2011.08.14 神は光である Ⅰヨハネ1:5-10 

「神は光である」とはどういう意味でしょうか?それは、神さまには全く罪がなく、公明正大であるという意味です。光と反対のものは、「やみ」です。やみは、隠れて罪を犯している姿をあらわしています。私たちクリスチャンは、やみの世界から救われて、光であられる神さまのもとに移されました。そして、光であられる神さまとの交わりの中を歩む存在となりました。しかし、私たちはこの世の中で生きています。聖書で「この世」とは、神さまに反逆し、罪を犯している人たちのことを言います。私たちは光であられる神さまと交わりながら、同時に、やみが支配しているこの世において生活しています。するとどんなことが起こるでしょうか?やみの影響を受け、罪を犯すこともありえるということです。ヨハネの手紙は、「それに対して、どうすべきなのか?」ということを教えています。きょうは、Ⅰヨハネ1:9を中心的に取り上げながら、全体を学びたいと思います。

1.罪の悔い改めは救いの条件か?

Ⅰヨハネ1:9「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」保守的な教会では、Ⅰヨハネ1:9を救いのみことばにしている場合があります。先週、CSのキャンプがありました。若い頃、私はキャンプのカウンセラーや講師として、よく奉仕をしたものです。今はあまり呼ばれません。年齢のギャップがありすぎるからかもしれません。「8人兄弟の7番目」と言っても、そんなに兄弟の多い家庭はないでしょう。キャンプでは、カウンセラーというのがとても大変です。あてがわれた5-6人の子どもたちを面倒見なければなりません。メッセージが終ったあと、講師が「今晩、イエス様を信じる人は手を上げてください」と招きをします。すると、子どもたちは「はい」とか言って、手をあげます。そのあと、カウンセラーは手をあげた人のため、救いの確信を与えなければなりません。そのとき、子どもの話を聞きながら、「君の救いのみことばはこれですよ」と聖書から、ふさわしいみことばを与えます。そのときに話された聖書のことばもあれば、「この子どもはこれかな?」と神さまから示されたことばであったりします。おそらく、一番、そのとき、用いられるのがⅠヨハネ1:9ではないかと思います。信じた子どもに、「何か神さまの前でおわびしたい罪はある?」と聞きます。すると「消しゴムを盗んだ」とか「お母さんの財布からお金をちょろまかした」「友だちと喧嘩した」とか告白します。そして、カウンセラーは子どもに対して、罪の告白とイエス様を信じる告白の両方を導きます。

私は特別な理由もなく、そういうことをしていました。あるとき、『信じるだけで救われるか』という本を読んだとき、「ああ、福音とはそうなのか」と全く目が開かれた経験をしました。つまり、救いの条件はイエス様を信じることだけであって、自分が犯した個々の罪の悔い改めは必要ないということが分かったからです。保守的な教会、私の信仰も保守的ですが、悪気があってやってきたのではありません。なんとなく、「罪の悔い改めと信じるという告白」が合体してしまったのでしょう。実はヨハネ第一の手紙は、未信者に宛てられた手紙ではありません。第一ヨハネ1:6「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら」とあるので、すでに信仰を持っている人です。また、ヨハネはたびたび「私のこどもたち」と書いていますが、これはイエス様を信じて神のこともとされた人たちです。つまり、ヨハネは、イエス様を信じて、新生した人に手紙を書いたのです。と、いうことは、Ⅰヨハネ1:9は、イエス様を信じてはいるけれど、やみの中を歩んでいる、つまり罪を犯している人たちが対象なのです。もし、イエス様を信じるために、それまで犯した罪を告白しなければならないとしたら、忘れてしまった罪はどうなるでしょう?また、信じる前というのは、霊的に麻痺しているので、何が罪なのか分かりません。親切な気持ちはわかりますが、個々の罪の告白を救いの条件に加えるのは間違っています。では、悔い改めとはどういう意味なのでしょうか?救いのための悔い改めとは、「自分は神さまを神さまと認めず、背いていました。今からは方向転換して、神さまを信じます」と言うことです。つまり、自分が犯した個々の罪ではなく、自分が罪人であることを認め、神さまへと方向転換することです。これが救われるための悔い改めです。こういう悔い改めは、一生に一回すれば良いのです。でも、クリスチャンになってから犯した罪は、一生涯、告白しなければなりません。

黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」この箇所は、なまぬるいラオデキア教会のために書かれた箇所です。彼らは「自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もない」と誇っていました。しかし、神さまから見たら、「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」でした。先週は、ガジマ聖会に行ってきました。先生はアフリカのタンザニアから1年ぶりにこられました。前は3万人の教会でしたが、今は7万人になっています。前は160人の死人がよみがえりましたが、今回聞いた話では、合計400人がよみがえったそうです。アンナという女性は、死んで4日目によみがえりました。彼女は霊安室の冷蔵庫に入れられていました。もう一体亡くなった人が運ばれてきました。そのとき、ドンドンという音が聞こえます。なんと死んだはずのアンナが袋を蹴破り、起き上がっていました。彼女の死亡診断書を書いた医者は気絶して倒れました。アンナは「お腹が減っているので何か食べ物をください」と隣りのICUに行きました。ベッドで寝ていた2人の人が、アンナを見てびっくりしました。チューブとか器械を取り外し、2人とも元気になりました。アンナはイエス様から、「このメッセージを携えて、ガジマに伝えなさい」と言われました。「死人が神の子の声を聞くときが来ます。今がその時です。さあ、もどりなさい。」それで、生き返ったわけです。ガジマ先生は使徒16章から、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美したら、突然大地震が起きたという箇所から話されました。そして、「イエスの御名によって、日本の土台を揺り動かさなければならない」とチャレンジされました。そのとき、私は「ああ、不信仰になっていたなー」と気付かされました。「礼拝人数が少ない。お金がない。あの人が来ないのはこの理由だ…」わー、やみの力でやられていました。そして、声を出して悔い改めました。私たちはこの世にいると、不信仰になりがちです。気がついたら、すぐ告白しましょう。熱心に悔い改めましょう。そうすれば、私たちは信仰に満たされ、この世に対して勝利できるのです。目に見えるものに支配されてはいけません。なぜなら、目に見えないものが、目に見えるものを支配するからです。

2.罪の告白は公にすべきなのか?

新共同訳を見ますとこのように訳されています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」その聖書では、「公に言い表すなら」と訳されています。公とはどういう意味でしょうか?一般的には、みんなの前でということでしょう。これと似たみことばに、ローマ10:10があります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」この場合も、みんなの前で信仰を告白しなければ救われないと主張する人がいます。ですから、洗礼を受けたい場合、その人は長老たちの前で、自分がどうやって信じたのかを表明します。その後、いくつかの質問を受け、長老たちが納得すれば洗礼を許可されます。「これもどうかな?」と思います。なぜなら、みんなの前で信仰を告白しないと救われないと誤解を受けるからです。もし、公に信仰を告白しなければ救われないとしたら、独房にいる人、あるいは無人島に流された人は、救われないことになります。信仰の告白もそうですが、罪の告白も、私たちは神さまの前に告白する必要があります。神さまの前で告白した後、必要がある場合は、公に告白をするのです。罪の告白もいくつかの段階があります。一人で神さまの前に告白する場合もありますし、互いに罪を告白するとき、あるいは公に罪を告白しなければならないときもあります。

では、どういう場合、罪を他の人の前で告白しなければならないのでしょう?それは、習慣的に犯す罪です。中毒性の罪で、自分で祈ってもなかなか解放されない場合です。たとえば、怒りが習慣的になっている。盗みが習慣的になっている。性的な罪が習慣的になっている。これは悪魔がその人の一部をつかまえている状態です。自分ではやめたいと思っていますが、要塞になっています。たとえば、私が後ろ手にロープでつながれているとします。ロープを解きたくても、自分では不可能です。そういう場合、他の兄弟姉妹から祈ってもらって、習慣的な罪を断ち切ってもらいます。そうすると、罪から解放されます。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」と書いてあります。ですから、自分の罪を告白し、他の人から祈ってもらうことは、解放される力になります。でも、告白するとは「もうしませんから、赦して下さい」という意味ではありません。私たちは、子どものときから、そういう風に言うことを強制されてきたので、罪を告白するときに抵抗を感じるかもしれません。しかし、「告白する」のギリシャ語は「ホモ・ロゲオー」、「同じことを言う」という意味であります。つまり、「私はこれこれしかじかのことをしました」と、ありのままを述べることなのです。ダビデもナタンの前で「私は主に対して罪を犯しました」と告白しました。すると、ナタンは直ちに「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」と言いました。ですから、私たちは言い訳をせず、自分が犯した罪を神さまの前に、ありのままに言い表せば良いのです。そうすれば、神さまは私たちの罪を赦してくださいます。

