◆聖書箇所: エレミヤ書35章(聖書引用:新改訳2017)
- 本日の中心聖句
<エレミヤ35:5-10 >
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35:5
私は、レカブ人の家の子らの前に、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「酒を飲みなさい」と言った。
35:6
すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。
35:7
あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。
35:8
私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、
35:9
住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、
35:10
天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。*************
大みそかに礼拝って珍しいと思って調べてみましたが、2017年、6年前も大みそかが日曜日でした。
その前は、2006年と、意外と頻繁にあるんですね!
さて、明日は2024年です。みなさんの2023年は、どんな一年だったでしょうか。
教会では、先日一年を締めくくる亀有ゴスペルクワイアのクリスマスコンサートがあり、大変祝福されました。
コンサートのテーマは、「The time has come (時は来た)」、「Rejoice (喜ぼう)」、「Everybody get up!(さあ、立ち上がろう!)」というものでした。
クワイア、ダンスチーム、フラチームのみんなで、イエス様の希望を伝え、主とともに新しく生きる決意をもって、歌と踊りで主を賛美しました。
4年ぶりの有観客コンサートでしたが、立ち見が出るくらいたくさんのお客さんが来てくださいました。
ひとりでも多くの方が、イエス様の福音を受け入れてくださることを、これからも祈っていきたいと思います。
みなさんもどうぞお祈りください。
さて、何年か前からずっと、エレミヤ書を順に見ています。
エレミヤ書は、年代順ではなく、主題によって並べられています。
前回は、ユダ王国最後の王ゼデキヤの時代について書かれていた37章についてお話ししました。
本日は35章に遡って、ヨシヤ王の息子、エホヤキム王時代の出来事となります。
◆レカブ人のおきて
①レカブ人はおきてを守りぬく
まず、先ほど読んでいただいた箇所の手前、<エレミヤ35:1-4>です。
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35:1
ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代に、主からエレミヤに次のようなことばがあった。
35:2
「レカブ人の家に行って彼らに語り、主の宮の一室に連れて来て、彼らに酒を飲ませよ。」
35:3
そこで私は、ハバツィンヤの子エレミヤの子であるヤアザンヤと、その兄弟とすべての息子たち、レカブ人の全家を率いて、
35:4
主の宮にある、イグダルヤの子、神の人ハナンの子らの部屋に連れて来た。
それは首長たちの部屋の隣にあり、入り口を守る者、シャルムの子マアセヤの部屋の上であった。
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ここに出てくる、『レカブ人』とは、どのような民族なのでしょうか。
レカブ人は、モーセの舅ミディアン人の祭司イテロの息子ホバブの子孫です。
ホバブはモーセとは従兄弟、ということになります。
彼らはケニ人と呼ばれ、ユダ族とともにカナンに入国しましたが、モーセが信じるイスラエルの神にも、カナンの土着の宗教にも染まらず、ユダの荒野で独自の共同体を形成していました。
後に、エレミヤの時代の200年ほど前に、ケニ人の系譜に、『レカブの子ヨナタブ』 という人物が現れました。
彼は、北イスラエルのオムリ王朝打倒のために、エフーの軍勢に加わった人物でした。
このヨナタブの思想の影響を受けた少数の人々が、レカブ人と呼ばれました。
彼らは、カナンの地に住みながら、カナンの宗教や文化に染まらない、独自の生活様式を貫いていました。
- カナンの地の代表産物である、ぶどう酒は飲まない。
- 家や畑を持たず、天幕に住んでいる。
- 先祖ヨナタブの教えをひたすら守りぬいている。
主はエレミヤに、「レカブ人たちに酒を飲ませよ」と命じました。レカブ人はこう答えました。
<エレミヤ35:5-7>
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35:5
私は、レカブ人の家の子らの前に、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「酒を飲みなさい」と言った。
35:6
すると彼らは言った。「私たちはぶどう酒を飲みません。というのは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じて、『あなたがたも、あなたがたの子らも、永久にぶどう酒を飲んではならない。
35:7
あなたがたは家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどう畑を作ったり、また所有したりしてはならない。あなたがたが寄留している地の面に末長く生きるために、一生、天幕に住め』と言ったからです。
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エレミヤは、ぶどう酒を満たした壺と杯を出して、「酒を飲みなさい」と、あたかも誘惑するように言いましたが・・・レカブ人たちは速攻で拒絶しました。
