パリサイ人とは律法を厳格に守るユダヤ教徒たちでした。また、律法学者は彼らの教師のような存在で律法については何でも知っていました。いわゆる律法のエキスパートであります。彼らのうちの一人がイエス様に「律法の中で、大切な戒めはどれですか」と質問しました。あえて、イエス様を試したわけです。ところが、イエス様は何百もある律法をたった2つにまとめられました。そのすばらしい答えに彼らは返すことばもありませんでした。
1.神を愛すること
イエス様は「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。」と言われました。このことばは、申命記6章からの引用です。イスラエルの人たちは小さいときから、このみことばを暗誦していました。新約聖書はギリシャ語の70人訳ですから、ヘブル語の申命記とは微妙に違っています。パウロは人間を「霊、たましい、からだ」と三つに分けています(Ⅰテサロニケ5:22)。しかし、ヘブルの世界では、人間をはっきりと分けていませんでした。だから、1つ1つを分析するのは簡単ではありません。でも、あえて分けるならば心はheart感情面であります。思いは、原文はプシュケーなので、精神あるいは魂と言えるでしょう。そして、知力というのは知能、理解、考えという意味です。英語の聖書はmindあるいはintellectになっています。さらに、マルコによる福音書は「力を尽くして」と書いてありますので、身体的なものも含まれています。申命記6章にも「力を尽くして」と書いてあります。合計3つなのか、4つなのか分かりません。とにかく言えることは、心も考えも霊も体もということでしょう。つまり、全身全霊で主なる神を愛せよということなのです。
でも、神さまが私たちに「愛せよ」とは不思議ではないでしょうか?神さまは私たちに愛されることを望んでおられるということです。いや、「ご自分を愛せよ」と命じておられるのです。愛を私たちたちから受けたい神さまは世界中探してもおられないのではないでしょうか?なぜ、主なる神は私たちの愛を受けたいと願い、そして命じておられるのでしょうか?そのヒントは創世記1章にあります。創世記1:26-27「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」ここで言われているのは「神のかたち」であります。神さまは三位一体の神さまです。父、子、聖霊なる神が互いに愛し合う存在です。「神が愛である」というとき、神さまが愛する対象をお持ちであるという前提があります。永遠の昔から、神さまは、父、子、聖霊として互いに愛し合っておられたのです。そのかたちとして人間を造るとはどういう意味でしょう。それは神さまが人間を愛し、人間もその神さまを愛するということです。さらには、人間同士も互いに愛する共同体として造られたということです。イスラム教はアッラーの神しか認めていませんので、「神は愛」ということがありません。神がお一人だからです。他の宗教の神も「愛」と言うかもしれませんが、人間的な愛であったり、慈悲とか可哀そうという愛です。新約聖書が言う愛はアガペーの愛であり、一方的に与える愛、無条件の愛です。
神さまは人間を造るときロボットには造りませんでした。ちゃんと自由意思を与えました。ロボットから「カミサマ、アナタヲアイシマス」と言われても嬉しくありません。人間には、「神さま、あなたを愛したくありません」という選択肢も与えられているということです。実際、イスラエルは主なる神さまを愛しませんでした。数か月前、ホセヤ書からも学んだと思いますが、イスラエルは霊的姦淫を犯し続けました。彼らは異教の神、バアルを慕いました。ところが、異邦人の私たちは、神さまの存在すら知りません。学校では「人間は自然に発生し、サルから進化した」と教えています。それは、父親を知らない孤児のような存在です。でも、聖書から神さまからの第一の戒めが「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」であります。神さまは私たちの愛を求めておられるというのはとても新鮮ではないでしょうか?問題は、どれくらい私たちが神さまを愛しているかであります。でも、その前に、神さまの愛を知り、神さまの愛を受ける必要があります。クリスチャンであるならば、このみことばをご存じでしょう。Ⅰヨハネ4:9-10「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」まず最初に、神さまが私たちを滅びの中から救ってくださいました。それは、ご自身の御子イエスを私たちの罪のために罰したことにあるのです。神の愛はあがないの愛であり、私たちの罪を赦し、私たちを神の子どもにしてくださるということです。
