私たちはだれもが、自分の願い、自分が成し遂げたいことを持っています。残念ながら、自分の願った通りにすべてのことが成就するわけではありません。もし、私たちが最善の道である、主の願いと合わさるならば、答えられる確率はぐーんと高くなると思います。私たちの神さまは偶像の神さまではありません。どういうことかというと、まことの神さまは私たちの奴隷ではなく、主人です。でも、まことの神さまは、私たちのために願いを叶えようとしておられます。優先順位についての学びの3回目は自分の願いよりも神さまの願いを優先させるということです。
1.主にゆだねる
詩篇37:5「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」キリスト教会ではしばしば「ゆだねる」と言います。また、「あなたに、おゆだねします」と祈ります。でも、「ゆだねる」とはどういう意味なのでしょうか?全部、神さまに任せて、あとは何もしなくて良いのでしょうか?ある人たちは「ゆだねます」と祈りながらも、「私がやりますので、神さまは見守って下さい」と、自分のところに引き戻すかもしれません。なぜなら、神さまにゆだねたら、どうなるか分からないからです。結局のところ、私たちは「ゆだねる」と言いながらも、よく分からないで使っているのかもしれません。詩篇37篇の「ゆだねる」のヘブル語は「ガーラー」であり、「転がす、向ける、押しやる」、英語でいうturnという意味があります。原語の意味がわかったからと言って、いまいち分かりません。ある注解書には「重荷を転がして行く」と訳しています。昔の話ですが、あるおばあちゃんが重い荷物を背負って歩いていました。後ろから、荷馬車が近づいて来ました。荷馬車の御者が「おばあちゃん。俺も同じ方向に行くから、乗りなよ」と勧めてくれました。おばちゃんは「ああ、助かった」と言って、荷台に乗りました。しばらく行くと、後ろの方で「うぅーん」という唸り声が聞こえました。御者が「何だろう?」と後ろを振り向くと、おばあちゃんが荷物を背負ったまま、蒼くなっていました。「おばあちゃん、どうしたんだい。荷物を降ろせば良いだろう」と言いました。すると「いやー、荷物まで運んでもらうと悪いので…」と言ったそうです。これは笑い話ですが、詩篇37篇のことを説明しています。「あなたの道を主に主にゆだねよ」とはどういう意味でしょう?道というのは、人生と置き換えることが可能なことばです。「あなたの人生を主に主にゆだねよ」ということです。
新約聖書において、「ゆだねる」は、多くの場合、「任せる、委託する」という意味です。パウロは「私たちは、神に認められて福音を委ねられた者」(Ⅰテサロニケ2:4)と言っています。それは、使命や賜物を任せられるentrustという意味です。しかし、旧約聖書の「ガーラー」とは、かなり違います。神さまに自分がすべきことをゆだねるというのは、ちょっとおかしい意味になります。私たちがすべきことは確かにあります。それを神さまに全部任せるというのは、ちょっと違います。旧約聖書の「ガーラー」と近い意味のことばが新約聖書にあります。Ⅰペテロ5:7「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」この箇所の「ゆだねる」は、ギリシャ語で「投げかける」です。英語の聖書ではcastingとなっています。一般に、Castingというのは、釣りで竿にリールをつけ、仕掛けを遠くへ投げることです。つまり、Ⅰペテロ5章の「ゆだねる」は、「神さまに向けて、放り投げる」という非常に乱暴なことばです。つまり、私たちが神さまにゆだねるべきものは、心配事や、自分ではどうすることもできないような出来事であります。詩篇37:5「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」とあります。つまり、私たちの人生に起る、予知できない問題、処理することのできない問題を主にゆだねなさいということです。多くの人たちは、まだ起こっていない事に対して、心配したり、思い煩っているからです。そのため、今すべきことに全力で当たることができません。詩篇37篇には、「主にゆだねよ。主に信頼せよ」と書いてあります。ですから、主にゆだねることと、主に信頼することは同じような意味であるということです。もちろん、私たちは私たちがすべきことはあります。そこにも、主の助けが当然必要です。私たちが主と共にそれをやっていくなら、主が成し遂げてくださるのです。遠くから神さまに見守っていただくのではなく、聖霊なる神さまと一緒に行動するのです。なぜなら、聖霊は私たちに必要な知恵と力を与えて下さるからです。
