きょうからしばらく、「ヨハネ第一の手紙」から共に学びたいと思います。私にとって、第一ヨハネから、話すのは初めてになります。なぜなら、少し苦手なところがあったからです。それは「愛」という用語があまりにも多いからです。キリスト教会において、「愛」がもっとも大切なのに、そんなに強調されていない傾向があります。私もそうですが、「愛」を語ると、「あなたに愛があるのですか?」とダメ出しされる恐れがあるからです。でも、成長したせいか、あるいは顔の面が厚くなってせいか、「よし、語らせていただこう」ということになりました。ヤコブ書もそうですが、ヨハネ第一の手紙も、堅い食物の1つです。するめのように、少しずつかみながら、共に学びたいと思います。
1.いのちのことば
1節から3節まで、「いのち」ということばが、4回も出てきます。この箇所の「いのち」はギリシャ語では「ゾーエー」であり、神のいのち、永遠のいのちという意味のことばです。ところで、いのちは、目に見えるでしょうか?いのちは、生命の活動ですから見えません。では、心は見えるでしょうか?心はその人の考え、感情、意思を生み出しますが、心自体は見えません。最後に、霊は見えるでしょうか?霊と言うと日本では、幽霊、おばけを想像するかもしれません。神さまは霊です。イエス様も霊です。私たちの中にも霊があります。でも、霊も残念ながら見えません。神さまは霊ですから見えないのです。しかし、目に見えないものを他の人に証明することはとても困難です。自然科学は目に見えて、計器で計れるものが対象です。しかし、いのち、心、霊は見えないし、計器で計ることもできません。では、どうしたら目に見えない、神さまの存在を証明することができるのでしょうか?
ヨハネは何と言っているでしょうか?Ⅰヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」これは、イエス様のことをおっしゃっている内容です。「初めからあったもの」とは、ヨハネ福音書1章のように、ことばとして初めからおられたイエス・キリストのことであります。この方は、初めから神とともにおられ、すべてのものを創造したお方です。でも、2000年前、クリスマスの日、肉体をとってこの世に来られました。30歳まではナザレで大工として生活し、その後、3年半、公に活動をされました。そのとき、ペテロとかヨハネ、アンデレなどの弟子を召しました。この手紙は弟子の一人ヨハネが書いたものです。彼は肉体を持った「いのちのことば」についてどう語っているでしょうか?「私たちが聞いた」、つまりそのお声をじかに聞いたということです。「目でみたもの」、これは「自分たちの目で確かに見た」というニュアンスがあります。「手でさわったもの」とありますが、これも「自分たちの手で確かに触った」というニュアンスがあります。当時の弟子たち、特にヨハネは、イエス様の一番近くにいて、イエス様の教えを聞き、イエス様を見て、イエス様に触ることもできました。まことにうらやましい限りです。歌手やタレントの「握手会」があるようですが、ある人はしばらくその手を洗わないそうです。
でも、なぜ、ヨハネは実際に「聞いて、この目で見て、この手で触った」と強調しているのでしょうか?それは、当時、グノーシスという神秘的な智恵と体験を求める、異端がはびこりはじめていたからです。ギリシャ世界では、物質や肉体は悪であり、霊は善であるという、二元論が主流でした。ある人たちは救い主イエス様を信じていました。しかし、「神さまが肉体をとって、この世に来られた?そんなのはありえない。実際は肉体ではなく、肉体を持っているように見えたんだ」と言っていました。苦肉の策と言いましょうか?肉体を持たない、幽霊のようなキリストを信じていたわけです。肉体が悪であるという考えは、おそらくヒンズー教にも、仏教の中にもあるでしょう。何故、彼らが難業苦行をするのでしょうか?それは、肉体をできるだけ弱くして、その代わり魂を強くするためでしょう。イエス・キリストが肉体をとって、この世に来られたことは、ある人たちにとっては、躓きになっているのです。
