きょうはペンテコステ礼拝です。ペンテコステとは、ギリシャ語の50から来ています。旧約聖書では過ぎ越しから50日目が小麦の収穫をお祝いする日でした。新約聖書では、イエス様が十字架で死なれてから、50日目に聖霊が降りました。その日、ペテロが説教すると、3000人の人たちが救われました。霊的な大収穫ということができます。教会では「リバイバル」と言う言葉をよく使いますが、「ペンテコステのような大収穫が再び来るように」という願いからです。使徒ペテロは、ペンテコステの朝、ヨエル書を引用して、説教しました。私たちは旧約聖書から続けて学んでいますので、まず、ヨエル書から学びたいと思います。
1.ヨエルの説教
ヨエルという名前は、「主は神なり」という意味です。しかし、どの時代に活躍した預言者なのか定かではありません。ヨエルが生きていた時代、いなごが度々、来襲し、山野や畑を荒廃させました。ヨエル書を見ますと、異なった種類のいなごが、4回に渡って来襲しているのが分かります。「かみつくいなご」「いなご」「ばった」「食い荒らすいなご」の来襲によって、地は荒廃させられました。徹底した被害によって、あらゆる層の人たちがどん底に落とされました。ぶどうの木がいなごにやられると、ぶどう酒ができません。だから「酔っ払いよ。目をさまして、泣け」(1:5)と言われています。また、小麦と大麦がやられると、パンも作れません。「農夫たちよ恥を見よ」(1:11)と言われています。草もなくなり、ささげる羊もいなくなります。だから、「祭司たちよ。荒布をまとっていたみ悲しめ」(1:13)」と言われています。いなごは、まるで軍隊のように彼らに襲い掛かります。ヨエル2:4「その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。」一匹はとても小さいのですが、集団になるとまるで軍隊です。投げ槍を放っても、止まりません。城壁があってもよじ登って来ます。
いなごの来襲は何を意味しているのでしょうか?だれが、何のためにいなごを遣わしたのか?ヨエル書にはたびたび「主の日」という言葉が出てきます。ヨエル1:15「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」主が民たちをさばくためいなごを遣わしているのです。南北のイスラエルは経済的には豊かでしたが、神さまのことを完全に忘れていました。無関心の罪です。神さまはいなごの大軍を4回に渡って、イスラエルの地に送りました。そのため、地は荒廃し、人々から喜びが消え失せてしまいました。「主の日」とはさばきであり、世の終わりにやってくる主のさばきを預言しています。ヨエルは「主の日が来るので、悔い改めろ」と叫んでいるのです。ヨエル2:1-3「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。」いなごやばったによって空が真っ暗になりました。そして、いなごやばったが過ぎ去った後は、火が焼き尽くされたように、荒れ果てた荒野になりました。しかし、「主の日」とは、世の終わりにくるさばきのことであります。今度は、本物の火によって、地球そのものが焼き尽くされるということです。ですから、ヨエルの叫びはその時代の民たちだけではありません。終わりの時代に住む人たちにも向けられたことばです。
しかし、同時に「主の日」は回復の時であります。ヨエル2:23-26「シオンの子らよ。あなたがたの神、【主】にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」これは、世の終わり、終末の預言です。そのとき、主がイスラエルを回復してくださいます。イスラエルでは雨が二度降ります。「初めの雨」というのは、秋の10月頃から降る雨です。この雨は、作物の種を蒔いたあと芽が出るのに大切な働きをします。その後、しばらく雨が降りません。パラパラぐらいの程度です。「後の雨」というのは、春先の2月、3月に降る雨です。この雨は植物が生長して花を咲かせ、実を実らすのに必要な雨です。「後の雨」の収穫によって、いなごやばったで食い尽くされたものを、償われるということです。だれが、そうなさるのでしょうか?主なる神さまです。旧約聖書の神さまは、さばきを与える恐ろしい神さまだと思われています。しかし、そうではありません。確かに罪に対してはさばかれますが、悔い改めるならば、必ず赦してくださいます。そして、そのとき、失ったものを償って下さるお方です。ヨエルは「あなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」と言いました。この預言はイスラエルに対する預言です。イスラエルの民が本当に回復するのは、世の終わりの時です。やがて、イスラエルの民が主に立ち返り、神、主の名をほめたたえるようになるのです。つまり、神さまは真実なお方であり、一度、選んだ民を捨てないということです。ハレルヤ!
