今日は、信仰の継承についてメッセージをさせていただきます。旧約聖書には「神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と書かれています。それぞれが、同じ神さまを仰ぎ、信仰が継承されています。今日、出てくる、テモテも信仰を祖母、母から受け継ぎました。私たちも自分が一代で終わらないで、子や孫に信仰を継承していけたら幸いです。
1.救いの継承
テモテはパウロが第二次伝道旅行のとき、弟子に加えられた人物です。使徒16:1「それからパウロはデルベに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった」とあります。テモテは母がユダヤ人であり、ユダヤ教の信仰を受け継いでいたと思われます。しかし、父親はギリシア人でした。彼に信仰があったかどうか書かれていません。そのため、パウロはテモテに割礼を施しているようです。使徒16:3「パウロは、このテモテを連れて行きたかった。それで、その地方にいるユダヤ人たちのために、彼に割礼を受けさせた。彼の父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。」本来、救われるためには割礼は不要なはずですが、テモテがユダヤ人にも伝道できるようにパウロはそのようにしたと思われます。テモテはこの時から、パウロの弟子になりパウロと行動を最後まで共にするようになります。テモテはパウロから「霊の子ども」であるとも言われています。パウロは今、ローマの獄中に捕らえられていますが「私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています」(Ⅱテモテ1:4)と言っています。おそらく、テモテはこのとき、エペソで牧会していたと思われます。Ⅱテモテ4章では、「外套と、書物、特に羊皮紙の書物」を持ってきてくださいと」お願いしています。羊皮紙の書物とは、旧約聖書のどこかの書物かもしれません。この当時は、聖書が完成していなかったので、あちらこちらに散在していたものと思われます。パウロがこの手紙を書いていますが、これが聖書の一部になるとは、考えてもいなかったでしょう。なぜなら、この手紙はとても個人的なものだからです。
テモテのことをもう少し調べたいと思います。Ⅱテモテ1:5「私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。」このところから、使徒16章よりも、もっと詳しいことを知ることができます。テモテのお母さんはユニケです。彼女がテモテを信仰に導いたのでしょう。でも、ユニケの信仰はロイスから来たものです。良く分かりませんが、祖母ロイスと母ユニケがテモテに対し信仰を与え、そしてその信仰を育てたのだと考えられます。私の家内も、孫のため良く祈っています。たまに預かるときがありますが、寝ている孫の頭に手を置いて祈っているようです。車でお家に送り届ける前は、私がお祈りします。「アーメン」といつか言ってくれると思います。日本でもそうですが、信仰を持つのは男性よりも、女性の方が多いかもしれません。母親が信仰を持つと、その信仰が子どもに伝わりやすいのです。なぜなら、四六時中子どもと一緒にいるからです。それに比べ、父親一人のクリスチャンの場合は、うまくいきません。仕事に出かけるように教会の礼拝に行くからです。未信者の母親は子どもと一緒に家で留守番しています。子どもは未信者の母親の価値観を学ぶかもしれません。本来なら、両親がクリスチャンであり、一緒にお祈りしている姿を子どもが見るなら、とても良いでしょう。そのように聖霊がお家に満ちているなら、おのずと、子どもも信仰を持ちます。とにかく、テモテの信仰は、祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがテモテのうちにも宿っていたのです。
では、なぜ、信仰を継承することが、それほど価値があるのでしょうか?それは愛する子どもが滅びに行かないで、ぜひとも救われてほしいからです。ある親が「信仰持つ、持たないは子どもの自由ですから」と言いました。確かに子どもの自由ですが、だからと言って子どもが滅びに行くことを見す見す許して良い訳がありません。愛するからこそ、救われて同じ御国に行ってもらいたいのです。子どもは小さいときは自分の意思があまりありません。ですから、信仰にあふれた環境で育てると、それが当たり前のようになります。ある教団は、大人と子どもを一緒に礼拝を守らせています。子どもはその間、お絵かきをしながら静かにしていなければなりません。私のような説教者はどちらに合わせたら良いのかわからないのでイヤになるでしょう。でも、不思議なことに親子合同で守らせる教団の子どもたちが、信仰を継承する確率が高いのです。エホバの証人というキリスト教の異端がありますが、彼らは子どもの時から学び会に出席させ、一緒に伝道に回ります。最近は強制的な洗脳だとか訴えられていますが、信仰を継承するための知恵かもしれません。律法主義になってはいけませんが、知恵を働かせて、何とか信仰を持つようにさせたいものです。私たちの子どもは小学校5年生のころ、洗礼を受けさせています。大体は、中学校になると反抗期になり、親の言うことを聞かなくなります。子どもは素直なうち、洗礼を受けさせるのが一番だと思います。中学、高校と一時期離れるときもありますが、子どものときに持った信仰が必ず、カムバックすると信じます。
