主にあって」です。彼らの本を読むと、似たようなことが書かれていますが、それを行って下さるキリストの名は全く登場しません。確かに、信じれば何でもできるという、可能性思考には力があります。でも、私たちには父なる神さまがおられ、御心とご計画の範囲内です。私たちは成功ではなくて私たちは栄光を求めなくてはなりません。もし、何か大きなことをしたら自分に栄光が来るのは偽物です。私たちは常に神さまに栄光を帰していくのです。神さまが私たちの支配者であり、私たちは神さまのしもべです。しもべと言っても奴隷でありません。神さまの息子、娘として喜んで仕えるのです。

2.霊は聖霊である

10年くらい前から、「スピリチャル」ということばが良く聞かれるようになりました。スピリチャルと言っても、神の霊ではなく、目に見えない霊的な力のことです。現在、スピリチャル・カウンセラーなる人たちがたくさんいます。心理学や催眠術を用いて、心を癒そうとします。しかし、催眠術はとても危険であり、無意識の状態から悪霊を招いてしまいます。また、ニューエイジがよくやるのがチャネリングです。高次の霊的存在、宇宙人、死者の霊と交信して情報を得るものです。昔から、霊媒や口寄せがありましたが、死者からの御告げを受けるというおぞましいものです。日本では恐山のイタコや沖縄のユタが知られています。レビ記20:27「男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」と書いてあります。なぜ、こういうものをしてはいけないのでしょうか?人間は生まれつき霊的な存在です。人間には霊があります。でも、それは霊である神さまと交わるためです。ヨハネ4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」私たちは霊によって、霊なる神さまを礼拝するのであります。ところが、チャネリングとか霊媒や口寄せをするとどうなるでしょう?招かれるのは、高次の霊とか、死者の霊ではありません。やってくるのは悪霊です。その人は、悪霊に扉を開けて、招いているのであって、とても危険です。では、なぜ、死者の霊が出て来て、おじいちゃんやおばあちゃんのことを知っているのでしょう?それは死んだ人にとりついていた悪霊が先祖の霊のふりをしてやってくるのです。彼らは先祖たちにとりついていたので、生前の情報を持っていると考えられます。しかし、悪魔は嘘つきであり、人々を欺くためにやってくるのです。本来はまことの神さまを礼拝して、導きを得なければなりません。もし、チャネリングとか霊媒や口寄せをするなら、まことの神さまはあてにならないので、悪霊に聞くということになります。占いもそうですが、まことの神さまを認めない、背信的行為です。

 Ⅰヨハネ4:1,2「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」アーメン。この手紙が書かれたのは、紀元80-90年頃と言われていますが、当時、グノーシスという異端が流行っていました。これは、神話や哲学、ユダヤ教など、あらゆるものを混合した神秘主義の宗教でした。創造神よりも高い霊的存在を求め、天使を崇拝したり、いろんな儀式をしました。そうなると、非日常的になり、社会的生活をしなくなります。神秘的な体験ばかりを追い求めるからです。ヨハネは「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」と言いました。どうやって試すのでしょうか?その霊が「人となって来られたイエス・キリストを告白するかどうか」です。彼らは肉体を極端に蔑み、魂だけを尊びます。しかし、イエス・キリストは、受肉した神であり、肉体と魂、両者を大事にしました。仏教も物質やこの世のものを軽んじる傾向がありますが、これらは神さまが造られたものであることを忘れてはいけません。もちろん、物質やこの世のものはやがて消えてなくなります。でも、永遠の御国が来るまでは、それらのものは、私たちが生きるために存在するのです。私たちは霊的なものを強調しますが、バランスを取るということがとても大切です。私たちはキリストの父なる神さまと交わるのです。そのために、聖霊が私たちの霊を生かし、まことの神さまと交わることを可能にしてくださいました。エペソ1:13,14「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」アーメン。

