ゲツセマネは、「油絞り」という意味があります。ゲツセマネはオリーブの林で、その近くはオリーブの圧搾機があったようです。重い石臼を回してオリーブの実を圧搾すると、溝からタラタラとオリーブ油が搾り出されてきます。イエス様がゲツセマネで祈られましたが、イエス様はまさしく圧搾機にかけられるように搾られ、血の汗を流したのであります。現代はプレッシャーの時代と言われますが、みなさんはキリキリと締め付けられたことがあるでしょうか?きょうは、イエス様が十字架にかかる前の夜、ゲツセマネで必死に祈られた箇所から学びたいと思います。
1.イエス様の願い
イエス様と弟子たちは過ぎ越しの食事を終えて、オリーブ山へ出かけました。ヨハネ福音書には「そこには園があった」と書かれています。ゲツセマネの園であります。たくさんのオリーブの木が植わっていたと思われます。真夜中でありましたが、イエス様はいつものように、祈るためにやって来ました。そのとき、ユダはすでにどこかへ出かけていました。ですから、イエス様は11人の弟子たちを連れてゲツセマネの園に来ました。そして、イエス様はペテロとヤコブとヨハネの3人を連れて、さらに奥の方に入っていきました。「何故、3人か」と言いますと、彼らが証言者となるためです。律法には、「2人もしくは3人の証言が必要だ」と書いてあります。テキストを読みますと、弟子たちが熟睡していたように思えますがそうではありません。ひどい眠気に襲われはしましたが、イエス様が祈られる様子を、時おり見ることができたのです。だから、イエス様がどのように祈られたかが、福音書に残されているのです。ずっと、寝入っていたのなら、こんな記事は書けません。しかし、このゲツセマネの祈りは、新約聖書の至聖所であって、軽い気持ちで入ることはできません。正念場ということばがありますが、イエス様はまさしくこれから十字架の正念場を迎えるところだったのです。このゲツセマネの祈りで勝利できたからこそ、不当な裁判やリンチ、嘲笑や鞭打ち、そしてゴルコタの十字架まで、黙して忍ぶことができたのです。
では、ゲツセマネの祈りはどのようなものだったのでしょうか?まず、イエス様はご自分の気持ちを弟子たちに分かち合っています。33,34イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、眼をさましていなさい」。弟子たちは、こんなに恐れおののいているイエス様を見たことがありません。「悲しみのあまり死ぬほどです」と、そんなことを打ち明けられても、あまりにも重過ぎます。でも、とにかくイエス様はご自分の気持ちを愛弟子たちに分かち合いました。多少なりとも、自分のために祈ってくれることを願ったからです。でも、彼らは眠気に襲われ、1時間でも眼をさましていることができませんでした。きっと、そのとき悪魔とその手下どもがイエス様を打ち負かすために、やって来たのでしょう。悪魔はイエス様が贖いの死を成し遂げることを怖がってやめるように、必死に、誘惑しました。だから、弟子たちは悪魔がもたらした霊的圧力で、眼を開けていることができなかったのでしょう。『パッション』という映画がありましたが、ゲツセマネのシーンから始まります。そこいらじゅう、へびが這っていました。35節に「イエス様はひれ伏して祈った」とありますが、そんな格好の良いものじゃありません。外国人は額に片手を軽くかざして、「エィメン」などと祈ります。そうじゃありません。イエス様は地面にバタンと身を投げ出して、身をよじりながら祈ったのであります。手術前に検査をするとき、太い注射を打たれたりします。手術も大変ですが、その前に、血とか髄液とかを採取されます。あのような恐怖と痛みで身をよじるような感じです。「ああ、いやだ!やめてくれ!」と言いたいけど、我慢している、あの状態です。
イエス様の祈り方に注目したいと思います。イエス様は決して、模範生でも良い子でもありません。このところだけを見ると、人類を救いに来たメシヤとはとても思えません。35節半ばから。「もし、できることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯を私から取りのけてください」。わぁー、これを分かりやすい日本語にしたら「できたら、パスさせてくれ」ということです。私たちもイヤな役回りをさせられるとき、思わず「パス!」と言うでしょう。でも、イエス様が十字架の死をパスしたら、人類の贖いは成し遂げられなかったのです。