2020.11.29「幸いの道を歩む エレミヤ6:13-18」

新型コロナウィルスの感染拡大が勢いを増してきています。

さらに気持ちを引き締めて、感染防止対策を行う必要がありますが、それでも日々守られて、こうして礼拝が捧げられる恵みに感謝いたします。

 

12の小預言書のメッセージが終了しましたので、エレミヤ書を順番にメッセージしています。

本日はエレミヤ書6章から「幸いの道を歩む」と題してメッセージを取り次がせていただきます。

 

エレミヤは、南ユダ王国ヨシヤ王の治世の13年目に、預言者として主に召されました。(B.C.627年)

そして、エルサレムがバビロンによって陥落し、南ユダが滅びる(B.C.587年)まで5人の王に仕えました。

 

40年間にも及ぶエレミヤの預言者活動は、エレミヤ書に52章に渡って記されています。

1章から本日の聖書箇所6章までは、エレミヤの初期の預言が集められていると言われています。

ですから今日の6章は、エレミヤが最初に仕えた、ヨシヤ王時代の預言ということになります。

 

◆幸いの道を歩むためには・・・

①偽りの平安に惑わされない

 

偽りの平安とは、どういうことでしょうか。

先ほど読んでいただいた箇所をもう一度読んでみましょう。

 

<エレミヤ6:13,14>

********************************************

6:13

なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。

6:14

彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。

********************************************

 

どうやらこの時代の人々は、身分の低い者から高い者まで自分の利得をむさぼっていたようです。

そして、神の御言葉を取り次ぐべき預言者や、祭儀を執り行う祭司に至るまで、みな偽りを行っていたと書かれています。

 

つまり、すべての人たちが神の道から外れていたということです。

なぜこうなってしまったのでしょうか。

エレミヤよりも少し前からの時代背景を見てみましょう。

 

まず北イスラエル王国がB.C.722年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまいました。

そのため、南ユダ王国はアッシリア帝国の属国のような状態になっていました。

 

中東諸国は争いが絶えず、エジプトと中東諸国の通り道になっていた南ユダは苦しい立場でした。

しかし、その時南ユダの王だったヒゼキヤは、アッシリアの顔色をうかがいながらも、「ヒゼキヤの泉」と呼ばれる地下水路を完成させ、国力を増強させました。

ヒゼキヤ王の前のアハズ王の時に盛んだった偶像崇拝を取り除き、宗教的にも回復しました。

 

ところが残念なことに、ヒゼキヤ王の次のマナセ王は、偶像崇拝という主の目に悪を行い、しかもその状態で、なんと55年間も南ユダを統治しました。

55年というと、かなり長い期間です。

マナセの時代しか知らないで人生が終わった人もいたでしょう。

 

エルサレムは、もうすっかり偶像崇拝が定着してしまいました。

イスラエルの民がもっとも大切にしていた過ぎ越しの祭りも行われず、モーセの律法ってなんだっけ?

・・・という悲惨な状態でした。

 

そこに、ヨシヤ王が現れました。

ヨシヤ王は、B.C.640年に8歳で王となり、B.C.609年にエジプト王ネコ2世と戦って(メギドの戦い)戦死するまで31年間エルサレムを治めました。

 

第二歴代誌34:2に書かれているように、ヨシヤ王は、「主の目にかなうことを行い、父祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった」王でした。

彼が残した功績でよく知られているのは、「宗教改革」と、「律法の書」の発見でした。

ヨシヤ王については、第二列王記22-23章、第二歴代誌の34-35章に詳しく書かれています。

 

一方、近隣諸国では新バビロニア帝国が力をつけてきて、アッシリア帝国が衰退し始めました。

そこで南ユダはアッシリアの属国から独立することができました。

しかし南ユダは、エジプトや中東の近隣諸国に挟まれているということもあり、常に平安がありませんでした。

 

そのような状況の中でのヨシヤ王の宗教改革です。

すべては空回りし、民は利得を貪り、偶像崇拝と不道徳の中で暮らしていた・・・

・・・という状況が、エレミヤ6章の背景です。

 

そして、預言者や祭司たちは民を悔い改めに導くどころか、民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っていました。

民の方も、彼らの偽りの平安の言葉の方が、エレミヤの預言よりも心地よく耳に響き、自分たちは間違っていないのだと勘違いしていました。

 

