教会は家族にたとえられています。一人っ子で育った人は、急に兄弟が増えるでしょう。お父さんもしくはお母さんがいなかった人は、神の家族の中でそういう人が与えられるでしょう。人間関係で深い傷を負った人も神の家族によって癒されることでしょう。Ⅰヨハネ2章には、神の家族には3種類のクリスチャンがいることが分かります。子どもたち、若者、そして父です。父とは成熟したクリスチャンの呼び方なので女性も含まれています。神の国における霊的成長とは、子どもたち、若者、父です。この地上と同じですね。また、Ⅰヨハネ2章にはそれぞれの必要も記されています。きょうは成長の段階に応じて、3つのポイントでお話いたします。
1.子どもたち
子どもたちとは、イエス様を信じたばかりの人たちのことです。クリスチャンになりたての人には何が必要なのでしょうか?Ⅰヨハネ2:12「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」そうです。第一は、子どもたちは罪が赦されていることを知らなければなりません。言い換えると、「救いの確信」を持つということです。イエス様は十字架で私たちすべての罪を負って、身代わりに死んでくださいました。イエス様が代価を払ってくださったのですから、私たちが犯したすべての罪が赦されているのです。それでも罪責感を覚えている人にはどうしたら良いでしょう?ヘブル10:22「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ここに邪悪な良心とありますが、これは罪でゆがんでいる良心のことです。私たちは自分の心ではなく、神のことばを聞く必要があります。聖書が「あなたの罪は赦されました」と言うなら、「アーメン」とそれを受け取るべきなのです。そのことができるために、あなたは心にキリストの血の注ぎを受ける必要があります。キリストの血は私たちの罪を赦すための代価となりました。でも、それだけではありません、キリストの血は、私たちの心にある罪責感をきよめてくださいます。もし、悪魔が私たちの心に訴えるならば、「キリストの血によって赦された者である。悪魔よ、退け!」と命じることができるのです。どうぞ、私たちの心にキリストの血を受けましょう。さらに、聖書は私たちが罪赦されているだけではなく、「義と見なされている」と言います。あなたは神の目から義と認められているので、罪の生活から離れ、義にふさわしい生き方がスタートできるのです。
もう1つクリスチャンになったばかりの人が必要なことがあります。Ⅰヨハネ2:14「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」そうです。第二は、子どもクリスチャン天の父を知らなければなりません。御父を知らなければ、自分がだれであるかアイディンテティが分からないからです。私たちは多かれ少なかれ、地上の父を敬わないで、怒ったり、憎んだり、否定したのではないでしょうか?残念ながら、私たちが父を否定した同じ部分が、私たちの中に欠けてしまうのです。「あのような父にはならない」と誓うならば、父と同じような欠点を負ってしまうのです。私は家庭を正しく治めてくれなかった父を否定しました。そのため私にどんなことが降りかかってきたでしょうか?今度、私が家庭を持ったときに、怒りによって子どもを治めようとしました。子どもたちと平和な気持ちで話し合うのではなく、一方的に押し付けました。正しく治めるというよりは、力で治めるという感じです。でも、それが良くないとわかると、こんどは何も言えなくなってしまうのです。放任かもしくは絶対君主か、その中間がありません。しかし、あの父を赦し、神が与えてくれた父として感謝しました。するとどうでしょう?私の中に父の心が少しずつ芽生えてきました。コミュニケーションを取りながら、事を進めることができるようになりました。ですから、みなさんも地上の父を赦しましょう。怒りをイエス様のところに持って行って取り除いてもらいましょう。すると、神さまを見る目が良くなっていきます。あなたは神さまに対して、どんなイメージを持っていますか?もし、神さまが怖い方であったなら、親しく交わることができません。もし、神さまが「まだ不十分だ!」と業績をあおるようなお方であったら、未達成感の中で生きるしかないでしょう?このレッスンは「父なる神の愛を受ける」で学びました。どうぞ、無条件で私たちを愛してくださる父なる神さまを体験的に知りましょう。あなたは神の子どもであり、そのままで価値がある存在なのです。「愛され、赦され、受け入れられている」という安心感があるときはじめて、成長していくことができるのです。
