2025.4.20「側を歩まれるイエス ルカ24:13-24」

イースターおめでとうございます。いつもは主題説教ですが、今回は聖書の文脈を尊重しながら、メッセージを準備しました。久しぶりに、「一体、このところから何を語ることができるのだろうか?」と悩みました。

1.エマオへの二人

 13節の「この日」とは、イエス様が日曜日、よみがえられた日のことであります。彼らはイエス様の弟子でありましたが、12弟子ではありません。一人は「クレオパ」ですが、もう一人の名前は明記されていません。彼らはイエス様がよみがえられたというニュースは聞いていました。ところが、そのことは彼らの人生に全く影響を与えていませんでした。あとで、二人はイエス様から「心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と叱られています。つまり、歴史的にイエス・キリストの十字架と復活は知っていますが、そのことが彼らの人生に全く関係していないということです。この二人のことを笑うことはできません。なぜなら、この世のほとんどの人たちが、そうだからです。彼らは「復活祭、イースター」というキリスト教の祭りのことは知っているかもしれません。学校の歴史で、イエス・キリストのことを少しは学んだかもしれません。どう学んだか分かりませんが、「それが私と何の関係があるの?」ということでしょう?つまり、イエス・キリストの十字架と復活は知っていても、信仰と結びついていないので、何の効果もないということです。そういう意味でエマオの途上の二人と全く同じです。

 彼らが何を知って、どういう考えを持ってたのかもう少し調べたいと思います。19節には「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした」と言っています。預言者とは神のことばを代弁する、エリヤとかイザヤのような人です。サマリヤの女性も、うまれつき盲人であった青年もイエス様のことを「預言者」と呼びました。ユダヤ教やイスラム教の人たちも、イエス様を「預言者の一人」として、認めています。二人は、「私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました」と言っていますから、十字架の死のことも知っています。それだけではありません。21,22節を見ると「三日目に、女性たちが墓に行くと、イエス様のからだが見つからない。御使いたちが、彼女らにイエス様は生きておられると告げた」というのです。彼らは見たわけではないけれど、「どうもイエス様は生きているらしい、よみがえられたのかもしれない」というところまで行っていました。十字架と復活という事実を知っているのに、なぜ、エマオという村に向かうのでしょうか?エマオはエルサレムの東に11㌔行った村です。「エマオ」という絵を見たことがあります。時は夕暮れで、大きな木々の間を三人の人たちが語り合いながら歩いています。彼らは東へ向かって歩いていますので、自分たちの影が前にたなびいていたことでしょう。二人はイエス様が側にいたのに、悲しみと失望の中を歩んでいたのです。つまり、イエス様の十字架と復活が彼らの人生に何の意味ももたらしていなかったということです。

 これは、私たちの人生にも言えることです。私も25歳までは、イエス・キリストとは全く関係のない生き方をしていました。「人生、死んだら終わりさ、生きている内にできるだけ楽しいことをすれば良い」という風に生きていました。「宗教とは弱い人たちが勝手に作ったものだ」と、神様を信じている人たちのことを笑っていました。おそらく、ほとんどの日本人は、このような感じでキリスト教のこと思っているのではないでしょうか?私の場合は職場の先輩がクリスチャンだったので、聖書に関するお話を聞くことができました。でも、最初は「何、言っているんだろう?」と馬鹿にしていました。神さまを求める、求道心が生まれたのは1年かかりました。仕事を教えてもらっているので、仕方なく、耳を傾けていました。1年後、座間キリスト教会の礼拝に出席して、はじめて牧師のメッセージを聞きました。人生論的なアプローチで、心にぐいぐいと来ました。夜の水曜祈祷会にも出席して、信徒たちの証を聞きました。彼らの話は世離れしていて、この世の人とは思えませんでした。いろんが疑問が生まれ、そのたびに、職場の先輩に聞きました。彼が導いてくれなければ、洗礼まではとても行けなかったと思います。そういう意味で、日本の場合は、だれか親しい人が手取り足取りしてくれる必要があるということでしょう。

