民数記13章は、勇気をもって決断することの大切さを教えている箇所です。イスラエルの民がカナンの地を目前にして、判断を誤り、40年間も荒野をさまようことになりました。結局、カレブとヨシュアの二人を除いて、その世代の人たちは約束の地カナンに入れなかったのです。私たちも神さまが、「今、チャレンジしなさい」と迫るときがあります。その時、危険を冒してでも、あえて挑戦するなら、カナンの祝福にあずかることができるでしょう。
1.約束の地、カナン
約束の地、カナンは、アブラハムが目指していたところです。その時からすでに400年以上たっていました。モーセはイスラエルの民をエジプトから脱出させたリーダーでした。シナイ山で主の契約を結んだあと、イスラエルの民はカナンに入ろうとしました。カナンは乳と蜜のあふれる豊かな地であると言われていましたが、先住民が住んでおり、簡単には入れません。そこで、モーセはどんな地かさぐろうとして、12部族から代表者を一人ずつ出させました。モーセは彼らに何と言ったでしょう?民数記13:17-20「向こうに上って行ってネゲブに入り、山地に行き、その地がどんなであるか、調べてきなさい。そこに住んでいる民が強いか弱いか、少ないか多いか、また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営か、それとも城壁の町か、土地はどうか、それは肥えているか痩せているか、そこには木があるかないか。勇気を出して、その地の果物を取って来なさい。」彼らは3つのことを調べてくるように言われました。住んでいる民が強いか弱いか、土地が良いか悪いか、住んでいる町が宿営か城壁の町かということです。そして、「勇気を出して、その地の果物を持ってきなさい」と言いました。ちょうど、その頃はぶどうの熟す頃でした。彼らは40日かけて、その地を偵察して戻ってきました。その時、ぶどうが一房ついた枝を切り取り、二人で担いできました。二人で担いでいる聖書の絵を見たことがありますが、ぶどうの房が地面につくほど巨大なものでした。それほど、豊かな地であったわけです。
偵察隊はその地の果物を見せたあと、このように報告しました。民数記13:27「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。」これらの報告は客観的な事実であり、良いとも悪いとも言えません。神さまは私たちに五感と常識を与えておられます。彼らは見たままを報告しました。問題は、その後です。私たちの思いの中でそれらをどう処理するかが問題です。そこに客観的な事実がありますが、その直後、私たちの主観がはいります。人それぞれ、違ったレンズがあり、違った世界観があります。世界観を通して見ると、どこかが誇張されたり、どこから省略されたりします。あるものは見えても、あるものは見えないのです。イエス様がこのようにおっしゃっています。マタイ6:22,23「からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。」イエス様がおっしゃる「目」とは、私たちのものの見方、世界観です。目が健やかであるとは、信仰的で肯定的なものの見方です、一方、目が悪いとは、懐疑的で否定的なものの見方です。全身というのはその人の生活全体のことです。目が健やかであれば、健全で豊かな生活をすることになります。一方、目が悪ければ、不健全で乏しい生活をしてしまうということです。「豊かな生活」というのは、必ずしも物質的・金銭的なことを言っているわけではありません。パウロはピリピ4章でこう述べています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」
昔、ロバート・シュラーという牧師が、積極的信仰について語っておられました。彼は「できると思えば、必ずできる」と主張しました。ある人たちは、それは「繁栄の神学」であり、とても危険であると言いました。なぜなら、キリスト教会では「富や金銭は誘惑のもとである」と考えたからです。でも、教会は建物や牧師給、宣教のためにお金が必要です。献金をするように勧めていながら、「富や金銭は必要ありません」というなら矛盾していることになります。私は『積極的考えで生きる』というノーマン・ピールの本を山崎長老さんから紹介されました。正直、半信半疑でしたが、「できる」と考えることは、本当に力があることを経験してきました。ですから、私たちは「人にはできないことも、神にはできる。」「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできる」という世界観を持つ必要があります。そうすると、不可能と思えるところからも、解決策を見いだすことができるからです。
