2023.6.25「悪魔の策略 エペソ6:10-18」

ロイド・ジョーンズ師はこう述べています。「キリスト者と自称しながら、霊的な領域を信じない者がたくさんいる。彼らはキリスト教を道徳的な教えに変えてしまった。私が理解に苦しむのは、神を信じながら悪魔を信じない人がいるということである。教会に来て『私は聖霊を信じる』と言いながら、悪魔なんか、と軽く受け流す人がいる。その人は全く矛盾している。悪魔とその諸力を信じることは、救いに関する聖書の教えを正しく理解するのに欠かせないことである。」

1.悪魔の経歴

神に逆らう霊的諸勢力はどこから来たのでしょう?どのようにして彼らが存在するようになったのでしょう?ヨハネ黙示録12:9,10「こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。…私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。」悪魔はギリシャ語でディアボロスですが、「中傷する、悪口を言う、訴える」という言葉から来ています。ヨハネ黙示録には、「悪魔は兄弟たちの告発者であり、昼も夜も神の前で訴える者」と言われています。イエス様はヨハネ8章で「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立っていません。偽りの父である」と言っておられます。また、悪魔は別名、サタンとも呼ばれています。サタンのギリシャ語の意味は「反対者、敵」という意味があります。マタイ4章の初めに書かれていますが、イエス様は悪魔の試みを受けました。悪魔が「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」と言いました。するとイエス様は「引き下がれ、サタン」と言われました。つまり、悪魔とサタンはイコールだということです。ただし、それらの名前から、彼らの性質や働きが分かるということです。

私たちはまず、悪魔あるいはサタンのcareer、経歴を知る必要があります。旧約聖書にそれとなく暗示しされている箇所があります。エゼキエル書28章は直接的にはツロの君主に対する預言ですが、それ以上のことも語っているように思われます。最初はエゼキエル28章から引用したいと思います。エゼキエル28:12-15「神である主はこう言われる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石に取り囲まれていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、縞めのう、碧玉、サファイア、トルコ石、エメラルド。あなたのタンバリンと笛は金で作られ、これらはあなたが創造された日に整えられた。わたしは、油注がれた守護者ケルビムとしてあなたを任命した。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた。あなたの行いは、あなたが創造された日から、あなたに不正が見出されるまでは、完全だった。」悪魔はよく醜いと良く言われますが、そうではありません。全きものの典型であり、知恵に満ち、美の極みでありました。このところには、「創造された日」とありますので、神さまの被造物であったということです。ケルビムという名前もありますので、ミカエルやガブリエルと同じくらいの立場であったろうと思われます。でも、エゼキエル28:17「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、まばゆい輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に放り出し、王たちの前で見せ物とした。」と書かれています。ツロと同じように、サタンも高慢と不義で堕落したということです。

もう1か所、イザヤ14:12-15「明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」文脈的には、この預言はバビロンの王に対するものです。しかし、ここにもエゼキエル28章と同じように、サタンの経歴が示唆されているようです。12節に「明けの明星」と呼ばれていますが、キング・ジェームスにはLuciferと書かれています。これはラテン語から来たもので「光を帯びた者という意味を持つ堕天使の名であり、サタンの別名である」そうです。ダンテの『神曲』やジョン・ミルトンの『失楽園』には、Luciferが登場しています。サタンがどうして堕落したのでしょうか?英語の聖書には、この短い文章にI(私)が、5回も出てきます。星というのは天使のことですから、「神の星々のはるか上に私の王座を上げ」というのは、天使たちの長になるということです。「密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう」というのは、「神のようになろう」という意味です。サタンは高慢さのゆえに、よみに落とされ、穴の底に落とされたのです。

