2011.9.4「子、若者、父 Ⅰヨハネ2:12-14」

教会は「神の家族」とも言われています。この世の家族には、父や母、兄や弟、姉や妹がいます。同じように、神の家族、教会には霊的な父、若者、子供と3種類存在しています。お断わりしますが、父の中には、母も含まれていることを申し上げます。私たちは癒され、成長して、地上の家族で得られなかったものを神の家族で得ることができます。「子、若者、父」というメッセージは当教会では、何度かお話したテーマです。しかし、改めて、これらの3段階で何を学び、何を克服しなければならないのか、霊的な成長段階を考えたいと思います。

1.子どもたち

霊的な子どもには何が必要なのでしょう?Ⅰヨハネ2:12「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」霊的に生まれた子ども、つまりイエス様を信じたばかりの人が必要なのは、「罪が赦されている」ということです。「救いの確信」と言っても良いかもしれません。人がイエス様を信じるとき、「罪の赦し」から入る人もおれば、「永遠の命」とか「人生の意味」など、他のテーマで救われる人がいます。「ああ、自分は罪人である。罪の赦しが欲しい」と願って救われた人は、おそらく半分以下でしょう。でも、洗礼を受けて、クリスチャンなってから「ああ、私には罪がある。イエス様の十字架は私のためだったんだ」と理解する人の方が多いのではないでしょうか。そこで気付く人は良いのですが、クリスチャンになってから罪を犯して、「もう赦されないんじゃないだろうか?神様もあきれているんじゃないだろうか?」という人もおられるかもしれません。だんだん、罪責感が大きくなり、やがては教会からも離れてしまう。そういう人がおられるかもしれません。救われたばかりの人が必要なのは、「赦しの確信」、「救いの確信」であります。イエス様が十字架についたのは私たちの罪の赦しのためであります。イエス様はそのとき、私たちの過去の罪、現在の罪、そして将来、私たちが犯すであろう罪をも背負って、代価を払ってくださったのです。だから、たとえ罪を犯しても、神の子であることと永遠のいのちはなくしません。救いは神様からの一方的なプレゼントですから、行いによってなくすことはないのです。

では、罪を犯すと何をなくすのでしょうか?それは神さまとの親しい交わりです。神さまの私たちに対する愛は100%、いつでも変わりません。変わるのは罪を犯した私たちの側の方です。アダムとエバが神さまの御顔を避けたように、私たちもそうなります。何か後ろめたい気持ちになります。でも、神さまはキリストにあって、永遠の愛をもって私たちを赦しておられます。人間の愛は「これっきりの愛」ですが、神さまの愛はエンドレス・ラブ、限りない愛です。Ⅰヨハネ1:9はクリスチャンなった人ためのみことばです。Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」アーメン。神さまの前に、「私はこれこれ、しかじかの罪を犯しました」と告白すれば良いのです。もちろん、だれか隣人に被害を及ぼしたときには、謝ったり、償う必要があるでしょう。でも、最も根本的なことは、神さまとの関係です。私たちが罪を告白するならば、イエス様の血潮によってきよめられます。まるで、ホワイトボードに書いた文字が消されるように、ぱっと消されます。罪を犯したら告白する、罪を犯したら告白する。これを繰り返していくと、だんだん、同じ罪を犯さなくなります。赤ん坊が立ち上がるとき、何度もころびます。赤ん坊がころんだとき、「またころんだのか!今度はころばないように注意しなさい」と叱る親はいません。私たちは独り立ちするまで、何度も失敗し、罪を犯すこともあります。でも、キリストにあって神さまは永遠に赦してくださる。たとい、罪を犯しても、神の子としての身分、永遠のいのちはなくすことがない。この確信に立つことが大切です。

