2025.6.22「実を結ぶ信仰生活 ヨハネ15::5-8」

パレスチナではぶどうの実からぶどう酒を作ります。ぶどう酒はとても一般的な飲み物でした。農夫たちは畑を開墾して、そこにぶどうの木を植えます。数年たつと、枝が張り、たくさんの実を結ぶようになります。冬が来ると、伸び過ぎた枝を切りますが、春になるとそこから新芽が出てきます。そして、花が咲き、秋頃には立派なぶどうの実を結びます。このたとえでは、農夫は神様で、ぶどうの木はイエス様です。枝は私たちであり、豊かな実を結ぶことが期待されています。ヨハネ15章の前半を読みますと、「実を結ぶ」あるいは「多くの実を結ぶ」という表現が10回近く書かれています。ということは、私たちは信仰生活において実を結ぶことが神さまのみこころであり、それは標準的なことなのだということが分かります。

1.実を結ぶために

ぶどうの木が実を結ぶために必要なことが書かれていますが、それは私たちにも当てはまります。これはたとえであり、いくつかのメッセージが組み込まれています。ぶどうの木には人格はありませんが、私たちには人格があります。ですから、ぶどうの木になされていることが、痛みに感じたり、窮屈に覚えたりするのはやむをえません。たとえ話を解釈するために、最も大事なことは、1つ1つの事柄を霊的に解釈するのではなく、中心的なメッセージを1つだけ受け取ることです。ヨハネ15章の前半のたとえは、「私たちがどうしたら実を結ぶことができるのか」を自然のぶどうの木から学べば良いのです。では、私たちは実を結ぶため、あるいは多くの実を結ぶためどのようなことを経験する必要があるのでしょうか?前半は積極的に何かをするというよりも、受け身的な要素が強いように思えます。第一は刈り込みを受けるということです。「え、どこか切られるのですか?」と気持ちが沈んでしまいます。ヨハネ15:2「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。」不思議です。刈り込みをなさるのは、イエス様ではなく、父なる神さまであります。父なる神さまが農夫にたとえられていますが、ぶどう園の所有者、オーナーであるということです。創世記から分かるように、神さまが地球とその中にあるすべてのものを創造されました。世の人たちは、「太陽がなければ作物も育たないし、私たちも生きていけない」と言って、太陽に感謝をするかもしれません。そうではありません。地球になくてはならない太陽も、神さまが造られたのです。ぶどうの実を結ぶ、ぶどうの木も自然に生えたのではなく、神さまが創造したのです。ですから、人間よりも造り主である神さまがよくご存じだということです。では、農夫にたとえられている神さまは何をするのでしょう?「チョキン」とぶどうの枝を切ります。よく見ると、この刈り込みの目的は2つあるように思えます。実を結ばない枝を切るということです。プロの剪定者はどの枝が実を結ばないのか分かります。6節には「その人は枝のように投げ捨てられ枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます」とあります。もう1つは、余分な枝をカットするということです。もし、枝を切らないで伸び放題にしたらどうなるでしょう?枝ばかりに養分が摂られて、ぶどうの実を結ばなくなってしまうでしょう。一見、可愛そうに思いますが、ぶどうの木は枝ぶりではなく、ぶどうの実を結ぶことが目的だからです。私たちの人生において、神様の「刈り込み」があるでしょうか?私たちは自分の好みや主義主張というのがあります。私たちは生まれると親兄弟、友人、学校などから影響を受けます。神さまが生まれつき与えたものを発見してそれを伸ばしたら効果的ですが、周りが許さないことが多いです。親や教師はどうしても無難な生き方を選択させてしまいます。クリスチャンになってから神さまのみこころのように考え、生きるかというとそうでもありません。自分の信念や曲がった性格、癖というのは、きよめられる必要があります。神様の「刈り込み」を受けると、正しい枝が伸びてくるというのは本当です。後から、ああ、あのことがあって、本来の生き方が生まれたんだということは良くあります。そのときは辛くて、悲しくて、血を流すような痛みだったかもしれませんが、後からあれが最善だったということが良くあります。父なる神さまは私たちを滅ぼそうとしているのではなく、多くの実を結ぶために「刈り込み」をしているのです。

