2007.1.21 4つの土地に落ちた種 マルコ4:10-20

このたとえを理解するためには、いくつかの前提条件があります。種を蒔く人が「なぜ、道ばたや、岩地、あるいはいばらの地に蒔くんだろう。どじな奴だなー」と思わないことです。なぜなら、パレスチナ地方は、畑がそんなに広くはなく、周辺が荒野だということです。そして、日本と違って、彼らは種を蒔いてから耕します。ですから、種がいろんな土地に落ちる可能性があります。問題は種を蒔く人や種にあるのではなく、土地だということです。そして、土地というのは、この場合、イエス様のことばに耳を傾けている群集であります。イエス様は4種類の土地のような人がいることをちゃんとご存知でした。だから、たとえで語るのは、興味を持たせるためです。一方、たとえは理解しようとしない人には、かえって分からなくなります。そのため、イエス様は「聞く耳のあるものは聞きなさい」とチャレンジしたのであります。植物は動物のように移動することが出来ません。蒔かれた土地に生えるしかありません。ですから、「運命論的に4つの土地の人が存在するんだ」と考えることも出来ます。確かに、みことばを聴いて、すぐ救われ、勝手に成長する人がいます。一方、手をかけても、教会を去る人もいます。仕方がないと言えば仕方がありません。現実にそういう人たちがいます。でも、そこには農夫の手助けも必要ですし、植物自体の責任もあります。このような前提をふまえながら、このたとえを4つのポイントで学びたいと思います。

1.道ばたに落ちた種

道ばたと言っても、アスファルトで舗装された道路を連想してはいけません。これは、人の足で踏み固められた畑のあぜ道のようなところであります。とにかく、表面が堅いので、種を受け付けません。そうすると、鳥がやってきて、その種を食べてしまいます。イエス様は後で、で弟子たちだけにたとえの意味を教えておられます。15節には「みことばを聞くと、サタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまう」と書いてあります。道ばたの人の特徴は何でしょうか?それは、心がかたくななために、みことばを受け入れないということです。私たちの周りにも、聖書の福音や教えを「バーン」と跳ね返す人がいるでしょう。ハーベストタイムの中川健一先生は、「日本人は無知と偏見をコンクリートで固めたような心である」と言いました。日本人はキリスト教を外国の宗教(欧米か?)だと思っています。そして、「日本には日本の宗教があるじゃないか!」と言います。でも、仏教だってインドで生まれ、中国、朝鮮半島を経て日本に入ってきました。では、神道はどうでしょうか?日本にはもともとアニミズム的なものがありました。そこへイスラエルの神信仰が入ってきて、現在のものになっているようです。神社の構造、おみこし、宮司がやっていることは、旧約聖書そっくりです。なぜ、日本がキリスト教にこんなにかたくななのか、それは徳川幕府270年の怨霊であります。幕府は封建制度を固めるため、鎖国政策を取り、キリシタンを弾圧しました。一方では仏教を奨励し、寺受け制度や5人組を設けました。多くのキリシタンが殺され、人々は「ああ、キリスト教は怖い宗教だ!」と思うようになったのです。もちろん、現在では、信教の自由が法律で認められています。でも、地方に行けば行くほど、保守的で、キリスト教に対してかたくなです。私は結婚するとき、家内の実家、岩手に挨拶に行きました。その家には仏壇や神棚だけではありません。天皇陛下のご真影も飾られていました。私は自己紹介するとき、「聖歌を歌わせてください」と言いました。すると家内の父は「やめてくれ!郷に入らば、郷に従えと言うだろう」と言いました。こちらに来て、こちらの郷には従ってくれませんが・・・。それでも、家内が毎年、夏休み、子供たちを連れて岩手に帰ります。孫伝道と申しましょうか、ご両親の心は少しずつ柔らかくなっているようです。

