2008.01.13 最後まで耐え忍ぶ マルコ13:11-23

イエス様は23節で、「気をつけていなさい。私は何もかも前もって話しました」とおっしゃられました。前もって、世の終りに苦難や迫害が起こるということ知っているなら、恐れたり、信仰を失うことがありません。ですから、きょうのメッセージは、ワクチンみたいなものです。私たちが生きている間にこういうことが起こるかどうか分かりません。でも、私たちは既に世の終りの時代に生きていますので、もしかしたら起こるかもしれません。どうぞ、聖書の話しをおとぎばなしのように聞かないでください。これは預言のことばであり、私たちも巻き込まれることがあるということです。でも、このことをあらかじめ知っておくなら、しっかりと信仰の内を歩むことができます。きょうは「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」と題して、メッセージしたいと思います。

1.迫害の中における証し

使徒の働きを見ますと、ペテロやパウロは捕らえられ、議会に引き渡されました。そのとき、彼らは勇敢に証しをしました。私は聖書を読んで、長い間、疑問に思っていたことがありました。使徒パウロはコリントから、わざわざエルサレムに戻って、それからローマに伝道に行きました。多くの人たちは「やめなさい。エルサレムに行ったら、あなたは捕らえられますよ」と警告しました。預言者たちもそのように預言しました。しかし、パウロは「なぜ、あなたがたは私の気持ちをくじくのか」と言って、聞こうとしませんでした。案の定、パウロは捕らえられ、鎖につながれてしまいました。パウロは主にある囚人として、ローマまで行くことになります。もし、私がパウロだったら、エルサレムなどには戻らず、コリントからそのままローマに行くでしょう。私はそのことはパウロの失敗だったのではないかと思っていました。ところが、使徒23章にこう書いてあります。ある夜、主がパウロのそばに立ってこう言われました。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証ししなければならない」(使徒23:11)。つまり、パウロがエルサレムで捕らえられることによって、議会に引き渡され、総督や王たちの前で証しができたのです。それは、神のみこころだったのです。もし、パウロがストレートにローマに行けば、そのようなチャンスはなかったのでしょう。きょうの箇所も、そのことが教えられています。9節に「それは彼らに対して証をするためです」とあります。また、11節に何と書かれているでしょうか?「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」アーメン。

 私たちは「証し」と聞くと、こういう会衆の前で、原稿をちらちら見ながら話すものだと考えるかもしれません。もちろん、そういう時もありますが、多くの場合、突然やって来ます。しかも、苦しみや問題のさなかで、証しをするときが多いでしょう。私たちは極限のところに立たされないと、「私なんかダメ」とか言って、話したがらないでしょう。イエス様は「あなたがたは世の光です」と言われました。ただいま、こういう礼拝では光の子がたくさん集まっているので、明るいのです。ここはもう照らす必要がないのです。また、この場所においては「私は明るくないかもしれない。私の証なんかたいしたことない」と思うかもしれません。でも、ここを出て、世の中に行くとどうでしょう。世の中には悲しいことや辛いことがたくさんあります。間違ったことも平気で行われています。そこへ光の子が行くとどうなるでしょう?周りが暗いんです。「あれー。私には光があるわ。けっこう輝いているジャン。私はやっぱり世の光だったんだわ」と気づくでしょう。しかも、私たちが一番、輝くのは、逆境に立たされたときです。「お前は、なんでキリストの神様なんか、信じているのか?」なんて、言われる時です。もちろん、コリントからローマへ直接行くように、迫害や苦難に会わない方法もあります。私たちは、自分が何者であるかを言わなければ、迫害を受けないでしょう。でも、やむにやまれず「私はクリスチャンなのでそんなことはしません」、「私はクリスチャンなのでそうします」ということが必ずあります。そのとき、多くの人の目があなたに集中するでしょう。パニック状態になって、もう何もできなくなるでしょうか?そうではありません。