ビルジョンソンは5代目のクリスチャンだそうです。先生にはひ孫もいるので、7代目がいるということです。日本では考えられません。私のような一代目のクリスチャンはとても粗削りです。罪の世から救い出されて、その汚れがきよめられていません。ことばや行いにおいて、「あれでも、クリスチャン」とよく言われます。「何か文句ある?信仰は行いじゃないのよ」と対決的になります。そこへ行くと、二代目、三代目は信仰が内側に座っているので、人を躓かせるようなことはあえてしないと思います。一代目よりは、派手さはないかもしれませんが、信仰が内側から自然とにじみ出てくるかもしれません。かつて、常磐牧師セルというのに属していましたが、牧師の子どもが牧師になっているというのが結構ありました。牛久の大喜多先生は男の子二人ですが、二人とも牧師になりました。松戸の岡野先生も男の子二人が牧師になっています。「人は人」であり、牧師の子どもが牧師になる必要はありません。なぜなら、そこには賜物と召命があるからです。あこがれで牧師や伝道者になって、途中でやめてしまった牧師子息もたくさん見ています。牧師が最高の職業ではありません。ビジネスマンや公務員になって、そこで信仰を現わしていけばよいからです。牧師が伝道的できるのは限られた人たちだからです。信仰をもった献身者がいろんなところに遣わされて、そこで伝道し、弟子を作ることが最もすばらしいことです。
でも、信仰を継承する上で、私たちの模範も大事ですが、聖書を教えていくことがとても重要です。Ⅱテモテ3:14-15「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」テモテは幼いころから聖書に親しんできました。また、誰かから学んだと言われていますが、祖母ロイスと母ユニケからも学んだに違いありません。ユダヤ人が最初に学ぶのは、申命記6章のシェマーだと言われています。申命記6:4-7「聞け、イスラエルよ。【主】は私たちの神。【主】は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。私が今日あなたに命じるこれらのことばを心にとどめなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。」「聞け」というのが、ヘブル語で「シェマー」なので、この戒めが「シェマー」だと言われるのです。ここでは、神が唯一であること、その神さまを全身全霊で愛せよということです。そして、この「シェマー」を子どもたちに良く教え、寝ているときも起きているときも、彼らに語りなさいと命じられています。これだったら、いやが応でも、信仰を持たざるを得ません。パウロが言う「聖書」は旧約聖書でした。しかし、私たちの場合は新約聖書も加わっていますので、救いを得るためには完全です。パウロは「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます」と言っています。聖書は特別な書物です。なぜなら、神の霊感によって書かれたからです。Ⅱテモテ3:16-17「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。」さらに、聖書は救われた後、神の人が良い働きができるように十分な者となるように整えてくださるのです。私たちはこの聖書を片時も離してはいけません。なぜなら、聖霊が書かれている神のことばを用いて、教えてくれるからです。ある人達は「勝手に読むと間違えて解釈するので権威のある人から教えてもらいなさい」と言います。それも良いけど、聖書を書いた本当の著者である聖霊が私たちに教えてくれるから大丈夫です。ヨハネ16:13「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」どうぞ、聖霊を信頼してください。あなたが読んで恵まれたことを、子どもや家族にシェアーするのです。お説教は、あまり効果はありませんが、自分が教えられたことを体験として話すなら効果があります。神のことばは、救いの種です。これを心に蒔くなら、永遠のいのちが与えられます、
2.働きの継承