私たちが主にゆだねるべきことは、余計な心配事です。「もし、失敗したらどうしよう?」「もし、うまくいかなかったらどうしよう?」いろいろ悩みながらやるよりも、主にゆだねて、今、できることを一生懸命にやることです。詩篇37:4「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあります。これは究極的な信仰生活の姿ではないでしょうか?私たちは悔やんだり、腹をたてたり、人をうらやんだりしながら生きています。そうであるなら自分のレースを集中して走ることができません。ヘブル12:2「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。」イエス様は十字架すらも喜んで耐え忍ぶことができました。イエス様は私たちの模範です。主を喜ぶ人と主は共におられ、主がその願いを成し遂げてくださいます。イエス様は父なる神と共に歩んだので、十字架の贖いを完成できたのです。私たちは一人ひとり願いがあります。それらの願いが全部、自己中心で我が儘な願いということはありません。私たちがそれらの願いを持って、主と歩むとき、どうでも良い願いはいつか消え去ります。主が「それだ、それを願え」という願いだけが残り、「これは主のみこころだとわかる」のです。主がそれを成し遂げたいと願っていることなら、必ず成ります。ダビデは主のために宮を建てたいと願いましたが、それが叶いませんでした。主は「息子のソロモンに建てさせる」と言われました。ダビデはがっかりして座り込んだでしょうか?そうではありません。それだったらと、神殿に必要な材料を用意しました。その代り、天幕で力いっぱい主を礼拝しました。レビ人を交替制にして、24時間、神さまを礼拝するようにさせました。神殿建設はかないませんでしたが、主を喜び、主と共に生活することは叶いました。
2.ゆだねられない人
主にゆだねられない人の特徴はどのようなものでしょうか?どのように考える人が主にゆだねることができないのでしょうか?しばし、考えたいと思います。
①神さまの真実を疑っている人は、主にゆだねることができません。
「もし、神さまに何もかも任せたら、大変なことになる」と思っています。「結婚相手だけは私に決めさせてください」。「どの教会に通うかは、私の判断に任せてください」「お金の使い道だけは指図されたくありません」。その人の神さまのイメージは横暴な独裁者であって、任せたら、とんでもないことになると恐れています。その人は、神の子どもではなく奴隷であります。奴隷というのは、自分の楽しみや願いを持つことが許されていません。すべてがご主人である神さまのために生きるしかありません。イエス様の時代のパリサイ人や律法学者はそういう人たちでした。イエス様の弟子たちが断食や安息日を気にしないで生活しているのに腹が立ちました。放蕩息子の兄は「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。」(ルカ15:29)と言いました。「子山羊くらい食えよ!」と言いたくなりますが、ひがみ根性丸出しです。自分は律法を守り、禁欲的な生き方をすることが正しいと思っているのです。
ある人が献身の祈りをしたそうです。「イエス様、私はあなたにすべてをささげます。仕事も、結婚も、趣味も、楽しみも、お金も、私自身を主におささげします」と祈りました。その後、彼はどうつぶやいたでしょうか?「ああ、私の人生はこれでおしまいだ。自分の楽しみも、喜びもないからだ」と。半分当たっていますが、半部間違っていると思います。讃美歌に「みなささぐ」という歌があります。「みなささげまつり、わがものはなし。ときわにみむねに、したがいまつらん。われささぐ、みなささぐ、みまえに主よ、われみなささぐ。」2019年12月のKGCクリスマス・コンサートで賛美しました。ある人たちは「この歌詞の意味がわかりません」と言っていました。確かに分かるような気がします。しかし、もとの英語の賛美歌はちょっと違います。ささげると訳されている、surrenderは「降参する、降伏する、身を委ねる、放棄する」という意味です。ということは、すべての所有権をイエス様に明け渡すということです。お金、お家、持ち物、自分のいのちすらも、主のものであり、自分がそれらを正しく管理するということです。これは神さまの奴隷になるということではなく、良き管理者になるということです。すべての所有者は神さまであり、自分がそれらを正しく管理するということです。
私たちは自分の家族、自分の持ち物、自分の家、自分のいのち、自分の趣味と握っているので、いつ失ってしまうか恐れて生活しています。そうではなく、元来は神さまのものなのです。ですから、それを失うときがあれば、それは主が取られたのであって、それはそれで良いのです。なぜなら、もとの所有者に戻っただけのことだからです。10人の子ども、すべての財産を一瞬にして失ったヨブはどう告白したでしょうか?「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)と言いました。自分の愛する子どもであっても、はじめからあったのではなく、主が与えてくださったのです。すべてのものは神さまから一時的に預かっているということを忘れないなら、日々、ゆだねて感謝して生きることができます。