私たちにとってカナンの地とは天国のことです。昔の人たちは、「地上では貧しくても、天国は豊かだから我慢しよう」と耐え忍んできました。しかし、ビル・ジョンソンは「主の祈り」にあるように、「天がこの地に侵略するように願うべきだ」と言いました。天国では病気も障害もありません。天の都の門は大きな真珠であり、土台は宝石、道路は純金です。神さまは全宇宙を所有している大金持ちです。天国がこの地に来たら、どうなるでしょう?病気も障害もありません。必要も豊かに与えられ「私には乏しいことはありません」と言うことができます。私たちは聖書を客観的に読む必要があります。神さまは豊かで気前の良い方であることが分かります。また、イエス・キリストは癒し主であり、死人さえもよみがえらせました。そして、聖霊は私たちの中に住んでおられ、私たちを慰め、助けてくださいます。聖霊なる神さまが私たちにおられるのですから、主の臨在を解き放つことで、天をこの地に来たらせることができるのです。
2.「できない」か「できる」か
その後、偵察隊の10人は「できない」と主張しました。民数記13:30-33「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」客観的な事実は良いとしても、そこに否定的な解釈が入りました。まだ、戦ってもいないのに、不可能な理由を並べています。あの民は私たちより強いと言いましたが、その理由は、背がとても高くて、自分たちがバッタのように見えたというのです。丁寧なことに、「彼らの目にもそのように見えただろう」とまで言っています。神の民をバッタのようにたとえるとは、何事でしょう?10人の偵察隊は、それぞれの部族の代表者たちです。その人たちが、イスラエルの他の人たちに、約束の地を悪く言いふらしました。しかし、カレブは「ぜひとも行って、占領しましょう。必ず勝つことができます」と主張しました。
さて、どちらの方をイスラエルの民は信じたでしょうか?10人の偵察隊は「できない」と言いました。そして、カレブとヨシュアは「できる」と言いました。民数記14章には悲惨な状況が描かれています。14:1以降「すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。…さあ、我々はエジプトに帰ろう」と言いました。モーセとアロンはどうしようもできず、全会衆の前で平伏すだけです。すると、ヨシュアとカレブが、自分たちの衣を引き裂き、「ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と主張しました。しかし、全会衆は、二人を石で打ち殺そうとしました。何ということでしょう。否定的な考えの方が、有利に働き、イスラエル全体が「できない」と言って泣いたのです。神様のやり方は民主主義の多数決ではありません。神に従ったのはたった二人で、イスラエルの民全体が「できない」と反対したのです。その結果どうなったでしょう。イスラエルの民は40年間、荒野をさまよい、屍をさらすことになりました。約束の地には入れたのは、次の世代、つまり20歳以下の人たちと後で生まれた人たちだけでした。しかし、ヨシュアとカレブだけは別でした。
私たちは信仰よりも、不信仰の方が流行しやすいということを知る必要があります。テレビや新聞のニュースを見ますと、7割以上が悪いニュースです。日本の片隅だけではなく、世界の片隅で起きた事件や事故のニュースが流れてきます。一人の幼稚園児の事故死が1週間も流れ、国民全体が暗い思いになります。戦争、わいろ、スキャンダル、自然災害、物価の上昇、失業、倒産、そのようなニュースに埋め尽くされています。私たちの思いが、それらの否定的なニュースで汚染されていることを気づくべきであります。完全にシャットアウトできないかもしれませんが、その代わり、良いニュースを聞くべきです。幸い私は、「良いニュース、福音に仕えることができ、本当に感謝だなー」と思います。聖書には良いニュースが満載されています。神様の愛、善、憐れみが語られると、私たちの中に信仰、希望、愛が生まれてきます。確かにこの世は悪いことが多いかもしれませんが、神の真実と恵みもあるということが分かります。クリス・バロトンが「温度計とサーモスタットの違い」について教えています。温度計は、寒いか暑いかをそのまま示してくれます。しかし、部屋にサーモスタットが付いていれば、寒ければ温めてくれるし、暑ければ温度を下げてくれます。私たちも「この世がどんなに悪いか」と言っているだけなら、それは温度計と同じです。イエス様は「私たちは世の光であり、地の塩である」と言われました。だから、フランチェスコの祈りのように、「憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに赦しを、疑いのあるところに信仰を」もたらすように働きかける必要があるのです。