最初のポイントは信仰の継承でしたが、第二は働きの継承について学びたいと思います。Ⅱテモテ2:1,2「ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。」これは、パウロがテモテに命じていることです。テモテはパウロの霊的な子どもでした。そのテモテに、「私から聞いたことを、信頼できる他の人に委ねなさい」と言っている訳です。その人はパウロにとっては孫にあたります。パウロの子はテモテ、テモテの子は、パウロの孫です。家庭においても、息子や娘が結婚して、孫が生まれたなら可愛いですね。私も次男が結婚して孫が与えられました。顔はあちら系で、鈴木家ではないです。でも、とても整っていて上品な男の子です。たまに預かるときがありますが、身長も伸び、体重も増え、だっこすることができません。家内も「あのときは若かったからできたんだなー」とため息をついています。でも、孫は可愛いです。という訳で、私たちはテモテという霊の子を産み、その後、霊の子が子どもを産むという「孫」の段階まで見届ける必要があります。これも信仰の継承の別形態です。
ここで問題になっていることがあります。パウロはどのような人に自分が学んだことを委ねなさいと言っているのでしょうか?ここでは「教える力のある信頼できる人たちに」と言っています。「教える力」とは賜物のことです。また、「信頼できる人」とは人格的なものです。パウロはだれでも良いと言っている訳ではありません。これはどういう意味でしょう?私たちが福音を提示して救いに導くのはだれでも良くて、分け隔てする必要は全くありません。パウロは「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)と言っています。でも、ここでいうのは、自分の後継者、弟子作りの問題です。このようなことを聞くと、みなさんは「狭い」と眉をひそめるでしょうか?イエス様も12人、あるいは72人の弟子たちを選ばれました。それは自分の働きを拡大し、また継承するためです。私自身「このような働きが乏しかったなー」ととても反省しています。それに比べ、大和カルバリーの大川牧師には、たくさんのお弟子さんたちがいらっしゃいます。夏目漱石もたくさんの書生をかかえていましたが、大川牧師のところで訓練を受けたいという若者がたくさんいることは羨ましい限りです。リーダーシップとか、カリスマ的な魅力、豊かな経験と知識がなければならないのでしょう。まあ、いいです。私は私のレースを走れば良いのですから。でも、パウロがテモテに、第二番目のテモテを作るように要請していることはすばらしいことだと思います。
あるセミナーで、「テモテ2:2」がいかに大切かを学んだことがあります。ほとんど忘れてしまいましたが、その牧師はある高齢の方を信頼してアッシャーの奉仕を任せたそうです。その時、バッチを与えました。彼はすでに仕事を引退している人でしたが、アッシャーの奉仕に誇りをもっていました。牧師の代わりに入口で笑顔をもって、人々に接してくれていました。彼が亡くなる前に、牧師に1つお願いしたそうです。「胸につけていたバッチのままで、私をお送りください」と言ったそうです。彼はアッシャーの奉仕を誇りに思っていたのです。そのセミナーでは「人を信頼して、任せることがとても重要である」と教えていました。職人気質の人は、完全にできないと人に任せないところがあります。自分でやった方が早いからです。私も実はそういうところがあって、何でも一人でやってしまい、時々、怪我をします。人に任せるというのは、リーダーシップの大事な特徴だと今さら思います。イエス様はあの不完全な弟子たちに、福音宣教を任せたのですから素晴らしいと思います。十字架にかかる前は、ヨハネを除いて、全部いなくなりました。でも、イエス様は復活後、改めて彼らを召したのです。あれはイエス様の信仰です。私の好きなみことばがあります。ローマ11:29「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」これはすごい恵みです。私たちの方は一度召されても、途中で挫折して、辞めてしまう可能性があります。でも、一度与えた「神の賜物と召命は、取り消されることがない」とはすばらしいです。つまり、神さまがそのように私を見ているなら、ぜひ、そのように答えたいと思うのです。自分もそのように召されたのだったら、テモテとテモテに続く人たちへの見方も違ってくるかもしれません。
