2007.08.05 メタモルフォー マルコ9:1-10

イエス様が姿変わりされた山は、ピリポ・カイザリヤの北にあるヘルモン山といわれています。春はヘルモン山の雪解けの水がガリラヤ湖に注ぎ、ガリラヤ湖の水が死海に注ぎます。ですから、ヘルモン山が一番高いということになります。不思議なことにイエス様の地上での生活はこれと良く似ています。少し前に学びましたが、イエス様がキリストであるということをペテロが告白しました。その後、イエス様はヘルモン山に登られ、お姿が変わりました。厳密に言いますと、姿が変わったのではなく、神であるもとの姿に戻っただけです。ちなみに、黙示録1章には、光輝くイエス様が描かれています。イエス様はこのまま、天国にお帰りになることもできました。しかし、変貌山の出来事の直後、まっすぐにエルサレムに向かわれました。エルサレムとは十字架にかかるところであり、苦しみと死が待っているところであります。ですから、変貌山から、エルサレムの十字架へと下る構図になります。つまり、変貌山はイエス様の公生涯のターニングポイント(岐路)ということになります。

1.変貌山の出来事

 イエス様は変貌の山で何を話しておられたのでしょうか。4節「また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた」。エリヤは旧約聖書中、最も力ある預言者の一人です。ですから、エリヤは預言者の代表と言えます。また、モーセは律法の代表です。不思議なことに、エリヤは竜巻で天に引き上げられ、死体を見たものはいません。また、モーセもピスガの頂で死んだようですが、死体は残されていません。ユダヤ人たちは、この二人に対しては特別なものを感じていたに違いありません。とにかく、預言の代表と律法の代表とが山の上で、イエス様と会談したわけです。ですから、変貌の山は、頂上会議、サミット会議と言っても過言ではありません。何を話しておられたかマルコ福音書には分かりませんが、ルカにはそれらしきことが書いてあります。ルカ9:31「 栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」「ご最期」とは、「死」という意味であります。10年以上もなりますが、この箇所からメッセージしたことがあります。とのとき、読み方が分からなくて、「ごさいき」「ごさいき」と言っていました。家内があとから、あれは「ごさいご」と言うんじゃないのと教えてくれました。そうか?と思って調べたら、「命が尽きる時を最期」と言うことが分かりました。講壇から「ごさいき」「ごさいき」と言って、「ああー、どうだったんだろう」と目から火が出るような恥ずかしい思いをしました。テレビのクイズ番組に出そうな漢字であります。

ところで、「最期」は、原文のギリシヤ語ではエキサダスと書かれています。70人訳という旧約聖書のギリシヤ語訳がありますが、出エジプト記のことをエキサダスと呼んでいます。つまり、ルカ福音書の記者は、イエス様とエリヤとモーセは、「エルサレムで遂げようとしておられる出エジプトのことを話していた」ということになります。出エジプトとは、100万以上ものイスラエルの民がエジプトから脱出するという偉大な出来事であります。そのとき決め手になったのが、過ぎ越しであります。鴨居と柱に羊の血が塗られている家は、神の怒りが通り過ごしました。ところが、血が塗られていない家は、長男が神に打たれて死にました。その恐ろしい出来事が、エジプトの王家から奴隷の家、家畜まで起きたのです。そのために、パロ王はイスラエルの民を解き放つわけです。このことを新約に置き換えるならば、エジプトとはこの世であり、パロ王が悪魔であります。人類は悪魔のもとで罪と死の奴隷であります。ところが、神の小羊であられるイエス様がエルサレムで十字架にかかります。その日がちょうど過ぎ越しの日であります。イエス様が血を流されることにより、人々は悪魔の束縛から解放されるようになるということです。おそらく、このことをイエス様とエリヤとモーセは話し合っていたのではないかと思います。まさしく、サミット会議であります。

ところが、ねぼけていたペテロは言わんでも良い事を言います。5、6節、すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。