先祖である、レカブの子ヨナダブの命令にそむくなどは、彼らには考えられないことだったからです。
続いて、彼らはこう言いました。
<エレミヤ35:8-10>
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35:8
私たちは、私たちの先祖レカブの子ヨナダブが私たちに命じたすべての命令に聞き従ってきました。
私たちも、妻も、息子、娘たちも、一生ぶどう酒を飲まず、
35:9
住む家も建てず、ぶどう畑も、畑も、種も持たず、
35:10
天幕に住んできました。私たちは、すべて先祖ヨナダブが私たちに命じたとおりに、従い行ってきました。
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主は、レカブ人にぶどう酒を飲めと言っても、断ることが解っておられました。
なぜ、エレミヤにこのようなことを命じられたのでしょうか。
それは、レカブ人の先祖の命令に従う従順さを、ユダの民たちにも持ってほしかったからです。
◆レカブ人のおきて
②霊的交わりの重視
おそらくレカブ人は、この時代においても一目置かれる存在だったと思われます。
彼らは世俗から離れて暮らし、物質的な豊かさよりも、先祖との霊的な交わりを重視しました。
彼らの信仰は、先祖崇拝ということになりますので、ユダの民とは信仰の対象は違います。
しかし、聖書の中にも、バプテスマのヨハネのように、世俗を離れ、荒野で暮らし、主との濃密な霊的交わりを保とうとした人がいます。
旧約聖書に出てくる「サムソン」などのナジル人や、キリスト教が確立されてからは、修道士などがそうです。
彼らは、正確に言えば、主との濃密な霊的交わりを保つためには、世俗の物質的な豊かさが邪魔になると考えています。
アーミッシュなども良い例です。みなさんは、アーミッシュをご存じでしょうか。
アーミッシュは、アメリカやカナダに住んでいる、ドイツ系移民のキリスト教の共同体です。
異端ではありません。現在35万人ほどいるそうです。
彼らは基本的には、農耕・牧畜を行って、自給自足で生活しています。
自分たちの信仰生活に反すると判断した新しい技術や、製品、考え方は拒否します。
この現代において、自動車を使わず馬車に乗っています。
電気は引いていません。もちろん、テレビ、パソコン、家電などは使いません。
風車・水車の蓄電池を使ったり、ガスでうっすら明かりをつけたり、調理したりします。
中には、それすら使わない人たちもいるそうです。
収入は、キルトや蜂蜜の販売、一部の地域では、レストランや馬車での観光を行って得ています。
彼らのルーツを簡単に説明しますと・・・
彼らは16世紀の宗教改革者のひとりである、スイスのフルドリッヒ・ツィングリの弟子たちから分かれた、アナバプテスト(再洗礼派)の流れです。
アナバプテスト(再洗礼派)は、当時の教会で一般的に行われていた、『幼児洗礼』 を否定しました。
洗礼は、成人になって神への信仰を告白してから行うべきであるとして、再洗礼を行いました。
その洗礼も、水滴を落とす『滴礼(てきれい)』ではなく、全身を水に沈める『浸礼(しんれい)』でなければならないとしました。
今では信仰告白をしてから洗礼というのは普通の考えですが、当時は認められず異端とされました。
カトリックからもプロテスタントからも激しい迫害を受けて、多くの人たちが無残に処刑されました。
彼らは迫害から逃れるために各地に散り、アメリカやカナダにたどり着いたグループがアーミッシュです。
アーミッシュには、神との霊的交わりを保つために、『オルドゥヌング』という戒律があります。
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- 交通手段は馬車を用いる。屋根付きの馬車は大人にならないと使えない。
- アーミッシュの家庭においては、家族のいずれかがアーミッシュから離脱した場合、たとえ親兄弟の仲でも絶縁され、互いの交流が疎遠になる。
- 怒ってはいけない。喧嘩をしてはいけない。
- 読書をしてはいけない(聖書と、聖書を学ぶための参考書のみ許可される)。
- 讃美歌以外の音楽を聴いてはいけない。
- 避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり、それを避けることは神への反抗と見なされるため)。
- 義務教育(8年間)以上の高等教育を受けてはいけない。それ以上の教育を受けると知識が先行し、謙虚さを失い、神への感謝を失うからだとされる。
- 化粧をしてはいけない。派手な服を着てはいけない。(決められた服装がある)
- 保険に加入してはいけない(予定説に反するから)。
※予定説:すべてが神によってあらかじめ定められているという考え。
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などなど。他にもたくさん戒律がありますが、原則として、快楽を感じることは禁止されています。
このような戒律を破った場合、懺悔や奉仕活動の対象となります。
改善が見られない場合はアーミッシュを追放され、家族から絶縁されるそうです。
また、大人のアーミッシュ以外は、正会員ではなく準会員とされています。
若者たちには、会員になるかどうかを選択する、『ラムスプリンガ』 と言われる猶予期間があります。
子どもは16歳になると、親元を離れて世俗で暮らします。
アーミッシュの掟から完全に解放され、時間制限もなく、子ども達は自由に好きな事ができます。
便利な暮らしをして、酒・たばこ・ドラッグなどを含む、多くの快楽を経験します。
そして、18歳の成人になる時に、アーミッシュのコミュニティに戻るか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択する事が認められています。