3.瞑想は父なる神と

 瞑想は私たちも行います。詩篇1:2「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。ヘブル語で「ハーガー」は、「口ずさむ」「思い巡らす」という意味です。東洋の宗教にも瞑想があります。しかし、彼らは自分を無にして、宇宙の霊と交わり、その霊と一体になろうとする目的でしています。彼らの神は人格のない神であり、汎神論的なものです。本来私たちは罪があるので、神さまのところには行けません。しかし、キリストによって贖われたならば罪がきよめられ、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。私たちが行う瞑想は、聖書のみことばを通して、神さまがどんなお方か知るためです。その時、神さまは私たちと交わってくださり、啓示を与え、慰めを与え、導きや知恵を与えてくださいます。でも、私たちが何かを得たいからではなく、贖いを土台とした、神さまとの交わり自体が目的なのです。結果的に、神さまからの祝福や恵みを受けることができます。残念ながら、ニューエイジの瞑想は、人格をもった創造主なる神がいません。自分が宇宙の大霊と一体になるので、自分がいなくなるか、自分がおかしくなります。ニューエイジを長くやっている人は、人格が混乱し統合失調症と同じような症状が出てきます。仏教でも瞑想があります。ある実験で、クリスチャンと仏教徒が瞑想して、両者の脳波を調べてみたそうです。クリスチャンの脳波はとても安定していますが、仏教徒の場合は時々乱れるそうです。おそらく、自分の意思や力で自分を制しているからでしょう。私たちは神さまにすべてをゆだねますので、心の中を神の平安が支配します。

 私は瞑想がとても大好きであり、瞑想によって神さまからメッセージをいただきます。瞑想は英語でmeditationであり、ラテン語でmeditatioから来たことばです。ローマ時代は「精神的および身体的な訓練・練習」全般を意味していました。しかし、キリスト教がはいると、神、イエス・キリスト、聖母マリヤなどを心の中でありありと想い浮かべることを意味するようになったようです。しかし、瞑想は仏教やヨガでもありますので、誤解されがちです。私たちは心を無にするのではなく、三位一体の神さまと交わるのです。そのときに、聖書のみことばと私たちの祈りを加えます。何かを祈るというよりも、神さまがどうおしゃっているのか聞くことが優先されます。私が説教の準備をするときは、聖書を読んで、ある程度調べたあとに行います。目をつぶり、体を伏せながら「これをどのように語ったら良いでしょうか?」と聞きます。5分から10分くらいで、概要が浮かんできます。さらに瞑想すると、大体のあらすじが完成します。それを忘れないうちに、神に書き留めるとメッセージの下書きができます。その後、パソコンに向かい、例話を入れたり、本を引用したりして完成していきます。ある牧師たちは、まず、誰かの書いた注解書を何冊も読みます。その後、どれを語るか良いところを抽出します。でも、それはだれかの借り物なので、力がありません。私は神さまからメッセージをいただいた後に、本から引用するので、力がなくなるということはありません。神さまは私たちに語ってくださいます。私たちがこの世のことで、心騒がしくしているので聞こえないのです。

 現代は神さまとの交わりを妨げるものが満ちています。テレビが一番の邪魔者です。一日、三時間、四時間も見ていたら、頭の中が「サスペンス」になります。その次がスマホやインターネット、ゲームです。現代はチャット、フェイスブック、SNSで多くの人たちとつながっています。頭と心が全部、人間社会の情報につながっており、まことの神さまと交わっている人はほとんどいません。現代は神さま抜きの情報が行き巡っています。ギリシャ語で人間はアンソロポスと言いますが、「上を見上げる存在」という意味があります。私たちはまことの神さま、霊なる神さまと私たちの霊で交わるべきです。神との交わりが豊かにできるように聖霊が助けてくださいます。目に見えない電波が私たちの周りを行き巡っています。私たちも霊ですから、神さまの霊でないものも入って来ます。人間の霊、悪霊、諸霊が入って来ます。私たちは霊的チューナーを用いて、まことの神さまの波長に合わせる必要があります。ヨハネ10:3-5「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」私たちはイエスさまの声に耳を傾けるべきです。