言うべきことが分からなければ、だまっていれば良いのに「なんでやねん」と思います。ま、ペテロは私そっくりで親しみがあります。ペテロの間違いは2つあります。1つは、イエス様とモーセとエリヤを同じレベルに扱ったということです。イエス様のテント、モーセのテント、エリヤのテント、それぞれ3つ並べようとしました。もう1つの間違いは、テントを張っていつまでも山の上に留まりたいと願ったことです。「輝くイエス様、よみがえったモーセとエリヤと共にいつまでもいたい!ああ、ここにいるのは何と幸いだろう。」なんか、気持ちが分かるような気がします。昔は、夏になるとキリスト教の聖会が箱根や修善寺でよく開かれました。そこに有名な講師が招かれ、2泊3日くらいで、すばらしいお話を聞くわけです。主婦の方は炊事も洗濯もしなくて良い。恵まれたお話を聞いて、食事をして温泉に入り、部屋で楽しく語り合う。「もう、山を降りたくない。このまま、ずっとここでいたい」と思うわけです。ペテロも、ずっと山の上でいたいと思ったんでしょう。すると、にわかに雲がわき起こり、みんな見えなくなりました。雲とは神の栄光を現わしていますが、雲の中から声がしました。「これは私の愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。そのあと、あたりを見渡すとイエス様しかおりませんでした。これは、父なる神様が、「イエスは神の子であり、他の二人とは違う。彼に聞け!」と言ったのであります。つまり、ペテロのように3人を並べて、考えてはいけないということです。イエス様はメシヤであり特別な存在だということです。

 では、イエス様が3人の弟子たちに、変貌山の出来事を見せた理由は何でしょうか?イエス様は山を降りながら、「人の子がよみがえるときまでは、いま見たことを「だれにも話してはならない」と命じられました。ペテロはⅡペテロ1章で「私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。・・・私たちは聖なる山で、天からかかった御声を自分自身で聞いたのです」と証言しています。申命記19章によると、「二人または、三人の証言によって、立証されなければならない」と書いてあります。つまり、ペテロとヤコブとヨハネの3人が選ばれたのは、キリストのご威光の証人となるためです。福音書をみますと、ヤイロの娘の生き返りやゲツセマネの園のときも、この3人が近くに呼ばれています。後から、重要なことを聖書で証言させるために、3人を選んだのだと思います。私たちは、「二人または、三人の証言によって」「ああこのことは、本当だったんだなー」と知るわけです。イエス様は12人を選んで訓練し、また3人には特別な体験を与えました。私は「イエス様は彼らをコーチングをされたんだなー」と思いました。香港からベン・ウォン師が来られ、コーチングが始まりました。私は1995年に、当亀有教会をセル教会に移行することに決めました。教会の組織やすべての集会を信徒中心の小グループに任せるようにしていきました。2000年以降、ゴスペルで若い人たちが救われ、セルの勢いがついてきました。でも、ベン・ウォン師の話を聞いてから、まだまだセル教会ではないということが分かりました。まず、メガチャーチ(大教会)を諦め、小さな教会をたくさん生み出すこと。ま、これは良いとしても、牧師の生活を変えることが一番のネックです。イエス様が主任牧師なら、私が牧師室にこもって、パソコンを打ってテキストを作れと言うだろうか?また、教会のメンバーに対しては、どうおっしゃるでしょう?イエス様と弟子たちのように、建物の中にいないで、外に出て行くべきではないだろうか?このようなチャレンジを受けました。もし、このままベン・ウォン師のコーチングを受けるのであれば、向きを変えなければなりません。従来の教会で良いか?それとも、新約聖書にあるような教会を本当に目指すかで、あります。私も残された奉仕は、あと10年そこそこです。イエス様はこの変貌山からまっすぐ、エルサレムに向かわれました。ただ、惰性で動くのではなく、神様が示す道へと、方向転換したいと思います。まさしく、今がターニングポイントであります。

