12使徒はいわばリーダーであります。イエス様はいつかこの地上を去らなければなりませんでした。そのため、彼らを任命し、権威を与え、訓練しました。イエス様が最もすばらしいリーダーであり、そのリーダーが次世代のリーダーを作ったのであります。私たちも家庭や職場や何等かのチームのリーダーであると思います。「私は何のリーダーでもありません」と言う人は、あなたの人生のリーダーはあなた自身なのですから、きっと学ぶところもあると思います。今日は、良いリーダーの資質を4つ取り上げながら、共に学びたいと思います。
1.権威そのものである
リーダーとは権威そのものを象徴しています。何ができるとか、何ができないではありません。リーダーは行いよりも、存在そのものに意義があるのです。家庭においてリーダーは父と母です。ここで問題なのは、父もしくは母がちゃんと家庭を治めていない場合です。そうすると、どちらかの伴侶が、あるいは子どもたちが、馬鹿にして逆らい、権威を軽んじるでしょう。会社においても、無能な社長や部長がいるかもしれません。そのため部下たちが、彼らの権威を軽んじて、言うことを聞かず、自分勝手なことをするかもしれません。イエス様は「どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます」(ルカ11:17)と言われました。もう一度言いますが、リーダーは何ができるか、何ができないかではなく、存在そのものに意義があるのです。言い換えると、子どもたちや社員はリーダーを敬う必要があるということです。そうでないと、家庭も会社も無秩序になり、運営が成り立たなくなるということです。
イエス様が多くの弟子たちの中から、たった12人を選び、彼らを「使徒」と呼ばれました。使徒というのは、ギリシャ語で、アポストロスであり「派遣された者、使者」です。また、艦隊の司令官と言う意味もあります。イエス様がこの12人をordain任命したのです。私は12使徒や聖職者だけではなく、あらゆる権威は、神さまの許しがあって立てられていると信じるべきだと思います。ローマ13章1節「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」と書かれています。十戒には、「あなたの父と母を敬え」と命じられています。パウロはエペソ6章で、「奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい」と命じています。これは、今日の上司と従業員の関係と言えるでしょう。ところで、イエス様が選ばれた12使徒のことを見てみたいと思います。実は、聖書にこのところしか登場しない使徒たちがいます。バルトロマイ、アルパヨの子ヤコブ、タダイです。タダイはただいるだけです。そして、イエス様を裏切ったユダも使徒の中の一人でした。つまり、何ができるのかという能力とは、あまり関係がないということです。
父親もそうなのです。幸か不幸か、家庭には必ず父親がいます。数年しかいなった父親もいるし、いても酒を飲み、ギャンブルをしてろくに働かない父もいるでしょう。独裁的で身勝手な父親もいるでしょう。でも、父親ははじめから、父親という権威が与えられているのです。問題は、父親としての義務、リーダーシップをちゃんと果たしたかどうかです。アメリカやロシア、そして、北朝鮮にも大統領とか書記長というリーダーがいます。リーダーの良し悪しで、国民の生活はものすごく左右されます。それは会社でも言えることですし、リーダーシップを正しく用いれば、社員も生活がうるおい、働く喜びも得られるでしょう。
リーダーというのは、神からの賜物であり、努力してなれる訳ではありません。「私はリーダーです」と言っても、だれもついてくる人がいなければ、その人はリーダーではありません。極端ですが、盗賊やマフィアのリーダーもおり、彼に従う手下がいます。この世に存在しているのは、良いリーダーか、悪いリーダーだけなのです。どちらにしても、リーダーである限りは、リーダーとしての賜物が与えられているということです。本当の牧師であるなら、神が与えた権威があります。エペソ4章には「キリストご自身が、立てた」(エペソ4:11)と書かれています。ということは、牧師に能力があるかどうかではなく、存在そのものに意義があるということです。たまに、「うちの牧師はなっていない」とさばく信徒がおられます。そして、教団本部に「今の牧師を替えてくれ」と直訴する場合もあります。気持ちは分かります。私も「こんなに給与もらっているのに、それに見合う働きをしているだろうか」と思う時があります。でも、私は「何かできるか、ではなく、牧師は教会の象徴であり、存在そのものに意義がある」と思っています。ローマ14:4「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。」つまり、神ご自身がご自分のしもべである牧師をさばくということです。パウロは「したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます」(ローマ14:2)と言っています。権威に逆らう人がいますが、そういう人は身にさばきを受けます。しかし、その権威を認めるなら、その人は権威のもとで守られ、何らかの祝福を受けることができます。
