2026.2.1「パウロのとげ Ⅱコリント12:7-10」

パウロは肉体に何らかのとげが与えられていました。それがあるために、主の働きに支障がきたしており、三度も取り去るように主に願いました。しかし、それは叶えられず、弱さの中でも主の恵みが十分であったということが分かります。パウロのとげを「すべての病はいやされることはない」という理由に捉え、病の癒しを反対するグループもいます。きょうは、「パウロのとげとは何なのか?私たちにどのように適用できるか?」ということを学びたいと思います。注解書を読むと、そちらの考えに引き込まれますので、注解書は見ないことにしました。

1.パウロのとげ

 私たちはどうしてパウロが肉体のとげを持つようになったのか、そもそもの原因を知る必要があります。パウロは7節でこう述べています。「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。」私たちとパウロが違う点が、このところです。パウロは使徒であり、パラダイスに引き上げられて、特別な啓示をいただきました。だから、パウロは13の手紙を書くことができました。もし、パウロの手紙が聖書の中にないなら、神学的にとてもうすっぺらいキリスト教になったと思います。主はガマリエルの門下であり、旧約聖書とユダヤ教の教えに通じたパウロを選びました。でも、それだけでは不足であり、神さまから直接、このようなことを書きなさいと啓示を与えられたのだと思います。パウロは旧約聖書の「主」が、ナザレのイエスであるということをあらゆる面から自分の手紙で述べています。そして、パウロは「この啓示のすばらしさのために高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました」と言っています。まず、第一に知るべきことは、私たちはパウロと違うということです。もし、私たちが自分の病気や障害を「これはパウロが言っているとげです」と言ったらどうでしょう?私はその人に「あなたはパウロのようにパラダイスに引き上げられ、直接、神さまから啓示をいただいたのですか?」と聞きたいです。もし、そうでないなら、簡単に「パウロのとげである」と言ってはいけないと思います。つまり、「すべての病や障害は癒されることがない。癒しよりもまさるものは、主の恵みである」と簡単に結論付けてはならないということです。それは、高慢であるばかりか、主の癒しを信じない言い訳になるからです。ですから、一般の私たちは特別なことがないかぎり、神さまは私たちに健全な肉体を願っているということです。Ⅲヨハネ2「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」これが神さまの私たちに対する一般的な神のみこころです。

 でも、言えることはパウロには何らかの「弱さ」はあったようです。5節「このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。」また、9節にも書いてあります。「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」パウロには何らかの弱さがあったようです。しかし、この「弱さ」をパウロは7節で「肉体に一つのとげを与えられました」と言っています。つまり、「弱さ」と「肉体のとげ」は、イコールになっているということです。ギリシャ語の聖書を読むと、「弱さ」は無力、病、虚弱という意味もあります。英語の聖書はweknessです。「弱さ」は必ずしも、罪ではありません。だれでも、長所と短所を持っています。肉体的にも、生まれつきどこか弱いところがあります。手足や視力、聴力の他に、内臓の問題もあるかもしれません。多くの神学者は「パウロは目が悪かったのではないか」と言っています。なぜなら、パウロの手紙のほとんどは、パウロが言ったことをだれかが口述筆記しているからです。ちなみに、ローマ人への手紙筆記したのは「テルティオ」とローマ16章22節から分かります。最後の部分はパウロが書いているようです。コロサイ4章には、「私パウロが自分の手であいさつを記す」とあります。また、ガラテヤ6章には「ご覧なさい。こんな大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています」とあります。つまり、「この手紙は私が書き送っているのですよ」ということを分からせるためでしょう。多少、ギリシャ語の文体は違っていても、パウロが実際、しゃべったのを弟子のだれかが筆記したのでしょう。そういう意味で、パウロは目が悪かったのではないかという説が有力です。そういえば、パウロが回心したとき、天から強烈な光がさし、三日間、彼は見えなかったとあります。三日後、祈ってもらったら「目から鱗のような物が落ちた」(使徒9:18)とありますが、ひょっとしたら角膜の一部なのかもしれません。