「できない」と考えた10人の偵察隊とイスラエルの全会衆は、これまでたくさんの奇跡を見てきました。エジプトでは10の奇跡がありました。脱出するときは、紅海が二つに分かれました。岩を打つと水が出てきました。天からはマナが降り、ある時はうずらが飛んできました。苦い水は甘くなり、砂漠の中にもオアシスのようなところがありました。しかし、約束のカナンの地は、乳と蜜の流れており、最終的なゴールは目の前でした。彼らは神さまの偉大さを見るのではなく、ネフィリムの末裔、アナクの巨人を見たのです。さらに高い城壁を見て、無理だ、攻め上れないと判断したのです。私たちの周りには二種類の人たちがいます。1つは、「できない。いかに難しいか」という理由を挙げる人たちです。もう1つは「確かに問題もあるけど、必ず解決できる」と解決策を考える人たちです。テレビで北陸新幹線の工事の番組を見ました。たくさんのトンネルがありますが、どうしても大断層、フォッサマグナを通過しなければなりません。そこは、粘土と石が入り交じり、メタンガスも含まれています。トンネルのために充填したコンクリートが水溶性の土の影響で破壊されました。土の収縮を考え、少し大きめのトンネルにしました。メタンガスのため風を送ると、コンクリートの表面がパラパラはげ落ちてきました。工事所長は、ある番組を見て、遊園地入口のバルーンを思いつきました。コンクリートが渇かないように、アーチ型の鉄枠でバルーンを「ぴたーっ」とくっつけました。すると、コンクリートは良く養生されて、丈夫な物になりました。「できる」と考えたら、すばらしいアイディアが浮かんだのです。
もう一度言いますが、神の国は多数決ではありません。どうしても否定的な意見が多いし、そちらの方に人々は行きがちです。何が正しいか、何が間違っているか、神さまに聞いて判断する必要があります。また、この世の人たちの多くは保守的で否定的です。キリスト教会もそれに倣ってしまいがちです。そうではなく、思いを刷新し、創造的で、改革的な道を見つけ出すよう求めるべきです。「できない」と考えると、すべての道が閉ざされてしまいます。しかし、「できる」と考えるなら、神の知恵が与えられ、神の奇跡が起こり、道が開かれるのです。
3.危険を冒す
今回、私がこの箇所を選んだのは、ケビン・デドモン著『究極の宝探し』を読んだからです。この本に良く出てくるフレーズは「危険を冒す」、「リスクを負う」です。10人の偵察隊はカナンの地が乳と蜜の流れるすばらしい地であることを認めていました。しかし、「その地に住む人々は巨人のように大きく、自分たちはバッタのよう見えた」と言いました。そして、その地は人を食い尽くす悪い地であると結論付けました。これに対して、ヨシュアとカレブは、「主が共におられるので、恐れないで攻め上りましょう」と主張しました。つまり、危険を冒してでも、約束の地に入ろう、そしてその地を奪還しようと言ったのです。私にとって約束の地、カナンは天国でありますが、同時にそれは神のみわざがなされるリバイバルでありました。ビル・ジョンソンが言うように、天が地にもたらされるなら、癒しや奇跡が起こるのが当たり前になります。ところが、私は「日本の伝道は難しい。海外と比べて、癒しも奇跡も起こらない」と言ってきました。そして、この本を読んで、もう一度、やる気が与えられました。当教会に赴任してまもなく、「弟子訓練に賭ける」と10年くらい頑張りました。それがうまくいかなくて、今度は「セルチャーチに賭ける」と20年くらい頑張りました。それもうまくいかなくて、2017年、すべての活動から手を引きました。その数年後、新型コロナ・ウィルスが流行し、籠って洋書を読むようになったのです。アメリカのベテルチャーチには行けないけど、彼らの本を片っ端から読むことにしたのです。