もし、そうだったら、人類は今も死と罪の暗闇の中におり、私も皆さんも救いが得られなかったということです。イエス様は「この杯を私から取りのけてください」と祈られました。杯は「分け前」とか「運命」の意味を持ちますが、多くの場合、神のさばき、怒り、災い等悲しみや苦しみを表すのに用いられます。まさしく、イエス様は人類の罪に対する神の怒りを飲み干そうとしていたのです。かなり前ですが、広島から植竹先生を招いたことがあります。先生は、歌舞伎俳優みたいに語っていました。その杯は、全人類の罪が真っ赤に溶けた鉛のようにあふれていた。唇を少しでも近づけたなら、バチっとやけどをしてしまうであろう。悪魔がやって来て叫ぶ。「イエスよ!その杯を飲んでみよ。飲めるかイエスよ!さあ、さあ、さあー」。
「どんだけー!」という言葉が、昨年の流行語になりました。イエス様が私たちの罪をかぶるのが「どんだけー!」大変だったかは知る由もありません。なぜなら、私たちは罪の中で生まれ、罪になれっこになっているからです。でも、イエス様には一片の罪もありません。Ⅱコリント5章には「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(5:21)と書いてあります。イエス様は全く、罪を知らない方でしたが、私たちの代わりに罪そのものとなられたのです。生まれたての赤ちゃん皮膚は薄くて柔らかです。私たちの皮膚はけっこう厚くて、ある程度のことには耐えられます。もし、その赤ちゃんが、腕とかどこかに、熱湯をかぶったらどうなるでしょう。もう、ギャーと泣き叫び、皮膚もおかしくなってしまうでしょう。それと同じように、罪を全く知らないお方が、全人類の罪をかぶり、神の怒りを身に受けたらどうなるでしょう。でも、聖書を見ると、神様からだけではなく、ご自分が造った人間から、めちゃくちゃにされ、最後に殺されるということです。顔を殴られ、つばきをかけられ、嘲笑され、裸にされ、茨の冠を押し付けられ、鞭を浴びせられ、最後には十字架です。私などは、この1つでも耐えられないでしょう。もし、私がイエス様だったら、「馬鹿ヤロー、コノヤロー」と、地球を破壊してから、天国に帰るでしょう。イエス様にはやろうと思えばできたんです。でも、しなかった。なぜなら、その杯の向こうに、私たちの顔を一人ひとり見たからです。「もし、私が罪をかぶりこの杯を飲むなら、あの人も、この人も、この人も、あの人も地獄に行かないですむ」。イエス様は神様だったので、自分の贖いを通して、数限りない人が救われるのが見えたのでしょう。だから、杯を飲み干すことができたのです。イエス様はここで覚悟を決めたので、すさまじい苦しみと十字架を耐え忍ぶことができたのです。本当に、イエス様に感謝したいと思います。
この世においては、「覚悟を決める」とか「腹を決める」という言葉がありますが、ゲツセマネはイエス様にとって、腹を決める時でありました。イエス様はそのことを切なる祈りをもって、成し遂げられました。覚悟が決まったのですから、十字架の苦しみの半分は終わったようなものです。イエス様はこの後、捕縛され、裁判にかけられ、殴られ、馬鹿にされますが、ほとんどしゃべっていません。「私は悪くない」とか「お前らいい加減にせーよ」と、ひとことも言っていません。なぜなら、信仰による覚悟ができたからです。でも、弟子たちはそうではありませんでした。彼らは1時間も目をさましていることができませんでした。だから、この後、誘惑に負けて、逃げ去ってしまったのです。ペテロなどは、前の31節で「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません」と言いました。他の弟子たちもそうでした。でも、彼らはイエス様のように備えていなかったので、この後、散り散りばらばらになり、ペテロなどはイエス様を3度も知らないと言ってしまいました。もし、私たちがこの箇所から教訓を学ぶとしたら、祈ってから決断すべきだということです。人生に何度か大きなことがあります。就職、転職、結婚、出産、家を買うとき、手術を受けるとき、宣教に出かけるときなど、信仰が来るまで祈る必要があります。信仰による覚悟が決まったなら、その先、どんなことが起きてもうろたえることはありません。死も生も神様のものだからです。私たちの人生において、何度か、ゲツセマネのような祈りが必要なのであります。
2.自己否定の道
