旧約聖書には「要塞」あるいは「とりで」という言葉が、度々出てきます。Ⅱコリント10章4節にも「要塞」が出てきますが、英語の聖書ではstrongholdです。要塞は軍事用語ですが、攻撃と防御が出来る戦略的な拠点のことです。私たちの心に中に、神に敵対する要塞があったならどうでしょうか?助けようと近づいても、矢が飛んでくるので、危なくて近づくことができません(やーね)。
1.要塞とは
Ⅱコリント10:4-5「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。」4節に「要塞」ということばが出てきます。パウロは何らかの「武器」によって、要塞を打ち壊すと言っています。次の5節を見ますと、「様々な議論」、「神の知識に逆らう高ぶり」、「すべてのはかりごと」と出てきますが、すべて考えや思いに関することです。最後に、キリストに服従させる」と言っていますが、それは神の真理に逆らう考えや思いを服従させるということです。つまり、要塞というのは、神に敵対する私たちの考えや思いのことなのだと言うことが分かります。しかし、それは肉ではなく、霊であるということです。ということは、要塞の背後には、偽りの父と呼ばれる悪魔がいるということです。その人は、悪魔の偽りに捕えられ、神さまに従うことができないということです。本来は、神さまをまことの要塞としなければならないのに、神さまに敵対する要塞を築き上げるとは、一体どういうことでしょうか?考えてみると、私たちはクリスチャンになる前に、無神論の世界、あるいは神に敵対する世界に生きてきました。親の教育、学校の教育、本や漫画、テレビや新聞…様々な情報が頭の中に詰め込まれています。その中には、「これが私の生きる道だ」みたいな座右の銘や信念があるでしょう。そういうものは長期的に造られた要塞ですが、短期的なものもあります。親や友人との死別、性的虐待、被災した経験など、そういうものがトラウマになって深く心に刻まれます。そのため、人生には希望がないと諦めたり、「もうだれも頼らない」と誓ったかもしれません。一度、心の中に要塞が造られると、コンピュータ・ソフトのように自動的に作動します。他の人も変えられないし、自分自身でもそれを変えることができません。そのような固定した観念を要塞というのです。
ニール・アンダーソン師著の“Victory over the Darkness”に要塞のことが書かれていました。人間の行動を研究している人によると、ある行為を6週間続けると習慣になるそうです。そして、その習慣を長く続けていると要塞ができてきます。一旦、思考や反応の要塞が心に定着してしまうと、そのパターンに反した選択や行動をとることはほとんどありません。特定の環境から生まれる要塞もあります。例えば、18歳、13歳、9歳の3人の男の子がいて、父親がアルコール依存症になったとします。父親が毎晩のように酔っ払って帰ってくると、長男は自分で立ち上がることができるくらい大きくなっていました。長男は「俺に手を出したら大変なことになるぞ」と父親に言います。真ん中の子は父親に肉体的に抵抗できないので、典型的な後援者になり、父親をなだめようとします。彼は父親に「パパ。体調は大丈夫?何か持ってこようか、父さん?誰かに電話しようか?」末っ子は父を怖がっているだけです。お父さんが帰ってくると、慌てて姿を消して、クローゼットやベッドの下に隠れてしまいます。彼は父親に近づかず、争いを避けています。3人の少年は、敵対するアルコール依存症の父親に対して防御的な反応を続けるうちに、行動のパターンを形成していきます。10年後、この若者たちが何らかの敵対的な行動に直面したとき、どのように反応するでしょう?長男は戦い、次男はなだめすかし、末っ子は逃げ出します。それが、彼らが学んだ敵対行為への対処法なのです。彼らの心に深く刻み込まれた思考と反応のパターンは、彼らの心の中に要塞を形成しています。
また、ニール・アンダーソン師は以下のものも心の要塞であると言っています。敵意は要塞です。ある男性は権威者に反抗的であり、素直に「はい」と言えません。世の中では「反骨精神」と言ったりします。そういう人は指導者にはなれませんが、テレビのコメンティターで活躍したりします。劣等感も要塞です。クリスチャンになっても、「私は劣っている神の子、劣っている聖徒である」と信じています。サタンが長年に渡って、否定的な思いを与えてきたので、劣等感が溝のように刻まれています。manipulation操作も要塞です。manipulationと言うのは、人の心を操ることです。その人は、自分の人生における人々や状況をコントロールしなければならないと感じています。神さまに問題を委ねて心配しないでいることは、ほとんど不可能です。過去のどこかでコントロールのパターンを身に着けてしまい、それがその人を支配しているのです。同性愛も要塞の一つです。