 農夫は、道ばたの土地のような人に対して、何ができるのでしょうか?まず、あきらめずに種を蒔き続けることです。特別伝道集会、コンサート、英会話、文書伝道などを「種まき伝道」と言います。宣教において、日本ほど海外のお世話になっている国はありません。また、日本ほど、実が実らない不毛の国もないのであります。宣教団体は、「日本は物価が高いので、1人の宣教師を日本に送る同じ費用で、アジアやアフリカに10人の宣教師を送ることができる」と言います。最近も、テレビや新聞に、パワーフォーヒーリングのCMが大々的に流れています。あれは一体どれくらいお金かかるのでしょうか。おそらく、何百億単位ではないかと思います。それでも、日本のために種を蒔き続けてくれる人たちがいるということです。私はもう1つ日本に大切な伝道法は、「人間関係の伝道」ではないかと思います。これをセル教会では「オイコス(家)伝道」と言います。日本では、これまで大人数を集めるクルセード方式の伝道がなされてきました。しかし、あれはお金と労力がかかる割に、教会につながる人がいないということです。すべてのイベント方式の伝道はダメだとは言いませんが、日本には関係作りを重視した伝道が適切ではないかと思います。松戸の岡野先生は、伝道集会など1つもしていません。先生は「教会に連れてこなくて良いから、ご家庭で、ご主人に愛して仕えなさい」と言います。やがて、ご主人は「私の家内がどうして変えられたのか見たくてやって来ました」と自らやってきます。さらに、友達が友達を誘ってやってきます。岡野先生は一度失敗してから、関係作りの伝道を進めておられます。最初はコタツで礼拝を持っていましたが、今では公民館がいっぱいになるほど人々が集まっているようです。ですから、農夫である私たちの必要は、人々を福音の愛で愛していくということです。福音の愛は、無条件の愛であり、教会に来ても、来なくても、ただ愛するということです。愛して仕えて、その人の必要を満たしてあげるうちに、土地が柔らかくなるということです。

 では、道ばたの人の責任は何でしょうか。神の愛に心を開き、みことばを受け入れるということです。イエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。イエス様は冷たいことを言って突き放しているのではありません。みことばは、聞こうとすれば分かるのです。イエス様は、「求めよ。そうすれば与えられる。捜しなさい。そうすれば開かれる。たたけ。そうすれば開かれる」と約束しておられます。

2.岩地に落ちた種

 最初に申し上げましたが、パレスチナは肥沃なヨーロッパとは違います。表面に土があっても、ちょっと掘れば、岩や石がゴロゴロでてきます。そういう所に落ちた種はどうなるでしょうか。岩地は結構、あったかいので、すぐ芽を出します。人によっては何でも受け入れる人がいます。「聖書のお話し、良いですね。私もイエス様を信じますよ!」と喜んで受け入れます。でも、17節に何と書いてあるでしょうか。「根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐつまずいてしまいます」。イエス様を受け入れたのに、とても残念です。でも、なんで、困難や迫害が起こるんでしょう。「神様の意地悪!」と言いたくなります。本当の原因は、私たちが「この世」に住んでいるからです。御国だったら問題ありませんが、この世においては、みことばを信じて従うとき、必ず試練や迫害が襲ってきます。たとえば、子供たちがCSに来て、教会で聞いたことをご両親に話します。すると、ご両親は「キリスト教に染まると考え方が狭くなるので危ない」と思って、子供を教会にやらなくなります。では、若者や大人はどうでしょうか?喜んで「私はイエス・キリストを信じたよ」と証しようものなら、意外な反応が返ってきます。「ああー、キリスト教にかぶれてしまってー。ほどほどにしないと、お嫁にいけないよ」などと冷や水をかけられます。また、この世の中で、聖書の価値観で生きようとすると必ず困難や試練に出くわします。「日曜日は礼拝を守りたいけど、友達と遊べない。昔は友達と一緒に歓楽街を飲み歩き、エッチなこともしたのに、もうできない」。友達は「お前、最近、連れないなー。どうしたんだ?」「うっそー、クリスチャンになったのー。そんな窮屈な宗教やめて、一緒に遊びに行こうぜ!」と誘ってきます。