2.権威を委譲する
エンパワリングということばが企業で用いられています。セルチャーチでは、「権威を委譲すること」と訳されていました。イエス様はご自分の権威を12使徒たちに与え、ご自分の仕事を任せています。マルコ3:14,15「それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」イエス様は弟子たちを訓練しました。しかし、それは学校の教室スタイル、カリキュラムではありません。イエス様は彼らと生活を共にしながら、体験的に学べるように指導したのです。やがては、ご自分が行っていたことを彼らもするためです。彼らに知識、技術、能力、そして権威を与えました。この世の師弟関係は、イエス様のとはちょっと違います。指導者は下の者に追い越されるのを怖がっています。ですから、最も大事な奥義は教えないのです。「100年早い」とか言って、ゲシゲシと押しつぶそうとするでしょう。しかし、エンパワリングには、父の心が伴っている必要があります。父親は子どもに何でも与えます。そして、子どもが自分を乗り越えていくことを喜びます。子どもの成功は、指導した自分の成功であると考えているからです。パウロはテモテにこのように命じています。Ⅱテモテ2:2「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」テモテはパウロが生んだ霊的な子どもです。そして、テモテに「私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい」と命じています。つまり、「テモテ自身も霊的な子どもを生んで、育てなさい」ということです。パウロからみたら、その子どもは孫です。どんな親でも、子どもが生んだ子ども、孫は可愛いものです。ビル・ジョンソンは、これこそが使徒的な教会であると言っています。残念ながら、キリスト教会は使徒の存在を認めず、その代わり、教団が教職者を任命し、各教会に派遣しています。そこにはパウロとテモテのような親子関係がありません。冷たい、権威的で組織的な牧師と教会になります。私には霊的な父、大川牧師がおります。私は教団よりも、母教会と霊的父親の関係を重視してきましたので、たくさんの祝福をいただいています。
エンパワリングというのは、いわゆる主従関係ではありますが、この世が言うものとはずいぶん違います。それはイエス様と十二弟子、パウロとテモテのような関係です。いくつかの特徴があげられます。リーダーシップは権威的ではなく、仕える権威、サーバント・リーダーシップです。イエス様は弟子たちの足を洗ったあと、「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」(ヨハネ14:14)と言われました。ある教会はこのことから「洗足式」の根拠としますが、本当の意味はそうではなく、互いに仕え合うということです。大会社などでは、若い人たちのアイディアはなかなか受け入れられません。彼らは、経験は少ないですが、頭が柔らかいので発明や発想に長けています。ですから、リーダーたちは「失敗を恐れず、やってみろ!」と励ますべきなのです。人はそのように任せられたなら、寝る間も惜しまず頑張るでしょう。ダメ出しばかりして、「やる前に許可を取れ」「全部報告しろ」とか言うと、若い社員は窒息死してしまいます。自分のことを生かしてくれる他の会社に行ってしまいます。教会も同じであり、神さまからその人に与えられた賜物と召命を重んじるべきです。もし、なかったなら、泥の中から金を発掘するような気持ちで付き合うべきだと思います。エンパワリングで最も重要なのは、良いところを発見し、ほめることだと思います。
3.情熱的であること
