いよいよ、エルサレムを支配していた宗教家たちとの論争が始まります。彼らは、このあと、嫉妬と怒りに燃えて、イエス様を十字架にかけます。彼らはイエス様が両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛を倒したことを知っていたでしょう。また、勝手にエルサレムの中で教えたり、福音を宣べ伝えたことが許せなかったのです。それで、「何の権威によって、これらのことをしているのか、誰が、これらのことをする権威をさずけたのか」とクレームをつけてきました。イエス様が「私は神の子であり、神からの権威でやったんだ」と言えば、彼らは「神を冒瀆する者だ、許せない!」と怒り狂うでしょう。でも、知恵のあるイエス様は逆に「バプテスマのヨハネは、天から来たのですか、人から出たのですか」と質問し返しました。でも、彼らはどちらも都合が悪いので「わかりません」と答えました。それでイエス様も、「何の権威によってこれらのことをするのか話すまい」と言われたのです。きょうは、イエス様の権威の性質について3つのポイントで学びたいと思います。
1.隠された権威
祭司長、律法学者、長老たちは衣服や態度によって、自分たちがいかにも権威があるように見せました。お寺のお坊さんの袈裟もそうですが、刺繍をほどこした長袖の服を着て帽子をかぶり、顔を長くして、もったいぶった言い方をします。現代でも、ローマカトリックや聖公会、ギリシャ正教教会もその傾向があります。パッションという映画で見ましたが、彼らはいかにも宗教家という格好をしていました。私なんかは宗教的なのは好きじゃありません。では、イエス様の権威とはどういうものだったのでしょうか?イエス様は一般の人と同じ身なりをしていました。聖画のように、決して頭の上に輪があって、それが光っていたわけではありません。そしそうであったならどうでしょうか。イエス様はゲツセマネの園で真夜中、捕らえられました。ユダが手引きしてイエス様を捕らえようとしたとき、ユダは「あの頭の光っているヤツがそうだ」と言えばよかったのです。イエス様は、見かけは普通の人と全く同じだったのです。ただ、内側から権威がにじみ出ていたわけであります。私などはだまっていれば権威がありそうに見えるのですが、いざ、しゃべり出したり動き出すと、とたんに権威がなくなります。イエス様はそうではありません。
たとえば、イエス様が人々に教えられた後、人々はどう感じたでしょうか。マルコ1:22「人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」とあります。また、イエス様は病を癒し、悪霊を追い出しました。ある時は、一言で嵐を静めました。マルコ1: 27、人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。人々は、「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ」と驚きました。つまり、宗教家たちは権威がないのに、権威があるような格好をしていました。しかし、イエス様は本当に権威があったので、普通にしていて良かったのです。でも、いざ、教えたり、ミニストリーをすると権威が香りのように湧き出てくる。良いですねー。「ベンー・ハー」という映画をごらんになったことがあるでしょうか。ベンー・ハーが奴隷に売られて、砂漠を歩きます。もう喉はカラカラです。そのとき沿道の人が可愛そうなので、ひしゃくで水を差し出します。鎖につながれたベンー・ハーが口を出して、飲もうとしたとき、ローマ兵がひしゃくを「バーン」と払いのけます。すると、ちょうど近くにおられたイエス様がベンー・ハーにひしゃくの水を差し出します。それを見て、怒ったローマ兵が「何をするんだ!」と近寄ったとき、イエス様の顔を見ました。すると、ローマ兵の顔がみるみる変り、「悪いことしたなー」とうなだれた顔になりました。もう、彼は何もできませんでした。私はあのシーンを見て、とても感動しました。「イエス様の権威とは、ローマ兵をも黙らせるんだなー」と思いました。