では、「サタンの神への反逆と堕落がいつ起こったか?」ということです。創世記1:1,2が大きなヒントを与えているように思えます。「はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」多くの神学者たちが、「1節と2節の間にかなりの時間があったのではないだろうか。また、この間に、サタンの反逆と堕落があったのではないだろうか。なぜなら、創造と破壊があるからだ」と言います。私たちは創世記3章を読むとき、エデンの園に蛇に化けたサタンがいることを発見します。つまり、人間の創造の前に、サタンがいたということです。エペソ2章に「空中の権威を持つ支配者」と言われています。また、Ⅱコリント4章には「この世の神」とも言われています。おそらくサタンは神さまがおられる第三の天を追い出され、地に落とされたのではないかと思います。その時、黙示録12章にあるように「3分の1」の天使たちも一緒だったと思われます。つまり、堕落後、サタンと悪霊たちが、空中である第二の天を支配したのではなでしょうか?私たち人間は第一の天である地上で生活しています。サタンは、第二の天という霊的な世界から、地上の私たちを支配しているのではないかと思います。サタンは神のように遍在できないので、ピラミッド型に堕落した天使や悪霊を構成しているようです。そのヒントがエペソ1章後半に記されている「すべての支配、権威、権力、主権」という名称ではないかと思われます。サタンは堕落した天使に国々や文化、教育や政治を、そして、個人に対しては汚れた霊、病の霊によって支配しようとしていることを忘れてはいけません。

2.悪魔の策略と神の武具

 エペソ6:10「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。」パウロは第一に、何よりも先に「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と命じています。これは霊的に鍛えられ、神の力で満たされるということです。第二は、「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」と命じています。神の武具は当時のローマ兵が身に着けていた武具をそのまま、たとえとして用いています。

第一の武具は「真理の帯belt」です。なぜ、最初にベルトなのでしょうか?剣の鞘を止めていたのはベルトだったからです。また、ローマ兵のベルトには下半身を保護するため皮切れが垂れていました。エペソ6:14「腰には真理の帯を締め」とあります。悪魔との戦いは、真理との戦いと言えます。イエス様はヨハネ8章で「悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」と言いました。サタンがエバを誘惑したとき「神は、ほんとうに言われたのですか」と神さまのことばに疑いをかけさせました。完全な嘘、偽りだとばれてまいます。ですから、悪魔は真理にちょっとだけ嘘をばらまくのです。イエス様はご自分を真理だとおっしゃいました。聖霊は真理の御霊です。ですから、真理に従えば力があります。

 第二の武具は「義の胸当て」です。エペソ6:14「胸には正義の胸当てを着け」とあります。

日本語の聖書は「正義」と訳していますが、ギリシャ語の「ディカイオスネー」は、すべて「義」と訳されています。正義と訳すと社会的な意味になり、それぞれが持っているイディオロギーと混じってしまいます。だから「義の胸当て」と訳すべきです。「義の胸当て」とは、私たちの義ではなく、キリストの義であり、キリストの義が私たちを守るのです。胸当ては、心臓を守る武具です。キャロライン・リーフは「心臓は単なるポンプではありません。脳と共に感情の一部を担っています」と言っています。悪魔が「お前はそれでもクリスチャンか?」と火矢を放ってくるでしょう。その火矢を受けると罪悪感に苛まれるでしょう?しかし、ローマ8:33「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです」と書いてあります。

第三の武具は「平和の靴」です。素足のままでは戦地に赴くことはできません。かつてのあなたは平和ではなく、争いと恨みと敵意に満ちていたのではないでしょうか?ローマ3:15-17「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」と書いてあります。これが神から離れた生身の人間の性質であり、これが大きくなったものが戦争です。私たちは何よりも神との平和をキリストの十字架によって持つ必要があります。平和の君であるキリストを信じると、平和が宿るようになります。ローマ5:1「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」神との平和を持っている人が、はじめて平和を造ることができるのです。