もう1つの子どもの必要があります。Ⅰヨハネ2:14「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」みなさんの地上のお父さんはどういう人だったでしょうか?ある日曜学校の先生が、「天の神様は、みなさんのお父さんのような方なのですよ」と言ったそうです。すると、ある子どもは「そんな神さまだったら、いらない」と次の週から来なくなったそうです。私たちが「イエスさま」「聖霊さま」と呼んでも、同じような名前の人はまずいません。しかし、「天のお父様」というと、「ああ、もう一人いたなー」と地上の父を思い浮かべます。不思議なことに、私たちは地上の父を通して、天の父をイメージするところがあります。みなさんの地上の父はどういう人だったでしょうか?権威主義的で独裁的なお父さんだったでしょうか?ある家庭ではお母さんと子どもたちがわきあいあいにしていました。しかし、お父さんが帰る車の音を聞くと、子どもたちは、「さーっ」と自分の部屋に入ります。また何かうるさいことを言われるのが嫌だからです。あるお父さんは、無口で何も答えない。「お父さん、きょうのテストで80点取ったよ」。新聞を見ながら「うん」。「お父さん、きょうの運動会で1位だったよ」。テレビを見ながら「うん」。子どもである自分を励ましてくれたことがない。日本やアジアではこういうお父さんが多いようです。また、あるお父さんはギャンブルやお酒を飲んで、家庭を守らない。いい加減なお父さんがいるかもしれません。また、家庭によっては、長期の出張、離婚、死亡のために、「いないお父さん」がおられるかもしれません。

もし、地上のお父さんがそういうお父さんだったらどうなるでしょうか?「天のお父様も、独裁的でこわい方だ。」いつ罪をさばかれるかびくびくして生きることになります。天のお父さんも無口で何も答えてくれない。そうすると、3分くらいお祈りをしたら、もう祈ることがなくなります。天のお父さんも、いい加減で頼りにならない。そうすると、神さまを頼らないで、自分の力で生きるようになるでしょう。ある牧師は、自分が5歳のとき、父親が亡くなったそうです。やがて、救われてクリスチャンになりました。「天のお父様」とお祈りしても、「天が空っぽのような気がした」とおっしゃっていました。この地上に完全なお父さんはおそらくいないでしょう。私たちは何らかの形で傷や欠けがあり、ゆがんだ父親像を持っています。でも、イエス様は「私を見たものは父を見たのである」とおっしゃいました。また、神の家には霊的な父・母がおります。ですから、イエス様を知ることによって天の父を知ることができます。また、教会での親しい交わりと保護によって、その人はちゃんとした天の父を知ることができます。赤ちゃんが両親の交わりを必要としているように、霊的に生まれた子どもも、交わりが必要です。励ましや慰めを与え、みことばによる建て上げによって、癒され、成長していくことができるのです。

2.若者たち

霊的な若者には何が必要でしょうか?若者にも2つの必要があります。Ⅰヨハネ13後半「若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」ここには、「悪い者に打ち勝った」とありますが、悪い者とはだれのことでしょうか?悪い者とは悪魔と悪霊のことであります。ヨハネ8章には、悪魔は「偽りの父である」と言っています。ヨハネ黙示録12章では「兄弟を、日夜、神の御前で訴えている者」と書かれています。また、エペソ6章には「悪魔の策略に対して立ち向かいなさい。…私たちの格闘は血肉に対するものではなく、悪しき霊との戦いである」と書かれています。私たちは、イエス様を信じてクリスチャンになりますが、その後が、また問題であります。私たちはクリスチャンになる前の、いろんなゴミを持ったまま生きています。あるものは捨てましたが、あるものはまだ大事そうに持っています。悪習慣、心の傷、汚れ、怒りや反抗心を持っているかもしれません。悪魔と悪霊は、私たちが持っているゴミを餌にして、私たちに悪さをしかけてきます。生ゴミがあると、カラスやねずみがやってきて、悪さをします。どうでしょうか?カラスをおっぱらったら良いのでしょうか?ねずみをおっぱらったら良いのでしょうか?一度、おっぱらっても、彼らは、また戻ってくるでしょう。どうすれば良いのでしょうか?そうです。生ゴミを排除すれば良いですね。それと同じで、悪霊を追い出す前に、処理されていない隠された罪、悪習慣などを神さまの前に差し出せば良いのです。神さまは光ですから、明るみに出されたものを、処理して、それから解放してくださいます。 