イエス様の権威は内側に隠されているのです。だから、子供たちも、罪びとや遊女までも気兼ねなく近づくことができたのです。イエス様は「私は権威があるんだぞ」なんて、人々に押し付けたりはしませんでした。神の御子のバッチをつけているわけでもありません。お側の人が、「この方をどなたとお思いか!頭が高いぞ!」と十字架のついた印籠を差し出す訳でもありません。本当に、人々の目から隠された権威でした。また、イエス様の中には、権威だけではなく、知恵と真理と愛と恵みが満たされていました。でも、隠れているので、人々が見過ごしてしまうのです。それは今の時代も同じです。私たちは大学教授とか専門家など、その道のオーソリティに意見を聞こうとします。クリスチャンでさえも、聖書のみことばよりも、NHKの放送番組を信じたりします。また、お医者さんやカウンセラーのことばを「神様のことば」のように受け取る人もいます。たとえば、お医者さんが「これは一生治りません」とか「もっても3ヶ月でしょう」などと断言します。彼らは責任を取りなくないので、最悪のことを言うわけです。でも、それを真に受けて癒しの信仰を捨てる人がいます。私は医者やカウンセラーを否定するわけではありません。でも、神様のことばが、イエス様がなんとおっしゃっているのでしょうか?果たして、どっちが権威があるのでしょうか?私たちは、せっかく燃えている信仰の火を、この世の考えで消すことはないと思います。イエス様の権威は、この世の人たちのようなパフォーマンスではありません。人々の目に隠されているのです。でも、それを見いだして、イエス様の権威に頼る人は幸いです。
私たちは毎日のディボーションで詩篇を学んでいます。詩篇62篇を少し引用させていただきます。1,2節「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない」。7,8節「私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」アーメン。岩とかやぐら、避け所とは、神様の権威と力を象徴しています。どうぞ、この世のものではなく、イエス様の権威と力に身を寄せる者となりましょう。
2.コントロールしない権威
祭司長、律法学者、長老たちは恐れや圧力によって、人々を支配しました。彼らは神の律法や伝統ある教えをふりかざして、「人々にあれをせよ、これをしてはいけない」と説いたのです。もしも、従わなかったならどうなるでしょう。「神から断罪され、呪いと裁きをうける」と言う。また、彼らは「ユダヤ教の教会から破門されたならば、永遠に救いはない!」とまで言いました。だから、人々は仕方なく、恐る恐る彼らの言うことに従ったのであります。一方、イエス様の場合は、人々の自由意志を尊重しました。つまり、イエス様の権威は人をコントロールしない権威でした。神様ですから、生かすも殺すもできたはずですが、我らが救い主イエス様はそういうことはしなかったのです。黙示録3:20は、本当に心温まるみことばです。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」私はこのみことばのたとえ話しでイエス様を心に受け入れました。私の心の中は、ちょうど私が住んでいた6畳一間と半畳の台所みたいなものでした。私は暗い部屋の片隅で膝っ小僧を抱いて座っていました。「人は何のために生きているのだろう。私はどこから来て、どこへ行くのだろう」と心の奥底で悩んでいました。でも、イエス様は長い間、私の名前を呼んで、心のドアを叩いていたのです。そのドアは、内側には取っ手がありますが、外側にはありません。イエス様は紳士なので、「開けろ!」とドアを蹴破ったりはしません。「私です。ドアを開けてください。一緒に食事をしましょう!」と親しい友のように頼んでいるかのようです。私はダメもとで、心のドアを開きました。そうすると光がバッと入ってきて、狭い天上が壊された感じがしました。次の朝になったら、何もかも変って、光り輝いて見えました。
しかし、イエス様はやさしいだけではなく、ときにはチャレンジされるときがあります。イエス様はあるとき、弟子たちをこのように召し出しました。マルコ1:17,18「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。「私について来なさい」、命令形にも取れます。でも、こちら側は、断ることもできます。現に、ある人たちは「エクスキューズミー。他に、どうしても用事があります」と断った人もいました。主は私たちのエクスキューズミーを受け入れてくださいます。「俺の言うことを聞かないヤツはもう知らん!どうにでもなれ!」とは言わないのです。私のように。でも、皆さん、イエス様のチャレンジに言い訳をしないで応答する人は幸いです。主の弟子になるとはこういうことです。「私はあなたに人生の主導権をお渡しします。これから私はあなたの仰せに、何でも従っていきますので、お導きください」と、約束することです。そうすると、主従の関係になります。イエス様が主人で、私はしもべだということです。イエス様に生かすも殺すもすべての権威があるということを認めたということです。そうするとどうなるでしょうか?私たちの人生がめちゃくちゃになるんですか?