 エマオに向かう二人は、「弟子」と書かれているので、イエス様と他の弟子たちとの交わりもあったことでしょう。でも、十字架と復活の意味となると、さっぱりわからなかったと思います。その点では、11弟子たちも同じだったと思います。彼らがそうであるなら、聖書の話を聞いたこともない異邦人の私たちがそう簡単に信じられるわけがありません。二人はイエス様から「心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と叱られてましたが、彼らは私たちの代表と言っても過言ではありません。復活の日の弟子たちの反応はどうだったのでしょう?きょうのテキストの少し前、ルカ福音書24章9節からお読み致します。ルカ24:9-11「そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。彼女たちはこれらのことを使徒たちに話したが、この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。」「たわごと」は、欽定訳聖書は、idle tales「偶像の物語」となっています。大体、ほとんどの宗教は神話的要素に満ちています。キリストの復活も、神話ということなのでしょうか?イエス様の直接の弟子たちが、女性たちの証言を聞いて、そのように思ったのだったらどうしようもありません。つまり、キリストの復活は作り話、絵空事の範疇ということになります。私たちもキリストの十字架と復活を語るとき勇気がいるのはそのためです。パウロはⅠコリントでこう述べています。Ⅰコリント1:23,24「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」アーメン。パウロはあえて愚かさに徹しました。なぜなら、十字架のことばでなければ、人は救われないからです。

2.心が内に燃える

 不思議なのは、二人の間にイエス様がおられ、一緒に歩いていたということです。そのお方は、しばらく彼らの会話を聞いていました。ルカ24:25-27そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。二人の会話に業を煮やしたのか、イエス様は「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言われました。欽定訳聖書では、”O foolish ones,となっています。イエス様から「馬鹿」と言われたら、嫌ですね。ギリシャ語では「遅い」「鈍い」という意味のことばです。福音書をみると分かりますが、イエス様は少なくとも3回は、苦しみを受けた後、よみがえるということを語っておられました。イエス様は二人に、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされました。今さら問うのも何ですが、本当にモーセ五書や預言書に、そして聖書全体にイエス様のことが書かれているのでしょうか?私たちたちは、旧約聖書は旧約聖書として読んでいるので、まさかそこにイエス・キリストのことが書かれているなんて思いません。「新約聖書で十分でしょう」と言いたくなります。でも、その当時は聖書といえば、旧約聖書でした。私も二人が受けたような、イエス様の解説を聞きたいです。どんなふうに語られたのでしょうか。

 この間、水曜集会で「使徒の働き」のステパノの説教から学びました。ステパノは執事でしたが、旧約聖書をパノラマ的に述べている名説教家です。使徒の働き7章にありますが、ステパノは「このモーセが、イスラエルの子らにこう言ったのです。『神は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。』」(使徒7:37)とメッセージしました。このことばは、申命記18章15節にありますが、まさしくメシア預言です。モーセはイエス様のことを預言していたのです。そういえば、ペテロがペンテコステの日、イエス様の受難と復活についてメッセージしています。詩篇16篇、詩篇110から引用して語っています。ということは、旧約聖書にはイエス様のことがふんだんに預言されているということです。私たちは新約聖書が完成している時代に住んでいるので、旧約聖書を読もうとしないところがあります。ごめんなさい。皆さんの中にはちゃんと読んでいる人もおられると思います。しかし、旧約聖書を読むとき、イエス様のことを考えているかというとそうでない可能性が高いですね。私が東京聖書学院で学んでいた頃、学院教会の祈祷会にこっそり参加していました。大川牧師から小林和夫先生のメッセージを盗むようにと言われていたからです。そのころ、小林先生は旧約聖書と新約聖書の両方のみことばを引用し、それら二つの関係性を語っておられました。先生は私たちに、『66巻のキリスト』という本を推薦しておられましたが、毎回、「なるほどなー」と感銘しました。