第二は、ぶどうの木であるイエス・キリストにつながるということです。ヨハネ15:4「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」「とどまりなさい」ということばが、5節、6節、7節と繰り返し出てきます。「とどまる」というギリシャ語はme,nwメノウですが、「離れないでいる」「住む」「宿る」という意味もあります。ですから英語では、abideが使われています。abideはlive「住む」の古い言い方です。一時的ではなく、「ずっとどどまる」という意味があります。私たちはある時、イエス・キリストを救い主として信じて、洗礼を受けました。ところが半分くらいは教会を去ってしまいます。彼らがみんなキリストから離れてしまったとは思いませんが、「しっかりつながっている」という感じはしません。私は地方教会そのものがイエス・キリストだとは思いません。昔は「教会を離れたら天国に行けない」と脅迫したようです。でも、そうすればするほど、教会を離れてしまう傾向があります。命のない制度や組織としての教会よりも、生きておられるイエス・キリストとの交わりを第一にすべきです。キリストとの命の交わりがあれば、多少問題のある教会にも属していることができるからです。牧師は嫌かもしれませんが、イエス様は「教会にとどまりなさい」と言っているのではなく、「私にとどまりなさい」とおっしゃっているのです。「とどまる」とは、キリストからたえず命をいただくということです。それは、ぶどうの枝がぶどうの木にとどまっているのと同じです。

私たちの生まれつきの「肉」は、神さまに従いたくありません。自分の好みや考えで何でもやろうとします。そして、行き詰った時、「ああ、困った、助けてください」と頼るのです。この「とどまる」という意味は、自分ができることも、できそうにないことも、どんなこともお頼りするという意味です。お祈りでいうと、全部自分の力でやってから、祈るのではありません。初めに祈り、途中で祈り、最後に祈るのです。でも、ここで私が言う祈りは、「手を組んで目をつぶって祈る」ということではありません。もちろん、重要な出来事はそうする必要があります。でも、多くの場合は「イエス様と交わりつつ行う」ということです。今は天に召されましたが、「イエス福音」の穐近牧師はいつも「イエス様」「イエス様」と呼びながら生活していました。そして、地下二階、地上二階の鉄筋コンクリートの教会を自分で建ててしまいました。ご子息は建築士一級だったようですが、イエス様に「ここに柱を建てましょうか?」と聞きながら建てたのです。新会堂を建てるとき、その教会を壊すのが大変だったようです。あまりにも、頑丈に建てていたからです。建築家がその教会堂を見て、「これは素人ではない」と感銘したそうです。

第三は、多くの実を結ぶということです。実を結ぶためには、どうしたら良いかお話する必要はありません。キリストにとどまっていれば、おのずと実を結ぶからです。ぶどうの実が「たくさんの実を結ぶぞ」と力んでいる姿を見たことがありません。キリストにつながっていさえすればだれでも、実を結ぶことができるのです。このところから、自分たちの頑張りではなく、恵みによって実を結ぶことができるというメッセージが良く語られます。でも、どうせなら、多くの実を結びたくはないでしょうか?私たちが多くの実を結ぶにはどうしたらよいか書かれています。ヨハネ15:7,8「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」このところに、多くの実を結ぶための必要な条件が少なくとも2つ書かれています。1つは、イエス様のことばにとどまるということです。もう1つは、イエス様のことばにとどまりながら、何でも欲しいものを求めるということです。そうすれば、多くの実を結ぶと約束されています。イエス様は「私のことばにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい」と言われました。これは、イエス様のことばに従って、求めるということでしょうか?あるいは、イエス様のことばにとどまっている限り、何でも欲しいものを求めるということでしょうか?私は両方あると思います。ある時はイエス様がこれを求めよとお言葉を下さり、あるときは、私たちの方から求めるときもあるでしょう。でも、絶対ないのは、これです。「私は自分からは何も求めません。自分の願いや意思を捨てます。あなたが決めて、あなたが与えてください」。昔の教会は、献身とは自分の願いも意思も捨てて、神様の奴隷になるというものでした。イエス様はこのあとで、「もう、しもべとは呼ばない。あなたがたを友と呼ぶ」ともおっしゃいました。神さまは私たちに自由意志を与えました。そして、私たち自身が選択して求めることを願っています。もちろん、何を選んだらよいか分からないときは教えてくれます。私たちはみことばを読むことにより、神のみこころが分かります。そして、ある時、何かを求めたくなるのです。それで良いのです。多くの実を結ぶためには、イエス様のことばをいただき、何でも欲しいものを求めるという積極性が必要です。