もちろん、カルト宗教の教祖にそういう約束をしたら大変なことになります。実際にキリスト教会でも、「牧師に従わなければ呪われるぞ」とやるところもないわけではありません。そんなにストレートには言わなくても、祝福をなくすくらいは言うかもしれません。そうやって恐れによって人々をコントロールするかもしれません。そういう所にいる人たちは、神様に仕えているつもりで、組織や人間にあやつられているのです。キリスト教の場合は、人生が破壊されるかというとそこまではいきません。どういう教団や教会でも、やはり、神様のご加護があります。でも、その人は喜んで仕えているのではなく、恐れと律法のゆえに仕えているわけです。ですから、自由な考えや行動ではできません。いつも上の人にお伺いを立てながら、やるわけです。勝手なことをして失敗したら怒られるからです。しかし、こういう構造は、世の中と全く同じであり、キリスト教会が持つべき雰囲気とは違います。雰囲気とは何か空気みたいで、役に立たないように思えるかもしれませんが、そうではありません。カルト的なコントロールがかかっている教会と、御霊による自由がある教会では全く違います。そこにいるクリスチャンたちは、いつも笑っています。失敗を恐れないでチャレンジします。お伺いもたてる必要がなく、かしらなるキリストに聞いて、進んでやります。自分は価値ある存在と認められ、また信頼されているという安心感があるのです。これがキリストにある雰囲気です。うちの教会はそういう雰囲気があるんじゃないでしょうか。
イエス様は自由意志を尊重します。イエス様の御声に従うも従わないもあなた次第です。でも、ここに真理があります。神様の御声に従う者に対しては、神様の守りがあるということです。神様は、神の法律があるため、罪あるこの世に手を出すことはできません。テレビニュースや新聞紙上を見ると、さまざまな犯罪が起きています。「神様がおられるなら、どうしてこんなむごいことが起こるんですか!」と言いたくなるでしょう。でも、この世は、神様の権威を認めず、神様から離れて生きています。「神様、よけいなことはしないでくれ!」これが、神から離れた罪びとの世界です。でも、どうでしょうか?私たちが神様の主権を認め、神様に立ち返るならば、神様は御手を伸べることが合法的に可能になるのです。これはクリスチャンにも言えます。私たちがイエス様に従うならば、イエス様が私たちの生活を保障し、悪魔の支配からも私たちを守ってくださるのです。イエス様の権威に服することは、不自由になるのではなく、むしろ自由になるのです。イエス様の配下に属するなら、父なる神様が私たちの面倒をみてくださるのです。ハレルヤ!
