2007.6.10 機知と信仰に富んだ女 マルコ7:24-30

1.女の信仰

ツロはガリラヤの北、海辺の町。昔は海洋貿易で栄え、Ⅰ列王記ではツロの王ヒラムが神殿のためにレバノン杉を供給。ツロは自然の要塞に囲まれ難攻不落な町で、アッシリアの攻撃にも耐え抜いた。だが、エゼキエル書では高慢の町ツロは「漁師が網を引くところとなる」と呪っている。

  この女性は異邦人、マタイではカナン人の女と言われている。異邦の町の異邦人。ユダヤ人たちは異邦人を「犬」と呼んだ。彼らにとって、犬は野獣、汚れたもの、軽蔑すべきもの。

女性は、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。英語の聖書ではbegged乞食のように乞う。マタイ15章では「ダビデの子よ。わたしをあわれんでください」と叫びながら、あとについて来た。弟子たちはうるさいから、追い返してくれと頼んだ。

  信仰とは求めること。願い求めること。彼女は娘のために、叫び、足元にひれ伏し、願い続けた。恥も外聞もなく、願い続けた。マタイ15章で、イエス様は彼女に「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」と言われた。あなたは神様になりふりかまわず祈れるだろうか?

イエス様は一言も答えなかった。最初は無視していた。しかし、叫びながらついてくる彼女に何と言っただろうか?27節「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

  もし、プライドの高い女だったら?「なにさ、犬呼ばわりして、ふざけんじゃないわよ!」とさっさと帰っただろう。ツロは高慢の町であった。エゼキエル28:11「あなたは全きものの典型、知恵に満ち、美のきわみであった」。イエス様が冷たくあしらったのは、女を試すためであった。求めても、神様はあなたの信仰を試すときがある。そこから信仰の深化が始まる。プイとくびすを返して立ち去るか、それともさらにへりくだって求めるか?

しかし、この女はへりくだって求めた。28-29「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

  「犬でも結構です。子どもたちのパンくずをいただきとうございます!」イエス様は「そうまで言うのか!」と感心された。パンくずとは、あまりもの、おこぼれでも結構ですという意味。崔しじつ(ハレルヤおばさん)。「はい、あなたは異言が出ましたよ」。祝福を求めに行ったら「はい、祝福します!」ほんの2,3秒。日本からわざわざ来たのに!

あなたは神様に求めるのに、なりふりかまわず、ストレートにもとめられるだろうか?

   ベン・ウォン師が若者に「神様!」と叫んでごらんとチャレンジ!

2.女の機知

この女性は信仰だけではなく、機知にも富んでいた。イエス様も「子犬」と呼んでいる。当時、犬には2種類のことばがあった。マタイ7章の「聖なるものを犬に与えるな」は、ギリシャ語「クノー」野獣、軽蔑すべきもの。しかし、ここは「クナリオン」愛玩用の犬、飼い犬。イエス様は彼女を「犬呼ばわりしたのではない」。やさしさがこめられている。

  これに対して、彼女は「食卓の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と答えた。イエス様のことばにとんちで返した。確かに、飼い犬だったら、食卓のパンくずをいただく。ユダヤ人が子どもであり、自分は異邦人の子犬。パンくずでももらえるはず!

ユーモアとか機知(ウィット)はとても大切。ユーモアは人間の心に訴えるおかしさ。ウィットは知的なおかしさ。

  日本人は深刻しすぎる。なんでもストレート。ギスギスして遊びがない。外国映画などでは、どんな困った状況、悲劇でさえも「笑い飛ばす」ところがある。ふざけても良いということではないが、明るく肯定的に考える必要がある。また、ウイットはユーモアよりも、レベルが上。「あなたのお庭のバラはなんとお綺麗でしょう」。「うちのバラたちは、あなたがなんとお美しい女性でしょう」と言っています。

聖書にはウィットに富んだ人々がたくさん出てくる。

  出エジプト1章、助産婦たち「ヘブルの女は活力があるので、助産婦が行く前に生んでしまう」

  ヨシュア2章、遊女ラハブは二人の斥候をかくまった。ラハブの家族全員が救われた。

  Ⅰサムエル25章、ナバルがダビデを呪う。妻アビガイルが贈り物を差し出してとりなす。

Ⅱ列王記5章、ナアマン大将のしもべたち「むずかしいことを命じたらできたでしょう」。

  マルコ2章、屋根をはがし、穴をあけて、中風の友人を寝かせたままで降ろした人たち。

  箴言3:13「幸いなことよ。知恵を見出す人、英知をいただく人は。」

私たちは「神様に求めたけどだめだった!」1回であきらめることはないだろうか?この女性は、イエス様につきまとい、叫びつづけた。無視され、犬呼ばわりされても諦めなかった。しかも、深刻になりすぎず、ウィットに満ちていた。全能者の影に宿るなら、そんなに深刻になることはない。詩篇91:1,15 「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」「 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い、彼に誉れを与えよう」。