2026.1.18「初歩の教えを後にして ヘブル5:12-6:2」

ヘブル人への手紙はキリストを信じて救われたユダヤ教徒のために書かれた書物です。彼らが古い契約における律法的な生活に戻らないためです。私たちは異邦人なので、ヘブル人への手紙はあまり重要でないと思うかもしれません。確かにそういうところがありますが、教会はいつの間にか「新しい契約だけでは不足であり、古い契約からも大いに学ぶべきではないか」と思うかもしれません。確かに旧約の上に新約があるのですから、あながち間違いではありません。でも、ヘブル人への手紙はイエス・キリストが古い契約を成就したお方であると教えています。そのことのゆえに、私たちは何の負い目もなく、新しい契約の上に生きることができるのです。きょうは、「初歩の教え」とは何かということを学びたいと思います。

1.乳と固い食物

 ヘブル人への手紙はローマやコリントの特定の教会に宛てられたものではありません。おそらく、ユダヤ教から改宗したクリスチャンの群れに対して書かれたものだと思います。使徒の働き15章をみると、そこにはエルサレムにおける使徒たちの会議が記されています。何が問題であったかと言うと、パリサイ派の者で信者になった人たちが「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と主張したからです。これに対して、ペテロやパウロが、異邦人が信仰のみによって救われた証をしました。ペテロは「なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです」(使徒15:11)と言いました。会衆は静かになり、議長のヤコブが「異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません」と締めくくりました。ですから、人は、信仰によって、恵みによって救われると言う結論は出ていたのです。 

 では、ここで言われている問題は何でしょうか?ヘブル5:12「あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。」15節まで読むと分かりますが、二種類の食物があるようです。一つは幼子が飲む乳です。あるいは柔らかい離乳食かもしれません。もう一つは大人が食べる固い食物です。おそらく、固形の食べ物であり、調理した肉や魚や野菜のことでしょう。ちなみに私は講壇から、みことばを私なりに調理したものを皆さんに与えています。生の肉やじゃがいも、ニンジンの塊を皿の上に載せることも可能ですが、それだと文句が出るでしょう。「カレーだったら、ちゃんとカレーらしくしてください」と言われるかもしれません。私は説教も料理と似ていると思います。材料を整え、それらを煮たり、焼いたり、混ぜたりします。ある食材とある食材を混ぜるとまずくなり、逆に混ぜると良くなるものもあります。本来、説教は「アラカルト」一品料理にすべきだと思います。でも、いろんなものを混ぜるごった煮「説教」もあります。亀有では、私が「料理が上手である」という噂があるようですが、賄食は別です。私は前の日に余ったものを全部、混ぜ合わせて食べています。捨てるのがもったいないので、人には見せられないものを食べています。

 では、は幼子が飲む乳と大人が食べる固い食物とはどういうものなのでしょうか?Ⅰペテロ2:2,3「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」ペテロが言う「純粋な、霊の乳」というのは、おそらく救いに関することであろうと思います。聖書には救い主がどういうお方であり、どうすれば救われるかということを教えている箇所があります。最も有名なのは、ヨハネ3章16節でしょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ここには御子を信じるだけで永遠のいのちが得られると書いてあります。また、ヨハネ黙示録3章20節も有名です。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」「あなたはありのままで良いのですよ?」「神さまはありのままのあなたを愛しておられます。」そういわれると嬉しいですよね。では、「いつまでも、ありのままで良いか」というと、そういう訳ではありません。ヤコブの手紙を見ると、このように書かれています。ヤコブ1:23「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。」ヤコブは「生まれつきの顔ではなく、栄光を現す成長した自分になりなさい」と言っています。それは言い換えるとみことばを行うことによって成長するということです。これがヤコブの言う固い食物です。では、福音書が柔らかい食物で、パウロやヤコブの書簡が固い食物か、というと一概にも言えません。