もう一度、繰り返します。子どもクリスチャンの必要は何でしょう?第一は罪が赦されたという確信を持つことです。罪責感は成長をさまたげます。罪責感をもった良心は邪悪な良心です。邪悪な良心をキリストの血によってきよめていただきましょう。私もかつては、自分で自分を責めていました。自分の中に二人の自分がいるのです。二人の自分が互いに争いあっているのです。それでは力も出ないし、集中力もわきません。でもあるとき、イエス様の和解を受け入れて、自分と自分が1つになりました。自分と自分が和解したのです。自分が自分を「頑張れ、応援しているから!」と励ましてくれます。そうなると力強いですね。イエス様はあなたに調和した心を与えてくださいます。そして、第二は父なる神を知り、父なる神さまと親しい関係を持つということです。父なる神さまこそ、本当の父親です。地上の父は、神さまが与えてくださったのです。かなり不十分だったかもしれません。でも、父なる神さまは完全であり、あなたを愛して、100%受け入れてくださいます。天地を創られた神さまがあなたの味方なんですから、もう何も恐れる必要はありません。父なる神さまは、失敗をしても赦してくださいます。むしろ、「失敗を恐れず、チャレンジしなさい。私が共にいるから」と励ましてくださいます。
2.若者たち
第二の段階は、若者のクリスチャンです。彼らにも2つの必要があります。Ⅰヨハネ2:14後半「若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」第一は、神のみことばにとどまるということです。子どもクリスチャンの段階では、「神さま、神さま!」でした。しかし、それだけでは成長しません。神のみことば聖書を学ぶ必要があります。日本語の学ぶは「勉強する」という意味があります。しかし、ヘブル的な「学ぶ」は「弟子となる」とか「師に倣う」という意味があります。つまり、頭だけではなく、その教えに従うということも含まれているのです。イエス様はヨハネ8:31「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です」と言われました。当時、イエス様のところに大勢の人たちがやって来て、イエス様の教えを受けました。彼らは「ああ、なんと深い教えだ。ああ、なんと権威ある教えだ」と感心しました。しかし、多くの人たちはイエス様の教えにとどまろうとはしませんでした。もし、その教えに従ったなら自分の生活を変えなければならないからです。彼らは自分の生活がおびやかされない程度に聞き従ったのです。しかし、それはキリストのことばにとどまることでもないし、キリストの弟子になることでもありません。今日も、教会の礼拝に聖書の教えを学びに来られている方が結構いらっしゃいます。ミッションスクールから紹介されて来られている方もいらっしゃいます。大歓迎いたします。しかし、いつか、どこかで、そういう人は、主イエス・キリストに従うのか、従わないのか決断しなければなりません。「この部分は従うけど、他の部分は従いません」ということはありえません。一部でも従わなければ、不服従であるとみなされるからです。良い教えだけを受けている段階では、キリストの弟子になることはできません。自分にとって嫌な教えをも神のことばとして受けるのです。そうするならば、その人はバランス良く成長するのです。
第二は悪い者に打ち勝つ必要があります。Ⅰヨハネ2:14「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです…あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」と二回も書いてあります。ここには、「悪い者に打ち勝ちつつある」とは書いていません。「悪い者に打ち勝った」と書いてあります。つまり、悪や罪に対して葛藤している状態ではなく、悪や罪に対して勝利している人です。私たちはクリスチャンになったとき、たくさんの古いものも引きずって神の国に入りました。23年前、私が座間から亀有に引っ越してきたときのことを思い出します。古い会堂のときは、祈祷室の引き戸が木製で窓がありませんでした。座間からアルミサッシのガラス戸を4,5枚一緒に軽トラックに積んできました。祈祷室に使えるかと思ったからです。しかし、ドアというのは周りの枠がちゃんとあっていなければ、ピシッと閉まりません。アルミのガラス戸を持って来たものの、縦の寸法も横の寸法も合わないのです。