本日から、9月いっぱいまでは、ガラテヤ人への手紙から学びたいと思います。昔、細川ガラシャという人がいました。明智光秀の娘でキリシタンです。ガラシャ夫人の名前は、おそらく、このGalatiansガラテヤ人への手紙から取ったものと思われます。また、宗教改革者マルチン・ルターが「私はこの手紙と結婚した」というほどほれ込んだ書物です。なぜなら、信仰義認ということが主要なテーマになっているからです。なぜ、私がこのガラテヤ人を選んだかと申しますと、日本の教会を律法主義が覆っているからです。律法主義こそは、パウロが最も憎んでいるものです。私たちは恵みが大切とは頭で知りながらも、体は律法主義で動くところがあります。ガラテヤ人への手紙をしばらく学びますが、お互い律法主義から解放されて、恵みによって生きるクリスチャンになりたいと思います。
1.ほかの福音
ガラテヤ1:6,7「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」パウロは、ガラテヤの教会が「ほかの福音に移った」と嘆いていますが、「しかし、ほかの福音なんかないんだ。それはニセモノなんだ」と言っているかのようです。では、「ほかの福音」というものを現代的に分かりやすく言うとどうなるでしょうか?私は「ほかの福音」には大体3つのものがあると思います。第一は福音だけでは救われない、行いや努力が必要という異端的な福音です。つまり、キリストを信じるだけでは不十分であり、私たちの行いがプラスされなければならない。儀式、正しい行い、奉仕活動、聖書的知識、聖霊体験、弟子としての献身、今まで犯した罪を全部告白しなければならない等。大体、キリスト教の異端と言われるものはみな、人間の行いをプラスします。布教のために、一生懸命、家々を回っている人たちもいます。教団のために一生懸命働いて、すべてを捧げてもまだ足りないと言われるカルト教団もあります。聖霊のバプテスマを受け、異言を話せなければ一人前のクリスチャンじゃないという教会もあります。第二は水増しした安っぽい福音です。「あなたはキリストを信じるだけで天国に行けますよ」。そのこと自体は正しいのですが、キリストの弟子として従うことはオプション、選択の自由になっています。人々は天国行きの切符をゲットしたので、それで安心しきっています。天国行きの信仰はあるでしょうが、世の人と全く変わらない生活をしています。これは安価な福音です。第三は「救いは恵みだけど、信じてからは頑張らなくっちゃ」という詐欺的福音です。「救いはただです。でも、クリスチャンになってからは、礼拝厳守、祈祷会、什一献金、教会の奉仕、ディボーション、この世からの聖別が必要です」。言っていることはごもっともなのですが、肉の力で頑張るしかありません。天国に行くまで、体を打ち叩き、歯を食いしばるという、苦しい信仰生活です。これは律法主義の教会です。
では、パウロの時代の「ほかの福音」とはどういうものなのでしょうか?使徒パウロは熱心なユダヤ教徒でした。どれほど熱心かと言うと、イエス・キリストを信じている人たちを迫害するくらい熱心でした。あるとき、迫害の手をダマスコまで伸ばそうとしました。が、その途上、復活の主と出会いました。まばゆい光で打ち倒され、主の声を聞きました。そのとき、パウロは異邦人に福音を宣べ伝えるように召されました。なんと、クリスチャンになるのと同時に、異邦人伝道という使命が与えられました。私は信じます。神様はあなたに救いを与えるだけではなく、同時に、あなたしかできない使命(ミッション)を与えるのではないかと思います。もし、クリスチャンになっても、使命を持っていないならば、時間と賜物を無駄に使ってしまうでしょう。神様はおそらく、その使命を果たすために賜物も同時に与えてくださると信じます。パウロは異邦人に福音を宣べ伝え、キリスト教会を設立するという使徒に選ばれました。パウロが一番最初に伝道に行ったところが、ガラテヤ地方です。使徒の働き13章、14章にそのことが記されています。パウロとバルナバが福音を伝えると、ある者たちは信じました。しかし、後からユダヤ人がやって来て、パウロたちを迫害しました。パウロは逃げるようにして、次の町、さらには次の町と伝道しました。短期間でしたが、大ぜいのユダヤ人と異邦人が救われました。使徒15章にはエルサレム会議の様子が記されています。パリサイ派から信者になった人々は「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張しました。しかし、ペテロは「私たちの父祖が負いきれなかったくびきを何故、彼らに負わせるのか。私たちも恵みによって救われたけれど、あの人たちもそうなんだ」と反論しました。議長であるヤコブが決議を言い渡しました。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要なことのほかは、どんな重荷を負わせないことを決めました。すなわち偶像に供えた物と血と、不品行とを避けることです」。