11節「何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」そうです。あなたは自動的に、聖霊モードに切り替わるんです。そして、あなたの内におられる聖霊が証しをするのです。聖霊様が話させてくださるのです。ある時は、だまって耐え忍んでいるときが良いかもしれません。しかし、ある時は、勇気を出して証ししなければならないときがあります。そのときに、聖霊が何を話すか示してくださるのです。人々は「郷に入らば、郷に従え」なんて、土着の宗教や仏教を持ち出してくるかもしれません。でも、世界は神様が造られたものであり、すべての場所は神様がご支配するところであります。世界の神様に、郷なんかないのです。大丈夫です。まわりが暗ければ、暗いほど、あなたは「ああ、自分は世の光だ。けっこう明るい」と自分で気づくでしょう。教会の中で輝かなくても結構です。私たちは教会の外で、輝くべきなのです。こういう考え方は、ベン・ウォン師の影響であります。以前は、教会という建物の中ですべてのことをやろうとしていました。礼拝、祈祷会、学び会、伝道集会、コンサート、セル集会…そうしますとどうしても、内向きになります。教会に誘うことが主になり、人々のところに行こうとしなくなります。ベン・ウォン師はよく「教会が焼けてしまえば、良いんだ」というのはそのためです。ま、設備があることは良いことです。でも、迫害を恐れないで、世に出て行く。私たちこそが教会であり、教会をこの世に運んでいく存在だということです。

迫害がもっとも起こりうるのは、伝道のときでありましょう。キリストという名前を出さなければ、何もかも穏便です。人間関係にも波風立ちません。私たちは教会に連れて来て、そこでイエス様の話しを聞いてもらおうとします。そうではなく、私たちがいるところ、遣わされているところでも、イエス様の名前を言うべきであります。家内は老人ホームで看護師として働いています。でも、クリスチャンであることは話せても、信仰のことはダイレクトに話すことはできません。先週だったか、入居している人が病院に運ばれました。そのご老人は、もう先が長くないそうです。家内は病院にお見舞いに行き、そこで祈ることができたそうです。創価学会の人でしたが、祈ってあげたらとても喜んでくれたそうです。どことなしか、家内の頬が赤みがかっていました。勇気を出して、祈って来た、良かったというのが現れていました。私たちは迫害なしに、福音を伝えられたら良いなーと思います。福音を伝えたら、拒否される、恥ずかしい思いをする、人間関係が壊れる、いろんな恐れがあります。でも、多くの場合、迫害までに至ることはありません。嫌な思いを少しするくらいです。でも、中には「良く知らせてくれました」と喜ぶ人がいるんです。その確立は10人に1人か、20人に1人かもしれません。でも、いることは間違いありません。では、その情熱はどこから来るのでしょうか?それは祈りだと思います。祈ると神様からの愛が下ってきて、伝えずにいれなくなります。なぜなら、父なる神様の思い、キリストの愛が、こちらに迫ってくるからです。どうぞ、出て行きましょう。「聖霊様が本当に導いてくださった。神さまは生きて働いておられる」ということを体験しましょう。

