「2025.6.15 聖霊の助け ローマ8:9-16」

 ただいま、お読みしたところをざっと見ますと、聖霊がいろんな呼び方をされているのに気が付くと思います。9節では「神の御霊があなたがたのうちに住んでいる」、「キリストの御霊を持っている」と書かれています。10節では「キリストがあなたがたのうちにおられる」と書かれています。11節には「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたがたのうちに住んでいる」と書かれています。つまり、聖霊によって父なる神とキリストが住んでいるということです。

1.肉体を生かす聖霊

 私たちの内におられる御霊はどのようにして私たちに命を与えて下さるのでしょうか?ローマ8:11「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」パウロはどのような聖霊が私たちに宿っていると言っているのでしょうか?それは、「キリストを死者の中からよみがえらせた方の御霊」と言っています。頭が混乱しそうですが、この短い文章の中に三位一体の神さまが記されています。「キリストを死者の中からよみがえらせた方」というのは、父なる神さまです。父なる神さまがイエス・キリストをよみがえらせたのです。これはアーメンです。でも、パウロは「キリストを死者の中からよみがえらせた方の御霊が私たちの中に住んでおられる」と言っています。ここではっきり言えることは、父なる神と聖霊は一体だということです。父なる神は天におられますが、聖霊によって私たちの中に住んでおられるということです。私たちの中におられる聖霊は、キリストをよみがえらせた方でもあります。この聖霊が私たちの中でどのような働きをしてくださるのでしょうか?「あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」つまり、神の霊である、聖霊がキリストをよみがえらせたように、私たちをも生かしてくださるということです。

 「問題はこのことが起こるのはいつのことであり、私たちのどの部分を生かしてくださるのか?」ということです。一般のキリスト教会は、「私たちの霊を生かす」とか、「世の終わりの復活」のことを言うかもしれません。しかし、聖書を文字通り読むと、そうではありません。聖霊が生かすのは、私たちの死ぬべきからだ、つまり肉体のことです。パウロはⅡコリント4章で私たちの肉体を「死ぬべき肉体」と言っています。また、Ⅱコリント5章では壊れていく「幕屋(テント)」にたとえています。私たちの霊は永遠ですが、肉体はやがて朽ち果てる存在です。では、私たちは死後の復活のみに希望を置けば良いのでしょうか?そうではありません。パウロは、「この死ぬべきからだが聖霊によって生かされる」ということを言っているのです。言い換えると、「神の霊、聖霊がキリストを死からよみがえらせたように、今の私たちの肉体を生かしてくださる」ということです。パウロはローマ8章2節で「いのちの御霊の法則」と言いました。新改訳聖書2017訳は「律法」と訳していますが「法則」と訳すべきでした。この法則は私たちが罪を犯さないように魂に働く力です。しかし、ローマ8章11節は魂ではなく、この肉体に働くいのちのことを言っているのです。これはものすごい発見ではないでしょうか?キリスト教会では霊と魂のことを重要視しますが、肉体のことはあまり言いません。パウロはⅡコリント4章で「この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです」と言っています。土の器とは私たちの肉体のことですが、測り知れない力とは、まさしく神の霊、聖霊のことであります。このように考えますと、聖霊が私たちの内側から生きる力、健康を与えてくださると考えても間違いありません。私たちは死にそうで死なない、倒れそうで倒れない、神の力を宿しているということです。まるで、「起き上がりこぼし」のようであります。

