タラントのたとえは有名であり、説教でも良く取り上げられます。一方、ミナのたとえはその箇所が来たら話すだけであり、特別、取り上げられることもありません。緒論として、タラントとミナの違いを比べたいと思います。第一は預けられた額が違います。1タラントは6000日分の給料ですから、今日でいうと6000万円という高額であり、2タラントなら何かの事業を起こすことができるかもしれません。一方、ミナは100日分の給料ですから、今日でいうと100万円です。そんなに高額ではありませんが、100万円あればちょっとしたものを購入できます。第二は、タラントはその人の能力に応じて主人から与えられるものです。タラントという名前からもわかるように、神さまから与えられた賜物や能力ではないかと想像できます。賜物は、人それぞれ違います。一方、ミナは10人に1ミナずつ、平等に分け与えられました。一人1ミナ、みな同じ額です(だじゃれです)。タラントは賜物かもしれませんが、ミナは何でしょう?後から言いますが、キリストを信じていただく「救い」かもしれません。第三は、ミナのたとえの場合は背景が多少違います。こちらは「ある身分の高い人が、王位を授かって戻ってくるまで、ミナを運用する」というテーマになっています。しかも、もうけたミナに応じて、町を支配することができるという報いが告げられています。これらのことを踏まえながら、2つのメッセージをお届したいと思います。
1.ミナを管理する
ミナとは何でしょう? 10人のしもべをクリスチャンとして考えてみたらどうでしょう?彼らは一人1ミナずつ与えられました。その方がやがて王位をいただいて帰ってくるのですから、イエス・キリストと考えても良いです。では、クリスチャンが平等に持っているものとは何でしょう?私は「救い」だと思います。別な言い方をすると、永遠のいのちであり、新しい天と新しい地に住むことができるという恵みです。救いは神からの恵みです。エペソ2:8,9「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」アーメンです。救いは私たちの行いや功績で得られるものではありません。イエス・キリストを信じることによって与えられる恵みです。自分の行いででなはく、神さまから一方的にいただくので、だれも誇ることができないのはそのためです。そういう意味では、神さまの前に、牧師も信徒も同じです。大伝道者であろうと、大使徒であろうと、神さまの前に自分のことを誇れる人は一人もいません。黙示録4章には天上のことが記されています。24人の長老たちは自分たちの冠を御座の前に投げ出して言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉と力を受けるにふさわしい方です」(黙示録4:11)と礼拝しています。すべての栄光は主のものだからです。キリスト教会においては、すべての人が兄弟姉妹であり、世の中の身分はここでは関係ありません。伝道者や牧師や教師も、兄弟姉妹の一人です。イエス様は「だれからも先生と、呼ばれてはいけません」と戒められました。しかし、教会では「先生」と呼んでいます。私は偉いからではなく、便宜上そう呼んでいると思いますが、ブラザレンでは牧師も兄弟と呼んでいます。ウォッチマン・ニー兄弟です。
それはともかく、それぞれ平等に与えられた1ミナとは、「救い」であり、「永遠の命」ではないかと解釈しました。しもべたちは、ある身分の高い方が王位を授かって戻ってくるまで、商売をするように命じられています。王位を授かって帰ってくるとは、再臨のイエス・キリストのことではないかと思います。では、その1ミナで商売するとはどういう意味でしょうか?イエス・キリストはこの地上を去られる前に、大きな命令を与えました。マタイ28章とマルコ16章には「大宣教命令」があり、教会がすべての人に福音を伝え、一人でも多くの人を救いに導くという使命です。福音宣教こそ、私たちに与えられた使命です。救われた人はだれでも1ミナを持っています。でも、これを布に包んでしまっておくなら、「悪いしもべだ」と叱られてしまいます。そうではなく、この「救い」をできるだけ、多くの人に分かち与える必要があります。そのためには、キリストの福音を伝えるということが最大の要点になります。なぜなら、人はキリストの福音を聞いて、何を信じるべきなのか分かるからです。私たちは他のことは話せても、いざキリストの福音となると、口から出てきません。なぜでしょう?「その人を信じさせて、なんとか救いに導きたい」と願うからです。私も最初のころは「伝道」という言葉を聞いて震えました。「一人でも多くの人に伝道して、救いに導かなければならない」と緊張したからです。でも、頑張れば頑張るほど空回りしました。しまいにはやりたくないと思いました。でも、あとから分かりました。「人を救うのは神様であり、私たちはただ福音を伝えるだけだ」ということです。つまり、健康食品やサプリメントのように良いものは人に勧めたいものです。それと同じで、福音は良い知らせであり、自分がそれで生かされたのだったら、勧めたいのは当然です。信じる人は信じます。信じない人は信じません。それは、その人の問題であり、私の問題ではありません。全員を回心させようとするから、大変な思いをするのです。神さまが備えて下さった魂が必ずあります。
