2023.5.14「御霊の賜物 Ⅰコリント12:1-10」

パウロは教会を神の神殿にたとえていますが、キリストのからだにもたとえています。教会はキリストのからだであり、各器官が御霊の賜物ですから、教会の働きや機能を表わしています。2000年前、キリストがこの地上で行っていたわざを、キリストのからだなる教会が、その働きを継続する役割があるということです。Ⅰコリント12:7「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」「現れ」はギリシャ語で、ファネロ―シスです。これは「明らかにする事」という意味であり、御霊の賜物がだれにでも分かるように現れるということです。これらを御霊の「現れの賜物」と呼びたいと思いますが、8節から10節まで、9つの賜物が記されています。保守的なキリスト教会ではⅠコリント13:8「預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます」のことばを引用して、御霊の賜物は休んだ、休止したと言いますが、そうではありません。文脈から言うと「完全なものが現れる」というのは、キリストの再臨のことです。つまり、キリストが再び来られるまで、御霊の賜物はすたれないどころか、豊かに用いられるということです。きょうは、9つの御霊の賜物を3つのカテゴリーに分けながら学びたいと思います。

1.御霊による啓示の賜物

 今から上げる3つの賜物は霊の世界のことを直観的に理解することができます。何かを調べたり、研究して与えられるのではなく、一瞬にして与えらえる啓示のようなものです。

①知恵のことば

 ヤコブは「知恵に欠けている人がいるなら、神に求めなさい」(ヤコブ1:5)と言いました。この知恵は、生活上のさまざまなことに賢く対処するための知恵であり、だれにでも与えられるものです。しかし、「知恵のことばの賜物」ではありません。知恵のことばは、知識のことばのように、耳に聞こえる声や、幻や、夢によって与えられることがあります。旧約聖書の中で、ヨセフは夢を通して知恵のことばを受け取りました。その夢は、将来に対する神のご計画と目的を啓示していました。ソロモンは、二人の女が一人の子どもを取り合っているとき、「剣を持ってきて、生きている子どもを二つに切り分けよ」と言いました。すると、一人の女は「その子を殺さないで、あの女にお与え下さい」と申し出ました。なぜなら、その女が本当の母親だったからです。イエス様は「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」という難問を受けました。イエス様はデナリ銀貨を持ってこらせてから、「これはだれの肖像と銘ですか?」と聞きました。彼らは「カエサルのです」と答えました。イエス様は「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われました。敵対者たちは驚嘆して何も言えませんでした。ソロモンの知恵も、イエス様の知恵も聖霊による「知恵のことば」です。私はセルチャーチ・ネットワークに長い間、属していました。後半は私が関東のコーディネータにならされました。年数回行われる集会のために、5,6人の先生方が集まって協議しました。煮詰まって、どうしたら分からない時、私が「ではご一緒に祈りしましょう」と提案します。すると、神の霊によって、集会のテーマや各先生方の奉仕分担がただちに与えられます。あきらかに、知恵のことばの賜物です。エルサレム会議では、異邦人も割礼を受けるべきかどうかもめました。議長のヤコブが立ち上がり、預言者たちのことばを引用したのちこう述べました。「ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。」(使徒15:19,20)それで、みんなが一致しました。このように、知恵のことばは複雑な課題や紛争の解決を与えてくれます。

