◆聖書箇所: エレミヤ書30章(聖書引用:新改訳2017)
- 本日の中心聖句
<エレミヤ30:20-22 >
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30:20
その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。
わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。
30:21
その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──【主】のことば──
30:22
あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
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エレミヤ書の29章から31章にかけては、エレミヤ書の中心的なメッセージが語られている心臓部分とも言える、とても重要な箇所です。
前回のエレミヤ29章で主は、バビロンに捕囚されたユダの民に対して、「わざわいではなく平安を与える計画を持っている。」と語られ、それは、「あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」と約束されました。
本日の30章では、それはユダの民たちだけではなく、預言者エレミヤの時代から100年以上も前に滅びた、北イスラエルにも回復を与えると語られています。
そこには 『メシア預言』、つまり、イエス様に関する預言も含まれています。
イエス様の愛は、「いのちがけの愛」です。
ひとり子であるイエス様を私たちに与えてくださった、父なる神の愛について、深く知ることができるように、エレミヤ書を見ていきましょう。
◆いのちがけの愛
①見捨てない神の愛
主は預言者エレミヤを通してこのように語られました。
<エレミヤ30:3>
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見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」
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神は、ユダだけではなく、すでに滅びてしまった北イスラエルのことも覚えておられました。
神は、ご自身が選ばれたアブラハム、イサク、ヤコブの民を見捨てることなく、全イスラエルの回復を約束されました。
しかし民の方はどうでしょう。
万物の創造主である、唯一まことの神を畏れ敬うことなく、何百年も偶像崇拝の罪を重ねてきました。
旧約聖書の創世記に書かれているように、神はアブラハムを選び、約束の地カナンに導かれました。
アブラハムの子孫は、イサク、ヤコブを経て、イスラエルの民として、神から選ばれた特別な民族です。
約束の地カナンは、エジプトの川からユーフラテスの川までの、肥沃な良い土地です。
貿易にも便利な場所でしたが、常にエジプトやアッシリアなどの強い敵国に挟まれていました。
危険も誘惑も多い、この約束の地では、イスラエルの民たちの信仰が試されます。
主は、どんな危機や誘惑があったとしても、主を信頼し、主から離れないようにと、あえてこの土地を選ばれたのだと考えられます。
しかし、イスラエルの民たちは、主の御心に従うことができませんでした。
それでも神は、けっして見捨てることなく、全イスラエルの回復という、驚くべきご計画で愛を示されました。
聖書は神の啓示であり、書かれていることは、ことごとく成就しています。
実際、イスラエルの歴史を振り返って見ると、驚くべき事実があります。
紀元70年にローマの迫害によってエルサレムは破壊され、ユダヤ人たちは世界各地に散らされました。
それから2000年近くの長い年月を経て、1948年5月14日に、現在のイスラエルが国家として再建しました。
その時、ほとんどの人は、イスラエル国家の回復が起こるなど、想像もしていませんでした。
1900年間も使われていなかった、へブル語も復活しました。
しかし確かに、イスラエル国家の再建という奇蹟は起こりましたが、その裏では多くの血が流れました。
イスラエル国家再建のために、国を追われたパレスチナ難民は苦しみ、中東は今も戦争を続けています。
行き過ぎたシオニズム(ユダヤ人国家再建運動)は、悲劇を生んでいます。
この状況をみると、これは本当に神の壮大なご計画の一部なのだろうかと疑問が沸いてきます。
「全イスラエルを回復する」と神が約束されているのですから、いずれ必ず実現するでしょう。
しかしそれは、私たち人間が考えているような形ではないのかもしれません。
<エレミヤ30:20,22>
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30:20
その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。
わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。
30:22
あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
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「昔のようになる」、そして、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」加えて先ほど読みました、エレミヤ30:3「見よ、その時代が来る─」というのは、終末の預言だと考えられています。
全イスラエルの回復は、イエス様の再臨の時に実現するというのです。
でもこのことが、私たちにどう関係してくるというのでしょうか。
私たちはイスラエルの民ではありません。異邦人です。
神は、私たち異邦人にも愛を注いでくださり、イエス様という希望をくださいました。
だから、「イエス様を信じてさえいればそれでよいのでは?」と考えてしまいます。
ところが、全イスラエルの回復と異邦人との関係は大いにあるのです。パウロはこう言いました。
<ローマ11:16-18>
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11:16
麦の初穂が聖なるものであれば、こねた粉もそうなのです。根が聖なるものであれば、枝もそうなのです。