先週の9日の夜、ベン・ウォンが当教会に来られました。昨年1年間、コーチングでベン・ウォンと何度も会いました。正直言って、「2年目はやりたくないなー、ベンとはもう会いたくない」と思っていました。なぜなら、ベンは「プログラムではなく関係が大事だ。人と個人的に会って訓練しなさい。牧師室に留まっていないで、外へ出て行って宣教しなさい」と会うたびごとに言います。だから、「ベンと会うのが嫌だなー、なんで亀有でやるのかなー、なんで水曜日の夜、話してもらうことにしたんだろう」と、後悔していました。いよいよ、夜の集会が始まりました。案の定、「私たちはもう聖書を十分に学びました。足りないのは学んだことを実行することです」と言いました。ベンは、神学校で学んだ人は、「まだ足りない、まだ足りない」という強迫観念がある。だから、あっちのセミナー、こっちのセミナー、あのコース、このコースと学ぶんだと言っていました。教会によっては、2,3年ごとに流行を追うかのように、いろんなセミナーやコースを取り入れます。その結果、何がなんだかわからなくなります。私はセルチャーチを軸にして、学んでいるつもりです。私はそんなにブレていないと信じています。でも、コーチングとかミッション(伝道)が全く欠けていることは確かです。まとめて勉強会はできても、一人ひとりをコーチするのがめんどう。外へ出て、今さら、嫌な思いをするのも…。若い頃、伝道で、十分嫌な思いをしたという自負心すらあります。ベンと会う前は、私は「まあまあ良い線、行っている」と思っていました。良い説教し、聖書を教えていれば、良いと思っていました。「でも、コーチングとミッションに欠けている。嫌だなー、やめたいなー。会いたくないなー。これは、AかBどちらかしかない。これまでの生き方を続けるか、あるいは全く別な生き方をするのか?ああーどうしよう」とメッセージ中も思っていました。でも、メッセージが終わって、ひとこと閉めなくてはなりませんでした。しょうがないから、集まっている兄姉に尋ねました。「ベンはいつも突き刺すので、私は辛い。実は、ベンに会いたくなかった。私も54歳、身についたものは変えられない。皆さんに尋ねます。これまでの私の生き方で良いと思う人は手をあげてください。」だれもいない。「では、新しく変えられた生き方をした方が良いと思う人は手をあげてください」と尋ねました。20人くらい集まっていたのでしょうか?みんな手を挙げ、中には両手を挙げている人もいました。私は牧師室にこもってテキストを作るのが好きなんですねー。でも、与えられた時間をもっと関係作りに使おう、使うべきだと決断しました。どうぞ、私のためにもお祈りください。恐れずに、嫌がらずに、おっくうがらずに人々のところに行くことができるように。アーメン。

2.荒らす憎むべきもの

3:14-16「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」13章のはじめを見ますと、「エルサレムの神殿の石がくずされるときはいつか」ということも問われています。つまり、イエス様の預言は、紀元70年のエルサレム崩壊のことと、世の終りのこととが平行(パラレル)になっています。確かに、紀元68年に、エドム人が神殿を荒らし、その後、ローマ兵がエルサレムを陥落させました。マサダでも知られているように、多くのユダヤ人は殺されるか、世界中に散らされてしまいました。しかし、この預言は、世の終りのことも預言していると考えられます。使徒パウロはⅡテサロニケ2章で「その時になると、不法の人が現れる」と書います。おそらく、「荒らす憎むべきもの」と「不法の人」は深い関係にあるのではないかと思います。「不法の人」は世界をまどわす反キリストであることは間違いありません。黙示録13章では「獣」と呼ばれています。彼は神に逆らい、自分を高く上げて神とします。さらに、彼は、宮の中に荒らす憎むべきものを立てます。そのとき、迫害がもっともひどくなり、666の刻印を額に押されていない者は売り買いできなくなります。

19-20「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです。ここで問われるのは、「選民」とはだだれかと言うことです。選民とはユダヤ人なのか、それともクリスチャンかということです。私は世の終りのある時点において、クリスチャンが「携挙」、つまり天に引き上げられて、それから大艱難時代が来ると思っていました。つまり、クリスチャンはそういう苦しみに会うことはないということです。だれが苦しむのか?それはキリストを信じていない多くの人と、ユダヤ人であります。ユダヤ人は、迫害と苦しみの中で救われる。つまり、世の終りの時は、ユダヤ人が救いを受ける時であり、教会ではないと考えていました。しかし、ある神学者たちは、「そんな虫の良い話はない。私たちは艱難を経た後に天に引き上げられるのだ」と言いました。ここで、みなさんに聞くとしたら3つの立場に分かれるのではないかと思います。第一は、クリスチャンは大艱難に会うことはない。その前に、天に引上げられる。第二は、クリスチャンもユダヤ人も、大艱難を経て救われる。第三、そんなの関係ない。「世の終りのこと」などどうでも良い。自分が生きている間、平和であれば良い。多くのクリスチャンは、世の終りは自分が生きている間は起こらないと思って生きています。中には、クリスチャンでもこういう艱難を経ないで、地上に御国がやってくると信じている人もいます。第三の人たちは、再臨信仰のない人たちです。再臨信仰とは、この世はいつか終りが来る。その時、イエス様が私たちを迎えるために再びやって来られる。それは「主の日」であり、今日明日かもしれないし、10年先かもしれない。あるいは100年先かもしれないが、主は、必ずやって来られると信じることです。