 第四の武具は「信仰の大盾」です。ローマの盾は非常に大きく、わずかに湾曲した長方形の盾でした。この大盾によって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。火矢とは、英語の聖書ではflaming missile となっており、ミサイルとは、投げやり、矢、弾丸、石などの飛び道具です。「悪魔が放つ火矢」とは、疑い、失望落胆、恐れ、思い煩いであります。この火矢がぶんぶん飛んで来たら、どうするでしょうか?もし、無頓着に生活していたら、敵にやられてしまいます。気が付いたときには、結構、重症だったりします。あなたは大きくて頑丈な盾で身を守っているでしょうか?そのためには、みことばに関する知識を増しくわえる必要があります。絶えず、的確なみことばで応戦することが、信仰の大盾によって火矢を防ぐということなのです。

 第五の武具は「救いのかぶと」です。ローマのヘルメットは、今日のヘルメットのように、敵の攻撃から頭を守りました。頭とはマインドのことであり、何かを考え、何かを感じ、何かを選択する重要なところです。悪魔はあなたのマインドを攻撃します。特に、救いに対する疑いを抱かせます。そのため、洗礼を受けた兄弟姉妹がマインドを守っていないため教会から離れ、イエス様からも離れます。最終的に、「救いなどというものは作り話fictionなんだ」と思ってしまいます。私たちは救いのかぶとをかぶり、どんなことがあっても、神を信頼し、キリストに留まる必要があります。ローマ8:39「高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 第六の武具は「御霊の剣」です。ローマの剣は、両刃の剣です。パウロは「御霊の剣とは、すなわち神のことばである」と言いました。御霊の剣は神から与えられた、唯一の攻撃のための武具です。ここに書かれている「ことば」はレーマであり、「今、神の口から私に語られることば」です。私たちはただ神のことばを思うだけではなく、それを声に出して言う必要があります。あなたが「悪魔に立ち去るように」と思っただけではダメです。悪魔は心の声が聞こえないので、立ち去っては行きません。あなたが声を口に出して命令することによって、悪魔を打ち負かさなければなりません。イエス様が悪魔から誘惑を受けたとき、神のことばを口に出し、「引き下がれ、サタン」と命じました。私たちの生きた神のことばによって悪魔と戦う必要があります。そのためには、いつも聖書を読み、神のことばを心の中に蓄えておく必要があります。

 ヨハネは「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています」(Ⅰヨハネ5:19)と言いました。かつて、私たちはこの世においてサタンの支配の下にありました、ところがキリストを信じたことにより、罪赦され、神のご支配のもとに移されました。しかし、クリスチャンになっても、この世に生きていますので、どうしてもサタンの攻撃に会います。パウロは「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)と言いました。血肉とは目に見える人間であります。私たちは人を見て、背後に働いている霊的な存在を忘れがちです。そうすると、「なんで、あのようなことをするのか?」とその人の言動をさばきます。悪魔や悪霊は肉的な人の背後で働き、彼らを用いていることを忘れてはいけません。つまり、私たちの本当の敵は人間ではなく、背後で働いている悪魔や悪霊たちだということです。もう1つ忘れてならないことは私たちの戦いは、勝利するための戦いではありません。2000年前、イエス・キリストが十字架で罪の代価を払い、3日目によみがえられました。そのことによって、サタンは敗北したのです。創世記3章の預言のごとく、キリストはサタンの頭を踏み砕いたのです。しかし、サタンの武装は解除されましたが(ルカ11:21,22)、まだ、残った敵が悪さをしています。ですから、キリストの再臨までは、敵どもを完全に除き去るための「掃討戦」なのです。「掃討戦」であっても、犠牲者が出る可能性があります。でも、重要なのは、私たちは勝利するために戦うのではなく、勝利から戦うのです。

 