松戸の岡野牧師は『ただ愛すれば良い』という本を書いています。そうです。ただ、愛していれば、そのうち、福音を伝えるチャンスも出てくるのです。ポイントは、その人が教会に来るため、あるいはキリストを信じるために愛するのではありません。それだとひも付きの愛になります。その人が教会に来ようと来まいと、信じようと信じまいと、ただ愛するのです。聖書の愛とは、返礼を求めない無条件の愛です。そのようにただ愛すれば良いのです。もし、その人が神さまから選ばれた人であるなら、きっとキリストの福音を求めて来るでしょう。福音宣教も恵みであり、「何人、導いた」と誇ってはいけません。何度も言いますが、私たちが救うのではありません。伝えるのは私たちであり、救うのは神様であることを忘れてはいけません。実は福音を伝えると喜びが増してきます。人から断られると嫌な思いもしますが、それ以上に喜びがわいてきます。本当に不思議です。それは神様の祝福があるからです。ローマ10:15「遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです。」「美しい」はギリシャ語でオライオス「時期を得た、美しい」です。そのままという感じがしますが、何が美しいかと言うと、足が美しいのです。福音を伝える足が美しいということです。いろんな人の足がありますが、ベストの美脚は福音を伝える人の足です。奥山実師が「ここに、口と書かれていません。足と書かれているのは何故でしょう?」と言ったことがあります。奥山実師はたくさんの人たちをキリストに導いた一人の姉妹のことをあげて説明していました。先生がおっしゃるには「福音は口で伝えるのではなく、足なんだ」ということです。恋人を口説くのと同じです。足しげく通うことが大事なんだということです。つまり、事あるごとに「元気?」とか「こういうの貰ったんだけど食べる?」とか、絶えずコンタクトを取るということです。何だかわかるような気がします。いきなりかしこまって、キリストの十字架を語るとハードルが高いです。でも、その人に何かあったとき、自分の救いの証をしながら、伝えることは可能です。パウロはテモテに「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(Ⅱテモテ4:2)と言いました。明石市で井上師が牧会しているベテル清水教会があります。時々、『証集』が送られてきます。新型コロナ真っ盛りの間、8名もの受洗者があったと書かれていました。その年(2021年)は、うちはゼロ名でした。コロナのせいにしていたので、少し、恥ずかしく思いました。
私たちは「救い」を平等に与えられています。これは、キリストの福音を聞いて、信じたことにより与えられたものです。でも、神さまはこの「救い」を分かち合って、増やすことを願っておられます。一人のしもべは布に包んで、しまっておきました。このしもべは神さまに対するイメージがとても悪かったようです。彼は「あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです」と答えました。まさか、私たちはこのように神さまのことを考えていないでしょう。ところが、かつての私は「パウロはあれだけ頑張っていたのに、お前はなんだ。歯がゆいぞ!」と神さまから叱られているように思っていました。「主の命令だから伝道しなければならない」とプレッシャーをかけていました。だから、いまでも「伝道」と聞くと緊張してしまいます。しかし、福音は「喜びの訪れ」なのですから、緊張して語るものではありません。イエスさまが「心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ12:34)とおっしゃいました。もし、私たちの心が神の国の喜びに満ちていたらどうでしょう?何かのひょうしに口からあふれてきます。パウロは「私は福音を恥としません」(ローマ1:16)と言いました。この間、来たサモアの牧師が「福音を恥としないように」とメッセージしてくださいました。まさか、私たちはイエス様や神様のことを恥とは思っていないでしょう。むしろ、自慢したいと思っています。そうです。伝道なんて考えないで、神さまのことを自慢すれば良いのです。私たちを救ってくださったイエス・キリスト様を自慢すればよいのです。聖霊によって、湧き上がる喜びを伝えればよいのです。キリスト語ることが、私たちの生活の一部になりますように。健康食品やサプリメントのように、気軽にキリストの福音を人々に勧めましょう。
2.報いを期待する