 もう一か所、パウロの弱さを証明するところがあります。それはガラテヤ4章に書いてありますが、パウロがガラテヤを伝道したときの様子が書かれています。ガラテヤ4:13-15「あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。」ここから分かることは、パウロの肉体に何らかの弱さがあり、それが外見上にもさしさわりがあったようです。また、「目」と書いてあるので、目と関係があります。学者たちは、パウロが小アジアの風土病のマラリヤ熱に犯されていたのではないかと推測しています。「パウロの病気がマラリヤ熱の発作現象であり、てんかんのように苦しむとも」推測しています。また、ユダヤ人を含めた古代人は悪霊から来る病気ではないかと考えていたようです。確かに、パウロは7節で「私を打つためのサタンの使いです」と言っています。ヨブ記をみますと、主がサタンに許可を与えたので、ヨブは悪性の皮膚病で苦しみました(ヨブ2:7)。このように考えますと、パウロには何らかの肉体の弱さがあり、それはパウロが高慢にならないための、サタンの使いであったということです。

 パウロのとげの原因については分かりました。私たちはパウロのように天に引き上げられる体験することができないにしても、パウロをささえた主の恵みについては体験できると思います。Ⅰコリント12:8-9「この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」パウロが三度祈ったというのは、単純に三回という意味でなく、完全に祈ったということです。それでも、その肉体のとげは取り除かれなかったということです。もし、肉体のとげが、病の後遺症や身体の欠陥であるとしたら、これは私たちにも言えることです。福音書を見ると、イエス様は「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒されました」(マタイ9:35)。福音書には病のままであったとか、癒されても後遺症が残っていたという記述はありません。おそらく、すべての病や病弱が癒されたのだと思います。でも、ヨハネ福音書5章を見ますとどうでしょう?イエス様がいやされたのは38年間床に臥せっていた男性一人だけです。ベテスダの池には「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人達が、大勢、横になっていた」(ヨハネ5:4)と書いてあります。おそらくは、イエス様はすべての病人や障害者を癒してあげていないということです。現代の教会はどうでしょうか?近年アメリカではリバイバルが起こり、大勢の病や障害が癒されました。ある人が「どうしてすべての人が癒されないのですか」と伝道者に質問しました。確かに、集会が終わってからうなだれて帰る人もいます。その伝道者が言いました、I don’t know「分かりません」と答えたそうです。そうなのです、この地上においては、すべての病や障害が癒されないこともあるのです。

 もし、癒されない人が、パウロを支えた恵みを知ったなら、なんと大きな励ましになるでしょう?私は何べんも祈ったし、他の人からも祈ってもらったけど直らなかった。どうしてなんなんだろう?「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。」アーメン。体が癒されることはベストなことですが、弱さに現れる主の恵みもあるということです。これを逆転勝利と言うのかもしれません。ジョエル・オースチンのお母さんは幼い時、小児麻痺にかかり片方の足が4㎝くらい短く、足に支えをしていました。しかし、彼女はそれを克服し、看護師になり、牧師夫人になりました。45歳位のとき、末期の肝臓がんと診断されましたが、癒され、40年後も生きておられます。お嬢さんのリサは生まれたとき、大脳に障害があり、一生車いすであろうと言われましたが癒されました。しかし、20代のとき教会で働いているとき、爆弾の小包を空けておなかを怪我しました。そのせしもあってか結婚しても子どもが与えられませんでした。しかし、神さまの導きで双子の女の子の養子が与えられました。リサは今も幸せな家庭を築き、教会でも教師として活躍しています。このように完全に癒されない場合は、それを克服する主の恵みがあるということです。ですから私たちも、キリストの力が私たちをおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