 福音書には柔らかい食物と固い食物の両方があることをご存じでしょうか?マタイ11章28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」多くの教会がこのみことばを玄関の看板に書いているようです。イエス様はやさしい救い主、重荷を負ってくれるお方です。このお方に重荷を委ねて良いのです。しかし、その次の29節はどうでしょう?「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」「え?何かくびきを負うのですか?くびきって牛が首にかける木の棒ですか?いやです」と言いたくなります。固い食物とは、イエス様のくびきを負って、イエス様から学ぶことなのです。では、信仰生活が辛くて大変かというとそうではありません。イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」とおっしゃいました。イエス様はベテラン牛で、私たちは新米牛です、このお方とくびきを負うなら、イエス様が重い方を負ってくださり、私のは軽いのです。つまり、イエス様にくっついていけば、山あり谷ありの信仰生活もうまくいくということです。

 信仰生活において、最初に躓くのはおそらく、「自分を捨てなさい」という固い教えでしょう?マタイ16章にこのようなことばがあります。マタイ16:24-26それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」これは義の教え、固い食物の一つです。パウロの手紙でなくても、固い食物があったのです。「これは弟子への召命」と呼ばれている箇所です。「すべてのクリスチャンはキリストの弟子である」という考えもあります。しかし、正確には違うと思います。この世においてはだれかの弟子になるためには、こちらが「弟子にしてください」という願いと、師匠が「分かった、弟子にしてやるよ」という許可がなければなりません。イエス様も福音書を見ると、イエス様からお声をかけた人と、人の方から弟子に願い出た2つのケースがあります。その時、必ずと言って良いほど、イエス様の方から一定の条件が示されます。マタイ16章ではどうでしょう?「自分を捨て、自分の十字架を負って」イエス様に従うことです。イエス様は自分を捨てるとは、自分のいのちを失うことであると言い換えています。もし、このことばを信じるか信じないか迷っている人が聞いたらどう思うでしょう?「え?キリスト教は人を救う宗教だと思ったのに、死ねというのですか?」と帰ってしまうでしょう。

 実は洗礼を受けたクリスチャンであっても、自分を捨てず、十字架も負わないで信仰生活を送っている人もいます。しかし、それは幼子のままのベイビー・クリスチャンです。この人は「私はキリストを信じたので天国に行けるのでしょう?残りの人生は、自分の好きなようにやらせてほしい」と願っています。ピーターパン・シンドロームというのがあり、大人になりたくない人のことを言います。しかし、洗礼を受けて1か月しかたっていないのに、自分を捨て、十字架を負って、キリストの弟子として従う人もいます。でも、イエス様がおっしゃる自分とは何なので

しょう?イエス様は「自分」というのを、「自分のいのち」と置き換えています。ここで言われている「自分」あるいは「いのち」というのは、ギリシャ語でプシュケーと言います。プシュケーは魂、人間の生命原理という意味もあり、動物もこのプシュケーを持っています。でも、このプシュケーはとてもやっかいであり、神に背く自己中心的な傾向があります。なぜなら、アダムが罪を犯したとき、霊が死んで、魂が異常に発達したからです。クリスチャンになったとき、霊が生まれ変わりましたが、神に反抗する魂はそのまま生きているのです。だから、イエス様は「自分の魂であるいのちを捨てなさい、十字架を負いなさい」と言われたのです。この十字架は、何かの苦しみではなく自分がかかる十字架のことです。すばらしいことに、イエス様が十字架で死なれたとき、私たちも一緒に死んだのです。イエス様がよみがえられたとき、私たちもよみがえったのです。私たちは、そのことを認めれば良いのです。自分の魂を捨てて、イエス様に従うなら、いろんな悩みや苦しみも軽くなります。弟子としてイエス様に従うのが何よりも幸せなのです。

2.初歩の教え

 抜粋してお読みしたいと思います。ヘブル5:12「…神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。…」。それでは、初歩の教えとは何でしょう?ヘブル6:1「…キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。」後半は、初歩の教え、あるいは基礎的なこととは何なのかを学びたいと思います。