私たちは神さまからの無条件の愛を受けているので、その応答として神さまを愛するのです。でも、ここでは「愛しなさい」と命令されているのはなぜでしょう?私たちは気まぐれなので、命令されないと愛することができないからでしょう。だから、「思いを尽くして、知力を尽くして」と言われているのです。私たちの愛が一番現れるところは、神さまを礼拝するということです。礼拝は私たち自身をささげ、神さまをあがめる行為だからです。しかし、私たちは全身全霊で神さまを礼拝しているでしょうか?たとえば、このような公の礼拝では、感情を抑えます。そして、身体を用いるということはまずありません。ダビデが勧めている礼拝が詩篇にあります。詩篇47:1「手をたたけ、喜びの声をあげて神にさけべ」、詩篇134:2「手を上げ、主をほめたたえよ」、詩篇149:3「踊りをもって御名を賛美せよ」…せめて、私たちは個人の礼拝では、涙を流したり、叫んだり、踊ったりすべきであります。アフリカの教会では公の礼拝でも、手を打ちならし、踊っています。西洋周りのキリスト教はあまりにも儀式的で、宗教的です。最近はインターネットの礼拝もあるようです。彼らの心は良いとしても、体は教会の集いに来ていません。コーヒーカップを置いて、神の民の集いに行くという犠牲も必要ではないでしょうか?「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」は、全身全霊を持って神さまを愛せよということです。なぜなら、神さまは私たちの全身全霊を買い戻してくださったからです。
2.隣人を愛すること
マタ22:39「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」このみことばは、レビ記からの引用です。本来なら、出エジプト記20章の十戒を語るべきであります。でも、イエス様は十戒の5,6,7,8,9,10をひとまとめにしました。もし、隣人をあなた自身のように愛したなら、盗んだり、嘘ついたり、殺したりしないからです。ローマ書でパウロがこう述べています。ローマ13:9-10「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」アーメン。そのように愛は律法を全うするのです。しかし、ここに「あなたの隣人」とあります。私たちは遠い世界の人たちを愛せても、隣のオヤジは憎いのです。会社の同僚、家族、教会の兄弟姉妹を愛しにくいのは何故でしょう?深く関わると、衝突することもあるからです。遠い世界の人たちとは交わることがありませんが、隣人はそうではありません。考えや意見、性格や好みも違います。互いに批判したり、争ったりすることが出てきます。イエス様の近くにいた12弟子も全くそのとおりでした。彼らは最初から最後まで、「だれが一番偉いか」争っていたからです。十字架と復活を目撃したヨハネは何と言っているでしょうか?Ⅰヨハネ2:7「愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。」古くて新しい命令とは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)という命令です。
でも、この戒めをみると、隣人を愛する前に、1つ解決しておくべき課題があります。イエス様は「隣人をあなた自身のように愛せよ」とおっしゃいました。つまり、自分を正しく愛していない人は、隣人を愛することはできないということになります。ですから、この戒めは2つもありますが、3つでもあるということです。隠れている戒めは「自分を愛する」ということです。こういうことを言うと、「キリスト教は自己否定の宗教であり、イエスさまも自分のいのちを憎め」とおっしゃったではないか」と反論するかもしれません。もちろん、私たちは神さまよりも自分を愛してはいけません。間違った自己愛というものは確かにあります。でも、イエス様は「自分を愛するように、隣人を愛するように」とおっしゃっています。自分を粗末にし、自分を見下げている人が、果たして、隣人を大切にし、尊敬できるでしょうか?それは無理です。なぜなら、正しい愛し方を知らないからです。私も8人兄弟の7番目で育ちましたので、自分の存在価値がものすごく低かったです。そのため周りの人たちをぞんざいに扱いました。ルカ18章に「人を人とも思わない裁判官」がいましたが、まさしく私のことです。やがて、私は牧師になりましたが、態度もことば使いも粗野でした。箴言30:21-22「この地は三つのことによって震える。いや、四つのことによって耐えられない。奴隷が王となり…」とあります。クリス・バロトン師がこう神さまから言われたそうです。「奴隷は、生まれた時から取るに足りない者として扱われて来た。彼は成長しても自分にも大した価値がない事、また自分の意見は尊重されない事を成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大な者となったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることができないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずの人たちを、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ。私の息子よ。お前こそがその王となった奴隷なのだ。」(『王家の者として生きる』より)。つまり、彼は、自分のアイディンティテイに問題があったということです。自分が愛され、大事にされた存在ならば、そのように他者を扱うでしょう。だから、私たちは隣人を愛する前に、神の愛を受け、神の王子、王女としての歩みをする必要があります。近年は教会でインナーヒーリングやアイディンティテイの回復ということが言われています。愛欠乏症の人は、マイナスの地点から始めなければなりません。そのような人たちには、愛と赦しと受け入れが最も必要です。心の癒しを受けて、隣人をだんだん愛せるようになるということです。
でも、この地上では完全に癒されることがありません。自分の癒しばかりに気をとめていますと、前を見ないで走っている車と同じです。クリスチャンになったら、愛の運転免許証をいただいたのと同じです。きのうきょう免許をいただいた人も、30年のベテランであっても、道路に出たならば同じです。だれでも愛という戒めを守る必要があります。大川牧師は「愛には卒業はない。一生、愛の課題に立ち続けるしかない」と言われました。私たちの隣人とはだれのことでしょう?第一にそれは家族です。使徒パウロがこう述べています。Ⅰテモテ5:8「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」その次には、主にある兄弟姉妹です。教会は天国ではありません。むしろ、天国に行くための「愛の道場」みたいなものです。教会で愛を学び、愛する訓練をするのです。ですから、当然、教会では傷をうけたり、傷を与えたりすることがあるのです。そうやって、どういうのが愛で、どうしたら愛でないのか体験的に分かってくるのです。私も教会でそのことを学びました。今も学んでいます。最後には私たちがこの世において接する人たちです。会社の同僚、学友、地域社会の人たちがいます。そういう人たちもキリストの愛で接する必要があります。最近は、フェイスブックとかラインで隣人の枠組みがぼやけてきました。ある人は1000人も友人がいます。でも、本当に自分の悩みを打ち明けられる友人はゼロだったりします。数が多ければ良いというものではありません。イエス様には70人、そして12人の弟子たちがいました。特に3人とは親しくしていました。最も親しい人はヨハネでした。あなたも伴侶の他に、コアにあたる数名の親しい人が必要ではないでしょうか。自分を守り、励ましてくれる人、時には辛口の忠告を与えてくれる人が必要です。愛には卒業はありません。愛は生涯守るべき神さまからの戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」
3.律法の限界
神さまを愛すること、隣人を愛することは、戒めであり律法です。多くのクリスチャンは、「愛する」ということが律法であることを忘れています。律法の意味と目的をご存じでしょうか?律法は守るために与えられたのではありません。律法は「私には罪がある。そのためにキリストが必要だ」ということを教えてくれるのです。パウロはローマ7:19「私は自分でしたいと思う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行っています。」これを言い換えるならどうなるでしょう。「私はしたいと思う愛を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。私は愛したいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見出すのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょう。」今から10年以上前になりますが、本郷台キリスト教会で「愛の関係を持つ」というテーマでセミナーがありました。講師は香港のベン・ウォン師で私が司会を担当しました。午前中のセミナーが終わり、私がお祈りしました。「主よ、私たちには隣人を愛する愛はありませんが、どうか愛せるように助けてください」とお祈りしました。その直後、ベン・ウォン師が講壇に上ってこう言いました。「『私は愛せませんので、どうか愛させてください』という祈りを、神さまがお聞きくださるだろうか。もう、自分は愛せないと言っている人を神さまがその人を造り変えて、愛せる人にすることができるだろうか?それは答えられない祈りだ」とケチをつけました。そして「午後はそのことについて学ぼう」ということになりました。「いや、エライことになったなー」と身が縮む思いでした。今、現在、午後のセミナーで何をおっしゃったのか思い出せません。恐らく、こちらが「愛させて下さい。愛します」と願うなら、神さまが必要な愛を下さるということだったと思います。