リーダーの資質で最も重要なのは、情熱的であることだと思います。暗くて、悲観的で、否定的な人は、リーダーに向いていません。だれも着いてきたいとは思いません。「何とかなる。必ずうまくいく!一緒に頑張ろう」みたいな人が良いのです。情熱、熱心の英語は、enthusiasmです。enは「…の中に」という接頭語です。さっきのエンパワリングもエンが入っていました。thusiasmはギリシャ語のセオス、神から来ています。ですから、enthusiasmは「神が入っている」「神がかっている」という意味になります。ノーマン・ピール博士は、情熱(熱心)は、奇跡を起こすことができると言っています。しばらく、彼の本から引用します。「多くの人は、手足ではなく、思考が麻痺しています。彼らは自分自身に対する窮屈な見方で自分を売っています。しかし、そのような自己評価は自分自身の人格に対する誤った評価です。このような自分を過小評価することによる不自由さを打ち消すには、自分の可能性に対して楽観的な熱意を持つことを実践することです。自分の限界という概念を徹底的に否定し、自分の人生に熱中すると、自分の中に突然、新しい資質が現れて、驚くほどです。そして、以前はまったく不可能と思われたことを、実現できるようになるのです。」つまり、ダイナミックで情熱的な信仰の力を持つことが、奇跡を生み出すということです。さらにこう述べています。「退屈で、不健康で、破壊的な考えで満たされた心には、熱意は生きられません。この状態を変えるには、毎朝、意図的に一連の熱狂的な考えを心に通す練習をすることです。鏡を見て、こんな風に言ってみてください。『今日は私のチャンスの日です。私の家、私の家族、私の仕事、私の健康、私はなんと素晴らしい資産を持っているのでしょう。私は多くの恩恵を受けています。私は今日一日ベストを尽くし、神は私を助けてくれるでしょう。生きていてよかった』。この同じ思考調整法を、夜寝るときにも繰り返してください。不健康で自滅的な思考である陰鬱な思考を日々取り除いていくことは、非常に重要なことです。不健康な思考は、あなたを不健康にします。敗北主義的な思考は、あなたを敗北させる可能性があります。」
使徒パウロは「霊に燃え、主に仕えなさい」(ローマ12:11)と言いました。そして、テモテが弱っているとき、こう勧めています。Ⅱテモテ1:6「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」パウロが言う熱心、情熱は肉的な頑張りではなく、聖霊から来るものに間違いありません。松岡修造みたいに、根拠のない情熱はあまり好きではありません。肉的で人工的な情熱は、あとからしっぺ返しが必ずやってきます。つまり、中身が元気でないのに、元気なふりをして生きているからです。本当の熱心さは、内側から聖霊によって与えられるものです。私も信仰生活40年以上になりますが、救われる前は悲観的であり、うつ的な人でした。表面的には元気なのですが、心の中では「なんでだよ、なんでだよ」と、叫んでいました。しかし、私たちに情熱を与えるものがあります。それは、聖書のみことばであり、聖霊による確信です。最も革新的だったのが、ジョエル・オースチンの本を読んでいた時、“divine destiny”という単語を発見したときです。日本では運命ということばは否定的であり、日本のキリスト教会ではほとんど言われません。「神の摂理」とか「神の計画」と置き換えて訳されてしまいます。でも、直訳は「神の運命」であります。この言葉は、ビル・ジョンソンやロバート・ヘンダーソン、ダッチ・シーツも良く使っています。私は私にも“divine destiny”があると気づいてから、心の中に火がともされました。天において「運命の書物があり、私にはまだやるべきことが残されているのでは?」と思ったとき、加齢による先細りの人生から解放されました。「より良いことは、過去にではなく、先にある」と考えられるようになりました。 たまに、「聖霊のバプテスマが与えられたら、すばらしい働きができるのに」という奉仕者がいます。私は聖霊のバプテスマとは神からの油注ぎであり、力の源であると信じます。でも、その人がなすべき神からの目標がないのに、力ばかり与えられてどうするでしょう。順番が逆であり、まず、その人がご自分の“divine destiny”を発見することであり、そのことが実現できるように、聖霊の力を求めるべきであります。もし、その“divine destiny”が神からのものであれば、間違いなく、成し遂げたいという情熱が内側から湧いてきます。なぜなら、あなたの内におられるキリストがあなたを通して実現したいと願っておられるからです。
4.ゴールを示す人