2.どのような実を結ぶか

ヨハネ15章には私たちがどのような実を結ぶべきなのか具体的には書かれていません。しかし、どのような実なのかヒントを与える箇所はあると思います。私はクリスチャンがぶどうの実ように、結ぶべき実が三種類あると思います。

第一は人格的な実であります。ヨハネ15:12,13「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」人格的な実の代表は「愛」であると思います。イエス様は私たちのために命を捨ててくださったまことの友であり、イエス様ほど大きな愛は持っていません。ところが、そのように互いに愛し合いなさいということです。イエス様は十戒をはじめとする律法をたった2つにまとめられました。それは、全身全霊で神を愛することと、自分を愛するように隣人を愛することです。しかし、ヨハネ15章では、いかめしい戒めではなく、私がそのように愛したのだから、あなたがたも互いに愛し合いなさいとおっしゃっています。確かに命令かもしれませんが、イエス様の模範と保証があるので、新しい戒めになっています。ガラテヤ書5章には、御霊の実のことが記されています。これはキリストを信じた人には、御霊が宿るので、おのずと実を結ぶということです。ガラテヤ5:22,23「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」このところには御霊の実が9つ記されていますが、「これは愛の特徴を表しているのだ」という解釈もあります。私たちはキリストを信じ、キリストにとどまるなら、このような人格的な実を結ぶことができるということです。

 私も教会に来たときは、罪にまみれた状態で、まことひどい存在でした。救われて半年後に、聖書学院の基礎科に入学したので、「かなり肉的な人が入ってきたなー」と評判であったと思います。教授たちから「きよめられなさい」「古い自我に死になさい」「悔い改めなさい」と良く言われました。その教団がいう「きよめ」を理解しないまま卒業しました。その後、聖契神学校に入りましたが、教授たちは「きよめ」という表現は一切、使っていませんでした。「きよめ」という言葉は使わなくても、こちらの先生方の方がとてもきよめられていると思いました。重要な真理は、きよめられること、聖化は恵みだということです。自分できよくなろうとすると、どうしても律法主義的になります。そうではなく、私たちがキリストにとどまるとき、「古い人は死んでおり、キリストが私の内に生きている」ということが分かるのです。劇的な変化もあると思いますが、多くの場合は、キリストにとどまり続けているなら、恵みによって「栄光から、栄光へと主と同じかたちに姿を変えられる」(Ⅱコリント3:18)のだと思います。

 第二は宣教の実である魂が救われることです。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」このところに、「行って実を結び、その実が残るようになるため」と書かれています。このことばは、イエス様の大宣教命令を連想させます。マタイ28:19「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」そして、マルコ16:15「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」福音を宣べ伝え、魂を救いに導くことは、弟子たちだけに与えられた命令ではありません。この命令は、クリスチャンすべてがイエス様から受けています。パウロは「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」(ローマ10:15)と言っています。父なる神さまの願いは、すべての人がキリストによって救いに至ることです。しかし、人は福音を聞いて、キリストを信じなければなりません。ですから、信仰暦が長い人も信仰暦が短い人も、福音を宣べ伝え、一人でも救われるように「行く」必要があります。これは賜物ではなく、すべてのクリスチャンに与えられている命令であり、使命です。残念ながら、信仰の年数が経てば経つほど、未信者の友人が少なくなり、伝道のチャンスもなくなります。私は「伝道」という言葉よりも、「宣教」の方が好きですが、この際、どちらでも構いません。人々のところへ行って、キリストの福音を伝えるということです。私たちはだれが救われるか分かりません。拒絶されたらどうしようと恐れてしまいます。でも、重要な責任分担があります。福音を宣べ伝えるのは私たちです。そして、信じる、信じないはその人の責任です。そして、信じた人を救ってくださるのは神様です。