4.奇跡や癒しはキリストの御名による

 「サイキック」とか呼ばれる病の癒しがあります。彼らは手から霊的なパワーがでてくると考えています。これはオカルトの1つです。かなり前にインドにサイババという人がいました。彼は癒しや預言や不思議なことをしました。ある人たちは「あれはインチキだ」と言いますが、実際に起ったものもあるでしょう。人間には元来、ある程度の力があります。生まれつきのものもあれば、悪魔から力を得たものまであります。私たちは奇跡や癒しが起ったからといって、それが神からのものだと断定してはいけません。モーセがパロの前で奇跡を行なったとき、呪法師たちも同じようなことができました。バビロンにも、知者や呪法師や星占いがいました。しかし、ダニエルの知恵にはかないませんでした。現代においても、魔術や超能力を行う人がいてもおかしくありません。問題は、誰の力でそれを行っているかであります。使徒の働き8章にはピリポによるサマリヤのリバイバルが記されています。しかし、その町にはシモンという魔術師がいました。彼はサマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していました。そのためあらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ」と言っていました。しかし、ピリポが行っている「しるしと奇跡」にはかないませんでした。シモンはお金を出して「その権威を私にもください」と願いました。ここだけではありませんが、宣教に出かけると魔術師たちとの戦いがあります。人々は聖霊の方がまさっているのを知り、キリストの救いを受け入れるというパターンがあります。

現代のキリスト教は、癒しや奇跡を行なわなくなりました。なぜなら、低級なご利益宗教と同じだと思われたくないからです。しかし、聖書においてイエス様は病人を癒しました。マルコ16章には「病人に手を置けば病人は癒される」と書かれています。現代の教会は、福音宣教ばかり強調します。しかし、イエス様は同時に、病を癒し、悪霊の追い出すように命じられておられました。福音宣教しか行わないので、神の国が今ここに来ていることを証明できません。「病気になったら、医者に行ってくださり」と言います。だから、人々は、新興宗教の癒しの方に行くのです。ビル・ジョンソンの”The Supernatural Power”(超自然的力)という本から、直訳して引用させていただきます。「神さまがこの地におられることを反駁できないための証明は、主要な奇跡の働きと超自然的な生き方を直ちに提供することである。そのため、神のリアリティがどのようなものか、だれが神なのかを実演して見せることである。あなたの地上における仕事で、神の御旨の力を現したことがあるだろうか?他の人たちに、これが神であると見せたことがあるだろうか?あなたを通して、敵のわざが当惑させられることを、神に許したことがあるだろうか?ほとんどの人たちは、神がどのように振舞うか、私たちに対する神の心の内側を何かを知らない。あなたの召しと私の召しは、信者として、大きすぎて理解できないかもしれない。しかし、聖書の命令ははっきりしている。私たちの仕事は、天国の存在のリアリティを、今ここに、この時に現すことである。私たちは単に神が正しいことを信じている者たちではなく、神のみこころを提示し、人々が「おお、神はこのような方なのか」と悟るように仕向けることである。癒しと解放と回復は、緊急な問題を解決することよりも、より大事なことである。

 人々は教会が癒しを行なわないので、医者や病院に行きます。もし、それで治らなかったらどこに行くでしょう?拝み屋に行きます。手かざしをしてくれるところ、護摩焚きをしてくれるところに行くでしょう。あるいは、「サイキック」と呼ばれるニューエイジのところに行くかもしれません。不思議なことに奇跡が起こり、病が癒されます。人々はどうするでしょう?「ああ、これがまことの神さまだ」と自分をささげるでしょう。悪魔は体を癒すかわりに、魂をいただくでしょう。悪魔は最後に永遠の炎で滅ぼされる運命にありますが、一人でも多くの神の子どもたちを巻き添えにしたいのです。多くの教会は「癒しや奇跡は過去のものです」と手をつけません。その代り、新興宗教やニューエイジがそれを行って、人々を惹きつけているとしたら何と残念なことでしょう。私たちはもう一度、福音書に帰り、イエス様が弟子たちに命じたことを行なわなければなりません。ビル・ジョンソンは「神学校は神学ばかりを勉強して、どうして癒しや奇跡の実践科目がないのか」と嘆いています。イエス様はこのように命じられました。マタイ10:7,8「行っって、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」私たちは御国が拡大するようにキリストの御名を用いるべきです。私たちはこの地上で普通に生活しながらも、福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出すという使命が与えられています。病と癒しと奇跡が日常的に起こることを期待しましょう。アーメン。