②知識のことば

 知識のことばの賜物とは、人間が学んだものではなく、聖霊によって特定の人や状況、事実、また真理に対して、超自然的に与えられるものです。これは、神さまのすべての知識の啓示を意味するのではありません。パウロが「私たちが知るのは一部分であり」(Ⅰコリント13:9)と言っているとおりです。Ⅱ列王記5章にはナアマン大将の癒しが記されています。エリシャは、彼から贈り物を受け取りませんでした。しかし、エリシャに仕えるゲハジが彼の後を追いかけて、銀ニタラントと晴れ着二着をいただき、それらを家の中にしまい込みました。エリシャが「ゲハジ。おまえはどこへ行って来たのか」と聞くと、彼は「しもべはどこへも行っていません」と答えました。Ⅱ列王記5:26エリシャは彼に言った。「あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか。今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。ナアマンのツァラアトは、いつまでもおまえとおまえの子孫にまといつく。」エリシャは自分の家の中で座っていたのに、何キロも離れたところで起きていることを、どうやって知ることができたのでしょうか?神さまがそれを啓示されたのです。ヨハネ福音書にはイエス様とサマリヤの女性との会話があります。イエス様が彼女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。彼女は「私には夫がいません」と答えました。イエスは「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました」と言われました。彼女は驚いて、「あなたは預言者だとお見受けします」と答えました。イエス様は何度も知識の賜物を用いて伝道されました。イエス様が「ナタナエルがいちじくの木の下で祈っているのを見た」とおっしゃったら、ナタナエルは「あなたは神の子です」と告白しました。ザアカイがいちじく桑の木の上で隠れていたとき「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えました。ザアカイは、自分の名前を呼ばれてさぞ驚いたことでしょう。ランディ・クラーク師は集会中、聖霊に示されて「このような病気の人は立ちなさい」と言うそうです。すると何人か立ち上がり、即坐に癒されるのを見て来たそうです。ランディ・クラーク師はそれを「知識のことばによる癒し」と呼んでいます。

③霊を見分ける力

これは特定の言葉や行為、また環境の背後に働いている霊を見分ける力です。つまり、その動機や言葉、行いが何によって成されているか、またその出来事や環境の背後に、どんな霊が働いているかを見分ける力です。目的は神の働きを妨害するサタンの策略に対して立ち向かい、聖徒たちを保護し、守るためです。ジェームス・ゴールはこれは「霊的なガイガーカウンター」と言っています。使徒8章にありますが、ピリポによってサマリヤにリバイバルがもたらされた後、ペテロとヨハネが訪れました。二人が手を置くと人々が聖霊を受けました。それを見ていた、魔術師シモンがお金を持ってきて「この権威を私にも下さい」とお願いしました。ペテロはお金を突き返しながら「おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ」と言いました。使徒16章にありますが、パウロがピリピを伝道し始めたときです。そこに占いの霊につかれた女奴隷がいました。彼女はパウロたちの後について来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えています」と叫び続けました。困り果てたパウロは「イエス・キリストの名によっておまえに命じる。この女から出て行け」と言いました。すると、ただちに霊は出て行きました。彼女のやっていることは一見正しそうみ見えます。しかし、悪霊がパウロにおべっかを使い、邪魔をしていたのです。キリスト教以外でも、病気の癒しや預言をしてくれるところがあります。でも、背後でどのような霊が働いているか見極める必要があります。Ⅰヨハネ4:1「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」とあります。

 

2.御霊による行いの賜物

 今から上げる3つの3つ賜物は、奇跡を行なう「力の賜物」とも呼ばれています。

①信仰

 これは一般的な信仰とは違います。クリスチャンであるなら救いの信仰があります。また、神のことばを食べて、それを生活の分野で行使していくにつれ、大きくすることができます。しかし、信仰の賜物は聖霊がなさりたい通りに分け与えてくださるものです。言い換えると、一般的な信仰は、ふつう、私たちが祈りに対する答えを受け取るための信仰です。しかし、信仰の賜物は奇跡を受け取るための、聖霊の超自然的な現れです。この信仰が与えられると、あらゆる余計なことに逆らって、神が奇跡をなして下さると信じることができるようになるのです。ジェームス・ゴールは「ロケットのブースター(補助推進ロケット)のようなものである」と言っています。ダニエルは禁令を破ったかどで、獅子の穴に投げ込まれました。王は夜明けに起きて、獅子の穴に急いで行きました。王は「おまえがいつも仕えている神は、おまえを獅子から救うことができたか」と聞きました。ダニエルは「私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした」と答えました。ダニエル6:23「ダニエルは穴から引き上げられたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである」と書いてあります。神はダニエルを解放するために、彼に特別な信仰をお与えになったに違いありません。夜中の三時ごろ、ペテロたちは嵐の中で舟をこいでいました。すると、湖の上を歩いて来られる人を見ました。弟子たちは幽霊ではないかと恐れました。ペテロは「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言いました。イエス様は「来なさい」と言われました。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行きました。その後、ペテロは強風を見て恐ろしくなり、沈んでおぼれかけます。でも、ペテロは水の上を何歩か歩くことができたのです。これは信仰の賜物です。マルコ11章に「神の信仰を持て」と書かれていますが、イエス様から信仰の賜物をいただいて、水の上を歩くことができたのです。神さまは人に超自然的なこと行なわせるために、特別な信仰をお与えになることがあります。神からの信仰を受け取って、大胆に行えば良いのです。ジョージ・ミュラーは、世俗に頼らず神のみに頼るという方法を生涯貫き、多くの孤児たちを救済した偉人です。彼の『祈りの力』という本を読みました。すると、「なんて私には信仰がないのだろう」と脅威を覚えました。後から「ジョージ・ミュラーは私とは違う、彼には信仰の賜物があったんだ」と安心しました。

