私たちは生まれてから生活していきますと、一定の考え方や見方を持ってしまいます。それを「世界観」と言います。世界観とは、めがねのレンズのようなものであります。そのレンズによって、ゆがめられたり、色づけされたり、フィールターがかけられます。結果的に、実体とはずいぶんと変わったものにとらえられてしまうのです。弟子たちが持っていた世界観とイエス様の世界観とでは、ずいぶん違っていました。弟子たちの世界観は地上の価値観に基づいたレンズでありましたが、イエス様の世界観は天国の価値観に基づいたレンズでありました。この地上ではとても価値があっても、天国ではさほど価値がないということがあるのです。ところで、弟子たちの価値の中心は何だったでしょうか?マルコ9章、33-34節。カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。イエス様はだれが一番偉いかについて、2つの答え、つまり2つの世界観を提示しています。
1.仕える者となれ
偉い人に関する、この世の世界観とはどういうものでしょうか?偉い人と言えば、多くの人を従える権力や力がある人ではないでしょうか。たとえばそれは大臣です。弟子たちは、イエス様がイスラエル王国をお立てになった暁には、自分たちこそが大臣になるんだと考えていました。ヨハネのお母さんは、「二人の子どもをイエス様の右と左に座らせてやってください」と、あるところでお願いしています。イエス様の弟子たちですら、この世の世界観を持っていたわけです。他に偉い人と言えば、社長であります。みなさんは、会社に入ったなら平社員でずっといたいでしょうか?2,3年後には係長になりたいですね。それから課長、部長へと昇進したいでしょう。できれば、取締役社長になりたい。大勢の人たちを従え、たくさんのお金も入る。ゴルフもできるし、美人秘書のお尻もさわれる。スポーツ界でもトップが良いに決まっています。お相撲でも、大関よりも横綱が良いですね。横綱は負けても、下に落ちる事はありません。調子が悪ければ、休場すれば良い。横綱は一番風呂、一番飯で、そしてみんなが仕えてくれるでしょう。教会もどうでしょうか?どうせだったら、牧師が良い。日曜日だけ、ちょっとメッセージして生活できる。平日は何をしているか分からない。日本の牧師は地位が低いので、韓国とかハワイの牧師が良い。「牧師先生どうぞ」とおいしいものを持ってきてくれる。これが、一般的な価値観、世界観ではないでしょうか?
でも、「この世の世界観は、おかしいぞ!ちがうんじゃないかな?」と、ひずみが暴露されるときがあります。さっき言った大臣は、考えてみると、とても不安定な地位であります。「しょうがない」と言っただけで、退陣させられます。ある大臣は、実家を事務所にしていたとか、領収書が二重だったとかで更迭されました。総理大臣も良いかなーと思うけれど、支持率がコロコロ変わり、トップも楽ではありません。社長はどうでしょうか?確かに左うちわの時があるでしょう。でも、図に乗って悪い事をしだすとどうでしょうか?少し前は、お肉の中に、いろんな肉を混ぜていた社長がいました。とっても儲かっていたんですね。それがバレて、会社が倒産しそうです。また、「白い恋人」というお菓子があります。30年前に、大当たりし大変儲かりました。アミューズメントセンターを作ったり、サッカーのスポンサーにもなりました。でも、期限切れの商品の札を張り替えたということです。何かの菌が入っていたものをそのまま出荷したとか。それで、一夜にして社長職は失墜であります。内部告発って怖いですね。横綱はどうでしょうか?これまで負け知らずの、最強の横綱。私は母国でサッカーくらいしたってかまわないんじゃないかと思います。スポーツは強ければ良いと思いますが、国技はそうはいかないようであります。いやー、横綱もいつ転落するか分かりません。大教会の牧師だって安心できません。10年以上前のことですが、大阪の大教会の牧師が、教会に出入り禁止になったそうです。それまではすごく威張っていたのですが、教会から締め出しを食らいました。共通して言えることは何でしょう?大臣、社長、横綱、牧師・・・すべて上にあるものは、下にひっくり返り易いということです。人は上に昇るといつか慢心して、足元がすくわれてしまう恐れがあります。