2.メタモルフォー

 9:2にイエス様の「御姿が変わった」とあります。「メタモルフォー」というのは、ギリシヤ語で「姿を変える」という動詞であります。毎週、日曜日午前9時半から、「プリキュア」という少女番組があります。5人の少女が変身するとき、「メタモルフォーセス」と言うようです。「メタモルフォー」が一番良く分かるのが、昆虫の変態であります。たとえば、ヤゴからトンボに変わるときは、ものすごい変化です。泥沼から天上へと、生活する場所も変わります。また、モコモコと這う青虫がさなぎになり、そのあと蝶が誕生します。セミもそうであります。セミは7年から10年地中で暮らします。この夏に地面から這い出てきて、変身します。薄羽かげろうも、アリ地獄の虫が変身したものですね。ですから、「メタモルフォー」とは、全く、別の姿に変わるという意味であります。だから、「変身!」という意味で使っても良いわけです。今から、15年くらい前になりますが、関西に松見先生という方がおられました。ある聖会で、松見先生がお話されました。とっても、ユーモアに満ちた先生で、笑いっぱなしでした。最後に、先生が「お祈りしてもらいたい方は前に出て来なさい」と言われました。そのとき、私は「よし!」と思って、前に進み出て、ひざまずきました。先生が私の背中に手を置き、「姿変わり!」と大きな声で言われました。そのとき、背中がボーっと熱くなり、聖霊に満たされ感動しました。「姿変わり!」は、まさしく、私に必用なことだなーと思いました。この「姿変わり」こそ、「メタモルフォー」であります。

みなさんは、姿変わりしたくはないでしょうか?しかし、これは外見のことではありません。お化粧することを英語で、cosmeticと言います。しかし、cosmeticは「表面的な、外見だけの」という意味であります。これは化けることであり、姿変わりではありません。姿変わりとは、内側から、本質的に変えられるということです。つまり、肉体よりも、霊と魂であります。実は、本当の美しさというものは、内的なものが外に出てくることを言うのであります。ですから、年齢は関係ないということになります。箴言31:30「麗しさはいつわり、美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」とあります。叶野姉妹の麗しさは偽りであり、藤原紀香の美しさもつかの間であります。この世は、外側の美しさにお金をかけようとします。しかし、クリスチャンは内面の麗しさを追及すべきでありましょう。これが、本当の姿代わりであり、永遠に続くものであります。Ⅱコリント3章に姿代わりのことが書いてあります。最初はモーセの顔のことが記されています。モーセがシナイ山から降りてきたら、顔の肌が光を放っていたとあります(出エジプト34:29)。その理由は、モーセがシナイ山で主と話していたからです。しかし、その光は時間が経つと消えて行きました。だから、モーセは栄光が消えていくのを人々に見せないために、顔におおいをかけました。そして、また主とお会いすると顔が再び輝きました。人々は輝いた顔のモーセを見ました。しかし、また栄光が消えて行くので顔におおいを掛けました。つまり、律法には限界があるということです。では、新約の時代はどうなったのでしょうか?Ⅱコリント3:16-18「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