2.ペテロの説教
イエス様が天にお帰りになられてから、10日間、120人の弟子たちが祈り待ち望んでいました。五旬節の日、つまりペンテコステの日、約束の聖霊が弟子たちの上に降りました。このことを「聖霊降臨」と呼びます。現代は子どもたちのゲームでも「降臨」などという言葉を平気で使います。本来は、聖なることばなので、簡単に使ってはいけないと思います。聖霊が力として、外からやってきました。復活の夜は、イエス様が弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言われました。そのときは、聖霊が新しい命として、弟子たちの内に住んでくださいました。しかし、聖霊を上から受ける必要がありました。その日、聖霊は力を象徴するかのように、激しい風のように、炎のように下りました。すると弟子たちは、聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしました。そのとき、世界中からユダヤ人が集まっていましたが、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話していました。それで、「ガリラヤの人たちが、めいめいの国の国語で話しているんだろう?」と驚き怪しみました。パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジア、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビア、ローマ、クレテとアラビヤなど、いろいろな国のことばで神の大きなみわざを語るのを聞きました。ところが、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているんだ」とあざける者もいました。「甘い」とは「安い」という意味です。つまり、「悪酔いしているんだ」ということです。聖霊に満たされることと、酒に酔うことが似ているということがここでも分かります。酒に酔うと、多弁になったり、歌ったり、踊ったりします。120人がそのようにしたら、かなり賑やかです。
そのときに、ペテロが11人とともに立って、声を張り上げ、人々に言ったのです。説教というよりも、ヨエルのような叫びかもしれません。「今は朝の9時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られたことです」とペテロはヨエル書から語りました。使徒2:17-18「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」旧約のヨエル書とどこか違うところがあります。ヨエル書では「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言われました。しかし、ペテロは「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言いました。もちろん、ペテロはヨエル書から引用したのですが、あえて「終わりの日」と言いました。これはどういう意味でしょう?ペンテコステの日から、世の終わりの時代が始まったということです。いつ来るかというと、世の終わりの時代の、終わりです。しかし、きょう注目したいことは、世の終わりの初めに、聖霊が地上に注がれ、新しい時代が始まったということです。かつて、聖霊は特別な人にしか注がれませんでした。サムソン、ダビデ、エリヤ、エリシャ、エレミヤ、ダニエルなどです。しかも、彼らに一時的にしか聖霊は留まっていませんでした。しかし、世の終わりには「息子や娘は預言し、…しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」とあります。ペンテコステの日、聖霊が注がれた人たちは、ただの人たちでした。ですから、民の指導者や長老たちは「ペテロとヨハネが無学な、普通の人であるのを知って驚いたのです」(使徒4:13)。その日、以来、イエス・キリストを信じるなら、だれにでも聖霊が与えらるようになりました。
そして、ペテロはヨエルのように叫びました。使徒2:38「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」そこに集まっていたユダヤ人は、「十字架につけろ」と叫んでいた人たちでした。彼らは胸を打って、罪を悔い改めました。しかし、祭りのためにエルサレムに出て来ていた人たちもいました。使徒2:40-42「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」3000人の人たちが、どんなふうにバプテスマを受けたか分かりません。とにかく、彼らはイエス様を信じ、同時に、聖霊を内にいただいたに違いありません。彼らこそ、最初の霊的な収穫、初穂です。ペンテコステは、最初に収穫した小麦をささげる日でした。そして、その日、目に見えるかたちで教会が誕生したのです。教会の原型(プロトタイプ)はイエス様のまわりにいた12の弟子たちでした。しかし、それは、まだ教会とは言えませんでした。ペンテコステの日、120人の弟子たちに聖霊が降り、ペテロの説教で、3000人が救われました。彼らが初代教会の人たちです。それから、毎日、主が救われる人々を仲間に加えてくださいました。そして、だんだん、異邦人にも福音が宣べ伝えられ、アンテオケ、エペソ、ピリピ、ローマにも教会ができました。ですから、ペンテコステから始まった初代教会の頃を「初めの雨」と呼ぶことができます。そのとき、霊的な大収穫がありました。