②完璧主義の人は、主にゆだねるということができません。
1から10まで計算して、自分の思い通りに事を進めて行く人がいます。能力があり、人からもやり手だと思われています。でも、その人の神経はどうでしょうか?いつでも緊張し、間違いがないか細かいところまでチェックしています。もし、完璧主義の奥さんと結婚したらどうなるでしょう?ちゃんと住宅ローンも組まれており、夫は無駄使いが許されません。子どもも、宿題をちゃんとやるまでは寝ることができません。テレビは何時間、ゲームは何時間と決められています。もし、完璧主義の上司だったらどうでしょう?いちいち、報告しなければなりません。一生懸命やっても、ほめられることはありません。完璧主義の人は神さまを信じません。新約聖書には結構いい加減な弟子たちがイエス様から愛されています。ペテロなんか最悪で、「なんで彼のような人が弟子なんだ」と思いたくなります。アブラハムは信仰の父だと言われているけど、自分の妻を妹と二度も偽るなんて最低だと思うでしょう。財産全部を使い果たした放蕩息子をそのまま受け入れるなんて、なんといい加減な神さまなんだろうと思います。怒った兄の気持ちが良くわかります。教会に来ると、恵みだとか、感謝だとか、導きだとか、なんと甘ったれたことを言っているんだと腹が立ちます。ちゃんと自己管理できない可哀そうな人たちだと思うでしょう。
日本人は完璧主義の人が多いと思います。大陸の人はけっこういい加減です。日本人が作る車や時計、電化製品、工業品などは精密にできているだけではなく、簡単に壊れません。さまざまな道具、職人の道具みたいなものが西洋では大変尊ばれています。しかし、日本人は神経が細いせいか、精神的な病を抱えている人が非常に多い事も確かです。うつ病だけではありません。原因不明の肉体の病気がとても増えています。線維筋痛症、胃腸や結腸の粘膜の炎症、関節炎、偏頭痛、喘息、アレルギー、皮膚病…最近は精神的なものから来ると言われています。脳内神経分泌物のバランスが崩れていたり、自己免疫力の減少あるいは過敏などが原因です。人間の心と体がつながっていることがやっとわかって来たようです。人間は平安で、笑って、ゆとりをもって生きるように造られているのです。それは、創造主なる神さまのもとで暮らすしかありません。神さまは完全ですが、私たちは不完全です。私たちには不完全で足りない所がいっぱいありますが、神が共におられるならば、それらを解決し、乗り越えて行けるのです。できることも、できないことも神さまと一緒に行うのです。それが、主にゆだねた生活です。
③何でもコントロールしたい人は、主にゆだねることができません。
この人は「口ではあなたにゆだねます」と祈りますが、すぐ引き降ろして、自分でなんとかしようと思っている人です。この人は自分の思った通りに事が進まないと面白くありません。もし、自分の計画や願いが邪魔されるものなら、まっこうから戦います。また、人にも「あれしなさい」「これしなさい」という強いリーダーシップがあります。でも、自分に従わない人に対しては、冷たく当たります。自分の言うことを聞く人たちを大事にして、とても可愛がります。そのリーダーシップは神さまから与えられた賜物かもしれませんが、自分の城を築いて、城主になろうとしています。つまり、神さまが親分ではなく、自分が親分なのです。神さまを信じてはいますが、「遠くから見ていて下さい。あまり口出ししないように」と思っています。でも、人生は自分の思う通りに常に行くわけではありません。必ず、邪魔をする人が出てきます。自分を迫害し、いじめる人が出てくるものです。
人をコントロール、支配することは、ある種の喜びがあるかもしれません。人々を束ねることによって、大きなことができるからです。どの世界でも、リーダー的な人は、やっぱり必要なのです。では、キリスト教会ではどうなのでしょうか?聖書に「指導する者」という賜物があります。また、旧約聖書にも立派なリーダーたちがたくさんいました。神さまは特別な人を任命して、何かをさせるという方法を取られるようです。でも、その人が最後まで、へりくだって、主の道を全うしたかというとそうではありません。列王記にはたくさんの王様が出てきますが、問題のある人が多いようです。ある人は聖書の人物の3割は信仰を全うしたけど、7割はそうではなかったと言います。実はこれは神さまに仕える牧師や伝道者の比率と同じだそうです。最後は、高慢になり、堕落してしまうのでしょうか?