 あとから二人が回想しています。ルカ24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」そうなんです。イエス様が聖書を解き明かしてくださっているとき、二人の心が内で燃えていたのです。これは、心が感動していたということでしょうか?それとも霊的に燃えるという聖霊体験でしょうか?おそらく、その二つだと思います。キリスト教の歴史上、とても有名な方が「心が内に燃える」経験をしています。まず、ジョン・ウェスレーです。彼はイギリスの牧師の家に生まれ、青年時代、アメリカに宣教に出かけました。ところが婚約が破棄になり、失意の中で帰国の途に着きました。ところが、途中、大嵐にあい、乗っていた船が沈没しそうになりました。その中に、恐れないで、祈っているモラビア教団の人たちがいました。ジョン・ウェスレーは自分には信仰がないことを知らされました。帰国後、イースターも終わったある日のことでした。アルダス・ゲートという所で小さな集会があり、ウェスレー自身も出掛けていきました。重い心を引きずるようにして会場に着くと「われ深き淵より汝を呼べり」というテーマのもとに一人がルターの『ローマ人への手紙註解』を読んでいました。その時、彼の心は不思議に燃え立ってきました。そして、キリストが私の罪を取り去り、罪と死の中から救い出してくださったという確信をその時与えられました。彼はどんなに努力しても、血の汗を流しても得られなかった救いの確かさを今得たのです。まさに、福音が彼の血肉となった瞬間でした。スポルジョンも同じような経験をしています。

 詩篇119篇に「みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます」とあります。これは神学的にはイルミネーション「照明」という聖霊のみわざです。エマオの途上の二人は、復活のイエス様によってみことばの解釈をしていただきました。そのとき、彼らの心が内に燃えるという経験をしました。単なる理解ではなく、心が内に燃える霊的経験です。今は、イエス様は聖霊によってこちらにおいでになっておられます。目には見えませんが、真理の御霊として、私たちの側におられます。このお方に聞くならその意味を教えていただけます。多くの人たちは、「自分は専門家でもないので、勝手に聖書を解釈したら間違えるのでは?」と恐れています。しかし、皮肉なことに、神学的に専門家の人たちが危ないのです。聖書は本来、読めばわかる書物です。ところが、「キリスト教会は神学校で専門に学んだ人でなければ、本当の意味は分からない」と嘘のニュースを流してきました。私はインドネシアの先生方からたくさん学びました。彼らは神学校に行っていないのに、小グループで聖書を互いに学んでいます。すると、聖霊がどこの注解書にも書いていないような深い知恵を与えて下さるというのです。そうです。イエス様は真理の御霊として、あなたの側に来ておられます。あなたが一人で、デボーションを持つとき、ぜひ、「これはどういう意味でしょうか?」と聞いて下さい。不思議なことに「これはこういう意味ですよ」と教えてくださいます。それこそ、イエス様の啓示です。そして、あなたは同時に、心が燃えるような経験もするでしょう。そのような経験をするので、聖書を読んで、瞑想することがやめられなくなるのです。イエス様と聖書を読んで下さい。側におられるイエス様に聞いて下さい。

3.復活を生きる

 ルカ24:28-31「彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。彼らが、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています』と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」二人はイエス様を引き留めました。一緒に食事をし、その宿に泊まろうと勧めました。多くの画家たちが、食事のシーンを描いています。まるでそれは、ダヴンチの最後の晩餐のような絵であります。レンブラントも書いていますが、今、まさしくイエス様がパンを裂こうとしています。二人はパンを裂く様子を見て、初めてイエス・キリストであることに気が付きました。暗い室内に光り輝くキリストと穏やかな表情が、不安な心に光を差し込み、平安へと導くようであります。何故、今頃になって、その方がイエス様だと分かったのでしょうか?鈍いといえばそれまでですが…。

 31節には「すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」とあります。ということはそれまでは、目が閉ざされていたということです。そういえば、復活の主と出会ったマグダラのマリアもそうでした。マリアはその人が園の管理人だと思っていたのです。イエス様が「マリア」と呼んだとき、目が開かれて、その方がイエス様だと分かったのです。エマオの二人も、マリアもそうですが、共通している要素があります。1つはイエス様が死んでしまったという悲しみからです。悲しみと失望落胆のゆえに目が塞がれていたのです。もう1つは不信仰です。死んだ人がよみがえるはずがないという考えがあったからです。肉眼では多くの物を見ることができます。でも、霊の目がふさがれているため、よみがえられたイエス様を見ることができないのです。ヨハネ9章に、うまれつき盲人の目が開かれた奇跡が記されています。彼は肉体の目が癒されても、しばらくそのお方がイエス様だとは分かりませんでした。もちろん、パリサイ人や律法学者はイエス様を肉眼で見ることができましたが、その方がキリストであることを知らなかったのです。やがて、目が開かれた若者は、イエス様と出会って、「主よ、信じます」とイエス様を礼拝しました。彼は肉体の目と霊的な目の両方が開かれたのです。

