本日からコロサイ人への手紙を学びたいと思います。本来はコロサイ1章1節から始めるべきですが、私がコロサイ書をどうして選んだのかという、もくろみというか、理由を本日は語りたいと思います。いわば、コロサイ書のイントロダクションであります。来週は清瀬グレースチャペルから菅谷勝浩先生をお招きしての特別礼拝です。菅谷先生とはセルチャーチで長い付き合いです。おそらく、私が本日話す内容を、菅谷先生はもっと具体的に、戦略的に話してくださるのではないかと思います。ですから、本日の内容と、次週の内容は連続ものだということです。なぜなら、「亀有教会をこれからどうしていくか?どういう方向で行くか?」ということがテーマになるからです。みなさん、私たちはこれまでのスタイル、生き方をそのまま続ける方が楽です。でも、神様からチャレンジを受けたときは、「はい」と従うべきです。私は55歳になりますので、新しいやり方をするというのがシンドイ年になりました。このまま慣れた道を行って、10年後にはどうなるでしょう?おそらく、今とあまり変わらないでしょう。でも、今から変えていくなら、10年後はかなり変わっていると思います。聖書を見ると、アブラハムは75歳のとき、「新しい地へ行け!」という召しを受けて出発しました。アブラハムと比べるとはるかに若いですね。ということはまだ可能性があるということです。アーメン。
1.イエス様の命令
みなさん、イエス・キリストが教会に与えた命令とは何でしょうか?いろいろありますけど、教会が第一になすべきことであります。マタイ28:19,20「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」このみことばは、マルコ16章と並ぶ大宣教命令として知られています。でも、マタイ28章の方は、「福音を宣べ伝えるだけではなく、弟子を作りなさい!」と、はっきりとしたゴールを定めています。キリストの弟子をつくること、これが教会に与えられている最も大切な命令であります。ですから、クリスチャンであるならば、自分の生活(仕事、家事、子育て、食べる、飲む、寝る)の様々な分野の中に「自らキリストの弟子となり、また新たな弟子を作る」ということが、なくてはなりません。テレビを見ているときも「これはキリストの弟子となることと何の関係があるんだろう?」と思っていなればなりません。「グー」とか「さーん」とか、お笑い番組を見て、ただ笑っていれば良いというものではありません。では、どうやったらイエス様を信じて救われた人が弟子になるのでしょうか?そのまま放っておいても、キリストの弟子になるのではありません。マタイ28章には「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と書かれています。教会は確かに聖書を教えてきました。でも、大事なことを忘れています。それは、人々がすべてのことを守るようになるまで、ちゃんと教えていないということです。教えて、教えて、教えっぱなし。守っているかどうかは分からないということです。
さきほどの読んだ、コロサイ1章は使徒パウロが、「人々をキリストの弟子とするためには、このくらい苦労しなければならない」と教えている箇所です。もう一度お読みします。コロサイ1:28「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。「キリストにある成人」とは、まさしく成熟したキリストの弟子になるということです。本来的には、イエス様を信じたときから、クリスチャンはキリストの弟子なんです。でも、実際は「この世を愛し、同時に神様も愛します」という、二心で生きています。でもあるときに、「私の従うべきお方は、イエス様しかいない、イエス様は私の主です。主よ、あなたに従います」という決断が必要です。使徒パウロは、「すべての人をキリストにある成人して立たせるのはそんなに楽じゃないよ」と言っています。1:29「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」まず、必要なのは、「自分のうちに力強く働くキリストの力」です。これは聖霊の力ということです。なぜなら、1:27「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことである」と書いてあるからです。肉やがんばりでやるのではなく、キリストの力、聖霊の力によってなすということです。でも、その後に何と書いてあるでしょうか?「労苦しながら奮闘しています」。これは直訳すると、「骨折りしながら、格闘している」ということです。つまり、キリストにある成人として立たせるためには、聖霊の力だけではなく、骨折りと格闘が必要だということです。