では、イエス様の世界観とは何でしょうか?35節、イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」イエス様は、「人の先に立ちたい」という人間の欲望に対しては、是認しています。言葉を換えると、「リーダーになるのは良いことだが、どういうリーダーになるのか」ということです。この世的なリーダーなのか、それとも天国的なリーダーかということです。この世のリーダーは権力をふるい、多くの人を自分に従わせます。どれほど多くの人たちが自分に仕えるか、これがリーダーの大小を決定します。牧師もどれほど多くの信徒が仕えるかで、大小が決まったらどうでしょうか?それは地上の価値観に基づいた教会です。イエス様は全く逆のことを言われました。「みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」。しんがりとは、トップではなく最後尾です。仕える者とは、サーバント、給仕とか召使という意味です。わぁー、全くの驚きです。どうして、世の母親は子どもたちを良い大学に入れたいのでしょうか?給仕とか召使をさせるためでしょうか?そうではないです、多くの人を従える良い部署に就くためであります。公務員だったら幹部、会社だったら重役になるためであります。召使になるために大学へ行く人はいません。しかし、今、サーバント・リーダーシップというのが注目されています。従来のリーダーシップと言うのは、ピラミッド型です。上からの命令に下の者たちが従うというトップダウン方式です。これだとお客さんが一番したになります。それで、サーバント・リーダーシップと言うのは、逆三角形にして、社長を一番したにもっていったものです。もちろん、一番上がお客さんであります。この方式は、アメリカの軍隊でも最近、取り入れているようです。
では、教会はどうあるべきでしょうか?残念ですが、ローマ・カトリックになってから、階層的な組織(ヒエラルキー)が定着しました。一番上が、「教皇」です。その下に、司教・司祭・助祭という聖職者がおり、一番下が平信徒であります。ルターは「万人祭司」を提唱し、プロテスタント教会は一応、平らということになっています。でも、教会が「リーダーシップ」を言う時、どうしても、この世のリーダーシップ、あるいはローマカトリックから、借用してしまうのです。「イエス様は何と言っているか」ということは、全く眼中になく、いろんな社会学者の本を持ってきます。イエス様は何とおっしゃっているでしょうか?「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」なぜ、このみことばが見えないのでしょうか?それは、私たちがこの世の世界観をもっているからです。今から30数年前、「日本の教会が成長しないのは牧師の権威が低いからだ」という考えが韓国の教会から入ってきました。その当時、韓国の教会はものすごいリバイバルでした。日本からも韓国へ勉強に行き、韓国からも日本にたくさんの講師がお見えになりました。特にチョーヨンギ牧師の純福音教会は、ピラミッド型で、何十万の信徒たちがいるのに整然としていました。「これは、すばらしい」ということで、区域長を任命し、区域集会を開きました。ところがあまりうまくいきませんでした。「何故か、それは牧師の権威が低すぎるからだ。もっと、牧師を高め、信徒は牧師を尊敬しなければならない。」という考えが広まり始めました。私もそういう考えで亀有を始めました。私の中にものすごい、フラストレーションがありました。なんで、牧師は掃除をしなければならないんだろう。なんで、牧師の車が軽自動車なのか。なんで、牧師の待遇(住まいとか給料)がそんなに良くないのか。イライラしました。挙句の果て、どういう答えを出したでしょうか?「人数が少ないからだ。韓国やアメリカのように教会が大きくなれば、牧師が尊敬されるし、待遇も良くなるんだ。そうだ、人数をふやせば良いんだ」。そんなふうに考えました。
