2026.3.29「背信者の顛末 エレミヤ書44章」

◆聖書箇所: エレミヤ書44章(聖書引用:新改訳2017)

 

  • 本日の中心聖句 

 

<エレミヤ44:11-14>

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44:11

それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『見よ。わたしはあなたがたに顔を向け、わざわいを下し、ユダのすべての民を絶ち滅ぼす。

44:12

わたしは、エジプトの地へ行ってそこに寄留しようと決意したユダの残りの者を取り分ける。彼らはみな、エジプトの地で、剣と飢饉に倒れて滅びる。身分の低い者も高い者もみな、剣と飢饉で死に、のろいと恐怖のもと、ののしりとそしりの的となる。

44:13

わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。

44:14

エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き残る者もいない。彼らはそこに帰って住みたいと心から望んでいるが、わずかな逃れる者以外は帰らない。』」

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エレミヤ39章でエルサレムは陥落しました。

紀元前586年と言われるエルサレム陥落により、ユダの民の多くはバビロンに捕囚にされました。

 

しかし、ユダの地に残された民もいて、40章から44章にかけては、その民たちについて書かれています。

40章には、バビロンの王に任命された総督ゲダルヤが、うまく民を励まし、統率したことが書かれています。

 

エレミヤもバビロンには行かずに、ゲダルヤのもとで暮らしていました。

民たちは希望をもって作物を作り、収穫も増え、周囲に逃げて散っていた民たちも戻ってきました。

 

ところが、統率していた総督ゲダルヤが暗殺され、殺したイシュマエルは、カレアハの子ヨハナンたちに追われ、アモン人の地に逃げました。(41章)

 

そのヨハナンたちがエレミヤの所に来て、神の御声を聞かせてくださいと懇願しました。

彼らはエレミヤが話す「ユダの国にとどまれ」という、神の御声には従わず、バビロンの報復を恐れて、エジプトへ行くことを決めました。(42章)

 

43章には、エレミヤとエレミヤの書記をしていたバルクをエジプトに連れて行ったことが書かれています。

おそらく彼らは、エジプトへは行きたくなかっただろうと思います。

神の御心ではないからです。

 

聖書には書かれていませんが、伝承によると、エレミヤはエジプトで死んだとされています。

ユダヤ人たちに石打ちにされて殺されたとか、老衰で静かに死んだとか、いろいろ言われています。

20歳前後で預言者として主から任命され、5人の王に仕え、40年間、人生のほとんどを捧げました。

「涙の預言者」と言われる彼の人生は、苦難の連続でした。

 

そして、本日の44章では、「背信者の顛末」とも言える、エジプトでのユダの民の様子が書かれています。

エレミヤがユダの民たちと対峙して語った最後の預言は大変厳しいものでした。

 

しかし、ユダの民たちは、驚くべき反論をしてくるのです。

 

◆背信者の顛末

① 真剣で的外れ

 

<エレミヤ44:16-18>

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44:16

「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。

44:17

私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。

44:18

だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」

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「天の女王」とは、豊穣とかの女神でしょうか。完全に偶像礼拝ですね。

天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。

 

困ったことに、ユダの民たちは、これを本気で信じて言っているのです。

そして、それをしなかったから、「私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」とまで言うのです。

 

なんと真剣で・・・なんと的外れな人たちなのでしょうか。

彼らは頭が悪かったのでしょうか?

いえ、結構合理的です。

 

「天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注いだら、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。」 と言うのですから。

 

たまたまかも知れないとか、考えないのでしょうか。

 

ではなぜ、イスラエルの神を信じるエレミヤとバルクを、無理やりエジプトに連れて行ったのでしょうか。

「神の人(預言者)」は、一種のお守りのようなものだったのでしょうか?

 

それとも、「言うことを聞く気はさらさらないけど、お叱りをもらうと清められているような気がする。」とか?