このコロサイ1:28,29は、韓国のサラン教会の玉ハンフム牧師(今は引退)がよく引用した言葉です。1990年に日本から70名くらいの牧師が韓国のサラン教会を訪れました。そして、3泊4日の弟子訓練プログラムを受けました。ものすごく力強いメッセージで、日本から来た牧師たちは圧倒されて、「これしかない!」と思ったそうです。でも、講師の玉先生は、そのため、体を壊し、元通りになるまで3年かかったそうです。私はその年には行けませんでしたが、小牧者訓練会なるものに入って、一生懸命、弟子訓練の学びを受けました。そして、1991年頃から、ディボーションとか弟子養成の学びを当教会でするようになりました。日本の多くの教会がこの弟子訓練プログラムを受け、「小牧者(信徒リーダー)を作るんだ!」とやっきになりました。今、お付き合いしている常磐セルの先生方のほとんどは、その実行委員であり、講師だったんですね。当亀有教会で、10年間くらい小牧者コンベンションの打ち合わせ会を開きました。でも、5,6年やってわかったのですが、小牧者というのはピラミッド型だということです。それは、韓国の文化、儒教の影響が流れているということです。「何かコントロールされているなー」という感じがしました。一人の小牧者からタコの足のように、5人から10人の弟子を養成していく。その後に、また一人の小牧者から、5人から10人の弟子が育つ。理論的にはものすごい数になるのですが、現実にはそうなりませんでした。それで、1995年から、もっとフラットなスタイルであるセルチャーチ方式を導入しました。セルとは共同体ということを意識した、教会形成です。セルによってイエス様の命令を果たしていくとうことです。
2.亀有教会の現状
ぐっと話題は変わって、「亀有教会はどうか」ということをお話したいと思います。これからは、ちょっとなまなましい話になるかもしれませんので、シートベルトをちゃんと締めてください。きょう初めての方は半分、聞き流しても結構です。私は1995年に、セルを導入しましたが、それは、セルにすれば教会は自然と成長すると思ったからです。しかし、セルは教会の1つのシステムです。腕時計でも針で動くのもあれば、デジタルの時計もあります。手巻き式のもあれば、電池もあります。最近はソーラーで充電されるのが主流かもしれません。100万円もする文字盤に宝石がはいっている時計もあれば、1500円くらいの時計もあります。でも、時計の目的は何でしょうか?正確な時を教えてくれれば良いのですね?だから、針でもデジタルでも、電池でもソーラーでも手巻きでも構いません。問題はシステム(構造)ではなく、時間を教えてくれれば良いのです。ですから、教会には色々あって良いのです。私の母教会はプログラムとイベント教会です。すばらしい礼拝や特別集会を開いて、人々を集めています。格調の高いメッセージ、音楽、そして設備があり、まるでそれは劇場のような教会です。日本基督教団は典礼的(リタージカル)な礼拝を重んじます。長老会などの組織によって、なんでも会議で決めます。教会を動かすのは長老会とか伝統です。ペンテコステ系は、一人のカリスマ牧師が何でも決めます。上からのビジョンで進み、人々はそれに従います。教会を動かすのは一人の油注がれた牧師です。一歩間違うととんでもない方向に行きます。でも、セルチャーチは何でしょうか?キリストのからだであるすべての器官が動きます。だれの指示で?かしらなるキリストによってです。組織はフラットで、関係を重視し、神の家族のような共同体を目指します。
私は「セルを導入すれば教会は自然に成長する」と思っていました。しかし、それは間違いでした。なぜなら、時計と同じようにセルも1つのシステムだからです。教会が教会として機能しなければ、たとえセルを導入しても、全く変わらないということです。1995年から、早天祈祷会、水曜祈祷会、家庭集会をすべてやめました。壮年会、婦人会、青年会も解体し、みんなセルでやるようにと提案しました。地域で分けたり、私が各家庭でやったり、任せたり、いろいろやりました。ゴスペルクワイヤーで救われた人たちも、新しいセルを作りました。でも、セルはいのちであります。セルとは細胞のことです。実は人間の細胞というのは、たえず生まれては死んで、生まれては死んでいっています。その期間はそんなに長くないと思います。セルグループには一生があります。最初集まったときは、ハネムーン期間です。小グループで集まり、「主にある兄弟姉妹って楽しいなー」という感じがします。