教会で「救い」と言うときに、いくつかの見方があります。まず、「永遠の命」などのような生命的な見方があります。ヨハネはそういう表現をよく用いました。もう1つは、法的な見方です。聖書は契約の書物であり、律法とか十戒とか刑罰とか、みな法律用語です。パウロはどちらかと言うと、救いを法的な見方で解き明かしています。ローマ人への手紙はその典型です。私たちは、以前は神さまと敵対関係でありました。犯した罪が裁かれて滅ぼされる運命にありました。しかし、キリストの十字架によって和解の道が備えられました。クリスチャンというのは、その和解をいただいた人たちであります。その結果、私たちは神との和解、神との平和を得ているのです。
1.生まれながらの人間の状態
聖書は生まれながらの人間の状態をこのように述べています。ローマ3:10-12「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」義人という言葉は、一般には使われないかもしれません。義人はもともと「神の義にそむかずその掟を守る人、法律、習慣を遵守する人」という意味があります。つまり、人と比較した正しさではなく、神の義を全うしている人のことであります。そういう意味で、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない」と言っているのです。さらに暗いことに、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない」と言っています。最初にこんな言葉を聞いたら、「もういいです。帰ります」と言いたくなるでしょう。『字のない絵本』という福音を伝える道具があります。4枚の色画用紙をめくりながら話すのですが、最初は黒い紙です。これは「義人はいない。だれにでも罪がある」という人間の状態です。2枚目は赤ですが、キリストが十字架で流された血潮です。3枚目は白です。これは罪の赦しを意味しています。そして、4枚目は金色で天国と栄光の姿を意味しています。最近は、黒で始まると希望がないので、金色から始める方法もあるようです。「あなたも天国に行きたいでしょう。栄光の姿に変えられたいでしょう?では、どうしたらそうなるのでしょうか?」と始めるのです。どちらが良いでしょうか?
ローマ人への手紙はどちらかと言うと黒から始まる話し方です。ローマ3:23-24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。」前半は厳しいですが、後半に良いことが書かれています。洗礼準備会でも話しますが「救いの架け橋」によって、信仰の決断をしてもらいます。このように行ないます。
a.この世に神の義(100%の正しさ)に達する人はいるでしょうか?
「ひとりもいません。」そうですね。神さまの前に立てる完全無欠な人はいません。
「いる」と答える人には、「あなたはいつもテストで100点取れますか?」と聞きます。
b.人間はどうして、神の栄誉(救い)を得ることができないのでしょう?
「すべての人は、罪を犯したので」と書いてあります。
そうですね。アダムの罪と先祖が犯した罪と個人で犯した罪のゆえに、神の栄誉を受けることができません。ところで、「すべての人」の中にあなたも含まれていますか?
「いいえ」と答える人には、「聖書で嘘は罪ですと言われていますが、あなたはこれまで1回も嘘をついたことはありませんか?」と尋ねます。「ありません」と言う人は罪人のかしらです。
c.上の図からすると、罪ある人間はどのような運命のもとにありますか?
「死、さばき、滅びです。」そうです。この滅びとは永遠の死であり、地獄のことです。
d.無償で、義と認められる、救われるために神様が用意されたものは何でしょう?
「永遠の命、天国です。」そうです。神さまのところには、死とさばきと滅びはありません。
第一のポイントをまとめるとこのようになります。使徒パウロはローマ人への手紙3章で、ユダヤ人と異邦人の区別をせず、人間はみな神の前では罪人であるということを入念に論証しています。罪とは何でしょう?消極的に見るならば、欠陥、間違い、失敗です。積極的に見るならば、違反、不法、正義の侵害と言えるでしょう。いずれにしても、人間には罪があるので、義なる神さまのもとに到達することはできません。もし、それを認めない人がいるなら、十戒という神が定めた規準を実行してみたら良いでしょう。神の前では実際に罪を行わなくても、人を心の中で憎んだり、情欲を抱いたり、むさぼることも罪です。罪ある人間の将来は、死後、神の前でさばきを受け、永遠の死(滅び)しかありません。世の中には数えきれないほどの宗教がありますが、罪の解決を与えてくださるのはイエス・キリストだけです。
2.イエス・キリストのみわざ
キリストのみわざを説明するために、2つのみことばを提示したいと思います。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」アーメン。
a.神さまは、どれくらい、世(人類を代表する被造物)を愛されたのでしょう?
「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。」
そうです。「与える」とは、キリストを十字架の死に渡すほど人類を愛されたということです。
b.罪を犯した人間が、救いを得なかった場合、どうなるのでしょう?
