私たちはいろんなことに不安を覚えています。年を取ると、老後のことが心配になります。この世の人たちは、3つのことが心配なのではないでしょうか?ある程度のお金があって、住まいが確保され、健康であることを願います。そうすれば、死ぬまで平安に暮らすことが出来ると考えます。きょうはそれら3つのものに対して聖書から究極的な解決を見出し、たとえどんなことがあっても平安に過ごせる道を会得したいと思います。
1.お金
どのような俳句や川柳にも付けられる下の句があるそうです。「古池やかわず飛び込む水の音、それにつけても金の欲しさよ」。 「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺 、それにつけても金の欲しさよ。」お金はどんなにあってもじゃまにならないと言われています。クリスチャンはお金がいらないかというとそうでもありません。お金は生活に必要です。しかし、「お金がなければ生活できない」「お金がないので老後のことがとても心配だ」となると、聖書の真理からはずれてしまいます。でも、お金より大切なものがあるのでしょうか?ルカ12章の物語を要約したいと思います。ある金持ちがいて、彼の畑が豊作でした。彼は心の中で考えました。「今の倉を壊して、もっと大きいのを建てて、私の穀物や財産をすべてそこにしまっておこう。わが魂よ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」。しかし神さまが彼に「愚か者、お前の魂は、今夜お前から取られる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。イエス様は「財産がたましいであるいのちを保証するものではない」と言われたのです。なぜなら、人間の寿命は神の御手の中にあるからです。マタイ12:25「あなたがたのうちだれが、心配したからと言って、少しでも自分のいのちを伸ばすことができるでしょうか」と書いてあります。大金持ちの人が、医者から「余命半年ですよ」と告げられて、お金をたくさん積んでも癌が治らない可能性が大です。お金と寿命とは関係ないとうことです。たとえ医者から癌と宣告されても、永遠の命を持ちながら、寿命が尽きるまで生きることができるということです。
「でも、お金がある方が死ぬまで豊かに暮らすことができるでしょう?」とおっしゃるかもしれません。確かにそうです。でも、お金というのは、貨幣経済から生まれた交換手段であって、お金がなくても必要な物が与えられたなら問題ありません。もちろん、神さまはお金を直接下さることもあるでしょう。しかし、さまはお金よりも、別なかたちで私たちの必要を満たして下さるのではないでしょうか?旧約聖書でアブラハム、イサク、ヤコブは多くの富と財産を持っていました。神さまはご自身を「アドナイ・イルエ」と(主の山に備えがある)と言われたとおりです。神さまは、彼らの羊の群れを増やしてくれたり、穀物の収穫量を増やしてくれました。そして、盗賊や外敵からも守ってくれました。当時はお金という交換手段がなく、羊や穀物が財産でしたのでとても単純でした。それが、だんだんと金や銀が交換手段になっていったのです。そうなると、「お金があれば何でも買える」みたいになってしまいます。神さまが私たちを手のわざを祝福してくださるなら、おのずとお金が与えられるのです。神さまは直接、お金を天から降らせてくださるのではなく、働く力や能力、アイディア、創造力を与えて下さいます。ヨセフやソロモンやダニエルは、神からの知恵によって力と富を得ることができました。箴言8:10,11「金(かね)ではなく、わたしの訓戒を受けよ。選り抜きの黄金よりも、知識を受けよ。知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これとは比べられないからだ。」言い換えると、神からの知識と知恵がお金や富を生み出すということです。ユダヤ人に金持ちが多いのは、神からの知恵をいただいて商売しているからではないかと思います。もう天に召されましたが、松森牧師という夢を解き明かす人がいました。少ししか聞くことができませんでしたが、政治や経済界の人たちの助言者であったということです。おそらく、彼らの夢を解き明かすことによって、彼らに行くべき道を示したのだと思います。まるで、旧約聖書のヨセフやダニエルのようです。
この世の人たちは「先立つものはお金だ。お金がなければ何も始まらない」と言うかもしれません。私たちは彼らに倣ってはいけません。お金よりも信仰が先です。「先立つものは信仰です。信仰がなければ何もはじまらない」と言いたいです。使徒3章に生まれつき足の不自由な人が神殿の門に座り、人々から施しを求めていました。ペテロがその人を見て「金銀は私にはない」と言いました。その人は「なんだ、そうなのか」とがっかりしたでしょう。ペテロはさらに続けて「しかし、私にあるものをあげよう。『ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい』」と言いました。そう言いながら、彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出しました。