これは、私が経験的に知っていることですが、こういう癒しと解放は、早めにやった方が良いと思います。洗礼を受けて10年もたつと「こんなもんだろうなー」と妥協してしまいます。第一回目は救われて、まもない頃、行うべきです。そのとき、大きな罪とか、偶像礼拝などの霊的な罪を取り扱います。私はインドネシアの解放のキャンプを見たことがあります。そこには、200人くらいキャンパーが集まっていました。信じたけれども、まだ洗礼を受けていない人が80人くらいいました。一番、悪霊現象が起きたのは、性的な罪を扱ったときです。結婚前の性交渉、性的な傷や汚れ、レイプ等の赦しと解放を宣言しました。そうすると何十人もの姉妹たちが、声をあげて泣き、悪霊現象も起きました。悪魔は、そういう罪や傷を握って、その人を成長させないようにしています。ですから、信仰をぐらつかせている大きな罪は、早めに処理すべきであります。そして、解放された後は、心の傷や思いの分野をボチボチ取り扱っていくべきです。ローマ12:2「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」これは、クリスチャンなってからの大きなテーマです。霊的に救われていても、思いが古いままの人がたくさんいます。「どうせ私はダメだ」とすぐ諦める人はいないでしょうか?「私は人から愛されない」「私はああゆう人は苦手だ」「私は最後まで成し遂げることができない」など、束縛されているかもしれません。この世ではいろんなカウンセリングや心理学的なものがあるでしょう。私たちもそういう手法を取り入れることも可能です。でも、重要なことは私たちの古い価値観を神の国の価値観に取り替えることであります。では、どうしたらそれが可能なのでしょうか?

Ⅰヨハネ2:14後半「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」若者が悪い者に打ち勝つためには、神のことばが必要です。また、私たちがこの世に生きてきたために、間違った考えをたくさん植えつけられました。否定的な考え、ゆがんだ見方、あるいは親や先祖から受け継いだ罪の連鎖があるでしょう。自分ではわかっているけれど、そちらの方に傾いてしまう。それは、何らかの咎が作用しているからです。自分の間違った考えは何なのかを認識し、それを悔い改め、神の価値観に置き換える必要があります。そのために、神のことばをよく学び、自分の中に取り込み、みことばに従う必要があります。それが、神のことばのうちにとどまるということです。ヘブル4:12「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」アーメン。神のことばが鋭いメスのようになって、心のいろいろな考えやはかりごとを切り分けることができるのです。私はものごとを最後までやり通すことができない人でした。集中力に欠けて、時間内に、作文、絵、テストを終えることがでませんでした。私は子どもの頃、親や兄弟から「ヤスは不器用だから」「ヤスは落ち着きがないから」と良く言われて育ちました。それが私のマインドに入ったため、大切なときに、混乱して成し遂げることができないのです。しかし、クリスチャンになって解放を受けてから、カオスからコスモスへに移りました。自分の中に調和が与えられ、物ごとに集中し、最後まで成し遂げることができるようになりました。毎週の説教においても、「必ず、神さまが与えてくださる」という信仰があります。みなさんの中にも、ある部分が悪魔に握られて、自由になれないという部分はないでしょうか?必ずしも悪魔でなくても、ある法則の中に縛られている。そのため、敵の思う壺になって、神さまの栄光を現すことができない。そういう部分があるかもしれません。この課題を乗り越えないと、信仰はあっても世的なクリスチャンになってしまいます。私たちは、この世の流れに流されるのではなく、流れに逆らって進む必要があります。ルカ福音書に、イエス様は強い者に打ち勝ったとあります。そして、その分捕りものをあなたに分け与えたいと願っておられます。主にあって、私たちは悪い者に打ち勝つことができるのです。