しかし、1995年、セルチャーチと出会ってから、それはちょっと違うんじゃないかなーと思うのようになったんです。セルチャーチ・ムーブメントは、「初代教会に帰ろう!聖書の原則に帰ろう!」という中心的な考えがあります。常磐セルのある牧師は「尊敬される牧師ではなく、愛される牧師になりたい」と言いました。「ああ、そうだなー」と思いました。小牧者訓練会のときは、「能力のある強いリーダーを作ろう」と躍起になっていました。だから、そうなれない信徒を心の中でさばいていました。しかし、セルになってから「リーダーはだれでもできる。能力よりも関係作りだ」と考えるようになりました。牧師の価値観が変わったんですから、恐らく教会の雰囲気も変わったんじゃないかと思います。私自身、掃除をすることが何の苦にもならなくなりました。ただ1つ、セル教会になってがっかりしたのは、「ため口」が当たり前になったということです。家内によく、愚痴をこぼしました。すると、家内は「あなたがそういう教会にしたんでしょう」と返してきます。先ほどの、サーバントリーダーシップの図式を教会にあてはめるとどうなるでしょうか。一番上が未信者・求道者です。その下がいわゆる教会員。その下がリーダー・役員。そして、一番下が牧師ということになります。私たちは未信者・求道者のニーズをどうしたら満たすことができるのか、どのように仕えられるのか、考えなければなりません。
2.小さい者への配慮
マルコ9:36-37、それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」この世の世界観で、偉い人とは、多くの人を従える権力や力がある人でしょう。その点、幼子はどうでしょうか?王様の子どもならともかく、一般的に幼子は無力で何もできません。その当時のローマ社会では、子どもに対しての価値観がものすごく低かったようです。ある夫が戦場から妻に「生まれた赤ん坊が女子であったら殺せ、男子だったら生かしておけ」という手紙を送っています。ユダヤの世界でも、人数に数えるときは20歳以上の男性だけです。女性や子どもは人数には入れなかったのです。だから、5つのパンの2匹の魚による、奇跡のときは、男性だけで5000人いたと記されています。だけどすばらしいことに、5つのパンの2匹の魚は子どもが差し出した弁当でした。ハレルヤ!イエス様は、42節で「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」と教えておられます。ですから、イエス様は子どもの人格、子どもの価値を回復したお方であります。
しかし、子どもの人権が守られるようになったのは近年であります。ヨーロッパでは、産業革命の頃、子どもが働かされました。煙突のすす掃除をするのが子どもたちでした。そのため、胸の病気になる子どもが多かったのです。昔、日本では、子どもは多すぎると間引きされたり、売られました。口減らしの対象になるのが、子どもであります。エリヤハウスのジョン・サンフォードが「日本に働いている要塞」について語っています。要塞とは、固定した考えであり、世界観のもっと強力なものであります。日本に働いているのは、パフォーマンス志向という要塞である。パフォーマンス志向とは何から生まれるだろうか?それは、私たちが自分の存在ゆえに愛されているのではなく、がんばって、がんばって一生懸命、何かをしたから受け入れられるのだという偽りから来ている。だから日本人は、他の国の人たちと比べて類を見ないほど、愛を獲得するために働かなければならないという考え方に支配されている。エリヤハウスの教えは、人々の心の奥深くに「あなたが存在するそれだけで愛される価値がある」という福音を人々に伝えるものである。しかし、あなたの友人や周りには、この社会において「ちゃんとしないと受け入れられない」「何かをしないと愛されない」という思いに駆り立てられて生きている人が何と多いことだろう。この要塞的考え方の根底には、恐れがある。失敗することの恐れ、拒絶されることの恐れ、自分の居場所がなくなることの恐れ。どうかあなたの友人、知人、周りの人たちのために祈ってください。神様の愛にその人たちが、満たされるように祈ってください。なぜなら、完全な愛は恐れを閉め出すからである。・・・このようにサンフォード師は語っておられました。
実は、先週、説教の準備をしようとこの箇所を一読しました。「えー?来週こんなところから話すの?何も浮かんでこないなー」と、モティベーションが上がりませんでした。なぜでしょう?私自身も日本人が持つ要塞の影響を受けているからです。私が子どもの頃、「子どもとは半人前、やっかい者、ジャリ」と思われていました。私はよく、「ガキ、ガキ」と呼ばれて育ちました。日本語で餓鬼とは、腹を減らした鬼っ子でしょう。なんてひどい!私などは8人兄弟の7番目ですから、1人の価値観が本当に薄い。私は盆と正月が大嫌いでした。兄と姉は偉そうに都会風を吹かせる。東京から帰って、「百姓、百姓」と馬鹿にする。兄や姉が結婚すると、その伴侶を連れてくるでしょう。彼らは枝豆とか刺身でビールをいただき、テーブルを占領しています。