つまり、人はキリストを信じるだけで救われる、割礼とかモーセの律法を守ることは不要であるということです。割礼とは、男性の性器の先っぽの皮を切り取る儀式です。これは、アブラハムから行なわれた、イスラエルの民に加えられたことの証明です。ある人は、「新約時代は割礼から洗礼に取って変わったんだ」と言います。確かに、洗礼は神の民に加えられる証かもしれません。でも、全く同じだとは思いません。なぜなら、洗礼は信じたことの証ではありますが、救われるために必要なものでないからです。とにかく、ユダヤ教徒たちは異邦人が簡単に救われることが気に入りませんでした。だから、パウロが第二次、第三次伝道旅行に出かけた時も、パウロたちを妨害しました。ガラテヤの人たちは、パウロの福音を聞いて救われました。だが、後からユダヤ教徒、あるいは偽クリスチャンがやってきました。パウロはその人たちをあるところで「犬」と呼んでいます。彼らは「パウロが宣べ伝えた福音では不十分なんだ、あなたがたも割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない」と言いました。ガラテヤの人たちは、恵みによって救われて喜んでいたのに、「なあんだ、儀式や律法も必要だったのか!」と考えを変えました。人間というのは愚かな存在で、自分で何かやることがあった方が、「救われたなー」と感じるようです。人間の宗教には必ず、自らが犠牲を払ったり、難行苦行することが含まれます。「神様、私は一生懸命やっていますよ。だから、私を受け入れてくださいね。どうか救ってください」というところがあります。彼らがキリスト教を「安っぽい」と馬鹿にする1つの原因は、キリスト教会が「ただで救われる」と説くからです。「信仰のみ」は、安っぽいのでしょうか?
マルチン・ルターは、1483年農家で生まれました。両親はとても厳しく、お母さんは迷信深かったようです。ルターは大学で哲学、文学、神学を学びました。彼は父が勧める法律家を目指そうと思っていましたが、エルフルト近くの路上で激しい落雷に逢い、恐怖のあまり、「もし命が助かれば修道士になります」と聖アンナに誓いました。ルターはアウグスニヌス修道会に入り、まもなく聖職を授けられミサを導きました。厳格な修道生活の努力にも関わらず、ルターは心の安らぎを見出すまでには至りませんでした。彼はひざで塔の階段を血まみれになって登ったと言われています。1511年(28歳)、聖書の教授になり、神学博士の学位を授与されました。1513年(30歳)ごろ、詩篇の講義をしている中で、「救いは人間の側のいかなる功績によるものでもなく、ただ神の約束を絶対的に信じることによって与えられる神への新しい関係である」と確信するようになりました。それでも、ルターはまだパウロ的であったわけではありません。ルターにとって、クリスチャンは「赦された罪びと」でした。1516年(33歳)、ローマ人への手紙の講解に取り組んでいたとき、神が与える信仰の本質は、個人の義認の保障だと確信しました。ルターはそのとき、たましいに平安を見出したのです。ルターは、28歳から33歳まで、少なくとも5年間は信仰義認を知らないで、人に教えていたということになります。だけど、彼は聖書をすみからすみまで学んで、「信仰のみ」で救われると悟ったのであります。私たちも聖書と聖霊によって、福音を自ら悟る者でありたいと思います。人から押し付けられたものなら、粗末に扱いますが、福音の真理を自分で発見するならば、一生手放さないと思います。どうぞ、ほかの福音ではなく、パウロが言う本物の福音を信じてください。
2.恵みの福音