ここで「平安」と書かれているヘブライ語は、「平和」とも訳される、שָׁלוֹם (シャローム)です。

シャロームは、戦いのない平和な状況を指すだけではありません。本来の意味はもっと豊かです。

 

シャロームは、神の平安を表す言葉です。

「繁栄・健康・満足・生きる意欲・知恵・霊的開眼・救い・罪からの勝利」といった、人々が力といのちにあふれた動的な状態を表しています。

 

それなのに預言者や祭司たちは、神の御心を無視して、שָׁלוֹם シャローム、シャロームと神の平安を表す言葉を巧みに用いては、民衆の心をつかんでいました。

 

そこで、主はエレミヤを通してこのように語られました。

<エレミヤ6:15>

********************************************

彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──主は言われる。」

********************************************

 

それは、そう言われて当然ですよね。

偶像崇拝は、神が最も忌み嫌うべきことなのに、預言者も祭司も全く恥ずかしいと思わず、恥じるということを知ろうともしませんでした。

 

神を恐れず、民衆を喜ばせるために多数派の意見に流されていると、悔い改める機会を失います。

そして主が語られたように、「倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる」のです。

 

このような滅びに向かう彼らの愚かさを、後の時代の私たちは客観的に見ることができます。

しかし、私たちが生きている今の時代も、このようなことは少なからず起こっているのではないでしょうか。

コロナ禍ということもあり、人々の心は今混沌としています。

毎日流れてくる報道はどこまで本当なのか、南ユダの民のように誰かが利得を貪っているのか、真実はどこにあるのか・・・誰にもわかりません。

 

特に日本の文化は和を重んじますが、それ自体は素晴らしいですが、限度があります。

たとえ間違った方向に進んでいても、みんなと一緒だと安心して流されてしまいます。

本当の事を言うと、誰かを傷つけてしまったり、逆に自分が傷ついてしまいそうで、発信する側も、受け手側も、大切なことを曖昧にしてしまいます。

 

また、人と違った考えを持つ事や、少数派(マイノリティー)に属することを非難する傾向があります。

それでも神の目から見て正しい方向に行っているならばいいのですが、南ユダの民のように、全員で間違った方向に行ってしまうかもしれない恐ろしさがあります。

 

日本のクリスチャンは、全人口の1%未満という、究極のマイノリティー(少数派)ですよね。とほほ・・・。

いろいろと押しつぶされそうになる時もあるでしょうが、祈りあって励まし合っていきましょう!

南ユダの民のように偽りの平安に惑わされることなく、主の御声を聞くようにしましょう!!

 

なぜなら、イエス様の福音を知っているクリスチャンには大切な役割があるからです。

新約聖書でパウロはこう言っています。

<Ⅰテサロニケ5:2-10>

********************************************

5:2

主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。

5:3

人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。

5:4

しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

5:5

あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。

5:6

ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。

5:7

眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。

5:8

しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。

5:9

神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。

5:10

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

********************************************

 

この御言葉をクリスチャンだけのものにするのではなく、ここに記されている素晴らしいイエス様の福音を、信仰と愛をもって世の人々に伝えるという使命があるのです。

 

ちなみに南ユダの民たちは全員が罪の中にいたわけではありません。

 

ダニエルを想い出してみましょう。

エルサレムが陥落し、バビロンのネブカデネザル王の命令で捕囚された民の王族や貴族の中から、王に仕える者を養育するために、ユダ族の少年、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤたちが選ばれました。

 

彼らは他国に連れて行かれても、偶像に身を汚されることなく、全き信仰をもって主に仕えました。

そして、様々な方法で神の御業を行い、他国の王を驚かせました。

ダニエルたちは、多くのユダの民たちが悪の道に歩んでも、少数精鋭で神の栄光を表しました。

 

私たちも、たとえマイノリティーであっても、めげないで福音の種を蒔き続けましょう!

主の日がやってきた時に、滅びの道に向かうのではなく、みんなで一緒に救いの道を歩みたいですね!