 私がこのメッセージを作っている途中、生協にお昼の買い物に行きました。真夏の暑い日でしたが、生協の職員が自転車置き場で、「体が思うように動かないの」と携帯でつぶやいていました。顔から汗をかき、見るからに不健康でした。ほとんどのクリスチャンから、「イエス様を信じてから、病気にならなくなった、健康になった」という証を聞いています。私を含めて、あの姉妹、この姉妹、あの兄弟…指折り数えることができます。何故でしょう?一番の原因は霊が生まれ変わり、霊が強くなったからです。そのため、事故やケガ、病気を拾わなくなったのです。Ⅲヨハネ2「あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように」とありますが、魂が幸いを得ると、健康にもなるということです。しかし、きょうのローマ8章には、「私たちの中に住んでいる神の御霊が、死にたる体を生かす」と書いてありました。そうです。知らず知らずのうちに、聖霊が私たちの体が死なないように、復活の力を与えて支えておられるということです。考えてみますと、私たちの肉体は日々、死んでいます。アスリートたちの筋肉のピークは25歳くらいだと言われています。40歳くらいまでは、なんとか維持できているようです。しかし、その後はあちこち痛んできます。10年乗った車と同じです。多くの人たちは「年だ」「年だ」と言います。しかし、私たちクリスチャンはこの世の人たちとは違います。土の器の中に、測り知れない宝、聖霊の力を持っているからです。私たちは死ぬまで、健康に生きることができるのです。モーセは120歳まで生きました。申命記3:7「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」アーメン。ノーマン・ピール博士のお父さんは85歳で召されましたが、後半の20年は車いす生活でした。彼の主治医が「彼は20年前の体調よりもずっと長生きしました。その長寿を支えてきたのは、彼の優れた精神力と好奇心でした」と言いました。ノーマン・ピール師は「父は、世界とそこにあるすべてのもの、星、人間、神について推測するのが好きでした。脳卒中で車いすになった後も天文学に興味を持ち、車いすから天空を研究しました」と言っています。私たちの肉体にはキリストを死からよみがえらせた、神の御霊、聖霊がおられることを忘れることのないようにしましょう。命を与える聖霊が、死にたる体を生かしてくださるのです。アーメン。

2.アバ父と呼ばせる聖霊

 ローマ8:15-16「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」キリスト教会では「救われる」とか「救われた」という表現をしばしば使います。何から救われたのでしょう?それは罪から救われたのであり、もう裁かれることはないということです。なぜなら、キリストが十字架で私たちの罪を負い、代わりに裁かれたからです。本来の私たちは罪が裁かれ、永遠の滅びに行く運命でありました。ところが、キリストを信じたおかげで、滅びから命に移されたのです。では、ここで言われている「恐怖に陥れる、奴隷の霊」とは何のことでしょうか?パウロはローマ3章で「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるのです」と言っています。キリスト教会で人々に伝道するとき「すべての人は罪を犯したので」と地獄の滅びを言います。すると、人々は「え?」と恐れます。その後に、「キリストの贖いによる救い」を言う訳です。私はこのやり方に反対していました。「人を脅かして、救いに導くのはどうか?」と思ったからです。福音とは「良い知らせ」ですから、本来は「良いこと」を最初に言うべきなのです。「天の御国、神さまのところへ行くためには、どうしたら良いでしょうか?」と、始めるべきなのです。その障害になるのが、「罪」なのであります。パウロはローマ3章で強調しているのは、罪による滅びではく、キリスト・イエスによる恵みを強調しているのです。

 それでは、ローマ8章に戻りたいと思います。「人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊」とは何でしょう?簡単に言いますと、キリストを信じていない人は、悪魔の支配下にあり、悪魔の持ち物なのです。「いや、私はそんなのは信じません。私は何も問題なく自由に暮らしています」と答えるかもしれません。しかし、それは嘘です。生まれつきの人間は神から離れ、失われた存在です。パウロは救われることを「闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせる」(使徒26:18)と表現しています。つまり、救われる前の人間は、闇の中、サタンの支配にあるということです。すると、当然、その人には「恐怖に陥れる、奴隷の霊がくっついている」ということになります。アダムとエバが罪を犯したとき、最初にやって来たのが「恐れ」です。神から離れた人間の特徴の第一は「恐れ」と言って間違いありません。持ち物を失う恐れ、失敗や失業の恐れ、病気や死の恐れがあります。私はクリスチャンになる前は、人の目を恐れて生きていました。人からどう思われているか、正しく評価されているか、とても気になっていました。その反動として、「うるせえ!だまれ!」とか、傍若無人にふるまっていました。でも、心の中では人を恐れていたのです。現代の多くの人たちが、不安と恐れと戦っています。クリスチャンになると全く恐れがないわけではありませんが、恐れはあっても、恐れに支配されなくなります。その理由がこれです。