パウロは愛の人でも有名です。Ⅰコリント13章を書いた人です。でも、どうでしょうか?ガラテヤ1:8,9「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」ガビーン。パウロは人をのろっています。「使徒は天の御使いよりも、偉いんだ」と言わんばかりです。確かに、福音宣教は天の御使いには与えられていません。キリストによって贖われた人にだけ与えられている使命です。では、パウロは何でそんなに怒っているんでしょうか?ガラテヤ2:21でパウロはこう述べています。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」ここで、どうしても理解になければならないのが、パウロが言っている救いということです。ヨハネ福音書は、「キリストを信じることによって永遠の命が与えられる」と言っています。でも、パウロが言う救いとは、神の前に義とされるということです。義というのは、完全な正しさ、100%の正しさです。これは神様しかないものです。ここに正しい人間がいるとします。でも、神様の義と比べたらどうなるでしょう。太陽の光が義だとしたら、人間の正しさは最大に評価しても、月くらいの明るさです。あるときは、昼間でも月は見えます。でも、昼間の月は、雲のかけらぐらいにしか見えません。人間の正しさとか行いでは神様にはとうてい受け入れられないのです。では、どうしたら人間は神に受け入れられる、つまり救われるのでしょうか?神から来られたイエス・キリストは律法を全うし、私たちの身代わりに死なれました。神様はこのキリストを信じる人に神の義を与えてくださるのです。その人の正しさとか行いによりません。イエス様を信じると神の義が与えられる、つまり救われるということです。これを恵みと言います。だから、パウロは、2:21「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」つまり、救いが私たちの正しさや行いで得られるとしたなら、キリストの死は無意味、キリストは死ななくても良かったということになります。だから、キリスト教の異端は十字架の敵なのです。なぜなら、彼らは救われるためには、私たちの行いも必要だからと説くからです。パウロが怒っているのは、彼らが神の恵みをだいなしにするからです。
私はキリスト教で最もすばらしいものは「恵み」だと思います。「恵み」を定義するとこのようになります。「恵みとは、本来それに値し得ない存在である私たちが、神の一方的ないさおしによって、神から様々なものをいただくことができることです。」恵みと反対のものは何でしょう?それは報酬です。報酬というのは、自分が一生懸命働いて、その見返りにもらうものです。多くの場合はお金です。そして、大人になると「ただより怖いものはない。やっぱり、自分で汗を流し、努力するから尊いんだ」とまで思うようになります。日本は国土が狭くて、地下資源が乏しいので、神の恵みを覚えることがありません。一生懸命、何かを加工して外国に輸出して暮らしています。でも、ヨーロッパやアメリカ大陸は、国土が広く、地下資源が豊かなんです。いわゆる自然に恵まれているんですね。日本は石油も出ないし、小麦も作る土地もありません。6月から物価がむちゃくちゃ上がります。日本は勤勉なのは良いのですが、「この世界を作られたのは神様だ」ということを認めていません。だから、神の恵みも分からないのです。人間の努力と神の恵み、果たしてどっちが勝るのでしょうか?いくらがんばっても、神の恵みにはかないません。生まれつき頭の良い人がいます。生まれつき金持ちの家に生まれる人がいます。生まれつき健康の人もいれば、生まれつき良い家庭環境で育つ人もいます。これを総合して、「神の一般的な恵み」(一般恩寵)と言います。ある人は恵まれて、ある人は恵まれていません。
「ああ、不公平なんだ」と思うでしょうか?この地上における恵みは不公平です。でも、神様には、もう1つ特別な恵み(特別恩寵)というものがあります。キリストを信じることによって与えられる救いという「神の特別な恵み」は不公平ではありません。どんな人にも与えられるものです。パウロはローマ1:16「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と言っています。また、パウロはⅠコリント1:27-29でさらに、こう延べています。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」アーメン。神の特別な恵みというのは、どちらかと言うと、この世の愚かな人、この世の弱い者、この世の取るに足りない者や見下されている者、無に等しい者に与えられるのです。なぜ、この世の強い人やこの世の知者、富を持っている人には神の恵みが届かないのでしょうか?いや、だれにも平等に届いてはいるのですが、「そんなものは不要だ。私は神になんか頼らないで、自分の力で生きる」と受け取らないのです。わあー、なまじっか持っている人は可愛そうですね。私のようにほとんど何も持っていない人は、神の恵みに触れたとき、「なんと、ありがたいんだろう」と感激します。「いやー、貧しくって良かった。不幸な人生でよかった。身分も、権力もなくて良かった」と嬉しくなります。