その先のことは分かりませんが、おそらく自分で働いて生活費をかせぐことができたのではないでしょうか?彼は金銀よりもまさるものを神さまからいただいたのです。盲人のバルティマイもそうです。彼が物乞いをしているとき、イエス様が通り過ぎようとしていました。その時、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と大声で叫び、イエス様を呼び止めました。イエス様は「私に何をしてほしいのですか」と聞かれました。彼は「先生、目が見えるようにしてください」とお願いしました。イエス様は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」と言われ、彼は見えるようになりました。イエス様は当座必要なお金ではなく、目が見えるようにしてくださったのです。きっと、彼は物乞いにおさらばして、自分の手で稼いで生きて行くことができたでしょう。このように神さまはお金ではなく、もっと根本的なもの、お金を生み出すことのできる知恵や健康を与えてくださるのです。「私にはお金がない、暮らしが貧しい。誰も援助してくれない」と自己憐憫に陥るのではなく、神からの知恵を求めましょう。神さまは全宇宙の創造者であり、最も裕福なお方です。私たちがその神さまの子供であるなら、どうして父なる神さまが恵んで下さらないことがあるでしょう。Ⅱコリント8:9「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
2.住まい
テレビのコマーシャルで多いのが住宅物件です。芸能人がいろんな物件を巡り歩いて、どこに住もうかという番組もあります。私の家内は『ビフォー・アフター』が大好きです。私はそばで見ていて、「全部壊して新しく建てた方がいいんだ」と茶々を入れます。ある人たちは、自分の住まいが自分のスティタスのように捉えています。確かに庭付きの一軒家があったら良いなーと思います。でもある人たちは2時間近くもかけて会社に通っている人もいます。「都会ではなく、いっそのこと田舎で暮らした方が良いのでは」と言いたくなります。私もこの教会を退職した後、どこに住んだら良いか悩んでいます。どこに住んでも良いのですが、ある程度の生活費も得なければならないので、とんでもない僻地では困ります。かといって、都内では物価が高いのでどうしようかと?礼拝説教で、こんな、私個人のぼやき事を言ってよいのでしょうか?イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」(マタイ8:20)と言われました。文脈から理解しますと、イエス様は寝泊りするお家を持っていなかったということです。でも、もう1つ考えられるのは、父なる神さまは狐には住む穴を与え、空の鳥には巣を与えてくださるとも理解できます。テキサスのジョエル・オスティーンはご自分の家をden(ほらあな)と呼んでいます。でもそれは名ばかりで、セレブのような豪邸に住んでいらっしゃいます。でも、その家は、ジョエルの奥様ヴィクトリアの信仰によるもので、求めたら与えられたそうです。韓国の教会の牧師は、「私は神の使いだから、立派なお家に住むべきだ」みたいなことを主張するそうです。日本の教会は全く逆であり、イエス様でさえお家がなかったのだから、自宅を持つのは贅沢だという考えがあります。座間キリスト教会時代、大川牧師がローンを組んで、ご自宅を建てたら、属していた教団からやんやかんや言われたそうです。「牧師のくせに家を持つとは、贅沢だ」と言われたのです。引っ越しの日は雨であり、教会から二人の兄弟が来て、手伝ってくれたそうです。ピューリタンの教会は清貧に甘んずることが美徳とされているようです。
聖書には究極な答えがあります。この地上でどんな豪邸に住んでもそれは仮住まいであり、天国に行けば本当の住まいがあるということです。なぜなら、私たちは天に向かう旅人だからです。アブラハムの生涯を見ますとそのことが良く分かります。アブラハムは「父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい」と言われ、とにかく出発しました。でも、彼のゴールはカナンではありませんでした。彼は一生涯、天幕生活をしていました。ヘブル人への手紙11章には、アブラハムは天の都、天の故郷を目指していたと書かれています。イエス様はたとえ話でこのようなことおっしゃいました。ルカ16:9「わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」このたとえ話は、不正の富(マモン)を用いて神さまと友達になり、永遠の住まいを得なさいということです。言い換えると、神さまのところには「永遠の住まい」があるということです。ヨハネ14章にも同じようなことが書かれています。ヨハネ14:1-2「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。」アーメン。このみことばを文字通りに訳すと、父の家というのがあり、その家に私たちが居住するところがあるということです。私は、赤茶色の屋根がたくさん並んでいる建売住宅を想像していましたが、そうでもないようです。インターネット上に天国の様子が描かれていました。お城のような建物がくっついており、それが巨大な建造物(父の家)になっていました。ま、行ってみないと分かりません。ヨハネ黙示録には都の神殿については詳しく書かれていますが、私たちの住まいについは銘記されていません。この世の人が聞いたら、「そんなおとぎ話のようなことを信じているのですか?」と馬鹿にされるかもしれません。