奥山実先生は「雨は二度降る」とメッセージしたことがあります。ペンテコステの日に降った恵みの雨は、「初めの雨」でした。そして、世の終わりに、「後の雨」が降るということです。世の終わりにも、霊的な大収穫が起こるということです。同時に、失われたものに対する回復が与えられます。ペンテコステの日、大きな収穫があり、教会が誕生しました。それから2000年間、雨はパラパラとしか降りませんでした。降っても、「お湿り」程度です。では、歴史的にパラパラ降ったのはいつごろだったのでしょうか?世界において、リバイバルと呼ばれているのがいくつかありました。日本語では「大覚醒」と訳されており、眠っていた人たちが目覚めるということです。まず、16世紀のルターやカルバンによる宗教改革でしょう。また、その後、18世紀、英国においては、ジョンウェスレーのリバイバルがありした。また、ウェールズでリバイバルがありました。同じ18世紀、アメリカのニューイングランドでは、ジョナサン・エドワーズのリバイバルがありました。ジョージ・ホイットフィールドという人も活躍しました。しかし、近代批評学が始まり、「聖書は本当に神のことばなのか?」と疑問を抱く人たちが大勢おこりました。そういう困難な中においても、19世紀、アメリカでムーディによるリバイバルがありました。二つの大戦を経てから、20世紀、ビリー・グラハムによるリバイバルがはじまりました。まだ、教会は「聖書は信じるに値する書物なのか?」迷っていました。そのとき、ビリー・グラハムは聖書を高々と上げて、But The Bible said (にも関わらず、聖書は言います)と説教しました。彼が招きをすると数えきれない人たちが講壇の前に押し寄せました。近年は、アルゼンチン、中国、韓国、アフリカの各地にリバイバルが起こっています。ある人たちは、「これらが後の雨ではないか」と言っています。しかし、私たちは「いや、終わりの時代はもっとすごい後の雨が降る」と信じています。なぜなら、ヨエル書には「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう」と言っているからです。なぜなら、まだ、ヨエル書が言うような、回復が訪れていないからです。
3.終わりの時代の説教
説教には神のことばを宣言する(プロクラメーション)という意味が含まれています。ヨエルも神のことばを宣言しました。ペテロも神のことばを宣言しました。私たちは終わりの時代に生かされています。つまり、ペンテコステと主が再び来られる日の間に生かされています。これまで、世界各地にリバイバルの雨が降りました。しかし、日本にはそのようなリバイバルがまだ来ていません。日本の牧師たちの中は、リバイバル・シンドロームというものがあるように思います。どういうものかと言うと、「リバイバルが来なければ何もできない。奇跡も起こらないし、人々も救われない」という考え方です。もちろん、リバイバルは人間で起こせるものではなく、神さまから一方的に来るものです。たとえば、冬が過ぎ去り、春がやってきました。今は、もう初夏です。今から50年前、韓国にリバイバルが来たとき、金ジュゴン牧師は「リバイバルの季節がやって来た」と言いました。リバイバルはそういうものです。全く、神さまのみわざであり、私たち人間がどうすることもできません。それでは、リバイバルが来なければ、何もできないのでしょうか?私たちはイエス様の十字架と復活、そして、ペンテコステ以降に生かされています。今、あるものを数えるならば、すでにすばらしい恵みにあずかっています。イエス様の十字架と復活によって、だれでも救いを得られるようになりました。また、イエス様を信じると内側に聖霊が住み、神がともにいてくださいます。
そればかりではありません。ペンテコステ以降、聖霊が内側にいるだけではなく、上からも注がれ、力に満たされます。つまり、だれでも、個人的なリバイバルを体験できるということです。私たちは大勢のリバイバルを望む前に、一人ひとりリバイバルを体験する必要があります。ヨハネ福音書には聖霊における体験が2種類あります。第一はヨハネ4章です。ヨハネ4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」これは、救われた人が経験する「いのちの泉」の経験です。救いの喜びとも言えるでしょう。永遠のいのちが内側から泉のように湧き上ってきます。しかし、湧いてくる水の量には限りがあります。どのくらいの人たちに分かち与えることができるでしょうか?第二はヨハネ7章です。ヨハネ7:38「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これはイエス様がおっしゃられたことばです。原文は、川は単数ではなく、riversと複数形になっています。そのまま訳すと、「その人の心の奥底から、生ける水が川々となって流れ出る」となります。川は泉よりも、もっと多くの水が流れ出ます。では、これはいつから可能になったのでしょうか?ヨハネ7:39「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」このみことばは、イエス様のことばではなく、おそらくヨハネの解説でしょう。どうしたら、生ける水が川々となって流れ出るのでしょうか?ヨハネの解説によると、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のこと」とあります。そのまま読むと、「イエス様を信じる者が後になって受ける御霊があるのだ」ということです。しかも、イエスさまが栄光を受けた後に、御霊が注がれるということです。イエス様は復活後、昇天し、右の座に座られました。そして、父のみもとから聖霊を送られました。つまり、これは、ペンテコステのことです。ハレルヤ!私たちはペンテコステ以降に生きていますので、ヨハネ7章の生ける水が川々となって流れ出る経験を持てるということです。つまり、個人的なリバイバルを体験できるということです。アーメン。他の大勢の人たちのことは、ともかく、自分が聖霊を受けて、満たされ、あふれることができるということです。クリスチャンであれば、だれでも内側に聖霊がいらっしゃいます。次は、上から聖霊を受けて、満たされ、そして、あふれ流れるばかりだということです。
どうか、むずかしく考えないでください。聖書の標準は、泉の経験にとどまらず、川々の経験も与えられるということです。どうぞ、満たされましょう。あふれ流れましょう。そういう人たちが10人集まったらどうでしょうか?そういう人たちが100人集まったらどうでしょうか?結構な量になるのではないでしょうか?昨年、常磐牧師セルで利根の上流に行ってきました。いくついかのダムがありました。実際、利根川の源流に行ったわけではありませんが、その川の水量はわずかです。だんだん、支流から水が流れこんで、大川になっていきます。でも、はじまりはわずかな水量です。私たちも最初はわずかでも、集まれば大川になります。エゼキエル書47章にも同じような幻があります。神殿の敷居の下から水が湧き出ています。500メートル行くと足首まで、さらに500メートル行くと水はひざに達しました。さらに、500メートル行くと水は腰に達しました。さらに500メートル行くと、水かさは増し泳げるほどの水となり、渡ることのできない川になりました。この川が行く所では、すべてのものが生きるのです。ペンテコステより始まっている、リバイバルの川に身を浸しましょう。