3.神からの権威
祭司長、律法学者、長老たちの権威は借り物であり、偽ものでした。ヨハネ10章でイエス様はこうおっしゃいました。1節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」。11,12節 「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。」ここに出てくる、「盗人で強盗、雇い人」とは、祭司長、律法学者、長老たちであります。なぜなら、彼らは神様の権威を横取りし、人々を食い物にしていたからです。この世にも宗教によって、人々を食い物にしている教祖がいっぱいいます。イエス様の時代、彼らが宗教を牛耳り、人々に対して救いの門を閉ざしていました。そして、神様の後取りであるイエス様が来られたとき、従うどころか殺そうとたくらんでいました。そのことは、マルコ12章に書いてあります。では、イエス様の権威とはどういうものだったのでしょうか?イエス様の権威は借り物ではなく、神様から与えられたまことの権威でした。三位一体の神である御子イエスも神たる権威はありました。でも、この地上に来られたときは、ご自分の権威を用いませんでした。なんと、イエス様は地上の生活において、父なる神様に完全に服従されたのです。ヨハネ5:19,27そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。・・・また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。
イエス様も神様でしたから、ご自分の意思と権威で、何でもすることができたのです。しかし、その権利を放棄したかのように、一切を父なる神様にゆだね、神様のご意思と権威に服したのであります。なぜでしょう?それは、私たち人類の代表となるためです。イエス様は私たちの代わりに完全に父なる神様に従い、十字架にかかられました。イエス様は私たちの代表として、また、私たちの代わりに父なる神様と契約を結ばれたのです。この地上のイエス様だけを見ると、イエス様は小さい神様のように見えます。現に、キリスト教の異端であるエホバの証人は、キリストの神性を認めません。神の被造物の中で最高のものがイエス様で、まことの神は旧約聖書のエホバだけだと主張します。エホバはまことの神であり大文字のGODですが、御子イエスは小文字のgodだと言います。ということは、神の三位一体性を認めていないということです。確かに地上のイエス様は父なる神に服従された方であります。しかし、もう一度言いますが、それは私たちの代表となり、また私たちの罪の贖いとなるためでした。でも、死んで三日目に復活し、天に昇り、神の右の座についてからはどうでしょう。イエス様は主の主、王の王になられ、父なる神様からさばきを行う権を与えられました。使徒2章に『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』とあります。世の終り、御子イエスが生ける者と死にたる者とをさばいた後、父なる神に全権をお返しになるのです。
イエス様は私たち人間の代表として、父なる神様に完全に服従されました。十字架の死に至るまで従われました。その後、何が起きたでしょう?復活があり、昇天があり、着座がありました。イエス様は主の主、王の王となられたのです。ということは、私たちもイエス様のように、父なる神様に従うならば、たとえ死ぬようなことがあっても、神様は復活と冠を与えてくださるということです。イエス様を贖い主だと多くの人は認めますが、イエス様が私たちの模範者だとはなかなか認めません。とくにプロテスタント教会はそうです。「イエス様は神様だったから、あんなことができたんだ。罪に汚れている私たちは、100%従順することは無理だ」と諦めます。でも、1つだけ解決策があります。それは、イエス様ご自身もそうされました。ルカ4:1「聖霊に満ちたイエスは」と書いてあります。イエス様は聖霊に満ちて、何を最初になされたのでしょうか?悪魔の試みに会われました。いやですねー。でも、悪魔の試みに勝利してからどうなったでしょうか?ルカ4:14「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」とあります。どうも、イエス様のように神様に従順し、神様のみこころを行うためには、聖霊が関係しているようです。聖霊に満たされ、御霊の力を帯びるとき、神様からの力と権威が与えられるのではないでしょうか?私たちはこの世で生きるために、神からの権威が必要です。それは悪魔を踏みつけ、罪に打ち勝つ力です。病を癒す権威、また世の人たちになめられない権威も必要かもしれません。うちの子供たちは、私が言うよりも、家内が言うことを聞きます。私は少々なめられているのかもしれません。その点は、家内の方が権威があるのかもしれせん。それはともかく、正しい権威は持つ必要があります。その権威とは外側だけを着飾るものではなく、内側からにじみ出てくるものです。外側はイエス様のように柔和で謙遜ですが、内側には神の子としての権威が備わっているべきです。そうでないと、私たちはこの世の罪と汚れにやられてしまいます。ある時は毅然として、罪に対してはノーと言わなければなりません。悪魔とその手下どもにも、「イエスの御名によって退け!」とはっきり命じるべきであります。そのような権威はどこから与えられるのでしょうか?それは、私たち自身が神様に従うことであります。私たちが神様に服従した分だけ、悪魔に対する権威が増し加わるからです。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」私たちは、神様の権威のもとに暮すとき、神様からの守りと神様からの権威が与えられるのです。