多くの罪は神さまの前で告白すれば十分なのです。本当は神さまの前で告白するだけで十分なのに、他の人に告げたために、ややこしくなる場合があります。1つは心で勝手に思った罪です。たとえば、「私は鈴木先生が隠れてこういうことをしているのではないか、と疑っていました。でも、誤解でした。どうもすみませんでした。」そういう告白はしなくて結構です。ゴミ収集の日でないのに、ゴミを出すようなものです。告白された方だって「え?私のことをそんな風に思っていたの?」と傷つきます。あとは、すでに解決されている過去の罪です。たとえば、「私はあなたと結婚する前に、たくさんの女性と付き合っていました」と言ったとします。すると、聞かされた方は「だれと、だれなの?名前、教えて?どんな事までしたの?」と詮索されます。その後、大変なことになってしまいます。ですから、すでに解決されている過去の罪は告白する必要はありません。昔、「あなたの過去などー知りたくないのー」という歌がありました。それで良いのです。でも、告白しなければならない罪とは、暗やみで犯している罪です。すでに神さまと光の中に歩んでいるにも関わらず、やみの中を歩んでいるという場合です。もう一度、言います、告白には3段階あります。第一は神さまとの間で犯した罪は、神さまの前で告白すれば十分です。第二は相手がいる場合です。明らかに相手を傷つけた場合は、神さまに告白すると共に、その人の前に行って「ごめんなさい」を言いながら告白する必要があります。また、先ほども申し上げましたが、自分では解決できない、要塞のような罪です。悪魔に一部を握られていて、自分ではどうしようもない習慣的な罪です。これは、信頼のおける人の前で、告白して祈ってもらう必要があります。第三は牧師や役員、指導的な立場にある人が罪を犯した場合です。教会というからだ全体に対して罪を犯した場合は、公にする必要があります。それはできるだけ誤解やスキャンダルを少なくして、教会が新しい歩みをするためです。でも、最も基本になることは、神さまの前で正しくあるかどうかです。私たちは、神さまを恐れ、光であられる神さまと親しい交わりを保つ必要があります。この交わりは、継続的なものです。

3.クリスチャンの罪の告白

ヨハネが1:5-10で、一番、言いたいことは何なのでしょう?それは交わりの回復であります。神さまは光です。神さまは完全に正しくて公明正大なお方です。私たちはイエス様を信じたことにより、神さまの光の中に入れられました。そして、神さまと親しい交わりを持つ者とされました。ハレルヤ!私たちは神さまの子どもとして、父である神さまと親しい関係になったのです。でも、さきほど、申し上げましたように、私たちはこの世に住んでいます。この世は神さまを信じないばかりか、神さまに敵対して歩んでいます。私たちはこの世に生きている限り、罪の誘惑を受け、実際に罪を犯してしまうことがあるのです。こっちは悪いことをしていないつもりでも、向こうから言いがかりをつけられたり、イヤなことをされる場合もあります。すると、私たちの生身の人間ですから、「何クソ!」と怒ったり、反発したりするでしょう。車を運転してよくあることですが、割り込みされたり、ある場合は信号を無視して突っ込んでくる場合もあります。こちらに気持ちの余裕があれば良いのですが、余裕がないときには、腹を立てることもあるでしょう。このように人々の中で、いろんな出来事の中で罪を犯すことがあるのです。そういうとき、私たちは光の中ではなく、やみの中を歩んでいる状態なのです。それでも、「いや、私には罪はありません」と言うなら、自分を欺き、神さまをも偽り者としてしまいます。ですから、私たちはそういう場合、ただちに罪を神さまの前で言い表す必要があります。