②いやし

キリスト教の信仰と病の癒しは切り離せない関係があります。イエス様はご自身の生涯の三分の一を病人や悪霊にとりつかれている人々をあわれみ、癒されることにお使いになられました。ですから、「いやしの賜物」と言うより、イエス様のあがないの福音に含める人々も大勢います。クリスチャンであるなら、自分や他者のために病が癒されるようにお祈りをするでしょう。しかし、癒しの賜物は、病人に手を置いたり、患部に命じたりするものです。福音派の教会の中では、病人のとりなしの祈りは認めますが、賜物を用いての癒しは認めていない教会がたくさんあります。ケネス・ヘーゲンは『聖霊の九の賜物』という本でこのように述べています。パウロがマルタ島で難船したとき、ルカはパウロと一緒にいました。それなのに、ルカが彼の医学の知識によって人々に奉仕したということは何も述べられていません。事実、ルカが記録しているのは、その島の首長の父親が病気であったが、パウロがその人に手を置くと、その人が癒されたということです。それは、超自然的な力によることでした。それから人々は、パウロに癒しの奉仕をしてもらうために、島のいたるところから病人たちを連れて来たのです。そして彼らは癒されました。医学についても、また、医者が病気にできることについても、私たちは神に感謝しています。私たちは、そういうものや、現代の医学技術においてなされた偉大な進歩をけなすつもりはありません。心から自分の患者たちの益となることを思い、彼らに対して立派に奉仕している多くの立派なクリスチャン医師たちの故にも、私たちは神に感謝しています。しかし、超自然的な癒しは、診断することや薬を処方することによって起こるのではありません。それは、手を置くことにより、油を注ぐことにより、時には、ただみことばを語ることによって起こるのです。

③奇跡を行なう力

神さまが自然を造られたとき、そこに一定の法則を与えられました。その神さまが自然の法則を越えるような介入をされても何も不思議はありません。一般的には、それを超自然的とか奇跡と呼ぶでしょう。しかし、御霊の賜物はどれをあげても、奇蹟的なものです。日本語では「奇跡を行なう力」となっていますが、ギリシャ語を直訳すると「力あるわざ」です。「力」はデュナミスでありダイナマイトの語源になったことばです。Ⅰコリント12章28と29節には「力あるわざ」と言い換えられていますので、こちらの言い方が良いと思います。エリヤが馬車に乗って竜巻の中を天に上って行った後、エリシャはエリヤの外套を受け取り、それでヨルダン川を打ちました。すると、水が両側に分かれ、川底が現れました。これは力あるわざです。イエス様がカナの婚礼において、水をぶどう酒に変えられました。これは自然ではありえないことです。神の御霊によってなされた力あるわざです。イエス様は5つのパンと2匹の魚によって男性だけでも5000人の人たちを養いました。また、イエス様は嵐のガリラヤ湖を1つのことばによって静めてしまいました。力のわざは、神さまの御力や偉大さを示すために用いられます。いやしにおいて、「奇跡」的なものと、「癒しの賜物」によるものがあります。ペテロが生まれつき足の不自由な人を瞬間的に癒されたのは「力あるざわ」と言えるかもしれません。タンザニアのジョセファット・ガジマ師は、死人のよみがえりのミニストリーで有名です。彼の教会では、2010年に150人、2012年には400人以上が、教会の祈りによって生き返り、現在も生き返る人々の数は増えているそうです。死人が生き返ると、かかっていた病気も癒されているので、力あるざわと言えるでしょう。