 私は25歳でイエス様を信じて洗礼を受けましたが、クリスチャンになりにくい典型的な人物ではなかったかと自負しています。人生を面白おかしく生きていましたので、抹香臭い宗教など考えたこともありませんでした。私は弱い人たちが、「神さまがいれば良い」と宗教を作ったのだと思っていました。ところが、私を導いてくれた職場の先輩は、キリスト教は「宗教じゃない」と言いました。仕事でミスしたときは、「大したことないよ、仕事よりも大事なものがあるよ」と言いました。毎日、職場で顔を合わせ、いろんなことを話し合いました。私の疑問や質問に対して、的確に答えてくれました。しかし、今思えば、先輩が言ったことはほとんど聖書的な内容でした。1年以上たってから、やっと座間キリスト教会の礼拝に出席しました。大川牧師がまだ、30代で炎のようなメッセージをされて、いっぺんに虜になりました。先生の説教は、人生論的なアプローチだったので、毎週、毎週、感動して帰りました。イースターの日曜日、先輩から9時間も個人伝道され「じゃ、信じるよ」と言いました。しかし、「キリストを信じると、自分がなくなってしまうのではないか」と洗礼を受けることを恐れました。そのとき、放蕩息子のメッセージをされ、「ああ、私は放蕩息子だったんだ。神さまのもとへ帰るしかない」と観念しました。今、このようにして講壇からメッセージを語る者となりました。でも、聖書が「行って」と命じているので、「やっぱり行かないと魂が救われないんだ。ただ、待っていてはいけない」と自戒しております。そうです。イエス様は「行って実を結び、その実が残るようになるため」とおっしゃっています。人の魂は永遠です。問題はどこで永遠を過ごすかであります。

 第三は人生の実です。ヨハネ15:16「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」これは、弟子たちがイエス様から選ばれ、使徒として任命されたということです。しかし、これが弟子たちのことだけに終わるなら、私たちが聖書を読んでも何も意味がありません。これは、弟子たちもそうですが、私たちのイエス様から選ばれ、何かのことに任命されていると解釈すべきであります。「任命する」は、英語でordainです。ordainは、教会では聖職の位を授けるという意味で使われます。しかし、「神が運命を定める、予定する」というのが一般的です。つまり、私たちは偶然にこの地上に生まれたわけではありません。そして、キリストを信じたのも神の選びがあったということです。さらには、私たち一人ひとりに神の運命、神が成し遂げてもらいたい定めがあるということです。つまり、私たちが天に帰る前に、この地上において成し遂げるべき「神の運命」があるということです。私はクリスチャンになってから「神の計画」とか「神の摂理」という言葉を聞きました。でも、「神の運命」という言葉を知ったのは、2017年以降、洋書を読むようになってからです。ジョエル・オーステン、ビル・ジョンソン、そしてロバート・ヘンダーソンは“divine destiny”「神の運命」ということばを度々使います。私はその言葉と出会ってから、「私には私の走るべきレースがあるんだ。私は自分のレースを完走しなければならない」と、思いました。パウロは「走るべき道のりを走り終えた…あとは義の栄冠が私のために用意されているだけだ」(Ⅱテモテ4:7,8)と言いました。

 ヨハネ黙示録20章には「数々の書物」があると書かれています。「命の書」「行いの書」そして、その人の「計画の書」があるのではないかと思います。その根拠として、詩篇139篇に「あなたの目は私の胎児を見られ、あなたの書物にすべてが記されました」とあるからです。つまり、その書物には私たちの性格や好み、能力や賜物、なすべき使命、タイムスケジュール等が記されているのではないかと思います。言い換えると、私たちの運命がordain定められているということです。神さまは聖霊によって、また御使いを遣わして、なんとか運命を全うできるように、願っておられることは間違いありません。マタイ25章でも「主人がそれぞれの能力に応じて、一人には5タラント、一人には2タラント、もう一人には1タラント渡した」と書かれています。やがて、主人は預けたタラントをどうしたのか、清算するのです。私たちは「よくやった。忠実なしもべだ。お前はわずかなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)と神さまから言われたいものです。そのためには、一体どのようなことが自分の書物に書かれているのか、知る必要があります。でも、そんなに難しいことではないようです。ピリピ2:13口語訳「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって…」とあります。「願い」とはある訳では、desireです。desireはラテン語で「父から下る」という意味であるとビル・ジョンソンが言っていました。そうです。神さまがあなたに願いを起こさせ、あなたに対する運命を全うさせたいと働いておられるのです。キリストにとどまり、豊かな実を結ぶことができますように願い求めて行きましょう。