このことは、とても大事なことです。私たちが罪を犯すと無くすものは何でしょう?私たちが罪を犯して無くすのは、神さまとの親しい交わりです。私たちが罪を犯しても、救い、つまり神の子としての身分はなくさないということです。たとえば、親子の関係でも、子どもが罪を犯した場合、「もう、親でも子でもない、勘当だ」と言う親がいるでしょうか?私たちもイエス様を信じたとき、神様は私たちのすべての罪を赦してくださり、神の子という身分をくださいました。神さまは私たちが光の中を歩めるように、聖霊の助けと導きをくださいます。でも、私たちには肉という罪を犯す傾向が残っていますので、さきほどのような環境や条件がそろいますと、やっぱり罪を犯してしまうのです。それでも、「私には罪がない」と言い張るなら、だんだん私たちは罪の中に捉えられ、悪魔によって縛られてしまいます。その前に、私たちは神さまの前に犯した罪をそのまま告白すべきなのです。私たちが神さまの前に罪を正直に告白すると、イエスさまの血潮によって、その罪が赦されます。そして、神さまとの関係がただちに回復します。そのとき、私たちは暗やみではなく、すでに光の中に移されているのです。でも、ここにとても興味深いことが書いてあります。Ⅰヨハネ1:9後半「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」「神は真実で」とは、どういう意味でしょう?「真実」は英語でfaithfulであり、これは忠実という意味でもあります。神さまは私たちのように、ある時は赦すけど、ある時は赦さないというお方ではありません。私たちは気分によって、赦すときと赦さないときがあるでしょう。しかし、神さまは私たちと違って、常に真実であり、常に私たちを赦してくださるのです。それは、神さまのご人格のゆえででもありますが、キリスト様の血潮が永遠のあがないになっているからです。神さまは御子イエスの血潮を見ると、赦さないではおれないのです。

ここには「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる」と書いてあります。神さまは、罪を赦してくださるだけではありません。罪を犯して受けた悪を取り除いてくださるという意味です。「赦して、きよめる」「赦して、きよめる」「赦して、きよめる」ということが繰り返されます。たとえば、ホワイトボードにペンで何かを書いたとします。何を書いたとしてても、黒板消しでパーと消えます。また、書いても消えます。また、書いても消えます。これは神さまの赦しの力です。しかし、だれかが油性のマジックで書いたとします。これはダメージを受ける罪です。普通の黒板消しでは消えません。どうするか?揮発性のもの、ベンジンやアルコールだと消えます。昔、聖書の時代は染料を用いて、染物をしていました。紫糸の場合は、紫貝から取った染料を用いたようです。その中に、一度染めるとなかなか消えないものもありました。それは緋糸だそうです。赤い糸です。アメリカ文学に『緋文字』という作品があります。当時、姦淫の罪を犯した女性がいたら、その額にアダルトリーのAの刺青をされます。赤い刺青で、一生消えません。その文学の内容はキリスト教会的には良くないと思います。でも、聖書はそうは言っていません。イザヤ書1:18「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」アーメン。最も消えにくい緋のような赤い罪も、主は赦してきよめてくださる。罪が緋のように赤くても雪のように白くなり、紅のように赤くても、羊の毛のようになるのです。エレミヤ書31:3「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」とあります。ここに、「誠実を尽くし続けた」とあります。さきほどのⅠヨハネ1:9「神は真実」と同じ意味です。では、神さまの愛は永遠であるとはどういう意味でしょう?それはキリストの血潮のゆえに、私たちの罪を永遠に赦し続けてくださるという意味です。ある神学校の先生は、神さまの愛はエンドレス・ラブ、「これっきりの愛じゃない」とメッセージされ、記憶に残っています。当時、「これっきり、これっきり、もう、これっきりーですかー?」という歌が流行っていました。人間の愛は、「これっきりの愛です。いい加減にしろ、もう赦せない」です。でも、神さまの愛は「これっきりの愛ではありません」。神さまの愛は、永遠であり、どこまでも限りなく赦してくださいます。ペテロがイエス様に「兄弟が悔い改めた場合、何度まで赦すべきでしょうか?7度まででしょうか」と聞きました。そのとき、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と答えました。それは、無限にという意味です。このことばの背後には、神さまの永遠の愛、永遠の赦しがこめられています。私たちは赦しの中にあるからこそ、罪を喜んで悔い改め、光であられる神さまと交わることができるのです。