ケビン・デドモンは、ベテルチャーチのスーパーナチュラル(超自然)・ミニストリー・スクールの指導者ですが、元は癒しや奇跡を行わない普通の牧師でした。南カルフォルニアで成功していましたが、その教会を辞任して、ベテルのスーパーナチュラル・ミニストリー・スクールにご夫妻で入学しました。牧会に行き詰っていたのではなく、癒しや奇跡の伴わない牧会にうんざりしていたのです。最後の牧師生活を奇跡と癒しにかけるために、ベテルの神学校で2年間学んだ後、ブレイクスルーが訪れました。現在、ケビン・デドモンは神学校の生徒たちをいくつかのチームに分けて、町に出かけて、奇跡や癒しを行います。出かける前に、「知識のことば」が与えられるようにそれぞれのチームが祈ります。それは宝探しをするためのヒントになります。人の名前、人の外観、怪我や病名、場所にあるもの…などノートに書き留めます。その後、ヒントをたよりに、ショッピングモールや広場、町の通りに出かけます。そして、出会った人に声をかけて、癒しや奇跡を行うのです。自分の名前や病名、悩み事を言い当てられた人は、びっくりして、彼らから祈ってもらいます。すると体が熱くなって、病気や怪我がなおります。しかし、宝探しのヒントがはずれたり、「いいえ」と断られたりすることもあります。ミニストリーする人はそれが怖いのです。でも、その後、癒しや奇跡が起こると、その人たちは心を開いて、キリストを受け入れます。その時、信じなくても良いのですが、すばらしいきっかけにはなります。
私はベテルチャーチの本を20冊以上翻訳しました。ビル・ジョンソン、クリス・バロトン、そして、ケビン・デドモン、彼の息子チャド・デドモンの本です。そして思いました、ただ本を読んで、それで終わりで良いのか?『究極の宝探し』の最後の部分に、“Just do it”「ただ、やりなさい」と書いてありました。私は宝と言えば、南アフリカや南米の鉱山かと思っていました。地中からは、ダイヤモンド、金、ルビー、さまざまな宝石が採掘されています。しかし、この本の宝とは人のことであり、そんな遠くに出かけなくても良いのです。映画『インディ・ジョーンズ』は命がけで宝を発見するために、いろんな秘境を訪れます。この宝探しは、危険を冒すことはありますが、実際に死ぬことはありません。しいていうなら、プライドと恥とに死ぬということです。『インディ・ジョーンズ』と共通しているのは、危険を冒すということです。しかし、「宝探し」”Treasure Hunt” は何とロマンのあることばでしょう。でも、単なる宝探しではなく、正しくは“The ultimate Treasure Hunt”『究極の宝探し』です。人々に奇跡を与え、ともに天国を体験できるからです。私は20年位前、ちょっとだけ癒しをしました。でも、外へ出かけてまで癒しをしません。リバイバルが来たら、目覚ましい癒しと奇跡は起こると信じています。しかし、聖霊が激しく臨んでいないので、自分から危険を冒してやろうとは思っていません。ということは、私も10人の偵察隊、イスラエルと同じ腰抜けということです。20年前、のぼりを持って、柏駅に1時間くらい立っていました。しかし、癒しを求めて来る人は一人もいませんでした。その後、のぼりをたたんで、二度と行いませんでした。しかし、あの本を読んだ後、「このまま牧師を終わって良いのだろうか?」と思いました。
これまで「日本は伝道が難しい」、「日本には癒しや奇跡は起こらない」という声をさんざん聞いてきました。自分も「確かにそうだな」と思っていたのです。しかし、コロナで2年間足止めをくらい、たくさんの本を読み、それを訳しました。大和カルバリーの大川牧師に送りつけました。「でも、そんなんで良いのか?実際に行わないで、頭の知識で終わって良いのか?」という内なる声が出てきました。もし、このままで天国に帰ったら、イエス様から何と言われるでしょうか?「いやー、残念だったね、本当はできたのに」と、イエス様が私から目をそらすかもしれません。あと10年あるかどうかわかりませんが、競馬で言うとゴール間近です。世界陸上で言うと、ラストスパートです。それだったら、本の結論「ただ、やりなさい」を実行するしかないのではないかと思いました。ヨシュアとカレブは、「恐れるな、主が共におられる」と言いましたが、その通りだと思います。この本で、言われている、癒しと奇跡が起こる大事な要因があります。それは私たちの中におられるイエス・キリストです。私たちが癒しや奇跡を行おうとすると、「できない」という思いでつぶれてしまいます。しかし、私たちの中におられる、キリスト現れて、癒しや奇跡を行ってくださるのです。言い換えると、主の臨在が人々を癒し、奇跡を行うということです。私たちはその人の上に、ただ主の臨在を解き放てば良いのです。私たちを通して、キリストがその人に触れてくださり、癒しと奇跡を行ってくださるのです。私たちは主の臨在を運ぶ器であり、管なのです。私たちの中におられるキリストが「そうしたい」と願っておられるのです。リバイバルはどこか遠くにあるのではありません。私たちの内にあるのです。