「はい!お叱りひとつ、いただきましたぁー」みたいな。

 

そもそも信じる神を間違えていては、お話にならないのですが、ユダの民たちは解っていないようでした。

しかし、この「真剣で的外れ」な状況というのは、私たちの生活でもあるあるなのではないでしょうか。

現代で言えばこうです。

 

「納豆を300回かき混ぜると痩せると信じて、ひたすら納豆をかき混ぜた!」とか、ちょっと流行りましたよね。

「牛乳は牛の赤ちゃんのものだから、人間が飲んでも栄養にならない」という、飛躍した考えとか。

 

まあ、これは冗談ですが、人間はそういった間違った思い込みに捕らわれてしまうことが多くあります。

 

『ナルニア国物語』など、多くの著書で有名なC・S・ルイス(1898年–1963年)の『悪魔の手紙』という本は、とても興味深いです。

 

悪魔の手紙の内容は、「老練なベテラン悪魔スクリューテープが、彼の甥である若い新米悪魔ワームウッドに、人間を堕落させる方法を31通の手紙で指南する。」というものです。

 

新米悪魔のワームウッドは、自分が担当した青年が、あろうことか、クリスチャンになってしまいました。

みすみす敵(神)の手に渡してしまうという、痛恨のミスをしてしまいました。

 

その青年は、熱心に教会に通うようになり、ワームウッドが手を焼いていたところ、知的で戦略的なスクリューテープは、手紙の12通目でこのようにアドバイスしました。

 

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1.無関心、生ぬるい状態にする。

 

・激しい悪事に走らせるよりも、神の「真理」や「死」に対して深く考えさせず、無関心、あるいは生ぬるい

状態にする。

・日常の小さな怠慢が、人間を最も確実に神から引き離すので、ありふれた事柄や些細な楽しみで頭を

いっぱいにさせる。

・「思考」を停止させ、「気分」や「感覚」で生きるように仕向ける。

 

2.教会を利用する。

 

・教会へ行くことを禁止せず、むしろ、教会に通いつつも、中身が伴わない「生ぬるい信者」に仕立て上げ

ることで、真の信仰から遠ざける。

 

3.なにも感じさせない。(虚無)

 

・少しずつ、気づかれないように、小さな罪を重ねさせることが、我々の敵(神)から遠ざける、最も効果的

な方法である。

 

「まこと、地獄への最も確実な道は、なだらかな道である。ゆるやかで柔らか、急な曲がり角もないのだ。」 

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怖いですねー。本当に悪魔は狡猾です。すごく甘い言葉で、優しく誘惑してくるのです。

しかしイエス様はこう言われました。

 

<マタイ7:13,14>

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7:13

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

7:14

いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

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ユダの民たちは、ちょっとずつ、ちょっとずつ、間違った思い込みに陥り、真の神から離れてしまい、次第に天の女王にどっぷりと冒されていったのです。

 

もはや、その闇には、エレミヤの言葉も届きませんでした。

 

◆背信者の顛末

② 神はすべてを造り変える

 

ユダの民への主の怒りは止まりません。

さばきの言葉が続きます。

 

<エレミヤ44:28-29>

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44:28

剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。

44:29

これが、あなたがたへのしるしである──主のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』

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この、「ユダの残りの者たち」という言葉がエレミヤ書には多く出てきますが、これはイザヤ書に出てくる「残りの者(レムナント)」とは違う単語です。

 

イザヤ書の「残りの者(レムナント)」は、切り株から芽がでるような、未来的希望、メシア的希望の言葉です。

 

一方、エレミヤの「残りの者」は、さばきをくぐり抜けた者たちではあるが、その中には、未だに回心していない偽物もいるというイメージです。

 

ただ、そのエレミヤの残り者たちは、「ユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」と主が言われたように、「滅びゆく同胞たちと、エジプトの滅び」を目にする生き証人のような役割となります。

 

古代エジプトは、後にペルシャによって滅ぼされます。

神の御言葉は、必ず成就するのです、

 

エレミヤ書は52章までありますが、時系列でのエレミヤの預言は44章で終わっています。

残りの章は、エジプトに行く前の預言に遡ります。

エレミヤは、神に忠実に従い続けましたが、あまり報われず苦難の人生を送った、「涙の預言者」でした。

 

エレミヤの最後の預言によると、神は、背信の民を完全に叩き、取り去り、リセットされようとなさっています。

そして、神は、私たちの思わぬ方法や形で、人を、この世界を、新しく造り変えようとされました。

 

それは、もうすでに、エレミヤ31章で語られている通りです。

<エレミヤ31:31-33>

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31:31

見よ、その時代が来る──主のことば──。

そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

31:32

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。

31:33

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。

わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

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これはメシヤ預言、イエス様がこの地に生まれて来てくださることの預言であろうと言われています。