先週の日曜日の午後、ワトトのコンサートにでかけました。ワトトというのはスワヒリ語で「子どもたち」という意味です。アフリカのウガンダは内戦状態が続き国土が荒れました。また、エイズで父親が死に、子どもを生んでからまもなく母親が死ぬ、いわゆるエイズ孤児があふれました。子どもたちは親戚に預けられますが、その家も食べ物がなく育てることができません。ある子どもたちはストリートチルドレンになるしかありません。つまり、ウガンダは一般的な神の恵みが届いていない環境であります。でも、そこに孤児を支援する教会の働きが生まれました。施設ではなく、家族として子どもたちを育て、食べ物、医療、教育を与えました。さらには、クワイヤーを形成し、大使として世界各地をまわっています。とっても明るくて、歌もダンスも上手です。その子どもたちが暗い家でひとりぼっちで、食べるものもなく不安な夜を過ごしていたなどととても想像できませんでした。そして、子どもたちが全員、「将来、何になりたいか」証しをしました。ある女の子は「私は副大統領になりたい」と言いました。学校の先生、タクシーの運転手、エンジニア、大統領、首相、そして牧師と多彩でした。みんな明日のウガンダのリーダーになりたいと言っていました。これが、神の特別な恵みです。一般の恵みがほとんどなくても、神の特別な恵みが来たら、大逆転が起こるのです。
3.恵みで生きる
神の恵みほどすばらしいものはありません。しかし、この恵みはキリストを信じて救われるときだけのものではありません。キリストを信じた後も、この恵みによって生きるべきであります。でも、残念ですがクリスチャンになっても、私たちの体の中には「自力本願」というか、自分を頼るところがあります。「天は自ら助くる者を助く」という「自助論」があります。これは「天は他人の助けを借りないで自身で努力する者を助けて成功させる」という意味でしょう。つまり自分でできることは一生懸命自分でやって、最後にできないときに神様に頼るんだということです。そういう人にとって祈りとは最後の手段です。「ああ、やることは全部やった。あとは祈るしかない」。「甘ったれちゃいけない。人間にできることは人間がやり、人間にできないことは神様に頼るんだ」という二元論です。昔の話ですが、おばあちゃんが重そうな風呂敷包みを背負って道端を歩いていました。後ろから馬車がやってきました。御者は「おばあちゃん、大変だろう。ちょうどわしもそちらに行くこところじゃ、こちらに乗らんかい」と言いました。おばあちゃんは荷台に乗りました。しばらくすると、後ろから「うぅーん」という唸り声が聞こえてきました。御者が後ろを振り向くと、おばあちゃんはまだ重い風呂敷包みを背負ったままでした。御者は「なんだよー、荷物を荷台におろしなよー」と言いました。するとおばあちゃんは、「わしだけでもありがたいのに、荷物まで運んでもらうのは申し訳ない」と答えたそうです。これは笑い話ですが、恵みを知らないクリスチャンも同じことをしているんじゃないでしょうか。つまり、神の恵みは救いだけの一点とどまらず、救われてからもずっと与えられるということです。もちろん、私たちが勉強したり、努力したり、自ら労働することは重要です。でも、それらすべてのことも神の恵みによって、行なうということです。お祈りも、困った時だけではなく、困る前から、困っていないときもしたら良いんじゃないでしょうか。
ある若者が一生懸命働いて、豪華客船のクルージングのチケットを手に入れました。彼は船に乗ったのは良いのですが、ほんの少しのお金しかありませんした。食事時になると、部屋に帰りビスケットを食べていました。そのビスケットもなくなり、空腹でたまりませんでした。レストランから本当においしいかおりが漂ってきます。青年は勇気を出して、コック長に頼みました。「皿洗いでも何でもしますから、そのビーフステーキを食べさせてください」と。すると、コック長はけげんな顔をして、言いました。「あなたはチケットを持っているんでしょう。そのチケットには食事代も含まれているんですよ」。神の恵みは天国に行くだけのチケットではありません。この地上で神の子として豊かに生活するための恵みも含まれているのです。信仰生活を自分の頑張りではなく、神の恵みで生きましょう。