4年くらい、外に放っておきましたが、結局はガラスを割って、教会の丸愛軽金属さんにアルミだけ引き取ってもらいました。みなさんもどうでしょうか?大事だなーと思ってはいたけど、それが信仰の妨げになっていたものはありませんか。「心の癒しと解放」で、すでに学びましたが、クリスチャンになる前の悪習慣があるでしょう。また、処理しきれていない、罪や心の傷があるかもしれません。クリスチャンになったからといって、すべてがきよめられたわけではありません。怒りや憎しみ、恐れや不安が残っています。そこに悪い者である悪魔がやってきて、あなたをつかまえて、誘惑するのです。カラスやねずみがどうしてやってくるのでしょう?それは生ゴミがあるからです。あなたが、カラスやねずみを追っ払っているだけならどうでしょう?彼らはまた戻ってきます。そうです。心の中にある生ゴミを処理すれば、彼らはやってこなくなります。たとえ、やって来てもすぐ追い出すことができます。ある教会では、「悪霊を出て行け!出て行け!」と声をからしてやっています。なかなか出ていきません。祈る人は「お前が出て行かないなら、私が出て行く」と言うかもしれません。何故、出て行かないのでしょう。彼らにも、出て行かない理由があるからです。そのため、罪を告白し、赦すべき人は赦し、悔い改めるべきことは悔い改める必要があります。その後、「出て行け!」と命じるなら、彼らは仕方なく出て行くのです。なぜなら、そこに留まる理由がないからです。
若者たちは、いつでも生活に問題があります。悪い者に縛られています。だから悪から解放され、悪に打ち勝たなければならない。ビジネスマンも悪いもので縛られています。クリスチャンのビジネスマンでも税金を払わなかったり、ごまかしたりします。私は郵便局に2年と4ヶ月くらい勤務しました。「このくらい賃金を得ましたよ」と申告しました。でも、辞めた年、深刻なことが起こりました。支払うべき税金が依然として高いのです。さらには国民健康保険までがそうでした。税金は一年遅れなのですね。「ああ、正直に申告しなければ良かった」と思いました。でも、それでは良くないのですね。みなさん、ごまかしは良くありません。国や会社、家庭において不正をしているなら、悪魔につけ込まれてしまうでしょう。あなたはその部分、その領域において力を失うことになります。私たちはクリスチャンになっても、悪いもので縛られています。新生しても自動的に、悪いものから解放されることはありません。ですから、若い者たちの時代に、多くの課題を取り扱わなければならないのです。イエス様はみことばにとどまり、悪い者に打ち勝ったクリスチャンを求めておられます。勝利しているクリスチャン、ビクトリー・クリスチャンになりましょう。
3.父たち
第三の段階は父たちです。父たちとはどのようなクリスチャンでしょうか?Ⅰヨハネ2:13「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」父たちの必要とは何でしょう?彼らは「初めからおられる方を知っている」ということです。「初めからおられる方」というのは、神さまに違いありません。でも、どうして、神さまではなく、「初めからおられる方」と書いてあるのでしょう?「初めからおられる方」を知っているとは、神さまを知っているだけではないということです。神さまを知るというのは、子どもクリスチャンも同じ必要がありました。若者クリスチャンでも、癒しを受けて、神さまを正しく見ることが必要です。でも、父たちクリスチャンになるためには、それだけでは足りません。何が必要なのでしょうか?「初めから」とは、神さまの計画を知っているということです。神さまが抱いている計画とは何でしょうか?神さまの最大の関心事は神の国の実現であります。そのために御子イエス様を十字架にお与えになりました。今は、イエス・キリストを信じる人たちをどしどし、集めています。そして、神さまは集められ人が訓練を受けて、神の国における、それぞれの領域を治めるように願っておられます。教会というギリシャ語はエクレーシアですが、その本当の意味は、「神さまの領域を治めるために、人々を集める」という意味なのであります。父たちクリスチャンというのは、人々が救われ、訓練され、自分の領域を治めることができる、その行程(サイクル)を推し進めることができる人であります。神さまの計画で最も重要な鍵を握っているのは、人なのであります。神さまはご自分の人を通して、神の国を拡大しようと計画しておられるのです。そのために、神さまの使命をになう人々、つまり父たちクリスチャンを求めておられます。では、具体的に父たちクリスチャンとはどのような人のことなのでしょうか?
