2007.6.17 エパタ、開け マルコ7:31-37

差別用語、不快用語の訂正。つんぼ=耳の聞こえない者、おし=口のきけない者。英語圏ではそういうことがないが、日本の場合は、残念だが、差別的な意味がこめられているものが多い。

1.肉体的な耳と口

33節「両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた」

イエス様の癒し方は、パターン化されていない。言葉で命じたり、手を置いたり、つばきで泥こねたり、様々である。先日、来られた中嶋師は、その都度、聖霊の促しに従うそうである。

「開け」は受動態なので「(神によって)開かれよ」である。鼓膜なのか、神経の問題なのか分からないが、それまで閉ざされていた聴覚が開かれた。不通となっていた耳の回線がつながった。PAシステムで、音が入らないことがよくある。マイク、ミキサー、アンプあるいはケーブル。神様が設計者なので、癒すことができる。

イエス様が天を見上げたのは、父なる神の同意と力を仰いだからだろう。また、「深く嘆息」されたのは、この人に対する深いあわれみ(これまでどんなに不自由な思いをしてきたのかという同情)ではないかと思う。奇跡の力の源は神の力であり、動機はあわれみである。

昨今、介護の問題が取り上げられている。介護を金儲けの手段にしてはいけない。また、自分だけの頑張りにも限界がある。「人々は・・・連れて来て、願った」。協力と、力の源と動機が大切ではないかと思う。

2.霊的な耳と口

肉体的に耳の聞こえない人は、1%以下かもしれない。しかし、生まれつき霊的に耳が聞こえない人は100%である。また、私たちはまことの神に祈ったこともない、口のきけない者であった。だが、クリスチャンになると(回心すると)、霊的な耳が開かれ、神様の声がなんとなく分かるようになる。祈りも最初はもつれたような状態だが、だんだんとなめらかになる。

父なる神(聖霊)は、私たちに大切なことを語っているのかもしれない。しかし、私たちは神様の御声になかなか耳を傾けようとしない。いたずらに動き回り、この世の情報(テレビや携帯)に耳を貸している。Ⅰ列王記19:11,12「しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」。 おそらく、聖霊様の声は静かではないかと思う。ということは、私たちが神様の御声を聞くため、静まる時が必要である。

先日、来られたベン・ウォン師。牧師たちは、神様からの促しに応じてやっていないことがある。組織を運営するために、「これをしなければいけない、あれをしなければいけない」と考える。すると教会はしだいに伝統的になる。だが、時には、少し退く必要がある。イエス様は何を望んでおられるのだろうか。思い巡らすことや、評価しなおすことは、非常に大切。毎週、数時間さいて自分の生活を再吟味する。組織を運営するためではなく、神様からの促しをうけて進みたい。少年サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:10)

結構、神様は私たちに語っておられるのかもしれない。「このまま進むとあなたは危ない」「あなたはこのところを変える必要がある」「あなたにこういうアイデァを提供したい」「あなたにこういうことをやってもらいたい」「問題の解決の糸口はここにある」「これこそ隠された真理だ」「あなたにこのことを取り成してもらいたい」。そして、主ははっきりと求める祈りを待っておられる。主よ、「あなたの御声を聞く耳と、あなたにはっきりと求める祈りを与えたまえ」。

3.心の耳と口

ある心理学者が「耳は2つあり、口は1つある」と言った。親はなかなか、子どもの話に耳を傾けることが難しい。子どもがお母さんの顔を描いた。口ばかり大きくて、耳がなかった。営業時には、耳を傾け、丁寧な口調で話す。しかし、家族にはぶっきらぼうということがある。家庭では、なかなか、耳を傾け、丁寧な口調で話すことができない。

クリスチャンになってから、「なんと自分のコミュニケーションがいい加減だったのか」と気づかされた。私たちの耳は、自分の都合の良いこと、自分の意見と同じものしか聞かない。人の注意や批判、自分の意見と違うものには耳を閉ざす。また、口がきけないわけではないが、肝心なことを話す段になると、どもってしまう。単なる礼儀作法ではなく、心からの感謝とか、徳を高めることばは、聖霊の助けなしではできない。ペンテコステの日、弟子たちは「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに・・・話し出した」(使徒2:4)。

IT時代と言われます。人々はパソコンのE-mailとかチャット、掲示板で話しができるかもしれない。だが、本当のコミュニケーションは顔と顔を合わせて、行うもの。相手の顔を見て、話に耳を傾け、そして、自分も話す。いわゆる、会話のキャッチボール。教会はイエス・キリストによって罪が贖われた人たちの共同体。キリストのからだとしてのコミュニケーション必要。

「神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。」(詩篇51:14,15)