 旧約聖書には「主の日」とは、さばきの日であり、恐ろしい日であると書かれています。でも、Ⅰコリント15章と、Ⅰテサロニケ4章には、主が再び来られるとき、死者はよみがえり、生きている者は栄光のうちに変えられ、天に引き上げられると書いてあります。問題は、艱難を経てなのか、その前なのかということです。私が尊敬している奥山実先生はうまいことをおっしゃっておられます。マタイ24章には「人の子(イエス様)は、ノアの日のように突然やって来る。盗人のように思いがけない時に来る」と書いてあります。マタイ24:40-44「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」ここでは、ひとりは取られ、ひとりは残されるとあります。「取られる」とは天に引き上げられる、携挙されるということです。「残される」とは、この地上に残されて世の終りの艱難を経なければならないということです。奥山実先生がおっしゃるのは、二人とも信仰があるクリスチャンだということです。クリスチャンだからと言って、すべてが携挙されるわけではない。違いは何か?それは「世の終り、イエス様が来られた時、自分は携挙される」と信じているかどうかということです。これが再臨信仰です。イエス様を信じて洗礼を受けたけれど、教会の礼拝にも来ない聖書も読まないというクリスチャンもいます。また、教会の礼拝に来てはいても、自由主義(リベラル)で聖書をまともに信じていないクリスチャンもいます。そういう人たちも、この世の人たちと一緒に残されるということです。「ご苦労さん」と言って良いかどうか分かりませんが、私は奥山実先生の解釈に賛成です。もちろん、奥山先生に対してむちゃくちゃ反対する人もいます。

どうでしょうか?再臨信仰。いつイエス様が来られても大丈夫な生き方、霊的に目をさましている信仰生活です。もし、再臨信仰がなければ、私たちの信仰はあのノアの時代のような人たちのような生き方をするでしょう。洪水前の人々は、ノアが箱舟に入るその日まで、飲んだり、食べえたり、めとったり、とついだりしていました(マタイ24:38)。飲むこと、食べること自体、悪いことではありません。私たちは買い物をして、ご飯も食べます。また、めとったり、とついだりすることも悪いことではありません。結婚したければ、結婚することも良いでしょう。ただしパウロは、Ⅰコリント7章でこう言っています。「現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。…たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです」(Ⅰコリント7:26-28)。もし、3年後に世の終りが来ると知っていたらどうでしょう。「それだったら、結婚しない」という人もおれば、「それだったら、結婚しておく」、どちらでも結構です。でも、忘れてならないことが1つあります。「主の日」は突然やって来るということです。再臨信仰を持ち、霊的に目覚めていなければ、この地上に残されるということです。『レフト・ビハンド(残されし者)』という本があります。アメリカで650万部、何ケ国で訳されミリオンセラーになっています。日本語にも訳されていますが、残された人たちの悲惨さが記されています。とにかく、この世はこのまま永遠に続くのではなく、いつか世の終りが来るということです。ノアの時は、大洪水からたった8人の人たちが箱舟で救われました。終りの時代は、教会こそがノアの箱舟です。イエス様を信じる者は、一人も滅びないで、永遠の命に入ることができるのです。私たちは再臨信仰を持つと、この世べったりの物質主義、あるいは快楽主義から解放されます。この世のものはすべてなくなります。最も大切なのは、信仰と命です。そうなると、シンプル・ライフを楽しむことができます。物がなくても大丈夫。必要な物さえあれば大丈夫という生き方です。どうぞ、シンプル・ライフ、身軽な生き方をしましょう。

 使徒パウロの手紙の結びのことばで終えたいと思います。Ⅰテサロニケ5:23,24「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」アーメン。