ヨハネ第一の手紙の主張は肉体を持っておられたイエス・キリストです。イエス様は肉体をもって愛を示し、肉体をもって贖いを成し遂げました。だから、ヨハネは精神的な救い、観念論的な救いを否定します。そのことを示す教えがいくつかあります。Ⅰヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」Ⅰヨハネ4:20「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」私たちはときどき、「そういう気持ちはあるのですが…」と言い訳します。「礼拝に行きたい気持ちはあるのですが」「協力したい気持ちはあるのですが」「ささげたい気持ちはあるのですが」。心はあるのですが、体が伴わないわけです。ある人たちは、キリスト教は精神的なものだと思っています。そのために、子どもをミッションスクールに入れたがります。「天国があったら良いよねー」「神さまがいたら報いられるかもね」。でも、本当は信じていません。牧師も「メッセージを語れば終わり」、みたいなところがあります。メッセージももちろん重要ですが、そのとおり生きているかどうか問われます。キリスト教は精神的なもの、観念的なものではありません。なぜなら、神さまが肉体をとって、この世に来られたからです。
私たちはことばによって福音を伝えます。神さまが愛であること、イエス様が救い主であることをことばによって伝えます。でも、その人が自分と一緒にいて、「ああー、神さまは愛なんだ。この世に真実とか救いはあるんだ。」と知らしめることができたら何と幸いでしょうか?10年くらい前ですが、インドネシアから、エディ・レオ先生が日本に来られました。あるとき、奥様とスタッフが秋葉原に買い物をしに行きたいと言われ、みなさんを案内しました。その時は、外付けのハードディスクを買いに行きました。奥様と女性のスタッフは、「あれはどう、これはどうだ」とか店員に聞いています。「決まったかなー」と思ったら、タックスの問題でまた時間がかかりました。ハードディスクを買うのに、40分はかかったと思います。その間、エディ・レオ先生はニコニコしながら、奥様と一緒に回っていました。スタッフの人が「エディはいつもこんなんですよ。教会にいてもお家にいても変わらないの」と言っていました。また、岩清水というところで、セルのセミナーが開かれたときがあります。昼食のとき、みんなが並びます。確か、あのときはハッシュド・ビーフでした。最後の列に並んでいた、講師のエディ先生のところへ来たら、なんと汁だけでした。ご飯のわきに、茶色いスープをもって「わぉー」と言っていました。あの頃は、「父の愛」というのがテーマで語られていました。幼い頃、お父さんを亡くした牧師もいました。主任牧師に裏切られた牧師もいました。私のように酒乱で家庭を治めない父もいました。エディ先生が私たちをぎゅっとハグしてくれました。なんだか、父の愛が流れてくるようでした。いや、実際に父の愛を体験することができました。
キリスト教はことばの宗教です。でも、ことばだけで終ってはいけません。ヨハネは何と言っているでしょうか?「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」と言っています。さらに「御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち」とも言っています。見えないはずのことば、見えないはずのいのち、見えないはずの神さまが見えるということです。当時、イエス様がそうであったように、現在は、私たちを通して、私たちの体をとおしてイエス様が現れてくださるということです。エディ先生は「マニフェスト・ジーザス」とおっしゃっていました。イエス様を現すということです。私たちはいのちのことばであられるイエス様を現していきたいと思います。
2.私たちの交わり
Ⅰヨハネ1:3-4「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」「交わり」ということばは、キリスト教会でよく使われます。ギリシャ語のもとの意味には「共有する」「分かち合う」「関わる」という動詞から来ています。ですから、クリスチャンが交わるのは、「神さまから得た恵みを分かち合う」「神さまからいただいた励ましを与える」ということが目的です。私たち自身の中にはあまり良いものはありません。しかし、神さまは私たちに良いものをたくさんくださっています。私たちはそれを分かち合うことができます。福音書に5000人の給食という奇跡が書いてあります。イエスさまは最初、弟子たちに、「あなたがたで何か食べ物を与えなさい」と言われました。これは弟子たちを試すためでした。ある弟子は「いやー、この人たちに200デナリのパンを買って与えても足りないですよ」と言いました。するとある弟子は「5つのパンと2匹の魚だったらあります」とイエス様のところに持ってきました。イエス様は、5つのパンと2匹の魚を手に取り祝福し、パンをさいて弟子たちに与えられました。弟子たちはそれを配りました。どこで増えたのかはかわかりません。でも、分かることは、弟子たちはイエス様からいただいて、それを群衆に分け与えたということです。弟子たちが神さまの恵みを運ぶ、管(チャンネル)になったということです。私たちも神さまからいただいて、それを隣人に分かち与えることは可能です。