「滅びる」と書いてあります。
そうです。滅びるとは神さまから引き離され、永遠の滅び(地獄)に投げ込まれます。
c.神さまの人間の罪に対する怒りはどのようになだめられたのでしょうか?
「キリストが流された血によってなだめられた」と書いてあります。
そうです。キリストがご自身の命で代価を支払ったので、神さまは人類に対して怒ることを取り下げたということです。もう、神さまは私たちのことを怒ってはおられません。
d.主にあって、あなたがこれまで犯した罪はどうなったでしょうか?
「すべての罪は十字架で既に赦されているということです。」
そうです。キリストは将来、私たちが犯すであろう罪の分まで支払ってくださったのです。
一番、最初に「救いの架け橋」の図をお示ししました。人間の行ない、つまり道徳や宗教、哲学では義なる神さまのところには到達できません。なぜなら、神さまは常に100%の正しさを求めるからです。ですから、神様の前に誰一人、自力で救いを得られる人はいません。ところが、救いの御手は神さまの方から伸べられました。なんと、ひとり子イエスをこの地上に遣わして、くださったのです。何のためでしょう?イエス様は人間となって、私たちが行えなかった義なる生活を行なわれました。罪のない生き方をされたのです。神さまは義なるお方なので、1つの罪でもさばかずにおれません。そのため、イエス様は私たちの罪の身代わりになって、神さまの刑罰を受けられたのです。その後、父なる神さまは、イエス様を死人の中からよみがえらせました。それは、イエス様がすべての罪の代価を支払ったという証拠です。それまで、人間と神さまの間に渡ることのできない深い淵がありました。ところが、イエス様の十字架と復活によって、両者の間に橋がかけられたということです。ハレルヤ!松戸の矢切に行きますと「矢切の渡し」という名所があります。昔は橋がなかったので、船頭さんに渡し賃を払って、千葉県に行かなければなりませんでした。千葉県側の人も、江戸に来るときはそうでした。しかし、現在は立派な橋がかかっています。料金はかかりません。なんと便利なことでしょう。新約時代の私たちは両者の間に橋がかかっている状態です。
第二のポイントをまとめるとこのようになります。人間が救いを求める前から、神さまの方から先に救いの御手をのべてくださいました。福音とは人に何かを「せよ」と呼びかけるのではありません。神さまが人類のために、イエス・キリストにおいて何かをしてくださったということを告げる良い知らせなのです。神さまがひとり子をこの世に与えたのは、私たち人類を罪から贖うためです。神の義は、一点の罪をも見逃すことができません。イエス・キリストは私たち人類の罪を十字架上で負って、さばきを受け、神から捨てられました。その結果、人間の罪に対する神の怒りがなだめられたのです。もう、神さまは怒ってはおられません。和解の手は神さまから伸べられているのです。その手をあなたはつかむでしょうか?それとも「私は結構です」とその手を振り払うでしょうか?
3.信仰による救い
ローマ3:20-23「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…。」もう一度、くどいようですが、律法は何かということをお話ししなければなりません。なぜなら、律法による救いと信仰による救いは両極のものだからです。また、日本人は律法ということばがよく分かりません。一般的な法律用語の「立法」を思い出してしまうからです。律法とは神さまの私たちに対する要求です。どんな要求があるかと言うと、十戒をはじめとするさまざまな律法です。詩篇119篇は聖書の中で最も長い章です。その中に「律法」を他のことばで表現していますので、とても参考になると思います。「みおしえ」「さとし」「道」「戒め」「仰せ」「さばき」「おきて」「ことば」これらは、すべて律法を言い換えたものです。詩篇の記者はこれを愛し、慕い求めています。でも、その反面、律法は私たちに「あなたは完全ではありませんよ。あなたには罪がありますよ」とダメ出ししてくれます。みなさん、いつも自分にダメ出ししてくれる人と一緒にいたいでしょうか?「これ足りませんよ」「ここが良くないですよ」「むしろこうしなさい」。律法は決して「十分です」とは言ってくれません。
テキストにはいくつかの質問がありますので、前のポイントのようにお聞きしたいと思います。ローマ3:20-23を見ながら答えていただくようにお願いします。
a.あなたは神の律法(要求)を1つも落ち度なく、守ることができると思いますか?
「守ることができません」
だれでも、そうだと思います。ヤコブ2:10「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」と書いてあるからです。
b.人間が律法を行ったとしても、得られるものは何ですか?