イエス様の贖いは、私たちは真似することができません。なぜなら贖いの死はイエス様だけが成し遂げたものであり、私たちはその恵みに預かるしかありません。でも、イエス様の自己否定の道は、私たちが倣うべきものです。イエス様は父なる神に、何と祈られたでしょうか?イエス様はご自分の気持ちとか願いを率直に述べた後、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈りました。榎本保郎先生は、この「しかし」は偉大なしかしである。この「しかし」があったゆえに、人類の贖いが成し遂げられたのだと『一日一章』でおっしゃっています。アーメンです。しかし、イエス様はこの祈りを少なくとも、3回しています。1度目に祈り終えたあと、弟子たちを見ると眠っていました。再び祈りましたが、その後、弟子たちを見ると眠っていました。さらにまた、イエス様は祈りました。41節、イエスは三度目に来て、彼らに「まだ眠って休んでいるのですか」と言われました。ですから、同じような祈りを3回したことは確かです。3というのは聖書では完全数です。イエス様は完全に祈られたのです。イエス様の率直な願いは「この杯をわたしから取りのけてください」でした。人間になられたイエス様は罪をかぶるのがイヤだったのです。何のためにこの地上に来たのか。ご自分が人間となり、人間の身代わりに罪をかぶることでした。そんなことは百もご承知でした。でも、実際、人間になったら、できなくなったのです。なぜなら、人間の肉の中には、自己保存、自己絶対、自己義認という性質があるからです。「えー?イエス様は神様だったんでしょう?そんな罪の性質はなかったはずだろう」と言いたくなります。でも、ヘブル書には何と書いてあるでしょう。ヘブル2:9「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方」とあります。また、ヘブル12章には「あなたがたはまだ罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」と書いてあります。ヘブル4:7「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」とあります。つまり、イエス様は生身の人間として、多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされたのです。つまり、イエス様は自分を否定し、父なる神に従順することがどれだけ重要なのかを、自ら示されたのです。
使徒パウロはガラテヤ書2章でこのように言っています。ガラテヤ2:19,20「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」自我に死に、キリストに生きることこそが、クリスチャンの真骨頂だということです。多くの人はクリスチャンになり、救われはしたものの、相変わらず自我で生きています。でも、神のみこころがやって来たときは、私たちは降参しなければなりません。すぐにはできないかもしれません。神のみこころと自分のおこころが対決するのです。イエス様もゲツセマネで血の汗を流して格闘しました。でも、何とおっしゃったでしょうか?「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈りました。これこそが、自我が神の前に砕かれた人の祈りです。神様は私たちの自我を砕くために、様々な苦しみを与えます。あのイエス様ですら、苦しみによって従順を学ぶ必要があったのです。ましてや、罪の中で生まれた私たちは「どんだけー」の者でしょうか?救われた頃はハネムーン時代で、何でもうまくいきます。まわりの人たちもチヤホヤしてくれるでしょう。でも、いつまでもハネムーンは続きません。これは結婚した人はよーく知っています。嘘だと思ったら、おとなりの既婚者に聞いてみてください。でも、その後に、平和がやって来ます。嵐の後の静けさです。自我が砕かれ、主にすべてを明け渡したら、神からの平安がやってきます。