その次は、葛藤の期間です。「えー、この人、こんなこと考えてんのー、最低!」「なんか、むかつくんだよねー」。仮面を剥がして、素で交わるからです。結婚生活も1年後くらいにはこういう時期を迎えます。その次は円熟期です。お互いの違いを受け入れ、愛し合うことを本当に学びます。どんな祈りの課題を出しても真剣に祈ってくれます。「私たちはずっとこのままでいたい!」と思います。でも、その後どうなるでしょう?セルは老化し、死を迎えます。もうその中に躍動する命がないのです。教会も1つの生き物です。でも、いのちがなくても、かたちや伝統でも教会は存続できます。でも、それはもはや宗教です。そういう人たちは、教会にいるときの顔と世の中でいるときの顔を使い分けています。当教会も、セルが死んでいる状態です。あるリーダーは「すべてのセルを解体してゼロからやったら!」と提案しました。何故、セルが死んだのでしょう?それは新しい人を加えなかったからです。セルは増殖することによって生き続けることができます。もし、細胞分裂をしないならば、その細胞は確実に死にます。新しい人が加わらないで、ずっと、同じ仲間、同じ人でやっているならば、やがてそのセルも、その教会も死んでしまいます。なぜなら、セルも教会もいのちだからです。
3.亀有教会の今後
ヨハネ15:1,2「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」最近、礼拝人数がかなり減っています。他の教会に移った兄姉もおられます。牧師としては非常に辛いことでありますが、この現状をしっかり受け止める必要があると思います。しかし、この教会は主の教会であり、羊も主のものです。ヨハネ15章には、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と書いてあります。私は「あー、神様が刈り込みをなさっているんだなー」と思っています。でも、その目的は滅ぼすためではなく、もっと多くの実を結ぶためであります。「正念場」という言葉がありますが、このままで行くか、それとも悔い改めて改善していくか決断をしなければなりません。もし、この事態を正しく受け止めるならば、この教会は再び成長していくのではないかと確信しています。そのためには、まず牧師である私自身が、「どちらで行くか」決断しなければなりません。伝統的な教会は「牧師は説教が上手であれば良い」というところがあります。あとは、役員会と協議しながら教会をそつなく運営していくということです。でも、セルチャーチを本気で目指すならば、それだけではダメです。何が必要かというと、関係を大事にしていくということです。牧師と会衆という関係よりも、もっと絆を強くしながら、コーチングやメンタリングをしていくということです。また、牧師自身が言行一致、つまり模範を示しながら様々なスキルを伝授していくということです。私はセルチャーチを作るといいながら、放任主義で、丸投げ的でした。フィードバックなし、コミュニケーションなしでした。伝道と弟子訓練を率先して行なうべきなのに、セルが死んでいくのをただ見ているような始末でした。
セルチャーチの形成において一番、ブレーキになるのが日本の文化です。「果たして、日本にセルが合うのだろうか?難しいんじゃないだろうか?これだったら、伝統的な教会のやり方が良いのではないだろうか?」と悩んできました。なぜかと言いますと、日本人は本音と建前を使い分けて生きています。セルは本音の付き合いです。自分の弱さや罪をさらけ出して、互いに祈り、互いに助け、互いに愛し合う小グループです。でも、普通の人はそこまで心を開くのが難しいのです。もう、たくさん傷ついてきたからです。そのため、伝統的な教会は壮年会、婦人会、青年会など出入り自由のグループを持ちます。でも、どうしても表面的な話で終わってしまいます。ある先生は、「セルなんかやったら、かえって問題を引き起こすだけだ。分裂・分派を起こしてしまう」と言って、絶対やろうとしません。しかし、日本の文化に合わないからと言って、真の共同体作りを諦めて良いのでしょうか?問題は日本に合うとか、合わないかではなく、聖書が言っている教会を作るのが本筋です。私たちの交わりはこの世の人たちの交わりとは全く違います。主イエス・キリストによって罪から贖われ、神の国の民に加えられました。父なる神様のもとで、みな兄弟姉妹です。この世で死んだ後も、兄弟姉妹なんです。イエス様は「あなたがたが互いに愛し合い、一つになるなら、世の人たちは私の弟子だと認めるであろう」と言われました。そして、最初に誕生したのが、エルサレムの初代教会です。