まず「死んだ行いからの回心」とあります。これは今日の神学では「回心」ではないかと思います。回心はギリシャ語で、メタノイアーであり、教会ではよく「悔い改め」と訳されています。何度も講壇で言っていますが、この訳は間違っており、「方向転換」という意味が正しいと思います。ですから、ヘブル6章1節で「回心」と訳しているのは妥当だと思います。私たちが救われるために最初に起こることは、方向転換という意味の悔い改めです。多くの人たちは「神はいない」とか「イエスは人間である」「キリスト教も宗教の一つであり、私には不要である」という誤った考えがあります。これに対する方向転換は「神はいらっしゃる」「イエスは神であり救い主である」「神に達する道はキリストのみである」というように考えを変えるということです。そういう意味で、人が救われるためには正しい情報を得なければなりません。聖書を直接読む人はいいですが、聖書を読まない人はだれかから手ほどきしてもらう必要があります。かといって、「教会に来なさい」と誘っても、敷居が高いのか、やってきません。そこでどうしたら良いか?既に救われたあなたがそういう人に説明し、教えなければなりません。しかし、だれもが求めている訳ではありません。イエス様はマタイ5章で「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇いている者は幸いである」とおっしゃいました。そうです、飢え渇いている人に語るのです。この世のもので、満たされ、幸せで、喜んでいる人は、祈りながらチャンスを待ちましょう。

 その次は「神に対する信仰」です。日本人は「神はいない」と言いながら、初詣に行ったり、仏壇を拝んでいます。私たちの神様は万物を創られた創造主です。韓国を含め、大陸のほとんどの人たちは「唯一なる神」を信じています。ところが、日本の場合は「神とはだれか?」から始めなければなりません。日本はシルクロードの東の端っこにあります。イスラエルの神や祭りや文化が来ていることを教えることも1つのアプローチです。京都の祇園祭りは、シオン祭りです。祭りで担ぐ神輿は、ダビデが幕屋まで運んだ神の箱です。相撲もヤコブと天使が格闘した出来事から由来しています。ヤーレン・ソーランは「梯子に上れ」という、ヘブル語であると聞いたことがあります。人間だったら、ある程度の信仰を持って生きています。明日も太陽が東から昇ると信じています。今度は、聖書の神さまに信仰を向けるのです。日本人は、何を信じても良いと思っていますがそうではありません。まことの神に達するには、イエス・キリストしかいません。ヨハネ14章には「イエスは道、真理、命である」と書いています。キリスト教は「救いの道は唯一というので、排他的である」と言われます。自然科学や数学に対しては「答えが1つしかなくて狭い」とは誰も文句を言いません。真理といのは排他的なのです。神さまへの道は、真理であるイエス・キリストのみです。だから、確かで安心なのです。

 その次は、「きよめの洗い」です。これはバプテスマ、洗礼のことを指しています。聖書において、バプテスマのはじまりは、福音書のバプテスマのヨハネからです。「バプテスマを受けなければ救われないのか」というとそうではありません。なぜなら、人は行いではなく、信仰によってのみ救われるからです。でも、聖書は「キリストを信じて救われたなら、バプテスマを受けなさい」と命じています。マルコ16:16「信じてバプテスマを受ける者は救われます」と書かれています。これは「信じることとバプテスマを受けることを1つにしなければならない」ということです。エチオピアのカンダケは信じたらすぐ、馬車をおりてピリポからバプテスマを受けました(使徒8:38)。ローマの看守とその家族は、信じた後、すぐにバプテスマを受けました(使徒16:33)。何故、バプテスマを受ける必要があるのでしょう?イエス様が「それは正しいことである」と模範を示されたからです。キリスト教会では、バプテスマは水にどっぷりつかる浸礼が本当であり、滴礼は偽物であると言うところがあります。しかし、バプテスマのヨハネがどっぷりつかる浸礼を行っていたのか不明です。イスラエルは沐浴によるきよめはありましたが、どっぷりつかる浸礼はありませんでした。これはバプテスマの動詞、バプテゾーが「どっぷっりつかる」という意味があるからです。「どっぷっりつかる」バプテスマを強調したのは、アナバプテストであり、幼児洗礼に反対したからです。しかし、バプテスマの本当の意味をパウロが教えています。ローマ6:4「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」キリストと一体になり、キリストと共に死んで、キリストと共によみがえることが、本当のバプテスマの意味であると思います。