11:17
枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、
11:18
あなたはその枝に対して誇ってはいけません。
たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
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「麦の初穂」とは、聖別されたイスラエル民族の族長たち、アブラハム、イサク、ヤコブたちなどのことです。
彼らは神と契約を結びました。ここでは聖別されたオリーブの根っこに例えられています。
折られた枝というのは、不信仰なイスラエルの民たちのことです。
私たち異邦人は、野生のオリーブに例えられています。
異邦人たちは、イエス様の恵みによって、イスラエルという聖なる根っこに接ぎ木された者たちです。
これは、神からの特別な大きな愛と憐みです。
しかし、その恩恵を受けている私たちは、けっして誇ってはいけないとパウロは忠告しています。
なぜなら、イスラエルの霊的祝福という土台の上に、異邦人の霊的祝福があるからです。
ですから、全イスラエルの回復は、私たち異邦人にも大いに関係のある事です。
異邦人にまで愛と憐みを注いでくださる、見捨てない神の愛に、ただただ感謝と賛美を捧げましょう。
◆いのちがけの愛
②神の国の到来
神がイスラエルの民を見捨てず、愛し続けてくださっているにも関わらず、彼らは霊的に盲目であり、目先のことにしか心が動きませんでした。
そうなることを、主はすべてお見通しでしたので、このように語られました。
<エレミヤ30:21>
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その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──【主】のことば──
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これは、救い主メシアが現れるという、『メシア預言』 です。
この預言の通り、神はその御子であるイエス様を、メシア(救い主)としてお与えになりました。
イエス様はこの地に降誕され、人の子として成長され、公生涯を始められました。
<マルコ1:15>
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「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
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イエス様はこのように語られ、福音宣教を開始されました。神の国の到来です。
その活動は、超自然的な癒しや奇蹟とともに行われ、神の業と真理を明らかにされました。
そして、十字架の贖いへと、まさにいのちがけの愛を示してくださいました。
その苦難の道を、イザヤは預言していました。
<イザヤ53:3>
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53:3
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
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イエス様の苦難は、私たちの罪のためでした。
イエス様の十字架の贖いによって、私たちは 『永遠のいのち』 への希望の中で生きることができます。
なんという恵みでしょうか。
神学校などでは、神の国の到来について、 『既(すで)に』 と 『未(いま)だ』 という言葉をよく使います。
神の国の到来とは、神のご支配の中にあるという意味です。
キリスト者は、その意味では、神のご支配の中で生きていますし、神の国は 『すでに』 到来しています。
しかし、人間は不完全であり、この地は闇の中にあり、神の国とは程遠い状態です。
神の国が完全に完成されるのは、イエス様の再臨の時であり、私たちはその時を待ち望んでいます。
ですから、 『いまだ』 神の国は到来していないとも言えるのです。
私たちは、その、『すでに』 と 『いまだ』 の狭間で生かされています。
私たちを 『友』 だと言ってくださるイエス様を近くに感じる時は、『すでに』 神の国の中にいると実感して、とても幸せな気持ちになります。
しかし、この世の闇を垣間見る時は、『いまだ』 神の国は到来していないと感じて気持ちが暗くなります。
『すでに』 と 『いまだ』 の狭間にいる私たちが、心を騒がせることなく、今、すべきことは何でしょうか。
◆いのちがけの愛
③戒めを守れるという信仰を持つ
私たちが今、すべきことは、神の戒めを守ることです。
しかしこれは簡単なことではありません。
人間が戒めを守れないから、戒められているとも言えます。戒めを守るのはとても難しいことです。
最も重要な戒めは、『シェマ』 と言われる、皆さんご存知の戒めです。
<申命記6:4-5>
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6:4 聞け、イスラエルよ。【主】は私たちの神。【主】は唯一である。
6:5 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。
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冒頭の 『聞け』 という言葉が、ヘブル語で 『シェマ』 ということから、その名前がつきました。
これは、ユダヤ人にとっては最も大切な戒めであり、熱心な人は朝夕これを唱和します。
物心ついた子どもたちも、まずこの 『シェマ』 を最初に覚えます。
ユダヤ人にとっての信仰告白のようなものですが、私たちにとっても大切な戒めです。
『主は唯一である』 。主は万物を造られた創造主で、唯一まことの神であると宣言することです。
この戒めでは、「本当に心の底からそう信じているのか」ということが問われます。
世の中には、神の存在自体を否定する人がたくさんいます。
20世紀を代表するイギリスの説教者、ロイドジョンズは、神を否定する人についてこのように語っています。
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『 D/M/ロイドジョンズ 『旧約聖書から福音を語る』より抜粋 』