 そういう意味で、私たちも霊的な目が開かれなければ、イエス様のことが分からないということです。しかし、エマオの途上の二人は幸せだと思います。ずっと一緒に歩き、聖書から教えられ、パンを裂くお姿を見ました。鈍い弟子たちの側を歩んでくださったイエス様の愛と忍耐を覚えることができます。私たちも、「どうしたらこの人は分かるんだろう」と歯がゆい気持ちをイエス様に与えているのかもしれません。『家憲・我と我家とは共に主に仕えん』という言葉を聞いたことがあります。木彫りにもなっています。「1.我家の主人はキリストなり、2.食事の度毎に見えざる賓客あり、3.談話の度毎に沈黙せし聴き手あり」。我が家では滅多にありませんが、家族の毎食事において、賓客であるイエス様が同席しておられることをたまには意識したいと思います。私がこのメッセージを作る早朝ですが、夢を見ました。最近、夢の本をいくつか読んでおり、夢を研究しています。私と他の二人、合計三人が話しています。左の人が、私のことを「あなたはとても正直なので気に入っています」と言いました。夢からさめたあと、「ああ、私は正直であることがとりえなんだなー」と思いました。ある時、ある本を読んでいました。その著者はイエス様が自分のことを好きだと言ってくれたということを書いていました。しばらく、瞑想していると、イエス様が私に「私もあなたのことが好きだよ」と言ってくれたような気がしました。「愛している」というのはキリスト教会であふれています。ところが、「私はあなたのことが好きです」というのは、感動しました。三日間、そのことを思い出す度毎に、肩を震わせ嗚咽しました。

 エマオの途上の二人は復活のイエス様と特別な時を過ごすことができました。イエス様ご自身がよみがえられたことを二人に聖書から証明し、共に食事の席についてくださいました。パンを裂いたあと消えてしまわれたのが残念です。でも、二人はエルサレムに引き返しました。二人は、復活の主に出会ったことを、11弟子たちに知らせなければならないと、今来た道を引き返したのです。すると、彼らも「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していました。それに加えて、二人も道で起こったことや、パンを裂かれたときにイエス様だと分かったことを告げました。二人は自分たちの喜びを他の弟子たちに分かち合わないでおられなかったのです。イエス様はもう一度、彼らの間に立ち、「平安があなたがたにあるように」とおっしゃってくださいました。彼らは喜びましたが、それ以上に驚きました。彼らは不信仰を悔い改め、復活の主を仰いだのです。

 この世は死と暗闇が支配し、多くの人たちは、そのまま永遠の死に飲み込まれています。私はアリオに買い物に行きますが、フードコートで多くの人たちが食べたり、飲んだりしています。赤ちゃんを乗せたカートを見ます。腰の曲がった年配者もみます。元気な中高生も見ます。愛し合っているカップルも見ます。でも、ほとんどの人たちは、永遠の死へと向かっています。エマオの途上の人たちは、イエス様が復活したというのに、夕暮れの道をとぼとぼ歩いていました。自分たちの長い影を見て、失望と落胆に満ちて歩んでいたのです。しかし、復活のイエス様が側を歩いて、聖書を解き明かしてくださいました。しかも、二人の目を開いて、信じるようにさせてくださったのです。ということは、今も復活の主は生きておられ、普通の生活をしている人たちの側を歩まれているのです。彼はちょっとでも、「永遠の命はあるのだろうか」「神さまはいらっしゃるのだろうか?」と問いかけるなら、答えてくださいます。あるいは、エチオピアの宦官にピリポを遣わしたように、だれかを遣わしてくださいます。ピリポとはあなたかもしれません。死と暗闇を歩いている人たちのだれかが、「救われるためにはどうしたら良いでしょう」と飢え渇きをもっている人が必ずいるはずです。イエス様のことばです。ヨハネ11:25,26「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」