下の弟や妹の居場所がなくなるわけです。おこずかいとかお年玉も良いですが、何か卑屈になります。ただ、今思えば、母は年越しの日だけは、子どもたちに一人前ずつのお皿を出してくれたという記憶があります。ホウレン草のおひたし、赤い酢ダコの切り身、大根の酢のもの。しかし、年が明けて、お客さんが来ると、もう居場所がなくなります。しかし、詩篇16篇はすばらしいことを教えてくれました。詩篇16:5「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。」英語の聖書では、O Lord,You are the portion of my inheritance and my cup.ここにportionという言葉があります。portionとは、食物の1人前、分け前、相続分という意味です。神様は私に、食物の1人前を保ってくださる。そればかりか、ちゃんと受け継ぐべき相続を堅く保ってくださるということです。ハレルヤ!私は聖書の神様に出会って、かなり癒されました。
「君は愛されるため生まれた」という歌が、キリスト教会でヒットしていますが、あの歌は、一人の子どもであっても、存在価値があることを歌っているのでしょう。イエス様がおっしゃりたいのは、権力や力の前に、一人の存在価値を大切にしなさいということではないでしょうか?本当の指導者は、数の多さとか能力の大きさにまどわされないで、一人の存在価値を大切にしなければならないということです。私も大教会の牧師にあこがれたことがあります(ついこの間まで)。みなさん、大教会は良いですが、一人の存在が薄くなっては困ります。私は前の教会では、献金の時、カウンターで会衆の頭数を数える奉仕をしていました。ですから、今でも人数に囚われるところが多少あります。しかし、クリスチャンとは、日曜日に礼拝に来ていればそれで良いということではありません。どういうクリスチャンになるかが問題であります。また、クリスチャン一人ひとりが、「神様に愛されて、自分は特別な存在なんだ」というセルフイメージの回復が必要であります。私もそうでしたが、自分の存在が薄いために、一生懸命がんばって「俺はここにいるんだ!」とパフォーマンスして生きてきました。それでは、いけません。人の評価によって上がり下がりしてしまうからです。私たちは歌手やタレントのように、拍手の数によって、上がり下がりしてはいけないのです。doing「行い」ではなく being「存在」の方がもっと大事なのです。そして、being「存在」こそが、doing「行い」を生み出すのです。また、私たちクリスチャンは赦された罪びとではありません。だれでもキリストにあるなら、神様の子どもです。神様が王様なんです。すると、神の子どもはどうなるでしょうか?それは王子であり、王女なのです。プリンスとプリンセスです。だから、イエス様は「子どもでも価値がある、躓かせてはならない」と教えられたのではないでしょうか?あなたは主にあって、プリンスとプリンセスです。頭に王冠をいただいているのです。うつむいたり、うなだれると、王冠がポロっと落ちてしまいます。だから、「私は主にあってプリンスです」あるいは「主にあってプリンセスです」と胸を張りましょう。そうすれば、あなたの後から、すばらしい環境と運命がついてきます。神様はあなたに食物の1人前ばかりか、天国においてちゃんと受け継ぐべき相続を与えておられます。このように自分が神様から大事にされ、受け入れられていることを知るとどうなるでしょうか?今度は、他者をも、幼子をも受け入れるようになれるのです。よく、自分の子どもを愛せない母親や父親がいます。なぜか、それは自分が子どものとき、無条件で愛されたり、受け入れられたという経験がないからです。「親の言うことを聞く良い子であれば愛する」「勉強ができれば、有名校に入れば受け入れる」と育てられてきたからです。そうではありません。私たちは主にあって存在そのものがすばらしいのです。イエス・キリストは私たち一人ひとりを贖うために、十字架にかかってくださいました。世界にあなた一人しかいなくても、イエス様は十字架にかかってくださったでしょう。そして、イエス様を信じるなら、神の子どもとなれます。神の子どもならば、神様が持っておられるものを相続することができます。私たちは何も持っていないようで、実は持っているのです。どうぞ、この世の世界観に惑わされないで、神様のめがねで見るようにしましょう。