しかし、ここで重要なことは、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」とあることです。この交わりは、フェローシップとか親しい関係の方が良いかもしれません。クリスチャンも兄弟姉妹としての交わりがあります。しかし、もともとのかたちはどこから来るのでしょうか?私たちが交わりを持つために、私たちが交わりを持つ前にあるものは何でしょう?それは、「私たちと御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。まず、私たちは父なる神、そしてイエス様と親しく交わる必要があります。ヨハネは神さまとの交わりが基本であり、神さまとの交わりが源だということを教えているのです。キリスト教はヒューマニズム(人本主義)ではありません。神さまあっての、私たちであります。レビ記7章には、「和解のいけにえ」という記述があります。パンあるいは動物をささげますが、唯一、他のいけにえと違うところは、残ったものを祭司が食べるということです。まず、火で焼いて神さまにささげます。その後、残ったものはみんなで食べて良いのです。しかし、優先順位があります。最初は神さまにささげ、そのあとで自分たちがいただきます。何か日本の神道や仏教にもそのなごりがあるのかもしれません。何かいただいたら、まず神棚か仏壇にささげます。そのあと、自分たちがいただく。ご先祖様はいただいていないでしょう?でも、そのおさがりを、自分たちがいただく。ご先祖と現世の人の交わりなのでしょうか?それが聖書的かどうかともかく、神さまを第一にした交わりが、私たちの交わりです。
私はキリスト教会における兄弟姉妹の交わりは、この世にはない特殊な交わりだと思います。教会においては、男も女もありません。兄弟姉妹です。教会においては社長も従業員もありません。昔だったら、殿様も家来もありません。「兄弟」と呼んで良いのです。おそらく、教会の中でも、「苦手なタイプだなー」とか「考え方が違うからなー」という人が一人や二人はいるかもしれません。礼拝中はそういうことはほとんどわかりません。しかし、小グループで交わったり、一緒に奉仕するとわかってきます。ことばや、内側からにじみ出てくるものがあります。夫婦の関係も交わりの1つですが、1つ屋根の下で暮らすと「やねー」ということが、いくつもあります。「えー、こんなクセあったの?」「えー、こんなだらしないところがあったの」と一つや二つは見えてきます。教会の中の交わりも同じです。セルチャーチをやって一番困るのが、このことであります。小グループで交わると、最初は良いのですが、数ヶ月たつと、どのセルにも衝突が現れてきます。ある場合は、「もう、あそこのセルには出たくない。」「あの人はあんなことを言った。ひどい!」。そういう問題が噴出します。なぜでしょう?それは、本音が出てきたからです。セルチャーチは、内面の癒しのためエリヤハウスを導入しました。セルとエリヤハウスを組み合わせれば、衝突を乗り越えて、親密な関係を持つことができるということが分かりました。
エリヤハウスをやる、やらないはともかく、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。私たちと神さまの交わりが成り立つためには、イエス様の十字架の贖いがありました。イエス様の血潮によって私たちの罪が贖われたので、神さまと交わることができたのです。あるホームページに、「日本にキリスト教が合わないのは、血なまぐさいいけにえとか、十字架があるからだ」と書いてありました。キリスト教が日本に合わないのではなく、罪の中にある日本があわないのです。神さまと私たちの間の罪を取り除くには、キリストの十字架の血潮しかありません。そのことが、第一ヨハネ1章、2章、3章に詳しく記されています。それでは、私たち一人ひとりの交わりはどうなるのでしょう?これもやはり、キリストの十字架の血潮がなくてはなりません。エペソ2:13-15「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」私たち一人ひとりの交わりも、キリストの血によって、近いものとされたのです。私たちは十字架によって神さまと和解し、十字架によってお互いの敵意が葬り去られました。ですから、私たちの交わりでいつも忘れてはならないことは、イエス様の十字架の血潮です。これがないならば、私たちはこの世の人たちと同じように、好き嫌いの関係、利害関係、上下関係で交わるしかないのです。