 「子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」このところに、御霊、聖霊の働きが3つ記されています。第一は、私たちを子としてくださるということです。第二は神様を「アバ、父」と呼べるようになります。第三は「あなたは神の子であり、救われていますよ」と証してくださるということです。「子とする御霊」というのは、英語の聖書はSpirit of adoption「養子縁組の霊」となっています。私たちはキリストを信じると、神の子どもになります。でも、正確に言うと、神の子はイエス・キリストただ一人です。私たちはキリストを信じると、法的な意味で「神の養子」になるのです。ちょっと悲しいでしょうか?ヨハネは「それだけじゃないよ」と第一の手紙で述べています。Ⅰヨハネ3:9「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種(スペルマ)がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」私たちは神から生まれた者であり、神のDNAが宿っているのです。父なる神のいのち、性質、能力…いろんな良いものが与えられているのです。言い換えると、父なる神とどこか似ているということです。創世記1章には「神のかたちに似せて造られた」とありますので、そのように回復したということです。そうです。私たちは身分的にも生命的にも「神の子ども」なのであります。神の子どもであるなら、サタンや悪霊よりも上です。私たちはキリストを信じると、「闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせられた」存在です。もう、サタンの支配下にはありません。光なる神さまのもとで暮らしているのです。ヨハネは「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18)と言っています。暗闇を追い出す最も良い方法は、光を当てることです。光は恐れである闇を追い出すことができます。つまり、神の子は恐れの中にはいないとうことです。

 私たちはキリストを信じて、洗礼を受けたとしても「証明書」というものを発行していません。そういう教会があるかもしれませんが、信仰の問題です。キリストを信じている人は、聖霊が「あなたは神の子であり、救われていますよ。天国も行けます」と内側から証してくださるということです。ですから、不思議なことに、救われている人は「安心感」があります。昔、ある人が「私はキリストも信じていますが仏教も信じています。なぜなら、父と母の仏壇を守らなければならないので」と言っていました。その人は「私は天国に行ける自信がありません」と正直に告白してくれました。「なるほどなー」と思いました。偶像を拝んでいるなら、それは聖霊が消されている状態です。偶像を捨てて、キリストの神様のみを礼拝するなら、内側から聖霊が「あなたは神の子ですよ。天国にも行けますよ」と証してくださるでしょう。これは理屈ではありません。いのちに関わることであり、客観的な証拠もありません。でも、キリストを心から信じている人は、聖霊による保証があります。エペソ1:13-14「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」アーメン。

3.とりなす聖霊

 ローマ8:26-27「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。」第三番目の聖霊の働きは、私たちのため祈りを導き、また神の前にとりなしてくださるということです。「とりなす」ということばは、英語の聖書はintercessionであり、「仲裁、調停、人のための神への祈り」という意味です。本来、聖霊はパラクレートス「弁護人」という意味です。弁護人としての聖霊は、私たちと神さまとの間に、立ってとりなしてくれるお方です。どういう時に一番、働くかというと、神さまに祈る時であります。クリスチャンになった後も、「祈る」ということは簡単なことではありません。赤ちゃんがだんだん両親と会話ができるようになりますが、それと良く似ています。「御霊によって『アバ、父よ』と叫ぶ」とありましたが、「アバ」とはまさしく、幼子が父親を呼ぶときのことばです。私に2歳の孫がいますが、よくしゃべります。しかし、全く何を言っているか分かりません。本人は何かを言っているのでしょうが、異言のように聞こえます。私たちの祈りもそうであり、最初は祈りのことばが出てこないのが普通です。ジョン・バニヤンは17世紀のイギリスの文学者として有名です。バニヤンは、免許無しで説教したかどで起訴され、約12年間投獄されました。釈放されても再び説教したので逮捕されました。裁判のとき、「どうして祈祷書を用いないのか?」と言われました。そのとき、バニヤンは「祈りは、聖霊によって祈るのが本当です」と反論しました。私も一回、聖公会の祈祷書を見たことがありますが、とても美しく整えられた文章です。でも、それは私たちの霊の内から出てものではありません。もちろん、聖霊が与える祈りでもありません。私たちはトツトツ(途切れ途切れ)であったとしても、御霊によって導かれる祈りをささげるべきなのです。