最初のポイントでは、ミナとは救いであり、永遠のいのちであると解釈しました。そして、できるだけ多くの人にキリストの福音を宣べ伝えることがミナを増やすということでした。福音派の教会は、回心者(受洗者)を勝ち取るために一生懸命伝道します。マタイ28章とマルコ16章の「大宣教命令」があるからです。伝道のゴールはその人が悔い改めて、キリストを信じて、洗礼を受けることです。それは間違いありません。でも、その人が救われた後は「続けて教会に来なさい」と言うだけです。私は1979年、座間キリスト教会で洗礼を受けましたが、その年は52名の受洗者が与えられました。大和カルバリー教会になってからは、一年で100名というときもあったようです。当亀有教会は一年で21名の受洗者が最高だったと思います。あの当時は、ゴスペルから、そして中国セルからたくさんの受洗者が与えられました。これまでの信仰生活を振り返ると、洗礼を受けた人が最後まで残る率というのは、50%ないのではないかと思います。「天国に行けるから」と安心するところがあります。ある教会では、洗礼を受けた後に教会に留まるように一定の学びと訓練を与え、誓約書を書かせる教会もあります。私は「それは宗教であり、律法主義ではないか」と思うのですが、意外とそういう教会は洗礼後も定着するようです。「恵みだけではいけないのでしょうか?多少の律法も課す必要があるのでしょうか?」と悩むところもあります。私は恵みはすばらしいと思いますが、「ひょっとしたら『安価な恵み』になっていないだろうか?」と悩みます。律法主義にならないで、安価な恵みにもならないで、クリスチャンが教会に留まり、実を結んでいく道があるのでしょうか?
私は救いが天国に行くことしか語られていないからだと思います。これまで、大きな集会を開いて、「今晩、心臓が止まっても、あなたは天国に行く自信はありますか?」と問われ、「信じます」と決断しました。私は天国という言葉が悪いのだと思います。ユダヤ人は神ということばを避けて「天」に置き換えました。ですから、天国は正確には「神の国」なのであります。その証拠に、ユダヤ人向けの「マタイによる福音書」以外は、ほとんどが「神の国」となっています。神の国は現在このところに来ており、キリストを信じたら「すぐ」入ることができます。「天国」は死んだら行くというイメージがありますが、「神の国は生きているうちに入る」イメージがあります。むしろ、後者の方が良いのです。そして、神の国は二段階でやってくるという理解が必要です。ミナのたとえを見ると、身分の高い人が遠くに行きました。それは、王位を授かって戻ってくるためでした。その方が王位を授かって帰って来た後、2つのことが起こりました。第一は、ミナに対する報いです。ある人は10ミナもうけました。その人は「ほんの小さなことにも忠実だったから、10の町を支配するものになりなさい」(ルカ19:17)と言われました。5ミナもうけたしもべには、5つの町を治めるように言いました。1ミナを隠して使わなかったしもべは、取り上げられました。第二は、敵に対するさばきがあります。ルカ19:27「またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」これは、世の終わり、キリストが来られたときのさばきを表しています。では、キリストが王として、この地上に戻って来られ、しもべたちに町を支配させることを何と言うのでしょうか?それを私たちは「御国」あるいは「千年王国」と言います。ルカ19章11節にあるように「人々は神の国がすぐ現れると思っていました。」これがたとえばなしの背景なのです。神の国はすぐには来ません。しばらくたってから来るのです。ある身分の高い人が王位を授かって戻ってくるのは世の終わりの再臨の出来事です。キリストが再び来られ、御国を、つまり千年王国を建てるのです。
するとどうなるでしょう?千年王国においては、「報い」があるということを知る必要があります。もちろん、千年王国の後にやってくる、新天新地は平等でありキリストを信じている人であればだれも入ることができます。もし、「天国」というのなら、新天新地のことであり、黙示録21章と22章にはっきり記されています。でも、その前に、御国、千年王国があるということをはっきりしておかなければなりません。私たちは主の祈りを賛美しますが、その時「御国を来たらせたまえ」と賛美します。御国は報いであり、自然界の回復のときであります。キリストが王として君臨し、ある人たちが町を治めるのです。金持ちの青年が去ったあと、ペテロがこう尋ねています。マタイ19:27「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」イエス様はこのとき、「お前の捨てたものは、小さな舟ぐらいじゃないか?報酬を求めるなんで意地汚いぞ」とはおっしゃいませんでした。マタイ19:28「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」これは、御国で12弟子たちが、イスラエルの12部族を支配するということです。当時の弟子たちは、イエス様がエルサレムに着いたら、栄光の座について御国がこの地にやってくると考えていました。ところが、そのイエス様が十字架で死んだことにより、すべての希望が失せてしまいました。でも、遠い国に行って、王位を授かって戻って来るのは、ずっとずっと先だったのです。しかし、重要なことは千年王国ではイエス・キリストが王として君臨して、ある者たちが地域を治めるために任命されるということです。