「かえって罪の意識が生じる」と書いてあります。
パウロはこのように言っています。ローマ7:10「それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました」。
c.律法の行いとは別に、神から義と認められる道はありますか?
「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられる」と書いてあります。
「そうです」。行いではなく、信仰による恵みの道です。
d.あなたは信仰による神の義(救い)をいただいていますか?このところに1枚の絵があります。
ある人たちは「宗教はみんな同じだ。どの道から登っても良いんだ」と言います。人間の義(正しさ)で、山の頂上までぐらいは行くことができるでしょう。でも、神の義は空の月のようなものです。人間の正しさでは、とうてい神の義に達することはできません。でも、人間はロケットを発明しました。ロケットに乗れば、月に行くことができます。ロケットにあたるものが信仰による救いです。
第三のポイントをまとめるとこのようになります。律法を行うことによって神の義(救い)を得る道は不可能です。私たちにはこれまで犯した罪があり、これからの良い行いで帳消しすることはできません。仮に、この世の中に、全く罪を犯したことのない正しい人がいたとします。たとえ、そうであっても人間の義は神の義には到達できません。人間の義が山の頂上であるとしたら、神の義は空の月です。神さまは行いによる義とは別の道を備えられました。それは、あがないを成し遂げられた、イエス・キリストを信じることによって与えられる神の義です。信じるとは、キリストにあってなされた救いを、感謝していただくということです。つまり、救いは行いではなく、神からの一方的な恵みなのです。
4.信じた結果
ローマ5:1「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ5:8-10「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」これらの聖句を見ながら、質問したいと思います。
a.信仰によって義と認められた私たちは、何を持っているのでしょうか?
「神との平和を持っている」と書いてあります。
そうです。キリストを信じたことによって、神さまとの和解を得ているということです。
b.神さまは、ご自身の愛をどのように明らかにされているのですか?
「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」と書いてあります。
それは、私たちが信じる前から、救われる道を用意しておいてくださったということです。
c.将来、私たちが神の前に立ったとき、神の怒り(さばき)を受けるのでしょうか?
「キリストが代わりにさばかれたので、私たちは神のさばきを受けることはないのではないでしょうか?」
「そうです。」クリスチャンは、おそらく神のさばきの前には立たないでしょう。ただし、地上でいかに忠実であったかと問われる「キリストのさばきの座」はあるようです。
d.神と和解させられたあなたは、今、何を受けているのでしょう?
彼のいのちによって救いにあずかると書いてあります。
「そうです。」でも、おかしいですよね。キリストを信じたら救われるのに、もう一度、救いにはずかるのでしょうか?これは私たちの肉体が救われるということです。私たちの肉体がやがて復活されたイエス様のような栄光のからだになるということです。
第四のポイントをまとめるとこのようになります。「和解」のギリシャ語は「カタラッソー」であり、それは「変える」ことを意味します。神は決して変わることのないお方ですから、変えられるのは、神の前における人間の立場です。厳密に言えば、この「和解」という概念には2つの段階があります。このことは、高木慶太師が書かれた『信じるだけで救われるか』で詳しく述べられています。第1段階の和解は、キリストの十字架ですべての人のためになされました。つまり、神さまは、キリストの十字架の死によって、人間の立場に対する態度を変えられたのです。神さまはもう怒ってはおられないということです。「和解」の第2段階は、人がキリストを信じるときに経験する和解です。つまり、私たちが神の和解を受け入れることによって救われるということです。使徒パウロはⅡコリント5章でこのように勧めています。「神が私たちを通して、懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」「懇願」というは、相手の前にひざまずいて、「どうかお願いします」とへりくだって願うことです。パウロは「神さまが私たちを通して懇願しておられるようです」と言いました。あの神さまが私たちに対する怒りを引っ込めて、「どうかキリストによる和解を受け入れてはもらえないだろうか?」と懇願しておられるのです。昔、日本に来た外国の宣教師は「キリストを信じなさい。信じなければ地獄に行きますよ」と半分おどしのようなところがありました。しかし、聖書の神様はそうではありません。「どうかキリストを信じて、救われてください」と懇願しているのです。やがて、すべての人が神の前に立たされるでしょう。その時、神さまはその人が犯した罪をさばくのではありません。そうではなく、「罪をあがなわれたキリストをどうして信じなかったのですか?私の和解をどうして受け取らなかったのですか」とさばくのです。どうぞ、キリストを信じて、神との和解、神との平和をいただきましょう。