神の目には、同性愛者というものは存在しません。神様は私たちを男性と女性に分けて創造されました。しかし、同性愛の行動はあります。それはたいてい、過去の親や性に対する否定的な経験に起因しています。そのような経験から、自分の性的適性を疑うようになり、自分の性的アイデンティティについての嘘を信じるようになったのです。拒食症と過食症も要塞です。ここに45㎏の女性が「私は太っている」と信じて鏡の前に立っています。これほど明白な欺瞞を見たことがあるでしょうか。彼女は、自分自身についての否定的な思考パターンの犠牲者であり、それは彼女の心に焼き付けられ、自分の体や食べ物の適切な使用に関するすべての活動を指示しています。このように、長い間の習慣もしくはトラウマなどで、心の中に神に敵対する要塞ができてしまうのです。
みなさんの中に以上のような要塞があるのではないでしょうか?自分でなんとか変えようとしても、ある事に関してコンピュータ・ソフトのように自動的に働くのです。要塞とは長い間の習慣、もしくはトラウマによって、心の中にできた考えや思いの塊のことです。残念ながら、要塞は神さまがこうだとみこころを示しても、「いや、私はこうだ、こう思う」と変えようとしない頑固さであり、石の心です。
2.サタンの策略
心の要塞を打ち破るためには戦略が必要です。要塞は何かの出来事によって学んだ結果、生じたものです。それでしたら、新たに学んで、正常な状態に戻す必要があります。要塞を打ち破るための主要な筋道は、神の言葉のメッセージ、聖書の学び、そして個人的にミニストリーを受けることです。なぜなら、要塞に捕らわれている自分を自分で解放できないからです。福音書でイエス様はこのようなたとえ話をしておられます。ルカ11:21-22「強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」強い者というのは悪魔です。財産とは捕らわれている人自身のことです。「もっと強い人が襲って彼に打ち勝つと」とありますが、これはイエス様のことです。「悪魔が頼みにしていた武具を奪い」とありますが、これが一体どういう意味かということです。もし、私たちが心に要塞を持っている人を解放し、正常な状態に戻すためにはどうしたら良いか、ここにヒントが隠されています。心に要塞を持っているすべての人たちは、嘘を信じ込まされているということです。悪魔は、嘘、偽りをもってその人を捕えているのです。イエス様はヨハネ8章で「悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです」と言われました。つまり、要塞の背後でその人を操っている偽りの父、悪魔がいるということです。その人自身が欺かれている限り、自分から助けを求めようとしません。そのために、私たちは真理のことばによって戦うのです。これは、要塞を打ち破るための、真理の戦いと言えます。
ニール・アンダーソン師も、心の戦いに勝ためには、戦略が必要であると言っています。そのためには、敵である悪魔の策略を見抜いて、神の武器を用いなければならないということです。もう一度、きょうのみことばをお読みします。Ⅱコリント10:5「私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。」原文のギリシャ語を見ますと、「はかりごと」は「ノエマ」です。「ノエマ」は考え、思い、企て、策略という意味があります。また、「取り押さえ」は、ギリシャ語では「捕虜にする、虜にする」という意味です。ですから、原文に忠実に訳すなら「すべての考え(ノエマ)を虜にして、キリストに服従させよ」となります。口語訳聖書はこのところを「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」と訳していますので、すばらしいと思います。第二コリントの他の箇所にも「ノエマ」ということばがあります。Ⅱコリント3:14「しかし、イスラエルの子らの理解(ノエマ)は鈍くなりました」。Ⅱコリント4:4「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思い(ノエマ)を暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」Ⅱコリント11:3「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思い(ノエマ)が汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。」これまでの聖句をまとめると、サタンはあなたの理解、思い、考えを惑わそうとしているのがわかります。つまり、サタンの戦略は、サタンの考えや思いをあなたの心に導入し、それが自分のものであると信じるようにあなたを欺くということです。