教会という建物に来ると、必ず十字架があります。屋根の上にあるか、壁にかけられています。首に十字架をぶらさげている人もいます。十字架の縦の棒は、神さまとの関係だと言われます。神様は義なるお方ですから、一片の罪も赦すことができません。だから、イエス様が十字架で私たちの罪を贖い、神さまの義を満足させたのです。また、十字架の横の棒は、水平、私たち一人ひとりの関係を象徴していると言われます。これはキリストによって贖われた者どうしの交わりです。伝統的なキリスト教会は、神さまとの交わりをいつも第一にしてきました。これは決して、間違いではありません。聖書を読むこと、お祈りすること、神さまに礼拝をささげること、すべて良いことです。しかし、兄弟姉妹との交わりはあまり強調してきませんでした。インマヌエルとかきよめ派の教会は、男性の席と女性の席を右と左に分けていました。今でも神学校ではまったく、別の宿舎で、食事の席も別です。それはともかく、教会は礼拝が終ったら、さっさと帰るように勧めていました。家庭集会もあるのですが、先生がメッセージした後、お茶を飲み、そのあと帰ります。私たちの会話を、おしゃべり、雑談、ダベリングと言いました。そして、「教会はサロンじゃない」と言われました。ある先生は「セルチャーチなんてとんでもない。信徒同士が交わると牧師の批判をしたり、噂話をするので良くない」と言いました。昔、赤羽教会が古い会堂の頃、台風で屋根の十字架が吹き飛ばされたそうです。牧師先生がある機関紙に「十字架の横棒は吹き飛ばされたけど、縦棒だけでも残って良かった」と書いてありました。そのことばの背後には、「横の交わりよりも、神さまとの縦の交わりが大切だよ」という考えがあります。
「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」リビングバイブルは、4節をこう訳しています。「この手紙の忠告どおりに実行すれば、あなたがたは喜びに満たされ、私たちも共に喜ぶことになるのです。」教会が喜びに満たされていないのは、交わりが不完全だからではないでしょうか?キリストの十字架の血潮による神さまとの縦の交わりだけではなく、キリストの十字架の血潮による横との交わりが必要です。もし、縦の交わりが大事で、横との交わりはどうでも良いとしたなら、喜びに満たされることは少ないでしょう。私たちは神さまとの交わりを基本にして、兄弟姉妹との交わりを持つ必要があります。第一礼拝後も第二礼拝後も「神さまに感謝をささげましょう」と言います。みんなで賛美をささげ、メッセージを聞いて、神様さまに感謝をささげまる。そこに神さまの臨在があるので、間違いないと思います。私も自分がメッセージをして恵まれます。でも、もっと恵まれ、喜びに満たされるのは、神様の恵みを分かち合った後だと思います。先週は第五週目でしたので、メッセージの分かち合いの時を持ちました。でも、他の週はありません。セルチャーチでは、平日に、日曜日のメッセージの分かち合いをして共に祈る教会が多いと聞きます。もし、それが無理であれば、礼拝後、席を立つ前に、「きょうのメッセージここが恵まれました。ここが示されました」と分かち合う。そして、お互いにひとことずつ祈り合う。こういうことが日常茶飯事に行われたら、喜びにあふれた教会になると思います。これは強制ではありませんが、ライフ・スタイルになれたら良いと思います。
去る7月24日、礼拝後、清瀬に行きました。グレースネット合同礼拝のため、5つくらいの教会が集まっていました。そこには小笠原先生とか若木先生もおられました。最後に手をつないで賛美しました。さらに、司会者が「同性どうして2,3人で共に祈りましょう」ということになりました。握っていた手は暑さのためにびちょびちょです。昔、クリスチャンになった頃は「一緒に祈るなんてイヤだなー」と思いました。知らない者どうしだと、少し緊張します。でも、お互いに祈ったあと、喜びがわいてきます。やはり、主の恵みを共に分かち合う、主の喜びを共に分かち合うことが必要です。今は、いのちのことばであられるイエス様は見えません。しかし、私たちの交わりとおして、イエス様が現われてくださいます。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」アーメン。