どのような根拠によって、かくも多くの人々が神を否定し、無視し、捨て去っているのだろうか。
その人々の主張をいくつか挙げよう。
「もし神が存在し、しかも愛の神であるなら、どうして世界戦争が起こることを許したのか」。
「もし神が存在するなら、なぜ不信仰者が成功し、栄え、信仰者がしばしば苦しみを受けるのか」。
「もし神が存在するなら、どうして洪水などの自然災害が起こるのか。善良な人々が若死にし、悪人が長生きをしたりするのか」。
私が証明したいのは、神の沈黙ないし不介入をもって神は無力である、あるいは神はいないと断じることの誤りである。
曇っていて太陽が見えないからといって「太陽は存在しない」と断定する人の知性のほどを、あなたはどう評価するだろうか。
あるいは、「忍耐」を「無力」だと、「知恵」を「弱さ」だと見誤る人の知性のほどをどう思うだろうか。
ところが今日、あまりにも簡単に神に背を向けてしまう人々の思考回路というのは、こうしたものなのだ。
神はこういうことをすべきだ、こういう風に振舞うべきだ、と人々は思っている。
人が神を理解できるなら、その人は神より偉大な存在ということになってしまう。
それに神が人の理解できることだけを、人の要求する形で行わなければならないのなら、神はもはや神ではない。人の従者にしか過ぎなくなってしまう。
「神のしていることが理解できない」というそれだけの理由で神に背を向け、信仰を捨て去っている人々は、単に自分自身の知性の小ささと知的破綻を告白しているに過ぎない。
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なかなか手厳しい言葉が綴られていますが・・・
「人が神を理解できるなら、その人は神より偉大な存在ということになってしまう。」その通りですね。
たとえ受け入れられないような悲惨な出来事が私たちに降りかかったとしても、神は良いことをしてくださる御方だと信じきることが大切だということですね。
次の戒めは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。」です。
ひとつ目の「心」は、英語の聖書ではHeartと書かれていて、そのとおり「心」です。
次の「いのち」は、へブル語聖書では「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)で、「思い・精神・魂」とも訳されます。
以前の新改訳では、「思い」とか、「知力」とか訳されていましたが、今は「いのち」で統一されています。
「魂のすべてをもって」という意味もあります。英語の聖書ではSoulです。
三つ目の「知性」は、へブル語では、「マッダー」(מַדָּע)。「知識」を意味します。「知性・知力・思い」とも訳されます。英語の聖書ではMindです。
いずれにしてもこの戒めは、人間的な心情で、「神様大好きです!」「愛します!」 というのではありません。
もっと霊的な深い関係で、魂のすべてを持って、『神と共に生きて、交わる』 『神を知る』 ということです。
しかし、『神を知る』 ことは、人間の持つ力だけではできません。ですからパウロはこう願いました。
<エペソ1:17>
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どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに
与えてくださいますように。
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神の御前で自分のすべてをさらけ出し、心、いのち、力を尽くして主を愛したつもりでも、本当の意味では神を知ることはできません。神を知るためには、知恵と啓示の御霊によらなければならないのです。
また、「あなたの神、【主】を愛しなさい。」の「愛しなさい」は命令形ですが、ギリシア語では、「愛するであろう」という未来形にも受け取ることが出来ます。
御霊が働いてくださって、「神を愛するようにしてくださる」、「戒めを守れるようにしてくださる」、と信じる信仰をいただきましょう。
イエス様は、「律法の中で,たいせつな戒めはどれですか」という律法の専門家の質問に対して、申命記の
『シェマ』 に、レビ記19:18の戒めも加えました。
<マタイ22:39>
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『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
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イエス様は、神との関係だけではなく、人間同士の関係についても大切であると教えられました。
この二つの戒めを守ることが出来るなら、私たちは神の国の到来の祝福を深く味わうことができます。
ロイドジョンズは、神の愛についてこのように語っています。
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人は神に背を向けた。しかし神は、その愛のゆえに私たちに背を向けることをなさらなかった。
私たちを救うために御子を送ってくださった。この方に、私たちは信頼しようではないか。
その時に私たちが真に願う益を受けることができるのだ。
私たちの罪が赦される。神との平和をいただくことができる。
死の恐怖から解放され、神の子とされ、永遠の祝福の相続者となることが出来る。
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見捨てない神の愛、主に感謝し、御霊によって歩みましょう。
<ローマ10:17>
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信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
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まずイエス様の福音を聞きましょう。そして、従いましょう。
神を畏れ敬い、賛美して褒め称え、戒めを守りましょう。
いのちがけの愛を注いでくださる、唯一まことの神を愛し、隣人を愛しましょう。
神の国はすでに到来し、主はあなたを霊肉ともに感謝と喜びで満たしてくださいます。