2.パウロのもう一つのとげ

 実はパウロのとげの解釈には、全く別のものがあります。それは、ユダヤ人たちのパウロに対する厳しい迫害です。その根拠がⅡコリント12:10「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」とあります。それまで「肉体のとげ」とはパウロ自身の病か何らかの障害かと考えていました。9節にも「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と書かれていました。ところが次の10節は「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」に置き換えられ、「というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです」と9節と同じ文章になっています。つまり、パウロを絶えず悩ませる肉体のとげとは、「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」をもたらしたユダヤ人ではないかと思うのです。実際にこのように解釈するキリスト教の指導者たちもいます。一つ前の11章には、パウロが受けた迫害のことが数多く記されています。Ⅰコリント11:23-24「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度…」とあります。パウロは宣教中、さまざまな迫害や苦しみにあっています。パウロはローマ人や異邦人よりも、むしろユダヤ人たちから受けた迫害や苦しみの方が多かったのではないかと思います。

 使徒の働き13章から最後の28章までは、使徒パウロの異邦人伝道のことが記されています。パウロは3回の伝道旅行をし、最後はローマへの旅で終わっています。でも、共通していることは、最初、ユダヤ人の会堂で教えます。異邦人は喜んで福音を受け入れますが、ユダヤ人たちが迫害します。パウロたちは次の町に逃れるのですが、ユダヤ人たちが追いかけてきて邪魔をします。パウロは足のちりを払い、異邦人たちに伝道するようになります。それでも、ユダヤ人たちは、人々を扇動してパウロの邪魔をしました。おそらく、パウロはユダヤ人が邪魔をしなかったなら、もっと気分よく、もっと効率的に福音を宣べ伝えることができたのではないかと思います。パウロがローマに囚人として旅立つのは、ユダヤ人たちの告訴から発したことです。パウロはローマ市民としてカイザルから裁判を受けるために、ローマに行くわけです。考えてみると、イエス様もパリサイ人や律法学者から妨害を受けていました。イエス様が弟子たちや人々に教えているとき、彼らはそばにいて文句を言いました。イエス様の教えの三分の一は、ユダヤ人との紛争から生まれたものです。イエス様も絶えず、ユダヤ人指導者たちと戦いながら、人々を教え、ミニストリーをしておられました。使徒パウロもイエス様と同じような妨害を受けたのです。

 私は以前、ジョエル・オースチンのメッセージを引用して、私たちの周りには4種類の人がいると申し上げました。ナンバー1は私が何をしても、私に賛成し、味方をしてくれる人です。そういう理解者や親友が何名かいるものです。ナンバー2は私に対して肯定的ではあるけれど、私が気を使わなければいけない人です。何をしても良いわけではありません。行いや言葉において、躓かせてはいけないので、気を使いながら、良い関係を維持していく必要があります。ナンバー3は、私に対していくらか否定的な考えや感情を持っている人です。私が失敗したり、何か悪いことをしたら、離れ去る人たちです。理由はわかりませんが、気の合わない人というのは必ずいるものです。ナンバー4は私に対して否定的であるばかりか、反抗的な態度を取る人です。何かと非難し、私を糾弾する人たちです。ジョエル・オースチンは「そういう人は必ずいるので、そのままにしておきなさい。決して贈り物をしたり、おべっかを使って、気に入られようとしても無駄です。こちらがどんなに努力しても離れていく人はいるものです」と言っていました。聖書に「あなたの隣人を愛しなさい」とか「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とあります。しかし、私はジョエル・オースチンのメッセージを聞いて、これまでの悩みが吹っ飛びました。クリスチャンになると、「すべての人を愛し、だれとでも仲良くしなければならない」と思うかもしれません。そうすると、ヒューマニストか偽善者になるしかありません。これは運命論的なものであり、神さまが4つのタイプの人を自分の周りに置いて下さるのだと思います。極端に言うと、ナンバー1の自分を好いて愛してくれる人はいます。そして、ナンバー4の天敵みないに自分に噛みついてくる人もいるんだということです。実際、イエス様はとても、すばらしいメシヤでしたが、ユダヤ人指導者たちは激しく敵対しました。使徒パウロはとてもすばらしいで神の人でしたが、ユダヤ人から迫害を受けました。Ⅰヨハネ5:19「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを私たちは知っています」とあります。私たちは、救われていてもこの世に住んでいることを忘れてはいけません。ですから、神に敵対し、同時に私たちにも敵対する人は必ずいるものです。