 次に「手を置く儀式」があります。しかし、ギリシャ語も英語の聖書も「儀式」という言葉はありません。ギリシャ語はエピセーシスであり、「手を置くこと、按手」となっています。ウォッチマン・ニーは『聖書の重要な真理』と言う本でこのように解説しています。「今日のキリスト教における多くの人は、按手が儀式や按手式であると見ています。このような見方は聖書に従っていません。聖書の中には按手に関する二つの重要な意味があります。それは儀礼や儀式の地位を越えていることを示します。旧約においては、犠牲の動物の頭の上に手を置きました。それは、彼がささげ物と結合して、自分自身をその犠牲と一つにしたことを表します。第二の意味は「交わり」です。モーセがヨシュアの上に手を置きました。それによって、モーセは威厳をヨシュアの上に置くことができました。手を置く人と手を置かれる人は交わりを持ち、手を置く人は手を置かれる人に祝福を引き渡します」。パウロはテモテにこう勧めています。Ⅱテモテ1:6そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」パウロは、エペソにおいて、バプテスマを受けたばかりの人に手を置きました。「そうすると、聖霊が彼らに望み、彼らは異言を語ったり、預言したりした(使徒19:6)と書かれています。按手を英語でインパーティーションと言いますが、今日でも聖霊の満たしとか、聖霊の賜物を分け与えたりするとき用いられます。私は1979年に洗礼を受けましたが、聖会があるたびごとに前に出て行きました。その時、講師から肩の上とか、頭の上に手を置いて祈っていただきました。大川牧師もカルバリーチャペルでミラクル聖会というのを行い、最後に按手をしていました。按手は聖霊を体験する、すばらしい恵みであると思います。

 最後は「死者の復活と永遠のさばきなど」とあります。キリスト教会では「イースターの日」に、キリストの復活と死者の復活を話します。クリスマスは1か月前からお祝いするのに、イースターは一日です。クリスマスは西暦200年頃から祝われたようですが、イースターはキリストがよみがえられた日からでした。キリスト教の福音の中心はよみがえりであることを忘れてはいけません。私たちもキリストが再び来られた時、栄光のからだによみがえるのです。アーメン。そして「永遠のさばき」の教えがあります。教会では救いのことは強調しますが、永遠のさばきはあまり強調しません。聖書で最も有名なヨハネ3章16節は何と書いてあるでしょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」このみことばをそのまま読むと、御子を信じる者は一人も滅びないけれど、御子を信じない者は滅びると言う意味です。その後のヨハネ3:18「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである」とあります。ヨハネによると、さばきは世の終わりに来るだけではなく、信じない者はすでにさばかれているのです。つまり、滅びの中にいるということです。私たちは救われたと言いますが、何から救われたのでしょうか?もちろん、罪から救われたのですが、永遠のさばきから救われたと言うこともできるのです。それでないと、救いの喜びはありません。本来、神のさばきを受け、永遠の滅びに行くべきところを免れたのですから、こんなに大きな喜びはないでしょう。ある人たちは、「地獄はない、愛なる神さまはすべての人を救って下さる」と言います。それだと「救い」の意味がなくなります。ヨハネ黙示録20:13-15「海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」とあります。

 私は1979年6月に洗礼を受けましたが、京子さんとの結婚と合わせて、もう人生の元を取った、いつでも死んでも良いと思っています。毎日の生活の中で、何か失敗したり、何か失ったり、何か恥をかいたりするときがあります。「でも、洗礼を受けて永遠の命が与えられている」ことを思い起こすと、「そんなの大したことではない」と感謝が湧き上がってきます。そうです。私たちクリスチャンは罪を赦され、永遠の命が与えられ、すでに神の国に移されている存在なのです。