これは、栄光が一時的なものではなく、だんだんと増し加えられていくということです。つまり、主と交わることによって、聖霊が私たちを栄光から栄光へと変わらせてくださるということです。では、具体的にどうしたら良いのでしょうか。マタイ6章でイエス様は「自分の奥まった部屋に入り」神様と交わるということです。つまり、みことばを瞑想して、主と交わる時を持つ。そうすると、私たちは霊的に麗しくなるということです。私は、メッセージの準備の時は、みことばを真剣に瞑想します。聖書を何回も読んだ後、 その後、目をつぶってあれこれ瞑想すると、必ず主からメッセージをいただくことができます。椅子にひざまずき、目をつぶると、自分が部屋のどの位置にいるのか分からなくなります。目をつぶりながら、主のみこえに耳を傾けます。しばらくすると、思いという画面に、浮かび上がってきます。お祈りには、大きく分けて、求める祈りと交わる祈りがあると思います。求める祈りはけっこう疲れます。なぜなら、こっちが一生懸命、神様に訴えるからです。一方、交わる祈りは、こちらが話すというよりも、「これは、どういう意味でしょうか?」と聞く方がメインになります。こちらが聞くと、主は必ず答えてくださいます。私は「将来のこと、ビジョン、どのように行くべきか、なぜ聞かないのだろうか?」と思います。考えたり、思い悩んだりすることは多々あります。しかし、静まって、目を閉じて、瞑想しながら聞なら、主はきっと答えてくださるでしょう。でも、私たち邪魔するものは、肉であります。肉がそうさせまいと忙しくさせたり、他のことに興味を持たせたりします。はっきり言って、みなさん、人間には解決がありません。イザヤ2:22「鼻で息をする人間をたよりにするな」とあります。人間に相談するのが悪いとは言いませんが、主なる神に解決を求めなければなりません。主こそがベスト・カウンセラーであります。そして、さらにすばらしいことは、主ご自身と交わるとき、私たちが変えられるということです。

 詩篇46:10には「やめよ。私こそ神であることを知れ」とあります。悩みがあるとき、問題にぶち当たった時、困った時、すべてのことをやめて、神様に聞くのです。戸を閉じて、静まって、主と交わりのです。この世は、あまりにも喧騒に満ちています。車の騒音、テレビの音が何時も鳴っています。電話や携帯も切って、人から離れて、聖書1つ手にとって部屋に入るのです。もう、だれも、そこにいません。だから、ひざまづいても、うつぶせになっても、ねっころがっても恥ずかしいことはありません。私の誘惑は本を読んだり、何か作業をすることです。勉強も良いかもしれませんが、それよりも勝るものは、聖書と瞑想です。ザ・ブックと祈りです。みなさん、これが力の源です。勉強をして知識を増し加えても、力は出てきません。逆に、恐れが増してきます。なぜなら、「ああ、まだまだ、知らないことがいっぱいある」と気付くからです。そして、「もっと知識を得なければ」と不安になります。でも、主のとの交わりは、ミラクルがあります。神様が英知を与えてくださいます。英知とはこの世の知恵や知識にまさるものです。今はIT時代で、いろんな知識や情報を得ることができます。もちろん、それも重要です。でも、神様は真理を創造された、永遠なるお方です。この世のすべてのものは変わります。しかし、みことばと神様とご自身は変わることがありません。ここに、私たちの霊のチャンネルを合わせるのです。すると、天国の放送が聞こえてきます。それは一般的なものではありません。あなたのものです。神様が、あなただけにコネクトしているのです。あなたは神様を独占しているのです。そのことは、聖霊様によって可能となりました。昔は預言者だけが、そのことができました。でも、新約時代は聖霊によって、ホットラインが開かれたのです。神様との緊急電話いつでもOK!話し中がありません。問題があっても、主と交わっているとどうなるでしょうか。問題を主にゆだねます。実は、問題と自分が癒着していて苦しかったのです。問題を主にゆだねると、平安がやってきます。同時に、私たちの霊が強められ、信仰が湧いてきます。そして、神様ご自身が、裏から手を差し伸べてくださるのです。

 変貌山で弟子たちは何をお聞きしたのでしょうか?「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。そうです。イエス様に聞くのです。どうぞ、時間と場所を作って、主と交わる時を持ちましょう。私たちの力の源は、密室の祈りにあると言っても過言ではありません。私たちがキリストの香りを放つ秘訣は、御霊によって主と交わることです。こういう複雑な時代だからこそ、みことばと祈りというシンプルなものが必用なのです。みことばと祈りは霊的なライフラインです。これがなければ、私たちは霊的に枯渇してしまいます。鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、主を求めましょう。