 ここで終わると、少し寂しい感じがしますので、使徒パウロが何と言っているのか学びたいと思います。Ⅱコリント12:10「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」使徒パウロはどのようにしてこのような苦しみや迫害を乗り越えて行ったのでしょうか?主はどのような恵みを備えていてくださったのでしょうか?私は主の恵みはとても具体的であったと思います。最近『ストーリー・ブランドを建て上げる』という本を訳しました。これは「ブランドをどのように効果的にアピールするか」というビジネスの本です。この本にはストーリには一定の枠組みがあると言っています。私たちは映画を何の気なしに見ているかもしれませんが、7つの流れになりたっています。第一は主人公が現れます。その本では、顧客が主人公であると書いています。第二は主人公が問題を抱えます。突然、爆丸が爆発したり、誰かが誘拐されたり、災害が起こってその安定が崩れます。これは「顧客が困っていて、助けを求めているという」前提と同じです。第三は助け手(ガイド)に出会います。映画の『スター・ウォーズ』でいうと、ルークがジュダイに出会うということです。実は神さまはパウロにたくさんの助け手や同労者を与えています。パウロを第一線に引き出したのはバルナバでした。バルナバがリクルートしなければ、パウロはタルソで埋もれていたでしょう。伝道旅行のときは、バルナバやシラスが一緒でした。ヨーロッパに渡ってからはルカやテモテが一緒になりました。パウロたちを家に泊めてくれる人もいました。同じテント職人のプリスキラとアクラが一緒になりました。時にはローマの千人隊長が暴動からパウロを救い出してくれました。ローマ人への手紙の最後をみると、パウロにはたくさんの同労者がいたことがわかります。手紙を代筆してくれたり、投獄されているパウロを助けました。第四は助け手(ガイド)が計画を与えてくれます。『スター・ウォーズ』では、ヨーダがルークにフォースを信じろと言い、そのフォースの使い方を訓練しました。パウロにとっては、聖霊、御使い、主の御声がありました。幻もありました。第五以降は省略しますが、主人公には必ず敵が存在するということです。『スター・ウォーズ』では帝国軍です。『バットマン』では、ジョーカーです、テレビドラマもそうですが、主人公に対する敵役というのが登場します。最後にはやられるか、やるかのクライマックスがあります。映画では最後の5分間に、どのくらいお金をかけるか分かりません。使徒パウロもユダヤ人から命を狙われたことが何度もあります。最後は、ローマ行きの船がユーラクロンという暴風に見舞われたときです。「太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れたので、私たちが助かる望みも今や完全に絶たれようとしていた」(使徒27:20)とあります。しかし、その時、パウロが立ち上がり人々に「元気を出しなさい」と励ましました。なぜなら、昨夜、神の御使いがパウロのそばに立って「恐れることはありません。あなたは必ずカエサルの前に立ちます」と言ったからです。これこそ、「主の恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」ということではないでしょうか?

 パウロは主から召命を受けるとき、アナニアを通して、このように言われていました。「あの人は私の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らに運ぶ、私の選びの器です。彼が私の名のためにどんなに苦しまなければならないかを、私は彼に示します」(使徒9:15-16)回心したとき、このように言われたなら、「いや、結構です」と断りしたくなるでしょう?パウロは自分のことをキリストのしもべと言いましたが、それはキリストの名のために苦しむのは当然であると分かっていたからでしょう。私たちは神の子ですから、祝福だけを受けたいと願うでしょう?しかし、パウロは「私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人である」とローマ8章で述べています。ということは、キリストの名のゆえに、苦しみを受けることは当然ありえるということです。言い換えると、自分に敵対する「とげ」のような存在が常にいることを示唆しています。家庭や親戚に、職場に、地域社会に、そして教会にも「とげ」のような人がいるのです。でも、そのことによって、自分の弱さを知り、「主の恵みは私に十分である。主の力は弱さのうちに完全に現れる」ということを体験するのです。ここにキリストによる逆転勝利があります。Ⅱコリント12:10「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」