私たちはどうしてもその人の外見や能力を見てしまいます。学歴があればさらにすばらしいと思うでしょう。でも、意外とそうではない場合があるのです。預言者のサムエルが次期の王様を選ぶためにエッサイの家に行きました。エッサイは子どもたちを長男から順に並べて用意していました。サムエルは長男のエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油注がれる者だ」と思いました。Ⅰサムエル16:7主はサムエルに「彼の容貌や背の高さを見てはならない。私は彼を退けている。人が見るように見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われました。次男もだめ、三男もだめ、エッサイは7人の息子をサムエルの前に進ませましたが、サムエルはエッサイに「主はこの者たちを選んでいない」と言いました。もう一人いましたが、そこに呼ばれていませんでした。サムエルは「その子を連れてきなさい」と言って、ダビデが野原から連れてこられました。主は「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ」と言われました。サラン教会に玉ハンフムというすばらしい牧師がおられました。そこの教会の長郎さんからあることを聞きました。「玉(オク)師は学歴のある青年にたくさん本をあげていたけど、私には一冊もくれなかった。おそらく私は将来有望だとは思われていなかったのでしょう。でも、そういう人たちは今ほとんど教会にいません。私だけが忠実に教会に仕えています。玉師は人を見る目がなかったんだなー」と言っていました。どんな牧師もそういうところはあるでしょう。神さまの目ではなく、この世の尺度で学歴があり、能力がある人を選びたくなるのです。
テモテはパウロの弟子です。次はテモテが弟子を作る番なのです。弟子というのは師匠のDNAが詰まっている存在です。霊的な誕生は、祖母ロイスと母ユニケを通して与えられました。使徒パウロはマケドニアでテモテを自分の弟子として召しました。今度は、テモテに自分の霊の一部を与えなければなりません。Ⅱテモテ1:6「そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」とあります。」神の賜物というのは、具体的な聖霊の賜物かもしれませんが、それだけではありません。エリヤがエリシャに与えたマントであり、油注ぎです。パウロはそれを「臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊」と言っています。パウロも何人もの弟子がいたと思いますが、最後の最後までついてきたのはテモテです。パウロが最も信頼しているのはテモテです。今度は、テモテは自分の弟子を作る必要があります。それが「パウロから聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねる」ということです。現代では牧師になるためには、神学校に送り出して何年間か勉強すれば良いと思われています。ある人が「フルタイムの献身をしたいので、神学校に入りたいです」と言うかもしれません。ところが、その人を神学校に送ると、卒業した頃は全く別人になっています。どこの神学校もそうですが、バックに教団の教えがあり、その教えを神学生に3年ないし4年教えるのです。そうすると、神学校が持っている神学に染まるのは当たり前です。もう、その人は母教会には戻ってきません。最近では、神学校に送り出さないで、教会付属の学校で教えています。そのため、神学校に入学する人が数名しかいないのです。私の場合は、母教会で学びと訓練を受けながら、神学校に通いました。だから、大川牧師と喧嘩しないで仕えてきたので、弟子として認められています。昔は、弟子というのはただ働きの丁稚奉公でした。弟子はお師匠さんから技術を盗めと言われていました。つまり、知識だけではなく、伝授するものがあるということです。そういえば、イエス様も3年半、弟子たちと寝食を共にしながら体験的に教えていました。現代の神学校は教室に生徒を集め、カリキュラムを組んで、教師が一方的に教えます。当時のイエス様のやり方とは、ずいぶんと違うなーと思います。
私たちも自分が学んできた知識や技術を子どもや後輩に伝える必要があります。自分にそのような弟子がいたかどうか、考える必要があるかもしれません。私も同じことで、テモテを作り、そのテモテが次の人を弟子とするまで見届ける必要があります。私はセルチャーチで「コーチング」ということを学びました。その時は、義務的でやっていたような感じがします。しかし、今度は自分が牧会している教会でコーチングを始めました。昔は勉強会にたくさん参加するとうれしく思いました。しかし、コーチングは数ではありません。たとえ一人でも、テモテを作るのですから、価値があります。大川牧師が私を神学校に送り出すとき、開いてくれた箇所があります。ヤコブ3:17口語訳「しかし上からの知恵は…温順であり…」とあります。温順とはteachable person「教えられやすい心だ」と先生が説明してくださいました。だれからも学ぶ心が大切だということです。だれが私のテモテなのでしょうか?それは難しくはありません。私から学ぼうとしている人です。イエス様がマタイ11:29「わたしから学びなさい」と言われました。この「学ぶ」というギリシア語がマセテース「弟子」ということばと同じなのです。今日のまとめです。次のだれかに救いを手渡しましょう。また、次のだれかに自分が学んできたものを手渡しましょう。霊的な子どもが与えられ、そして霊的な孫を見ることができますように、アーメン。