パウロは使徒でしたが、キリストから啓示をいただき教会の在り方を示しました。世界中に出かけ、多くの教会を作り上げ、他の人たちにそれを任せました。現代の教会はあまり認めませんが、使徒の賜物はあると信じます。神さまが与えたゴールは何かを見出し、それを教会に示すことであると思います。使徒はからだなる教会の頭脳です。リーダーは、使徒のように自分のチームが行くべきところがどこなのかを示すことができる人です。「あっちへ行こう!」と言う人です。英語のleaderはleadと関係があります。leadは、「導く、引いていく、先導する、指導する、率いる」という意味があります。「あっちだ」「あそこに向かおう」と指をさし、人々を動員する人です。日本はアメリカと同じ、民主主義です。アメリカには大統領がおり、一人に多大なリーダーシップが委ねられています。ところが、日本は党や議会によって多数決で決めます。その時によく言われるのが「十分に議論する」という表現です。私は、リーダーは人間的な水平からではなく、神から来る垂直の解決を持っている人ではないかと思います。日本では、政治や経済のトップが神道とか占い、霊能者から導きを得ていると聞いたことがあります。それは背後にサタンがおり、非常に危険です。旧約聖書では、預言者が神からのことばをいただいて、これを王様や民たちに語りました。これは「託宣」と言って、神から告げられたことばです。つまり、リーダーたるものは、神さまからどこへ進むべきか、「託宣」をいただくべきであろうと思います。しかし、現代においてもそうですが、「本当に主はそのように語られたのですか?」という疑いが必ず起こります。うまくいかない場合は、分裂が起こり、大変なことが起こります。牧師に強いリーダーシップがある場合は、物事はスムーズに運び、うまくいくと大きなことが起こります。でも、カルト的になり失敗することもあります。そのため多くの教会は牧師一人で決めるのではなく、「長老会や会衆でよく考えてから」と民主主義的になります。一面では当たっていますが、聖書を見ると、神の国は民主主義ではないということが分かります。
ある時、モーセはカナンの地に12人の斥候(スパイ)を送りました。彼らは12部族の各代表であり、いわばえり抜きでした。彼ら全員が約束の地は乳と蜜が流れるような豊かな土地であること認めました。ところがその中の10人は「城壁が高いし、巨人が住んでいる。あの民のところには攻め上れない。私たちは彼らの餌食になる」と言いました。カレブとヨシュアの二人だけが、「上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」と主張しました。イスラエルの民たちはどちらの報告を信じたでしょう。二人ではなく十人の意見を聞いたのです。民数記14:1-2「すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。」その時、モーセとアロンは全会衆の前で平伏しました。しかし、ヨシュアとカレブは「主に背いてはならない。主が私たちと共におられるのだ。彼らを恐れてはならない」と言いました。しかし、全会衆は二人を石で打ち殺そうと言い出しました。私はこのとき、指導者のモーセとアロンが平伏すのではなく、「主に従うべきだ」ともっと、体を張って主張しなかったのか残念でなりません。彼らは不信仰によってこの後40年も荒野をさまようことになるからです。
聖書のリーダーシップは、多数決ではありません。現在のキリスト教会のほとんどは、民主義のような多数決であり、みんなで議論してから決定します。もちろん、みんなで話しあうことも必要でしょう。でも、最終的な結論は神がたてたリーダーに従うべきです。その代わり、リーダーは神からのお声をしっかり聞いている必要があります。牧師はどちらかと言うと会衆を守り、牧会的配慮というものを大切にします。ところが、そのとき教会に必要なのは、使徒と預言者です。現在、多くの教会はその存在を認めず、教会の牧師と教団に置き換えています。そうではありません。エペソ4章、Ⅰコリント12章にあるように使徒と預言者は今も存在しています。Ⅰコリント12:28「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち…」とあります。使徒は神からの設計図をいただき、預言者はその通りやっているかチェックするコンサルタントです。もちろん、地方教会のリーダーは牧師であり、突然やってきた使徒や預言者に従えということではありません。私が言いたいのは、普段から牧師や教会員が使徒や預言者から学び、教会の中にも使徒や預言者的な人を育てるということです。彼らは牧師ではなくても、神さまが与えたリーダーの賜物があるということです。リーダーとは、神が与えた賜物です。会社の社長からはじまり、父や母、教会の牧師もそうです。言い換えるとリーダーの賜物は生まれつき、あるいは後から神から与えられたものであり、努力してなれるということではありません。重要なのは良いリーダーになるということです。リーダーは自分自身が神の権威を恐れ、神さまに聞き従う人です。そして、神さまから与えられた良きものを独り占めするのではなく、チームの人たちに還元し、彼らを生かすことです。イエス・キリストこそリーダーの模範であり、エンパワリングの模範です。リーダーは権威を与えた神を恐れて使命を果たすべきです。また、下の者がリーダーの権威を重んじて従うなら、守りと祝福も与えられます。