 

◆幸いの道を歩むためには・・・

②自分を見つめ直して見渡す

 

<エレミヤ6:16>

********************************************

主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。

********************************************

 

エレミヤ6:16の前半には、 「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、」と書かれています。

 

以前の新改訳では、「道の分かれ目に立って見渡せ」が、「四つ辻に立って見渡し」と訳されていました。

つまり、道は二股に分かれているのではなく、複数の様々な道があるということです。

そこから見渡して、「いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね」、幸いの道を選びなさいと主は言われます。

 

私たちの人生には、様々な道があります。

 

今まで選んできた道を振り返ると、間違ってなかったと思う選択もあるでしょうし、選択を誤った、もう一度あの分岐点に戻りたいと思うことがあるかもしれません。

でも、「ドラえもん」の世界ではないので、残念ながら時間は過去には戻せません。

私たちは今、前を向いて、これから歩む道を見渡して、幸いの道を選ばなければなりません。

 

「見渡す」のヘブライ語は、רָאָה(ラーアー)と言って、「よく見る」という意味があります。

南ユダの民たちが偽りの預言を聞いて安心を得たように、人の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分の目でよく見て、様々な道の中から幸いの道を見極める必要があります。

 

エレミヤは、頑なな南ユダの民たちに、「いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね」と語りました。「いにしえからの通り道」とは、つまり聖書の神が、世の初めから語られている教えの道、そこから幸いの道を選ぶようにと語っています。

 

気をつけなければならないのは、神の口から出た言葉ではない、偽りの教えです。

巧みな言葉で惑わし、偽りの愛や優しさ、偽りの平安を語る教えです。

 

世の中には、いろいろな宗教があり、どの宗教も人が幸せになるように、平安を得るようにと説いています。

また、占いや、自己啓発、スピリチュアル、ニューエイジ、神秘主義といった精神世界で語られている内容も、人生を豊かに平安に幸せにするためのものだと信じられています。

 

しかし、聖書の神が語られる「幸いの道」のヘブライ語は、דֶרֶךְ הַטּוֹב(デレフハットーブ)という単数形で、ただひとつしかない道を指しています。

それは、善の道、良い道、神に従って歩む道です。

 

私たちが間違った道を選択して、偽りの平安を得ることがないように、その道を見極めるためには、自分の罪を吟味して自己検証すること、つまり「自分を見つめ直す」ことが大切です。

 

自分自身を見つめ直し、罪の吟味と自己検証をすることは、とても難しくて苦しく、落ち込む作業です。

自分が握って手放せないものを主に委ね、自分のプライドを脱ぎ捨てて主に祈ると、自分の無力さを痛感し、何者でもない自分に辟易とします。

 

しかし私たちは新約の恵みの時に生きていますので、深い谷底に落ち込んでいる時も、友であるイエス様が一緒にいてくださいます。

イエス様からけっして離れないようにしているならば、幸いの道から外れることはないはずです。

 

自分を見つめ直し、様々な道をよく見渡し、神の教えを想い起こして、たったひとつ用意されている幸いの道を選んでいきましょう。

 

◆幸いの道を歩んで・・・

③たましいに安らぎを見出す

 

6:16(中間部分)「それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」ですが、イエス様も同じ言葉を語られました。

 

<マタイ11:28-30>

********************************************

11:28

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

11:29

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

11:30

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

********************************************

 

イエス様と歩む道は、たましいに安らぎを得ます。

神と共に歩む人には、神から来る真の平安、やすらぎがあります。

 

エレミヤ6章に戻ります。

エレミヤは、南ユダの民たちに幸いの道を歩むようにと神の御言葉を伝えましたが、彼らは驚くべきことに、『私たちは歩まない』と拒否しました。

 

<エレミヤ6:16後半~18>

********************************************

6:16(後半)

彼らは『私たちは歩まない』と言った。

6:17

わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と

言った。

6:18

それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。

********************************************

 

その後、6章19-30節には、厳しいさばきの言葉が連なっています。

主は南ユダの民たちの不信仰に、どれだけ悲しまれたことでしょうか。

 

主がこんなにも「幸いの道を歩むように」と語られたのは、そこに素晴らしい主のご計画があったからです。

 

<エレミヤ29:11-13>

********************************************

29:11

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

29:12

あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。

29:13

あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。

********************************************

 

主に呼びかけ、祈り、捜し求め、心を尽くして求めるなら、主を見つけることができます。

主は私たちにわざわいではなく平安を与え、将来と希望を与えてくださると約束してくださっています。

 

真の神の御言葉を信じて、ともに幸いの道を歩みましょう!

幸いの道を歩むために、①偽りの平安に惑わされないで、②自分を見つめ直して見渡し、③たましいに安らぎを見出しましょう。

 

弱くて、愚かで、盲目である羊のような私たちを、羊飼いであるイエス様が導いてくださいます。

私たちが乏しくならないように、私たちのたましいを生き返らせ、安らぎを与えてくださる主に感謝しましょう。