20年位前、ジャカルタのアバラブ教会の信徒の家を訪問したことがあります。ガードマンがいる検問所を通ると立派な家々が並んでいました。その家はあるテレビ局の副社長のお家でした。とっても立派なお家で、二階に小ホールがあり、映画を見ることができました。そのエリヤは中国系の富裕層が住んでおり、外敵から守られているような感じがしました。日本のお家はウサギ小屋なので、たまにはインドネシヤや英国の豪邸に出かけてイメージを膨らませる必要があります。とにかく言えることは、この地上で豪邸と言われている住まいでも、天国と比べたならかなり見劣りがするということでしょう。向こうでは泥棒も強盗もいないので、鍵をかける必要はありません。だからと言って、この地上でボロボロのお家で我慢しろというのも変であります。狐に穴が与えられており、空の鳥には巣が与えられています。ましてや、父なる神さまが、子どもたちにブルーシートの家で暮らしなさいということはないでしょう。問題は、この地上のお家はどんなに立派であっても、それは一時的であり、仮住まいであるということを理解しておくということです。そのことを理解した上で、快適な住まいを神さまに求めるというのは悪くないと思います。ジョエル・オスティーンは「かつてダビデは野宿していたのに、今は宮殿Palaceに住んでいる」と言いました。私はPalaceと聞いたとき、胸がきゅんとしました。そのとき、「イエス様が共にいたら、どんなところでもPalaceになるなー」と思いました。この世では、豪邸に住んでいても、会話の一つもない冷たい家もあるでしょう。部屋がいっぱいあっても、お年寄り夫婦しか住んでいない家もあります。大きさや豪華さはあまり問題ではありません。houseも大切ですが、homeがあるかどうかです。私にはデスクとスダンドがある牧師室があります。子どものときは自分の勉強机がありませんでした。冬はこたつしかなく、寒くて受験勉強もままなりませんでした。しかし、牧師室は冷暖房付きです。ここが私のPalaceです。
私たちは「自分は給与が低いのでこんな住まいでも仕方がない」と自己憐憫に陥ってはいけません。箴言24:3、4「家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によって、尊く好ましいあらゆる宝物で満たされる。」とあります。神さまから与えられた知恵を用いるなら、どんなあばら家でも、Palaceになることが可能です。ちょっと工夫すれば、快適に暮らせるでしょう。極論を言えば、主が共にいればどこでも、Palaceです。
3.健康
この世では「健康が一番の幸せだ」と良く言われます。現代ほど、サプリメントが勧められている時代もないと思います。ひざ関節の痛み、内臓脂肪、便秘、疲労回復、記憶サポート、シミ対策、目、鼻、精力減退…きりがありません。郷ひろみは一日、50種類くらい飲んでいるそうです。そうなると、片手ではおさまらないのではないでしょうか?でも、「郷でーす」と元気が良いのはそのためかもしれません。私も頭がぼけないようにサプリメントを飲んでいます。また、健康器具もたくさん発売されています。テレビ・ショッピングで買っても1か月程度しか使いません。部屋の片隅に放置されているのがいくつもあります。先週、家族から「邪魔だ」と言われ、しぶしぶ1個だけ外に出しました。ところで、「健康が一番」と言われていますが、聖書的にはどうなのでしょうか?聖書には「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)と書いてあります。極端に言うと、体の健康よりも、「まず神の国と神の義を求めなさい」ということです。そうしたなら、健康も与えられるということです。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります」という、みことばはどうでしょう?神さまのみこころは「私たち健康であるように」ということです。でも、このみことばには優先順位があります。「あなたのたましいが幸いを得ているように」と言われています。つまり、「体の健康よりも、まず魂の健康を求めなさいよ」ということではないでしょうか?テレビ・コマーシャルでは体の健康についてはたくさんありますが、魂の健康については皆無です。むしろ、すぐ古くなるニュースや人が何人も殺されるサスペンス、どうでも良いクイズ番組、内容のないお笑い番組がほとんどで、魂には害を及ぼしてしまうものばかりです。私たちは肉体の健康を求める前に、魂の健康を求める必要があるのではないでしょうか?