3.父たち

 Ⅰヨハネ2:13「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」Ⅰヨハネ2:14後半「父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」 なぜ、ここに「神さま」と書かないで、「初めからおられる方」と書いたのでしょうか?「初めからおられる方」つまり、神さまは、世の初めから、永遠の計画をもっておられます。エペソ3:11「私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。」永遠と言う意味は、「すべての時間を越える。時間に制限されない」という意味です。世界が創造される前に、永遠の計画があったということです。それが、私たちの時代に成就されなければならないし、永遠に成就されるべきものだということです。霊的な父は、神さまの永遠の計画を知り、その計画に加わろうとする人です。では、神さまはどのようにして、ご自分の永遠の計画を成就しようとしておられるのでしょうか?それは教会です。神さまはキリストのからだである教会を通して、ご自身の永遠の計画を成し遂げたいと願っておられるのです。エペソ1:22-23「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」神さまはどんなお方でしょう?神さまはいっさいのものをいっさいのものによって満たすことのできるお方です。目に見えるものから、目にみえないものすべてです。神さまは、この世のあらゆる分野に対して、ご自身が持っている良いもので満たしたいと願っておられます。政治、芸術、教育、ビジネスの分野において。しかし、それには入れ物(器)が必要です。その入れ物にあたるものが教会です。私たちは神の福音をこの世に持ち運び、人々を神の国にお入れする働きが必要です。これは救いのリバイバルです。しかし、もう1つ、教会はあらゆる分野に神さまが持っている良いものを満たすことが必要です。それは、この世の人たちが神の栄光を仰ぐようになるためです。霊的な父は神さまの永遠の計画を知って、それを自ら実行する人です。自分の個人の救いだけではなく、「御名があがめられ、御国が来るように」働く人であります。もちろん、この世界は過ぎ去ってなくなります。でも、この世において忠実に働いた人たちを、神さまは再びお召しになって、「キリストによる千年王国を、一緒に治めよう」と願っておられます。霊的な父とは、個人の救いに留まるだけではなく、この世が、日本が救われるような働きを担う人です。

 聖書には、父の必要が1つしか書いていませんが、私はあえて2つ申し上げたいと思います。なぜなら、子どもたちが2つ、若者たちが2つだったからです。ここに「父たち」とありますが、この世では、どういう人が父と呼ばれるのでしょうか?男性が年を取ったら自然に父なるでしょうか?どういう人が父なのでしょうか?そうです。子どもがいる人が父なのです。男性の場合は、子どもを生むというよりも、儲けるという方が正確かもしれません。聖書には霊的な父親について書かれています。Ⅰコリント4:14-15「私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。」パウロはコリント教会のクリスチャンを「愛する私の子ども。あなたがたを生んだ」と言っています。これはどういう意味でしょう?それは私たちが福音を伝えることによって、その人が「私はイエス様を信じます」と告白して、新しく生まれた場合です。導いた人が霊的な父であり、導かれた人は霊的な子どもです。だから、長年クリスチャンをやっていても、福音によって一人も導いたことがないなら、父ではありません。しかし、中学生であっても、他の人を導いたなら、霊的な父になることができるのです。

 この世の中はとても複雑になっています。同じように、教会の伝道も複雑になっています。個人で福音を宣べ伝えるというよりも、特別伝道集会とかコンサートを開いて、救いを与えようとします。そうすると自分がやったことは、チラシを配ったこと。あるいは、賛美の奉仕をしたことです。専門家が説教し、入信に導きます。種まきは自分たちがやり、刈り取りは専門家ということになります。そうすると、一番、おいしいところを牧師や伝道者が取ることになります。でも、牧師や伝道者が親身になって育てられれば良いのですが、生みっぱなしということもあります。私などは洗礼を授けて、「あとは礼拝に続けてきなさい」みたいなところがありました。ちゃんと育てないために、ポロポロ落ちたことは否めません。一番、良いのは導いた人が霊的な父になり、その後も、面倒を見ることです。私を導いてくれた職場の先輩は、礼拝や祈祷会に一緒に行って、となりに座ってくれました。信仰に関する悩みや問題を、いつも解決してくれました。2年くらいたって、やっと独り立ちできました。その後は、自分で、いろんな先生や本を通して学ぶことができました。しかし、はじめからそれができたわけではありません。霊的な父がいたので、受洗後に起きた、危険な出来事も乗り越えることができたのです。どうぞ、恵みによって霊的な父、霊的な母になりましょう。不思議なことに、子どもを育てると、こちらが成長します。私もコーチングをやるようになってから、成長させていただいたと感謝しております。それまでは、「自分のことが良ければ、それで良いや」みたいなところがあったからです。父の心を持つと、子どもが自分を追い越しても悔しくありません。前は、みんなライバルだったので、「10年早い!」とか言っていたのですが、父の心を持つと、子どもの成功は私の成功になります。親にとって、子どもが自分を乗り越えることは、喜びであります。父なる神様は、私たちが子ども、若者と段階を踏んで、やがては霊的な父となることを願っておられます。