もし、自分に死んでいたらどうなるでしょうか?死んだ人は、「ペシ、ペシ」と殴られても痛くもかゆくもありません。「馬鹿!」とか「お前なんか死んじまえ!」と言われても、もう既に死んでいるのです。あなたは、何か一言批判されて、ムカーッと来ますか?人間ですから条件反射的に、一時は腹を立てたり、落ち込んだりするでしょう。でも、それは一時です。成熟したクリスチャンであるなら「感情的にはむちゃくちゃ腹が立つけど…。そうか、私はキリストと共に死んでいるんだ。死んでいるなら平気か。アーメン」。この切り替えができます。初めはその一時が1日くらいかもしれません。しかし、ベン・ウォンは「今はたったの3秒だ」とおっしゃっていました。3秒間だけ腹を立て、落ち込む。しかし、4秒後には「ハレルヤ!アーメン」と復活する。すごいですね。でも、クリスチャンになってまもない人、あるいは聖められていない人は、一言、言われただけでプイとなって教会にも来なくなります。残念ですが、いくら賜物があっても、砕かれていない人を神様は用いることができません。ある女優さんの卵が「別にー」なんて、答えて、CMから干されてしまいました。それはこの世での出来事ですが、神の国にも共通するところがあります。心理学は「自我に目覚め、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言って良い」と言います。私も、共依存から解放され、自我に目覚めることには反対しません。でも、それはクリスチャンのゴールではありません。クリスチャンのゴールは、目覚めた自我に死んで、キリスト中心に生きることです。「せっかく自我に目覚めたのに、ですか?」と言いたくなるでしょう。でも、そうなんです。
ペテロの生まれつきの性質はどうだったでしょうか?マルコ14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」ペテロは嘘を言ったのではありません。彼は本心からそう言ったのです。でも、彼はその後、イエス様を知らないと3度も言ってしまいました。それで、ペテロは男泣きに泣いて、悔い改めました。ヨハネ21章ではイエス様から「私を愛するか」と言われました。前のペテロだったら「もちろん、あなたを愛しますよ。他のだれよりも、です」と胸を張って答えたでしょう。でも、砕かれた後は「主よ、私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えました。ペテロは主を愛することも、すべて、主に依存することを学びました。自分の力ではなく、主の力によって生きることを学んだのです。私たちは生まれつきの力でも、ある程度のところまでは行きます。でも、神様があなたを本当に用いたいと願うなら、あなたの自我を砕いて、焼いて、灰のようにします。灰にはなんの見栄えもありません。でも、灰は聖霊の風に、思いのまま従います。ペテロは使徒の2章で聖霊が注がれてから、豊かに用いられました。牢屋にぶちこまれても、まるで別人のように大胆になりました。ペテロは復活したのです。でも、ペテロの中には、自分は「イエス様を3度も知らないと言った」という傷があったのです。でも、その傷は傷跡だけです。ちょっと触ると「あのときは痛かったなー」と記憶はりますが、傷がうずいてはいません。私たちも砕かれるときはイヤーな思いがします。人を恨んだり、神様を恨んだりするでしょう。でも、それは訓練であり、レッスンなのです。そのとき、私たちもイエス様が祈られたように祈るのです。ヘブル5:7-10「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」アーメン。
この世の宗教は苦しみを避けるように願います。「災難や苦しみはまっぴらだ」と言います。なぜなら、ご利益宗教だからです。でも、聖書は「多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされる」とあります。ヤコブ1:2,3「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」とあります。わぁー、「主にあって、苦しみは良いものだ」ということが分かります。みなさんも、「苦しみは良いものです」と言いましょう。「苦しみは良いものです!」アーメン。そのように苦しみに対して、腹が据わると、苦しみはもう苦しみでなくなります。「生きるのも死ぬも、主にお任せします!アーメン」。「どうせ、私はキリストと共に死んだ身です。痛くもかゆくもありません!アーメン」。人生には様々な正念場があります。でも、キリストと共に死に、キリストとともに復活した身であるなら、何とかなります。まだ、自分に死んでいない人は一度、死にましょう。そして、キリストと共に復活しましょう。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。アーメン。