 ここに出てくる御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」という表現が、興味深いです。パウロは26節で「同じように」と言っていますので、その前に原点があるということです。それが、22節「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています」です。なんと、被造物のすべてが、ともにうめいているということです。「このうめきは、生みの苦しみである」と書かれています。私は男性ですので、分かりませんが、それは、それは苦しいうめきでありましょう。今度、御霊が同じように、私たちと神さまとの間に入って、うめきをもってとりなしてくださるのです。この文脈を読んでいて、私たちがうめくのか、聖霊がうめくのか分かりません。おそらく、私たちの内側から聖霊がうめいてとりなして下さるその時、私たち自身もうめきが湧き上がってくるのではないかと思います。どう祈って良いかわからないけど、うめき声のような祈りが出てくるというのがあるのではないでしょうか?私はそれが本当だと思います。私たちはどう祈ったら良いか、ことばにならない祈りがたくさんあります。「うううう」としか、出ないときもあります。おそらく、そのとき、聖霊が「本人はこのような思いです。このように願っているのです」ととりなしておられるのではないかと思います。本当にありがたいことです。これは、聖霊が祈ってくださるので、私たちは祈らなくて良いということではありません。祈る主役は私たちで、どんな祈りをするか導いてくださるのが聖霊だということです。ある人は、これは異言ではないかと言う説を唱えています。Ⅰコリント14章でパウロは「私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう」と言っています。異言の祈りは自分では分かりませんが、私たちの霊と聖霊がコラボレーションして、神さまに向けて祈る祈りだと思います。私たちの知性で限界があるときは、異言による祈りがあればもっと良いと思います。車にガソリンと電気では走る「ハイブリッド」というのがありますが、祈りも聖霊と私たちと両方あれば良いと思います。

 きょうは私たちの内におられる聖霊の3つの働きを学びました。第一は、肉体を生かす聖霊、第二はアバ父と呼ばせる聖霊、第三はとりなす聖霊です。でも、今日取り上げた箇所を含め、ローマ8章全体を読むと、聖霊とは書かれておらず「御霊」としか書かれていません。しかも、「神の御霊」とか「キリストの御霊」とも呼ばれています。パウロは私たちの内におられる聖霊をあえて「御霊」と呼んでいるようです。つまり、父なる神とイエス・キリストが、聖霊によって、私たちの中に住んでおられるということです。おそらく、父なる神の願いは、ご自分の霊をクリスチャンに分け与え、彼らのうちに住まわせるということでありましょう。イエス様もそうでありましたが、神さまが内におられるならすべての問題は解決するはずです。私たちの最大の希望は、神が聖霊によって私たちの中に住んでおられるということです。私たちは地上において、最も必要なものは何でしょうか?お金、健康、知恵、力、平安、創造力…考えてみたら、みんな神さまがもっておられます。私のような年齢になると若さが欲しいと思うようになります。Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」外なる人とは肉体ですが、内なる人とは「霊」のことです。もし、内なる人を映す鏡があったらどうでしょう?年齢とは関係なく、栄光から栄光へと主の同じ姿に変えられています。これはまさに、御霊なる主の働きによるものです(Ⅱコリント3:18)。

 主の働きと真逆なものが魔法です。魔法は悪魔がもたらす偽りの姿です。日本人はディズニーが好きですが、そのほとんどは魔法です。私たちはこの世の神に惑わされず、まことの神に希望を置くべきであります。私たちの内には死人をよみがえらせた神の御霊が住んでおられます。私たちの内には「アバ父よ」と呼ばせる御霊が住んでおられます。また、私たちの内には弱い私たちをとしなして祈らせてくださる御霊が住んでおられます。多くの友人や親しい人がいたとしても、聖霊が内に住んでいないなら寂しいです。たとえ、友人や親しい人がいなくても、三位一体の神様が内に住んでおられるなら、何も問題ありません。すべての必要が与えられるからです。どうぞ、神さまを内に持っているということを最大の誇り、最大の希望といたしましょう。