こういう話をすると、「聖書を読んで祈ることでしょう?」という返答が返ってくるかもしれません。もちろん、霊的に満たされることが最も重要です。でも、魂のことも考えなくてはなりません。魂は知性、感情、意志でできています。私たちは24時間、何かを考え、何かを感じ、何かを選択しながら生きています。「24時間」というのは、寝ているときは潜在意識が活動しているからです。箴言17:22「喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす」とあります。心の状態が体の健康と結びついているということです。ということは、心の健康を何よりも考える必要があるということです。私はキャロライン・リーフ師の脳についての本をたくさん読みました。また、『ストレスを減らす101の方法』という本も訳しました。著論から少し引用させていただきます。「私たちの多くは、ジムやトレーニング教室、朝のジョギングなど、身体の健康には気を配っていても、心の健康には気を配ることを忘れがちです。しかし、心は私たちの思考、言葉、行動のすべての源です。思考が不健康であれば、生活も不健康になります。生活は非常に厳しいものです。職場、家庭、学校、車の中など、私たちは常にストレスフルな状況に直面しています。多くの場合、これらの状況に対する私たちの反応が、事態を悪化させることがあります。思考や感情をコントロールできなくなると、精神的にも肉体的にも悪影響を及ぼします。コントロールされていない思考や感情は脳内で暴走し、神経化学物質の混乱を引き起こして不安にさせ、明確な思考力や情報処理能力に影響を与えます。」…この本もそうですが、静かな時間を持ち、そこで自分の心の状態を知り、整理していくということです。クリスチャンは神さまにオープンになって何でも打ち明けることができる特権が与えられています。神さまと交わることによって、自分のことを客観的に見ることができます。不思議なことに聖霊と私たちの霊がミックスして魂に語りかけてくださいます。これこそ魂の健康の秘訣です。
もう一度、健康のことに戻りますが、「健康が一番の幸せだ」とするなら、病気であったり、どこか痛かったりすると幸せではないということになります。もし、その人が持病を抱えていたならずっと不幸であり、したいこともできないということになります。それだと、健康でなければ何もできないという「偶像」になってしまいます。極論を申し上げますと、たとえ病気であっても、健康に問題があっても平安に過ごせるということです。パウロは何か分かりませんが、肉体的に弱さを覚えていたようです。神さまに三度も祈ったのに、それが取り除かれなかったとも言っています。これは健康至上主義の信仰者には頭を抱えてしまう箇所です。私たちは肉体を持っているがゆえに、どうしても病気になったり、加齢による老化があります。解決はあるのでしょうか?Ⅱコリント12:9「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」もちろん、私たちは癒しの信仰に立ち、たましいが幸いを得ているように、すべての点で幸いを得、また健康であることを願います。私は肉体の健康は神さまのみこころであると信じます。でも、矛盾するようですが、クリスチャンであっても病気をしたり、肉体的な弱さを覚えることがあります。では、「健康でなければ何もできず、不幸な状態か」というとそうではありません。そうではなく、たとえ病気が治っていなくても体の具合が悪くても、そこに主の恵みが現れるということです。クリスチャンであるならきっと体験していると思います、「もうだめかな?」と思ったときに、不思議に力が与えられ持ちこたえることができます。倒れそうで倒れない、死にそうで死なない。それはイエス様の死といのちが関与しているからでしょう。パウロは「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が…死ぬべきからだも生かしてくださる」(ローマ8:11)と言いました。きょうは、この世の人たちが大事だと思っている、お金、住まい、健康を聖書から再解釈させていただきました。究極的には、たとえお金や住まい、健康がなくても、主が共におられるなら、平安に生活できるということです。詩篇23篇を引用して終えたいと思います。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。」アーメン。