セルチャーチで有名なラルフ・ネイバー博士はこのようにおっしゃっています。霊的な父親には2つの特性があります。1つは天の父なる神を非常に親しく知っているということです。もう1つは命を生み出すということです。たとえば、私たちはこのような間違いを犯しがちです。「この人は1日3時間祈っているので、100の聖句を暗唱しているので霊的に父たちです」と言うかもしれません。しかし、多くの聖句を暗唱していても霊的に父にはなることはできません。父親になるためには子供を持たなければなりません。ここに「私は父親です」という人がいるなら、その人は父親である実証がなければなりません。つまり、それは子どもがいるという事実が必要なのです。「あなたは何人の子供がいるでしょうか」。たしかに、この地上において「父親」という人は、子どもがいてはじめて父親であります。年をとっても、もし子どもがいなければ、父親とは言えないわけです。「おー!」そうなると、「私はだれか一人でもキリストに導いたことがあるかなー」と考えてしまいます。また、私の霊的父であるエディ・レオ師はこのように語っています。だれかが神の国の福音を語って、その人を神の国に導き入れることができるなら、彼はその人の父になる。神の国の福音を通して父になることができる。パウロは「私がキリストにならったように、私にならいなさい」と言いました。だれが父でしょうか?どのようにイエス様に従っていったら良いかを模範を示すことの出来る人が父です。神の国でどのように生きて行ったら良いか、模範を示すことの出来る人が父です。つまり、クリスチャンを生み出し、その人を神の国のために、養育する人が父であります。
きょうは、3つのクリスチャンの成長段階を申し上げました。第一は子どもたち、第二は若者たち、第三は父たちです。では、なぜ私たちは父になれないのでしょうか?まずそれは、子どもクリスチャンのときに2つの必要が満たされなかったためです。罪の赦しと天の父を知ることです。それが満たされないと若者たちへと成長できません。子どもクリスチャンで止まった人たちはどうなるでしょう?最初は「罪が赦された、ハレルヤ!」と喜んでいます。しかし、彼らが再び罪を犯すと、罪責感に捕らわれてしまいます。「ああ、もう私は救われていないんじゃないか」と思って、教会から去っていくでしょう。つまり、子どもクリスチャンで止まった人たちは、教会から去っていくということです。ですから、子どもクリスチャンは「救いの確信」をしっかり持って、次の段階である若者の段階に進まなければなりません。また、若者の時代には、2つの必要が満たされなければ父になることはできません。みことばにとどまることと、悪い者に打ち勝つということです。若者たちはいろんな問題で縛られています。ですから、教会は若者が自由になれるように、教えなければなりません。そうしなければ、若い者たちが教会の中で、止まった状態になります。そういう人たちは、「教会がああしてくれない、こうしてくれない」と不満を言うようになります。最初は羊でしたが、角が生えてヤギみたいになります。今の時代、牧師が鬱病になるケースが非常に多いようです。なぜでしょう?ヤギ的クリスチャンの問題処理にエネルギーを費やすからです。本来なら、伝道、魂の救いのために力を注ぐべきなのですが、内部の火を消すのにエネルギーが吸い取られてしまいます。ですから、若者で止まっているのではなく、次の段階である父になるように挑戦すべきであります。そして、教会は若者に賜物にあった奉仕の場を与えることが重要になります。奉仕とはこの建物内のことだけではありません。あなたが日常、触れている人たち、つまり職場や家族、地域社会が第一線の奉仕の場なのです。
そして、最後の段階は父たちクリスチャンです。この世の人たちは、本当の父を探しています。家においても本当の父がいません。最近は虐待されて死ぬ子どもが大勢います。何故、そのような悲しいことが起こるのでしょうか?彼らは子どもを設けたとしても父の心がないのです。だから、子どもをペットか物みたいに扱ってしまうのです。職場でも学校でも、地域社会、そして教会でも霊的父が必要です。多くの人たちは本当の父を探し求めています。「私を受け受け入れ、私を愛し、私を正しい道に導いてくれる人はいないのか?」と探し求めています。あなたが、その人たちの霊的父になるべきではないでしょうか?霊的父とはその人を霊的に生み出し、その人を育てる人であります。自分が生んだこどもであるならどうでしょうか?父の心を持っていないなら、「もう、ゴメンだ」と言って見捨てるでしょう。しかし、父の心を持っている人は、その人の尻拭いをします。赤ちゃんのアレです。「わぁー、きたない」。それでも、父の心を持った人は、尻拭いをします。そして、やがて、その人が父の心を持つ人になるまでに育てるのです。子どもから若者へ、若者から父へと、恵みによって成長させていただきましょう。