興味深いことに、大半の若者たちは、アーミッシュの生活に戻るそうです。
平均7人の子どもを持つアーミッシュは、20年ごとに2倍になるスピードで繁栄を続けているそうです。
アーミッシュのような生き方をするならば、さぞ、主との濃密な霊的交わりが保てるだろうなとは思いますが、現実はなかなかそうは行きませんね。
エレミヤに戻ります。主はユダの民にこう言われました。
<エレミヤ35:15-17>
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35:15
わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、行いを改めよ、ほかの神々を慕ってそれに仕えてはならない、わたしがあなたがたと先祖たちに与えた土地に住め、と言った。それなのに、あなたがたは耳を傾けず、わたしに聞かなかった。
35:16
実に、レカブの子ヨナダブの子らは、先祖が命じた命令を守ってきたが、この民はわたしに聞かなかった。
35:17
それゆえ──イスラエルの神、万軍の神、主はこう言われる──見よ。わたしはユダと、エルサレムの全住民に、わたしが彼らについて語ったすべてのわざわいを下す。わたしが彼らに語ったのに、彼らは聞かず、わたしが彼らに呼びかけたのに、彼らは答えなかったからだ。』」
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主は、ユダの民たちの不従順さに怒り、わざわいを下すと言われました。
そして、レカブ人にはこう言いました。
<エレミヤ35:18-19>
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35:18
エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った。
35:19
それゆえ──イスラエルの神、万軍の主はこう言われる──レカブの子ヨナダブには、わたしの前に立つ人がいつまでも絶えることはない。』」
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「わたしの前に立つ人」というのは、「神の前に立つ」つまり、「神殿に仕える人」とも取れますが、レカブ人は先祖を信仰しているので、そうではなさそうです。
レカブ人の中には、イスラエルの神への信仰を持った人もいるかもしれませんが、いずれにしても、主はレカブ人の従順について、良いことだと認めておられます。
私たちも、神に対して不従順な者にならないように、今一度、自分の信仰生活を振り返ってみましょう。
◆レカブ人のおきて
③主との時間を持つ
アーミッシュの生活を見ていると、時間がゆっくり流れています。
もちろん何もしていないわけではなく、一日のやるべき仕事を時間をかけて行っています。
そのゆっくりした時の流れの中で、聖書を読み、主との交わり、祈りの時間を常に持っています。
私たちの生活はどうでしょうか。
電気、ガス、水道のライフラインはじめ、交通機関、情報通信、機械化された便利なものに囲まれていますから、アーミッシュの一日よりは、いろんな事ができているはずです。
しかしながら、神様との時間を考えると、どうでしょうか。
便利になったらなっただけ、ますます忙しくなるという、私たちは、『忙しさの無限ループ』にはまっています。
何もしていない時間があると不安になったり、せっかちな人は、暇だと罪悪感すら覚えます。
「スキマ時間にすぐ働ける、スキマバイト!」などという求人サイトもあるくらいです。
ですから、聖書を読んだり、主との交わり、祈りを持つ時間を意識して作る必要があります。
『断食祈祷道場』 とかは、すごくいいですよね。いいけど、家に帰ったら、また逆戻りすることが多いです。
例えば一週間、テレビ、電話、スマホ、パソコン全部シャットアウトして、みことばと祈りに専念してみたらどうなるでしょうか。
一週間経って、スマホやパソコンを開いてみたら大変なことになっているのではないでしょうか。
ですから、何か特別なシチュェーションを作るのではなく、日常の中でも、主と濃厚な霊的な交わりを持つことができる工夫が必要です。
ダビデ王が追手から逃れていた時、主にこのように祈りました。
<詩篇31:14-15>
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31:14
しかし主よ私はあなたに信頼します。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」
31:15
私の時は御手の中にあります。私を救い出してください。敵の手から追い迫る者の手から。
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私たちの毎日は、考えてみれば、あらゆる敵に囲まれていて、ダビデ王の状況にも似ています。
ダビデが、「私の時は御手の中にあります。」と言ったように、私たちの人生の節目などの時から、一日の時間まで、あらゆる『時』 は、主の御手の中にあります。
私たちが主との交わりを第一にしたいと願うなら、主はそうなるように導いてくださるのではないでしょうか。
まずは一日のはじめに、また夜寝る前に、ほんの少しでも良いので、主と交わる時を持ちましょう。
忙殺される日々も、私たちが主を仰ぎ見るならば、主は私たちを 『忙しさの無限ループ』 から解放してくださるはずです。
そして、礼拝は主が与えてくださった特別な時間です。
主の宮の臨在の中で主に近づき、主との濃密な霊的交わりができるこの特権を、自ら放棄することなく、大切にしていきましょう。
この一年の恵みを主に感謝して、来年も主とともに歩んで行きましょう。