それはダビデに起りました。Ⅰ歴代誌21:1「さて、サタンがイスラエルに向かって立ち上がり、イスラエルの人口を数えるように、ダビデをそそのかした。」これは、神が禁じていた行為であり、ダビデはサタンの考えに基づいて行動したのです。ダビデは神を恐れ、神に仕える人でした。ですから、サタンがダビデに「イスラエルの数を数えてみろ」と言っても断ったでしょう。しかし、サタンがダビデの頭の中に、一人称でその考えをいれました。つまり、「私は軍隊の規模を知る必要があるので、軍隊の数を数えようと思う」という考えを入れたのです。それは、サタンの考え(ノエマ)だったのですが、ダビデの考え(ノエマ)のようにみせかけたのです。もし、サタンの仕業だと分かっていたら、その考えを拒否するでしょう。しかし、サタンが自分の提案をダビデ自身の考えだと偽装するなら、それを受け入れる可能性が高くなります。現に、ダビデは、そうしてしまいました。イエス様の弟子、ユダはどうでしょう?ヨハネ13:2「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。」ユダは、イエス様を裏切ることがサタンの考えであることに気づいていなかったと思います。恐らく、イスラエルをローマから解放するように、イエス様を促すための方法として、そのように思いついたのでしょう。アナニアとサッピラは、「代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置きました」(使徒5:2)。二人は人々から注目を集めたくて、まるですべてを捧げたようにしました。もし、二人がそれがサタンの考えであることを知っていたなら、そんなことはしなかったでしょう。ペテロから「なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺いたのか」と、さばかれています。
サタンの策略が何かまとめたいと思います。サタンは私たちが生きてきた環境の中で、あるいはトラウマ的な出来事の中で、ある嘘を私たちの思いの中に入れます。ところがその人は、その思いがサタンから来たものではなく、自分自身の考えてあると思い、やがてそれが強固な信念になり、心の要塞となります。残念ながら、その人自身は、自分で築いた要塞の犠牲者であることを知りません。サタンから嘘を信じ込まされているので、真理のことばすらも、自分を救い出してくれる人すらも拒んでしまうのです。世の中ではマインドコントロールというかもしれませんが、聖書的には心の要塞であり、悪魔的なものです。ノエマとは、考え、思い、企て、策略のことです。これらは人間を動かす力です。ところが、悪魔が間違ったノエマ、嘘に基づいた考え、思い、企て、策略をあなたに吹き込んだらどうなるでしょう。あなたはその嘘を信じて行動するようになります。ジョイス・マイヤーが「思いは戦場である」と言いました。サタンはあなたの思いの中に、聖書的でない偽り、欺瞞、疑いの爆弾を投げ込んでいるのです。あなたの思いを捕らえることができたら、あなたの人生を捕らえることができるからです。サタンはまるであなた自身の声であるかのように、サタンの考えを入れようとしています。これがサタンの策略です。
3.要塞を打ち破る
かなり前にエリヤハウスで「要塞に打ち勝つにはどうしたら良いか」ということを学んだことがあります。谷間に村がありました。その真ん中に砦がありました。小高い丘に砦があり、高くて頑丈な壁に囲まれていました。正面には大きな頑丈な、かんぬきのついた扉がついています。砦の中にはたくさんの武器も食糧もあるし、水を調達できる井戸もあります。城壁の上には見張りがいて、敵が来ないか目を光らせています。「敵が来た!」みんなが砦の中に入り、頑丈な扉をがっちり締めました。敵たちがやってきて、砦の中に入ろうと近づきます。城壁の上から矢が雨あられのように降って来ます。ところが、敵たちは大きな盾を頭上にかざして、身を守ります。敵たちは油の染み込ませた火矢を砦に向けて放ちました。砦の中は、あちこち火事になり、人々は火を消そうと水を掛けます。そのため壁の守りが手薄になってきました。敵は大きな棒を扉にガーンと打ち付け、無理やり扉をこじ開け入ってきました。私たちも要塞に対してこのように戦う必要があります。外から投げ入れる火矢は、真理のことばです。要塞は偽りで守られているので、真理のことばではなければ入ることができません。門を開ける、こじあけ棒も必要ですが、それはとりなしの祈りです。祈りの力によって神の御手が動くからです。