イエス様によって、偶像崇拝の状況はリセットされ、新しい契約が結ばれるのです。

神の造り変えは、徹底しています。

 

先ほど触れたC・S・ルイスは、長年キリスト教を批判していた無神論者でした。

しかし、オックスフォード大学の友人と理詰めで議論した末に、主に降伏するような形で回心しました。

嫌々クリスチャンになった彼は、神から見たら、「愛すべき困ったちゃん」だっただろうと思います。

 

彼は牧師ではありませんでしたが、神について的確に、ユーモアたっぷりに表現する言葉を残しています。

 

例えば、こちら。

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【歯医者のたとえ】

人はなぜ神に助けを求めるのが怖いのでしょうか

ルイスは、子供の頃に歯が痛くなっても、なかなか母親に言い出せなかった経験を語っています。 

 

子供だったルイスは、歯が痛いときに母親に言えば、痛みを止めるアスピリンをくれることは分かっていました。しかし、同時に「翌朝には歯医者に連れて行かれること」も分かっていました。

 

歯医者は「やりすぎるんだ!」
ルイスにとって恐ろしかったのは、歯医者が「今痛んでいる歯」だけを治して終わりにしてくれないことでした。歯医者は口の中全体を調べ始め、まだ痛んでいない他の歯の虫歯まで見つけ出し、いじくり回します。

 

神は「徹底的な治療」をする歯医者のようです。
私たちは「とりあえず今の苦しみさえ取ってくれればいい」と考えがちですが、神の目的は部分的な修理ではなく、「あなたという存在を完全に健全なものにすること」です。

 

そのため、時には本人が望んでいない部分まで手が入り、痛みを感じることもありますが、それは神が「あなたを完璧な姿にしようとしている証拠」なのです。

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本当にそうですね。

自分が思っているよりもずっと、自分には神によって再構築されないとならない部分がたくさんありそうです。

そして、その方法は私たちの想像をはるかに超えたもので、痛みを伴うかもしれませんが、完璧な姿にされるのです。もうこうなったら、すべて主に委ねて造り変えていただくしかないですね。

 

◆背信者の顛末

③ アップデート(更新)する

 

<エレミヤ44:30>

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主はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」

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先ほども言いましたが、実際に、古代エジプトはバビロンに敗北し、最後はペルシャによって滅ぼされてしまいます。残りの者たちは、その様子をまざまざと見せつけられ、神のことばの成就を痛感したことでしょう。

 

ユダの民の背信が、悪魔によって、ジワジワ信仰の軌をずらされたからだとしたら、私たちに必要なのは、悪魔に惑わされないように、常に信仰のアップデート(更新)をすることではないでしょうか。

 

スマホやパソコンだって、常にアップデートしています。

とは言え、私はパソコンのアップデートはちょっと苦手です。

アップデートすると、急にデザインが変わったりして、使い勝手が悪くなったりすることがあるからです。

 

特に教会のパソコンは、突然ウィーンウィーンとアップデートが始まるからすごく嫌です。しかも長時間です。

 

よく第一礼拝の賛美リードでパソコンを開いたときに始まるので、そういう時は、めちゃくちゃ焦ります。

「だから最近はWi-Fiを切って、ネットに繋げないようにしているんだよー」と息子に言ったら、怒られました。

 

アップデートしないと、「セキュリティーが甘くなって、ウィルスが入ってくる原因になる。」とか、「パソコンの不具合の原因になる。」とか言われました。

 

それで、「ああー。信仰も同じだなぁー。」と気づきました。

信仰のアップデートをしないと、ウィルス(誘惑とか恐れとか)に侵されたり、心身の不調に陥ったりします。

 

ですから、信仰のアップデートというのも、定期的に必要なんだと思います。

例えば何をすればよいでしょうか・・・

 

  • 聖書を毎日読んで恵みをいただく。
  • 信仰の友と、日々の分かち合いをして祈りあう。
  • 断食をして主との時を持つ。
  • 賛美を聞きまくる、歌いまくる。
  • 景色の綺麗な場所にでも行って、全地を造られた主との交わりを持つ。

 

など、いろいろあるでしょう。

 

忙しい日常に追われていると、ジワジワと信仰の軌道がずれていきます。

しっかりと主を見上げて、的外れなことをしないように、主によって造り変えられ、恵みによって、日々信仰のアップデートをして行きましょう。