でも、おことばではありますが、日本人はそのような祈りをするのではないでしょうか?昔、榎本保郎師の『旧約聖書一日一章』に以下のことが書いてあったと記憶します。「自分に愛がないということは悲しい発見であるが、本当の愛を見出す偉大な一歩である」と書いてありました。さきほど引用したパウロのローマ書は、まさしく「自分には愛することができない」ということを発見することだと思います。でも、それで終わりではありません。パウロは「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:25)と告白しました。ローマ8章には、いのちの御霊の法則について書かれています。「肉によって無力になったため、律法にできなくなっていることを、神はしてくださいました。」とあります。それは、私たちの内におられる、キリストの御霊がそうしてくださるということです。肉では神さまも、隣人も愛せないけれど、キリストの御霊が愛させてくださるということです。おことばですが、肉で愛せる人はいます。美しいもの、価値あるもの、自分を愛してくれる人は愛せます。しかし、聖書が求める愛は、無条件で一方的な愛、アガペーの愛であります。生まれつきの人間は、そのような愛は持ち合わせていません。だから、「自分にはその愛はありませんが、愛せるように助けてください」という祈りは、アリではないでしょうか?なんだか、説教を言い訳の時にしているような感じがします。でも、私の言わんとしていることは理解していただけるのではないでしょうか?
ローマ5章に「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)とあります。ここにははっきりと「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と書かれています。つまり、その愛で、神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛していけるのではないかと思います。神さまは命令だけを与えて、「あとは自分の力でやりなさい」というお方ではありません。命令を与えた限りは、その資源も同時に与えてくださいます。愛は聖霊による実であります。キリストにとどまっていると、結ばれてくるのです。なぜなら、ガラテヤ書5章に「御霊の実は、愛、喜び、平安」とあるからです。奥山実先生はとてもセルフイメージが高い先生です。「僕は愛があるよ。愛のかたまりみたいだね。僕ほど愛のある人はそんなにいないよ」という、説教を聞いたことがあります。さきほどの「私には隣人を愛する愛はありませんが」と決めてかかると、「愛がなくて当然」という気になります。さきほどの内容を飛ばしてしまいますが、信仰によって「主にあって愛します」と願うなら、愛せるようになるということです。ベン・ウォン師はそのことをおっしゃりたかったのでないかと思います。でも、香港や台湾の人たちは、カラッとしています。底抜けに明るいところがあります。でも、日本人はジトーっとしています。湿り気があるというか、暗さがあります。大体、「愛します」という言葉も発しません。「むすーっ」として言わないです。ある牧師はアメリカ女性と結婚していますが、1日に10回「愛しているよ」と言わないと満足してくれないそうです。もちろん、愛はことばだけではありませんが、キリスト教は愛することが最大のテーマなんだということを忘れてはいけません。
プロテスタント教会はこれまで愛することよりも、神学の違いに重点を置いてきました。その点、ローマ・カトリックは神学よりも、人々を愛することを実行してきたように思えます。私たちはどちらかと言うと「愛とは何か」「どのように愛するべきなのか」と愛について考えてきました。しかし、本来の愛は「愛する」という動詞であり、説教や教えの研究課題ではないということです。私たちは頭で愛することを追求してきました。でも、心や体も必要なんだということを学びました。聖書は、「思いを尽くして愛せよ」ですが、本来は「魂を尽くして愛せよ」ということなのです。魂は精神とも言いますが、もっと深いものです。魂は霊を含んだ内なる人そのものです。ある人が「魂いっぱい愛します」と祈りました。その人は、手島郁郎師の「キリストの幕屋」の出身でした。でも、とても新鮮な感じがしました。「主よ、あなたを魂いっぱい愛します」。「私の隣人を魂いっぱい愛します」。少し危ない気もしますが、聖書からは外れていません。私たちは左脳を用いて観念的になります。愛もそうなりがちです。本当の愛は、感情的であり、創造的であり、魂の底から湧いてくるものではないでしょうか?魂の底には、キリストの御霊がおられます。聖霊によって神の愛が注がれているので、神さまと隣人を愛することができるのです。