 では、こういう岩地のような人に対して、農夫は何ができるのでしょうか?その人が聖書の真理にしっかり根ざすことが出来るようにフォローアップする必要があります。フォローアップというのは、バスケットボールで、シュートしたボールが外れたとき、もう一度すくい上げる行為から来ています。赤ちゃんは生まれたときから、1,2歳くらいまでは目が離せません。食事から排泄までの世話はもちろん、話しかけたり、スキンシップが必要です。赤ちゃんは物質的な必要だけではなく、人格と人格のふれあいが、とても大切です。小牧者訓練会の卞(びゅん)先生は、このように言っています。「人がキリスト教に関心を持ってくると、偏見やつまずき、また、迫害や困難が起こりそうな心配事が表れます。そうしたら、御霊に知恵を求めてそれに答え、その偏見や心配、つまずきなどを取り除いてあげます。このとき大切なのは、相手の霊的な年齢に合わせて、律法的になるのを避け、負えない重荷、負えないくびきを強要しないことが大切です。その人の信仰の成長に伴って負えるようになるものが多くなるからです。」私が信じるか信じないか迷っているとき、私を導いてくれた先輩は「神様はありのままの鈴木君を愛しているんだよ!」と言ってくれました。そのとき「ありのままかー、それじゃ、楽だなー」と安心しました。いきなり、「洗礼を受けたら、毎週、礼拝に来なければならない」とか「十分の一献金をしなさい」とか「酒とタバコはやめましょう」と言ってはいけません。イエス様を信じたら自然と礼拝に来たくなるのです。また、神様の恵みを知ったならはささげずにはおれないのです。聖霊によって満たされたなら、酒とタバコはいつかは不要になります。Ⅱコリント3章で、使徒パウロが言っています。「文字は殺し、御霊は生かすからである。・・・主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」アーメン。

 では、岩地に落ちた種自身の責任は何でしょうか?それはキリストに根ざすということです。深く地を掘って、みことばに根ざすことを求めましょう。そうすると、雨や嵐が襲ってきても、大丈夫です。また、試練は本当は良いことなのです。なぜなら、そのことによって、神様にすがり、信仰が増してくるからです。父なる神様は私たちを鍛えるために、必ず試練を通過させます。どういう訳か、信仰を持ちたての頃、必ず試練が起こります。「神様、なぜ、こんなことが起こるんですか?」と恨みたくなるでしょう。でも、私たちを愛しているからこそ、そういう試練を許されるのです。でも、キリストとみことばに根ざすことによって、あなたは強くなれるのです。この段階の人は、上に伸びることよりも、地面に深く根を張ることに専念すべきです。

3.いばらに落ちた種

 種を蒔く人は、わざといばらの地に蒔いたわけでは在りません。地面の下にいばらの根や地下茎が隠れていたのです。作物が成長すると共に、いばらも伸びてきました。やがていばらが、幹や葉っぱをふさいで、太陽の光が当たらなくなりました。そのため作物はひょろひょろになって、実を結べなくなりました。私の母は小さな畑を耕していました。とうもろこしとかじゃがいもが、畑の外のゴミ捨て場みたいなところでも生えてきます。そこでは雑草も生い茂っているので、どれが作物なのか見分けがつきません。よく見ると、とうもろこしとか、じゃがいもがあるにはあります。でも、周りの雑草に飲み込まれて,やせっぽっちです。イエス様はいばらとは「世の心使いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望である」と言われました。イエス様を信じてクリスチャンになったとしても、「あれも、これも」という人がいます。キリストも信じているけど、仏様も信じている。教会も良いけど、楽しいこともしたい。大体、こういう人は聖書のみことばを絶対的なものとして受け取っていません。「聖書は遠い昔に書かれたものだから、現代には通用しない」と考えています。そして、教会にいるときはクリスチャンのように振舞っても、いざ、世の中に出ると、世の中の価値観で生きています。日曜日、教会行っても、家族からは1つの趣味だと思われています。なぜでしょう?信仰に一貫性がないからです。ヤコブ書は「そういうのは、二心で、その歩む道のすべてに安定の欠いた人たちです」(ヤコブ1:8)と言っています。

 かつて、私は洗礼を受けたら、礼拝に続けてきていれば、成長すると思っていました。確かに、手をかけなくても成長する人がいます。でも、何年かたつと、教会を離れたり、生ぬるいクリスチャンになってしまう人が結構出てきます。そこで、私は、韓国の教会にならって、弟子訓練を始めました。しかし、風邪を引いている人に、グラウンドを走れと言っても無理です。訓練の前に、心の傷の癒しや解放が必要だということがわかりました。それで数年前から、チェンジングライフキャンプに行くように勧めました。そこでは、父を敬わないことからくる罪、十字架による心の癒し、偶像礼拝による悪霊の束縛などを取り扱います。もちろん、キャンプに行かなくても、小グループである程度のことはできます。「鉄は熱い内に打て!」ということわざがありますが、