ミナのたとえから学ぶことは、この地上においていかに過ごしたかが、千年王国でどのように過ごすかと密接な関係があるということです。主人は10ミナと5ミナもうけた、しもべたちに何と言ったでしょうか?「よくやった。良いしもべだ。お前はほんの小さなことにも忠実だったから、十あるいは五の町を支配する者になりなさい」と言いました。「ほんの小さなこと」というのは、100日分の給与にあたる1ミナです。第一のポイントでは、ミナとは「救い」とか「永遠のいのち」ではないかと申し上げました。しかし、もっと深く解釈すると、この地上でいかに生きたかということです。言い換えると、「神さまから任されたものを忠実に管理したかどうか?」試されているということです。「時間、財産、持ち物、賜物、仕事、使命、信仰、家族、チャンス、肉体…忠実に管理したかどうか?」によって、千年王国での報いが決定するということです。私が洗礼を受けたのは1979年です。その当時、古い教会にはたくさんの青年や学生たちが集まっていました。座間の新会堂になると、ますますその数が増えてきました。私は直接献身者だったので彼らの顧問みたいなことをしました。当時の青年会会長、学生会会長たちの顔を今も覚えています。青年や学生たちは信仰生活をとてもエンジョイしていました。それに比べ、直接献身者は教会でもくもく働いていました。毎朝6時からの早天祈祷会、たくさんの集会の準備があり、ほとんど雑用でした。今振り返ると、青年や学生たちの信仰はとてもなまぬるかったように思います。10年後、20年後、その当時いた人たちはほとんどいなくなりました。大和カルバリーに行くときがありますが、ほんの一握りの人たちが今も献身的に仕えています。これは、どこの教会でも同じことが言えます。一つの原因は、伝道において回心が目的だったからです。救われた人は、これで天国に行けると安心します。あとは、教会につながり、使命を感じた人が奉仕をすればよいとやってきたところがあります。私たちは行いによってではなく、恵みによって救われました。その後も恵みなのですが、千年王国における「報い」ということを説かないできました。「信じたらだれでも天国に行ける、天国は平等である」と教えてきました。新天新地は平等かもしれませんが、その前に来る「千年王国」は平等ではないようです。こんなことを言うと憤慨する人も出てくるでしょうか?
パウロはピリピ3章で「キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞を得るために、目標を目指して走っているのです」と言っています。Ⅰコリント9章では「あなたがたも賞を得られるように走りなさい…私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」と言っています。ヨハネ黙示録2章では「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、私はあなたにいのちの冠を与える」と書かれています。これらは、死後、千年王国でいただく「報い」と考えられます。「タラントのたとえ」は、しもべたちがものすごい額を任されていました。しかし、「ミナのたとえ」は、1ミナが100日分の給与、今でいう100万円です。そう大きな額ではありません。ということは「何かとてつもない、並外れたことをしなさい」ということではないようです。毎日の過ごし方、一週間、一か月、どのように過ごしているかということです。毎週の礼拝を守ること、献金をささげること、神さまと交わること、隣人を愛すること、家族に仕えること、福音を宣べ伝えること、与えられた仕事や使命を果たすこと…これらはとても地味であり、まるで1ミナのようです。最も大切なことは、神さまから任されたことに忠実であったかということです。「あなたは、ほんの小さなことにも忠実だったから…」と報いられたら良いですね。ほんの小さなこととは、毎日の洗濯、掃除、後片付けも入ります。会社で、あまり報われない仕事をしているかもしれません。感謝されなくても、教会の奉仕をしているかもしれません。子育ても、人の世話も、問題の後始末も、小さなことの中に入ります。でも、それは神さまがちゃんと見ていることであり、あなたの忠実さを評価しておられます。やがて来るべき、千年王国においてちゃんと報いてくだいます。主から「善かつ忠なるしもべよ。よくやった」ほめていただけます。