 

3.御霊によるコミュニケーションの賜物

 今から上げる3つの賜物は、ジェームス・ゴールは「話す御霊の賜物である」と言っています。また、ケネス・ヘーゲンは「預言は知られている言語による超自然的な発言です。種々の異言は知られていない言語による超自然的な発言です。異言の解き明かしは、異言で語られたことを超自然的に示すことです」と定義しています。

①預言

御霊の聖なる促しによって、直接的に神のみこころや意図を感じて、集まった群れやグループ、または個人に伝えることです。今日の預言は聖書の記者たちが、語った預言と比べて、不完全なものであり(Ⅰコリント13:9-12)、ヨエル書に書かれてあるようなだれにでも与えられる一般的なものです。預言を聖書と同じくらい持ち上げすぎてもいけませんが、かといってないがしろにしてもいけません。パウロは「預言を軽んじてはいけません」(Ⅰテサロニケ5:20)と言いました。預言はだれもが話すように勧められていますが、だれもが預言者であるというわけではありません。前者は御霊の賜物ですが、後者はキリストが教会に与えた職務の賜物です。近年、預言の賜物が教会に混乱を与えてしまったので、個人預言を禁止する教会もあります。パウロはⅠコリント14章でこのように教えています。Ⅰコリント14:1「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」。また、Ⅰコリント14:3「しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。」つまり、預言の賜物は、建て上げること、勧めや慰めのことばを人々に語っているのです。使徒21章には、伝道者ピリポには預言をする4人の娘がいました。彼のところに、預言者アガボが来て、パウロの将来のことを預言しました。預言者アガボの方が啓示的で、より高い階級のものを持っていると理解できます。預言のギリシャ語の意味は「泡が噴き出す」という意味があります。勇気をもって1つのことばを出すと、2つ、3つのことばが出てきます。これをつなぎ合わせると何かストーリになります。かなり前にインドネシアからエディ・レオ師が来られ、預言を指導をなされたことがあります。

②異言

聖霊の促しにより、まったく習ったことのない発音で、自発的に話す言葉や賛美のことです。このとき話すのは本人自身ですが、自分の意識はまったく関与せず、内住しておられる御霊によって促された自分の霊が、自分の発声器官を用いて自発的に発声させる言葉や歌です。私の立場は、聖霊の満たしあるいはバプテスマの証拠として、すべての信徒が異言を語らなければならないとは信じません(Ⅰコリント12:30)。また、この賜物を持っている信徒は、他の持っていない信徒より何か優れて選ばれていると決して思いません。この賜物も多くのほかの賜物と同じ神の一つの賜物であると信じます。パウロは「種々の異言」と言っていますので、個人的に神さまと交わるためのものもあれば、預言のように解き明かして教会の徳を高めるものもあります。パウロは「霊で祈り、知性でも祈りましょう」と言いました。異言によって神さまと直接交わることにより、個人の徳が高まり、成長するという効力があります。

③異言を説き明かす力

 Ⅰコリント14:27,28「だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。」異言でどのようなことが語られたかを解釈することのできる超自然的な能力です。解き明かしは翻訳ではないので、その長さが異なることもあります。すべての異言が解き明かしを必要とするものではありません。

 2000年前、イエス様はパレスチナの小さな地域で福音を宣べ伝えながら、癒しや奇跡を行いました。今、イエス様は天の御父の右に座っておられます。しかし、イエス様は聖霊によって私たちのところに来ておられます。私たちの手がイエス様の手であり、私たちの口がイエス様の口、私たちの心臓がイエス様のハートなのです。つまり、私たち一人ひとりがイエス様の働きを担っているのです。私たちが行くところどこでも、イエス様がなさられたことをすべきなのです。なぜなら、イエス様が聖霊によって、私たちを通して働きたいからです。聖霊の賜物は9つではなく、20以上あると言われています。あなたにも最低1つはありますので、用いて下さい。