イエス様を信じた直後、洗礼を受けてまもない人ほど良いです。信仰生活が10年とか20年たっ

た人は「いまさら」という気持ちがあるので、心を開くのが困難になります。いばらは最初の頃、地面の下に隠れています。根っこがあるわけです。作物が育ちはじめると、いばらも生え、しまいにはいばらの方が勝ってしまって、作物を覆ってしまいます。生い茂ったいばらを取るのは、抜く人も手や指に傷を受けたりします。ですから、最初のとき、地面をほじくって地下に埋まっている根っこを取り除いた方が得策です。洗礼を受けて、新しくなる面ももちろんあります。でも、心の傷、罪の束縛、あるいは依存症の問題が残っている場合が多いのです。 

 それでは、いばらの地の人自身の責任は何でしょうか。自分で雑草やいばらはどけられませんので、他のクリスチャンや先生から祈っていただく必要があります。私はミニストリーをしてくれる人をメンターとお呼びすることを提案します。メンターとは「父代わり」とか「信仰の先軌という意味です。最初は、恥やプライドが邪魔して「祈ってください」と言い難いかもしれません。でも、解放を体験すると、空気までおいしくなります。そして、隣人を愛するのが容易になります。私たちは障害物を取り除いてもらったら、神様を仰ぎ、イエス様に似たものになるように成長すべきであります。「永遠に続くものは何か」と、神様を仰ぐとき、この世のものはどうでも良くなります。先週、NHKの「プラネットアース」という番組を見ました。ジャングルでは、植物や樹木は、太陽の光を求めて、争いあっています。ある樹木は、1年に2-3メートルも延び、最終的には30メートルを超えるものもあります。ジャングルでは、下は真っ暗ですが、地上から20-30メートルの高さまで伸びると、日光がさんさんとしています。植物や樹木は、少しでも光を得ようと、背丈を伸ばし、葉っぱを広げています。こういう努力が、信仰生活にも必要です。上にあるものを求め、手を広げて神様をほめたたえ、キリストの身丈に達しようとする姿勢が大切です。

4.良い地に落ちた種

4:20「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ

人たちです」。初めから良い地の人もいます。神様が本当に備えておられたという人はいます。でも、そういう人は稀ではないかと思います。やはり、荒地を耕して、農地にしていくような作業が必要です。ですから、良い地とは、これまでの3種類の土地を全部総括したものと考えることができます。繰り返しになりますが、良い地面になるためには、第一に堅い地面を耕すことが必要です。耕すとは福音の愛で愛することです。福音の愛は無条件の愛であり、クリスチャンになるならないは関係なく、その人のニーズに答えることです。先々週、本郷台キリスト教会に行ったとき、教会のパンフレットをいただきました。1ページに、池田牧師の「耕地を開拓せよ!」という挨拶文が載っていました。先生のビジョンの1つが「地域に仕える教会」です。本郷台では、地域の人たちに仕えるため、いろんなことをしています。サッカースクール(現在250名の少年たちが所属している)、保育園、インターナショナルスクール、地域作業所(NPO法人知的障害者施設)、給食ミニストリー(ご老人に弁当を配布)、ゴスペルサーックルなど。とにかく、一生懸命、耕して、福音の種を蒔くということが大事です。第二番目は、偏見や躓きの石を取り除いてあげるということです。うちには、山の上に開墾畑が1つありました。母が三本桑で畑を掘り起こすと、たまにガチンと音がします。母はその石をポイポイ、沢の方に捨てていました。石を取り除いた後は、純粋なみことばをいただき、キリストに根をはることです。上に伸びる前に、下に根を張ることが重要です。第三は、いばらを取り除いた後、幹を伸ばし、葉を広げることです。当教会では、インナーヒーリングを強調しています。1年に何度か、カウンセリングや癒しの講師をお招きしています。解放のためのキャンプも年に1度は開きたいですね。兄弟姉妹が「告白しあって、互いに祈りあう」これがとっても効果があります。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです」。

 マルコ福音書には、30倍、60倍、100倍の実りが与えられると書いてあります。クリスチャン

にとっての実とは、イエス様の似姿になることです。私たちは上にあるものを目指して進むべきであります。もう1つの実は、救霊の実、つまり私たちを通して救われる人が起こされることです。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわきおこるのです」(ルカ15:10)。

イエス・キリストは信じている人たちのためだけに十字架にかかられたのではありません。無関心な人、敵対している人のためにも死なれたのです。ですから、主にあっては、すべての人が救いのための候補者なのです。すべての人が良い地であるとは限りませんが、福音の種をまき、畑を耕し、作物の生長を助けようではありませんか。主は「私と収穣の喜びを共にしてほしい」と願っておられます。収穫は多いが働き人が少ないのです。