使徒2:44-47「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」彼らはあまりにも愛が溢れていたので、いっさいの物を共有していました。神の国の雛形がそこにあったのです。すばらしい共同体があったので、すべての民に好意を持たれ、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださったのです。ある情報によりますと、○○学会という組織は、○○会長がお亡くなりになったら、大きく3つに分かれるそうです。その中の一派は、真面目な人たちで、キリスト教に大変興味を持っているそうです。そういう人たちが教会にどっと来るのです。でも、その教会が本物でなければ、がっかりして去って行くでしょう。私たちは聖書が言う、本物の教会を作らなければなりません。
ですから、日本に合うか合わないかではなく、教会から新しい文化を作れば良いのです。日本は多くのものを外国から吸収し、和洋折衷でやるところがあります。でも、今の世の中をみますと、日本の文化に融合しない方がかえって良いものもあります。それは、ディズニーランドです。ディズニーランドにはディズニーランドの文化があります。みんな、そこへ行くのが楽しいんですね。また、ブラックゴスペルも日本に今なお広がっています。あれは、日本にはない音楽です。ある程度の年になるとリズムもなかなか身につきません。それでも、かなりの人たちがゴスペルをやりたいと毎週のように見学に訪れます。どうしてでしょう?日本文化にないものを人々が求めているからです。キリスト教は確かに西洋の衣を着ているところもあります。でも、聖書の世界観、聖書の価値観をもって、私たちが生きていくならば、やがてそれが文化になるのではないでしょうか?日本は他人の目を恐れて、生きています。日本はまさしく共依存の国であります。鬱病、不安神経症、パニック、摂食障害、統合失調症、人格障害、依存症…すべてとは申しませんが、人間関係の問題から来ているものです。病院やクリニックではなかなかなおりません。人間関係を癒すのは、やはり人間関係しかありません。もし、そういう人たちが愛の共同体の中で過ごすことができるなら、かなりの確立で良くなるだろうといわれています。セルは病気を癒すためだけではありませんが、そういう人たちをケアーする力があります。
ウェイン・コディーロが「教会の文化」についてこのように話していました。「すべての教会には、文化があります。もし誰かがあなたの教会に3日間集い、人々と出会い、話すなら、その人はその教会の個性を把握するでしょう。すべての教会は文化があります。それはあなたの願う文化ではないかもしれませんが、そこには必ず文化があるのです。もしあなたが一区画の土地を買い、肥料と水を撒いていくなら、数カ月後に何が生えてくるでしょうか?雑草だけです。もし教会に特定の文化を築きたいのなら、ただ肥料と水を撒くだけでは築けません。まず最初に、どんな果樹園を作りたいかを考えなければいけません。オレンジかリンゴか、それとも葡萄か、決断しなければいけないのです。そして『リンゴの果樹園』と決断したなら、リンゴ以外はすべて土地から取り除かなければいけません。そして蒔く種もリンゴの種以外は蒔かないのです。その後で肥料と水を撒くなら、リンゴの果樹園の実が結ばれます。教会の中にどんな文化を築きたいのか、考えないといけません。世界の教会の90%は、このことを考えていないように思います。そしていつも他の教会と比較するため、文化は常に変わり続け、混沌とした農園になっています。『どのような文化を築きたいか』を考えなければいけません。」私はずーと願っているのですが、新約聖書の教会を目指しています。それはイエス様を中心とした愛の共同体です。ですから、その文化にそぐわないもの、階級制度、儀式、議会制、律法主義などを取り除きます。その代わり、互いに励まし、互いに愛し、互いに罪を告白し、互いに祈り、互いに赦し合う、セルの文化を作って行きたいと思います。
しかし、これからの一番の課題は、教会は内向きではなく、外向き、つまり未信者がいるところに出かけて行くという宣教が課題です。イエス様がこのように言われました。マタイ9:37,38「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」イエス様は「収穫は多い。収穫のことは心配するな!それよりも、働き手が少ない。働き手を準備しなさい」と言われました。ですから、ここにいるみなさんが、主の働き手となって、世の終わりに訪れる大いなる収穫をゲットしようではありませんか。