サタンの第一の武器は嘘偽りなので、サタンに対するあなたの防御は「真理」です。サタンとの戦いは、力との戦いではなく、真理との戦いなのです。あなたがサタンの偽りを神のことばで暴露するとき、サタンの力が破壊されるのです。イエス様はが「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)と言われたのはそのためです。そのため、イエス様はヨハネ17章でこのように祈られています。「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。… 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」使徒パウロは、エペソ6章で悪魔の策略に対抗する神の武具を挙げています。「腰には真理の帯を締め」(エペソ6:14)、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(エペソ6:17)と命じています。心の要塞はサタンの嘘で築かれていますから、それを打ち破るには、真理のことばしかありません。Ⅱコリント10:4「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。」アーメン。ある人たちは「これは霊的戦い」であると言って、その人から悪霊を追い出そうとします。「悪霊をその人から出て行け!」と命じても無理です。なぜなら、その人が悪魔の嘘を信じているので、悪霊は出て行く理由は全くありません。要塞を壊すには順番があります。愛によって掘りを埋め、真理のことばによって固められた城壁を壊し、祈りによって足場を崩してからでないと、内部に入り込むことはできません。多くの人たちは「要塞を壊すのは面倒だ、手間がかかる」と着手しようとしません。
しかし、イエス様はイザヤ61章で「主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とおっしゃいました。伝統的な教会は福音宣教ですべてが解決すると考えています。でも、福音宣教だけでは、捕らわれ人を解放することはできません。神の愛と聖霊に押し出されたミニストリーが必要なのです。私はクリスチャンになって、40年以上になりますが、いろんな人にお世話になりました。救われた頃は、いろんな聖会に出席しました。最後に招きがあり、講師から祈っていただきました。カウンセリングの学びやセミナー、そして解放キャンプも受けました。今、はっきり言えることは、頭の中に混乱がないということです。かつてはキリストによる救いは得ているのに、劣等感、トラウマ、怒りに満ちていました。背後にサタンがいるなんて全く知りませんでした。でも、聖書のみことばと、いろんな人たちのミニストリーによって解放されたんだと思います。そういう意味で、人のお世話になるということが欠かせません。後ろ手をロープに縛られた人がどうして、自分でほどくことができるでしょう?やはり、他のだれかから切ってもらうのが一番です。でも、そのときこのような告白と悔い改めが必要です。「私は間違った思いを持っていました。どうか赦してください。あなたが私の主です。真理のことばを受け入れます」。このように、古い要塞を壊し聖書の真理を土台に据え、神さまご自身に要塞になっていただくのです。
ニール・アンダーソン師は「あなたの役割は何か」4つ上げています。第一は、心の一新によって変えられなければなりません(ローマ12:2)。どのようにして心を新たにするのでしょうか?それは神のことばで心を満たすことです。心の戦いに勝つためには「キリストの平和があなたがたの心を支配し」(コロサイ3:15)、「キリストのことばがあなたがたの内に豊かに宿る」(コロサイ3:16)ようにしなければなりません。神の真理を蓄え続けることで、嘘を見抜き、それを捕えることができるようになるのです。第二は、ペテロは「心を引き締め、身を慎むように」(Ⅰペテロ1:13)と命じています。実りのない空想はやめましょう。何もしないで自分が何かをすることを想像するのは危険です。しかし、真理に従っている自分を想像すれば、想像したことを実行する限り、生産的な生活に向けて自分を動機づけることができます。第三に、キリストに従うために、すべての考えを捕えましょう(Ⅱコリント10:5)。すべての考えを真理によって評価し、嘘に支配されないようにしましょう。第四に、神に頼ることです。あなたの神に対する取り組みが、世や肉や悪魔の考えによって妨げられているときは、祈りの中で神さまに相談しましょう。ピリピ4:6-7「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思い(ノエマ)をキリスト・イエスにあって守ってくれます。」もう一度言います。福音宣教だけでは、捕らわれ人を解放することはできません。神の愛と聖霊に押し出されたミニストリーを受ける必要があります。なぜなら、後ろ手に縛られているロープを自分で切ることができないからです。私はいろんな聖会やセミナーに出て、祈ってもらいました。人の世話になりたくないと思っておられる方もいるでしょう。解放はどうしても他の人の助けが必要です。祈ってもらうことは恥ではありません。だれかからロープを切ってもらいましょう。