3.祈り

エペソ6:18,19「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」パウロは最後に「祈りなさい」と命じ「私のために祈ってください」と願っています。なぜ、祈らなければならないのでしょう?最初にこう言われていました。エペソ6:10「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」私たちが聖霊に満たされ、霊的な権威と力を得るためには祈りが欠かせないということです。マルコ9章に書かれていますが、弟子たちは、子どもから悪霊を追い出すことができなませんでした。後から、弟子たちがその理由をイエス様に尋ねました。イエス様は「この種のものは、祈りによらなければ、何も追い出せるものではありません」と言われました。他の訳では「祈りと断食」と書かれています。祈りというのは、悪霊が出て行くように祈れという意味ではありません。悪霊には「イエスの御名によって出て行け!」と命じるだけで良いのです。しかし、私たちの内に恐れや疑いがあると、悪霊は出て行きません。向こうも、私たちのことが分かるんです。ですから、悪霊を追い出す前に、良く祈り、自分が何者であるかを確認し、神さまから権威と力を改めていただく必要があります。そうすれば、悪霊は「こいつは本物だ」と分かって、向こうが恐れて出て行くのです。私たちは悪霊を恐れる者ではなく、悪霊から恐れられる者になったら幸いです。そのためには、悪霊追い出しの経験を豊かに積む必要があります。

パウロは「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい」と言いました。「あらゆる祈りと願いによって」とあります。おそらく、御霊が私たちに「このように祈りなさい」と導いて下さるのではないかと思います。ローマ8:26「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」祈りは神さまとの親しい交わりです。すべての祈りの基本は「神との交わり」です。でも、私たちはどう祈ったら良いか分からないときが多々あります。そのとき「私はどう祈ったら良いのか分かりません」とそのまま神さまに告げるのです。すると、内におられる聖霊が「弱い私たちを助けてくださり、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです」。うめきのような、祈りにならない祈りがあります。ことばでは限界があるからです。でも、聖霊が間に入って、この人はこう祈りたいのですと神さまにとりなしてくださるのです。祈りは美しいことばで祈れば良いというものではありません、大事なのはその祈り真実であるかどうかです。私は時々、兄弟姉妹の祈りを聞くことがありますが、「ああ、この人は本当に救われているなー」と感動することが良くあります。なぜなら、心の底から真実を祈っているからです。おそらく、聖霊がその人の霊とともに祈らせているのだと思います。

私たちがこのように神さまと交わると、神さまの力と権威を帯びるようになります。もし、あなたが悪魔や悪霊と遭遇したときはどうしたら良いでしょう?「神さまどうか、悪魔を私から退けてください。どうぞ、あなたが悪霊を追い出して下さい」と祈ってはいけません。神さまはあなたに「イエスの御名の権威を与えているので、あなたが追い出しなさい」とおっしゃるでしょう。なぜなら、あなたに権威が与えられているから、悪魔や悪霊に命じればよいのです。「イエスの御名によってお前を縛る。この者から出ていけ」と言えば良いのです。正確にいえば、これは祈りではなく、権威の行使です。このことは、病に対しても同じです。たまに、「どうか、イエス様、あなたが御手を置いて、あの人をいやしてください」と祈る人がいます。おそらく、イエス様は「あなたが、その人の上に手を置いて祈りなさい」とおっしゃるでしょう。そのときも、「どうか、この人の病をいやしてください」と祈るのではありません。「主イエスの御名によって、病よ癒されよ」と命じるのです。福音書を見ると分かるのですが、イエス様や弟子たちは、いつも命じておられました。「悪霊よ、出ていけ」「手を伸びよ」「立って歩きなさい」「嵐よ、静まれ」「目が見えるようになれ」「開けよ」でした。でも、なぜこのようなことができるのでしょうか?イエス様ご自身には権威がありました。そして、内におられる聖霊がそのことを実際に行ったのです。私たちはイエス様ではありませんが、イエス様は、マタイ28章18節で「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と言われました。ですから、私たちはイエス様を信頼して、イエス様の権威を用いれば良いのです。でも、その権威をいつも用いるためには、神さまと親しく交わるという祈りが欠かせません。神さまはあなたを通して働きたいのです。神さまはイエス様が与えてくださった勝利をあなたに与えたいと願っておられるのです。