その人は、神さまが王であり、支配者であり、すべての主権を持っておられるということを認める必要があります。そして、その神さまがある程度の、権限を自分に授けておられるということです。つまり、自分の権限は人を生かすために与えられたものであり、神さまあっての自分なんだということを忘れてはいけません。では、「主にゆだねる」とはどういう意味でしょうか?「私が間違って横暴なことをしないように、守ってください」という祈りです。また、「たとい自分の思い通りならなくても、あなたが主権を取って導いてください」というへりくだりの祈りです。私たちは神さまではありません。すべてのことをコントロールできるわけがありません。長良川の鵜飼いではありませんが、人を操作するためのロープを手放すべきです。主がすべての人の上に、力と必要を与えていることを認めるべきです。自分は、ただ、主のしもべとして、主から言われたことをするのです。それが主にゆだねた生活です。
3.ゲツセマネの祈り
最後にイエス様のゲツセマネの祈りから学びたいと思います。ゲツセマネの祈りこそが、究極な神さまにゆだねる祈りだからです。ルカ22:42「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」イエス様は父のみこころは何かということを十分に知っていました。なぜなら、人類の罪を負うためにこの世に来たからです。でも、「なぜ、この期に及んで、そんな祈りを?」と言いたくなります。これは私たち人間には良く分からないことであり、簡単に「こうだ」と言ったら、不遜になってしまいます。イエス様の「ゲツセマネの祈り」は奥座敷であり、私たちにはとうてい知りえないことです。私は、イエス様があんなに苦しんで祈られたのは、2つの理由があるからだと思います。1つはイエス様が人間であったからです。人間には自己保身、自己絶対、自己義任、自分だけは生き延びたい…いろんな本能があります。必ずしも罪ではないと思いますが、肉体のいのちにはそのような性質が宿っていると思います。当然、肉体を持たれたイエス様も「私はちっとも悪くないのに、なぜ罪の身代わりをしなければならないのか」と思われたのではないでしょうか?Ⅱコリント5章に「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」と書いてあります。ある人は「死んでも、3日後に復活したのだから、良いでしょう」と言うかもしれません。しかし、罪のないお方が罪とされるという汚名は消えません。もし、みなさんが泥棒呼ばわりされて、あとで「勘違いでした」と言われて、心が穏やかでしょうか?イエス様はこの先、捕えられさんざん馬鹿にされ、極悪人として十字架に付けられるのです。私たちと同じ肉体を持たれたイエス様にとって、神さまのみこころにゆだねるというのは簡単なことではなかったでしょう。
もう1つはイエス様が神さまであったからです。イエス様は神の御子であられ、永遠の先からご一緒でした。この地上でも、イエス様は御父と交わり、御父のみ旨を行なってきました。もちろん、これから十字架にかかり、罪の代価を払って死ぬことは分かっています。でも、イエス様は「この杯を私から取り去ってください」と率直に祈られました。簡単に言うと、「パスさせてください。他の方法はないでしょうか?」という祈りです。杯と言うのは、人類の罪を自分がかぶり、神さまから捨てられるということです。そうするとどうなるでしょう?いまわしい罪が、父なる神さまと自分の交わりを断絶してしまうということです。だからイエス様は十字架で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫ばれたのです。これは神であられるイエス様しか分からないことです。私たちは罪の中に生まれ罪の中で育ってきたので、罪の恐ろしさを知りません。イエス様は罪を負うことにより、親しい神さまから捨てられることが恐ろしかったのです。十字架の肉体の死よりも、断罪されて、地獄に落とされることが恐ろしかったのです。でも、イエス様は父のみこころがなるように祈られました。つまり、父なる神さまを信頼してゆだねたのです。イエス様のその願いはきかれませんでしたが、人類の罪が贖われるというみこころはなりました。
神さまは私たちに自由意思をお与えになられました。イエス様を信じたからと言って、自分の願いをすべて放棄しなければならないと言うことではありません。でも、重要なのは神さまのみこころを第一にして、時には自分の願いがかなわなくても、それで良しとする信仰です。なぜなら、神さまは私たちのことを愛しておられ、有害なものを排除し、最善をなしたいと願っておられるからです。詩篇37:4,5「主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」アーメン。